いきなり、何となく汚い写真で申し訳ありません。けど、本日の徘徊はこの景色から出発です。
本日は夕刻から飲み会、酒の味をうまくするためにも徘徊は不可欠であります。さて、どこを徘徊しようかと思った時に長年宿題としていた加茂井(かもゆ)を思い出しました。
加茂井は兵庫県川西市において、旧小戸村を始めとして小花村、寺畑村、栄根村、加茂村、久代村など周辺十九ヶ村(ちょっと多すぎる気もしますが)を灌漑していた水路で、その水利権は今も厳然と存在するようです。
浅学を恥じなければなりませんが、小生などはこの水路をずっと明治以後のものと勝手に決め込んでいました。けれども実は元禄以前に既にこの水路が存在していたことを知り、「これは跡を辿れるうちに辿っておかねば。」とずっと思っていました。暗渠になっている部分はもはや難しいかなと思いますが、行けるところまで行ってみようと思います。
加茂井が兵庫県の東端を流れる猪名川から分岐するのは絹延橋という橋の少し上流のところです。絹延橋という名はこの地域に濃密に伝承されている「アヤハトリ・クレハトリ」の織姫渡来伝説から来ています。その取水口は何度も見ていますから、小生は別段の感慨もないのですが、本日は美観と言うことに関しては殆ど無縁であることを予め記しておかねばなりません。
取水口から取り込まれた水は堤防の下を通り、今や三面張りの水路となって右岸を流れて行きます。往時はゲンゴロウやタガメもたくさんいたろうに。
取水口の反対側
以前にも書いたことがあるように思いますが、この付近では猪名川が大阪府池田市と兵庫県川西市の境界ではなくて、この加茂井が境界となっています。猪名川から加茂井までの狭いところが右岸でありながら池田市になっている訳です。これは、大多数の川西市民を震撼させる事実であります。地球レベルで見ればどうでもいいことなのですが、猪名川右岸に池田市の土地がある理由もそのうちに調べてみたいと思います。
追記 この件に関して師匠よりメールをいただきました。曰く「池田と川西の境界が加茂井とはしらなんだ。これはたんなる思いつきだが対岸の村の出店があった可能性がある。宝塚に美座という地区があるが、これ元は右岸にあって 洪水でぼろぼろになった。流路が変わったので村ごと対岸へ変わった村だ。猪名川も流路が変わったことが関係しているかもしれんぞ。」と。ありがとうございます。
右が川西市
左が池田市
振り返って撮ったので右が池田市
絹延橋には「絹延橋うどん研究所」、知人の店です。といってもそれを知ったのはつい最近のこと。師匠から「いっぺん食べてこーい。」との連絡をいただきました。もう既に1時半を回っていたのですが、店は盛況で座れません。中に入って「久しぶりー。覚えてる?また来るわー。」と握手だけをしてすぐに出てきました。うどんを湯がいていた手でしたから、たいそう温かい手でした。師匠によると、この店には池田の銘酒「緑一」(知る人ぞ知る)も置いているとのことですから、近いうちに再訪しなくてはなりません。奥さんはビール通とのことだから、周山ビールのヴァイツェンも置くように頼んでみよう。
この「絹う研」の前辺りで加茂井は暗渠になります。しばらくは猪名川に沿って下ることになります。この道は篠山街道です。
絹延橋から200メートルほど下流、ここいらの現在の住所表示では「小戸[おうべ]」ですが、「天王宮[てんのみや]」の名も残っています。
今日はその天王宮の実体もつきとめてやろうと道行く人に尋ねましたが、ある人は小戸神社への道を教え、ある人は既に廃絶して存在しないと教えてくれました。いずれ図書館にでも赴いてじっくり調べようと思います(いつになるやら)。歩けば歩くほどに宿題が溜まっていきますね。
小戸村中心部(現在の3丁目付近か)への道には「天王宮地蔵」、安永2年(1772)に九ヱ門という人が建立したそうです。
中橋(ここいらでは上流から絹延橋、中橋、呉服橋と橋が架かる。二橋は極めて典雅な命名であるのに対し、この橋はただ二橋の真ん中にあるので中橋という。)の手前で、加茂井は暗渠を出て猪名川と別れ、西に流れ始めます。これも道路を歩いていないと分からぬことで、堤防上をずっと歩いていると見過ごしてしまいます。この付近は以前は大きな友禅染の工場があったところ、今はすっかり団地と住宅地に変貌しています。この会社の社長のてかけさんが住んでいた洋館も今はありません。
しばらく行くと、用水は民家の中に入ってしまいます(小戸三丁目9の表示付近)。流れ込む先は以前は500坪はあろうかというお屋敷でしたが、今は例によって何十件もの建て売り住宅になってしまっています。このことで用水を辿る分には今の方が分かりやすくなっています。その旧お屋敷の向かい辺りにはプロパンガスや伊丹米で知られる伊丹産業に関係する人が住んでいました(今も住んでいるかも知れません)。
上流を眺める
旧お屋敷を出た水は、まっすぐに神社の方に流れていきます。昔、確かこの辺りのマンションに住んでいる方にクラッシックカーのプラモデルをもらったことがあります。プラモデルて、何百と作りましたが残りませんねえ。メッサーシュミットのプロペラだけが残っているというのを久しく話のオチにしていましたが、とうとうそのプロペラも無くなってしまいました。だから、そのクラッシックカーもとっくにありません。
小戸神社までやって来ました。御祭神は大山祇神(おおやまつみのかみ)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)=春日さん(藤原氏の祖先神)、と我等が素戔嗚尊です。境内にあるのが「喜八大明神」で一度いわれを宮司さんに聞きたいなと思っているのですが、本日も社務所は閉まっていました。以前、このお社の再建の棟上げの日に社務所の前に立っていたら宮司さんが中に招き入れて縁起物の5円玉とお守りを下さいました。その折に尋ねればよかったのですが、宮大工たちが飲んでいる酒に目を取られて機会を逸しました。その後はなかなかお会いする機会がありません。喜八さん、加茂井の横におられるところから、かつての水争いの小戸村の英雄であるとしたら何か劇的なのですが。
小戸神社
喜八大明神
この神社付近の杣(そま)家で50年ほど前に元禄九年[1696]の文書が見つかりました。この用水の利用をめぐっては何度も流血の騒ぎがあったのを代官金丸又左衛門の肝いりで周辺の村々が水利権について合意し、それを文書としたものです。まあそうですね。日照りの年などに小戸村や小花村で水を田に入れてしまったら下流域には水は行かなくなる。
この時の合意は水をせき止める時の杭の打ち方や石の入れ方なども「二人で持ち上げられる程度の石を5、6個」等と実に細かいことまでを取り決めたもので、以後は水争いが無くなったとのことです。
まだ、この地域に水田が広がっていたころは、その取り決めに従って上流から順に田植えをしたとのことです。今は小戸村に水田て残っているのでしょうか?いずれにしてもお代官のおかげ。この金丸又左衛門なる人は代官として各地で活躍した人物のようです。どこかにこの人を祀る生祠なども建立されているかも知れません。要注意人物であります(笑)。
文書の見つかった杣家は渡辺家(渡辺綱の後裔という・この地域に広がる多田御家人のことを考えるとその可能性は高い)や西野家と並んで、小戸の名家であるようです。この小戸村は大昔は釣鐘山の麓にあったという言い伝えもあります。
金丸又左衛門の名によっても、江戸時代にはこの地域が天領であったことが分かるのですが(この人物は近畿一円に事績を残している)、代官所の所在は?等と言う次の「宿題」がまたまた浮上しました。→これはぼちぼち分かってきたことなのですが、摂津や播磨などの天領は大坂代官の管轄であったようです。
阪急電車の高架下辺りから加茂井は再び暗渠となります。けれどもその暗渠の上は道になっているので、しばらくは辿ることが出来ます。この付近には加茂井の上に小屋掛けした一杯飲み屋があり、大昔にとろろ飯とビールというのをやったのですが、綺麗さっぱりと無くなっています。
高架は阪急宝塚線
マンホール、「雨水」となっている。模様は笹竜胆。
旧能勢口商店街(今は消滅)のところに何と何と「加茂井の記念碑」がありました。平成11年に建立されたものです。水利組合は今も現役ですね。ヌヌヌ、伊丹まで灌漑していたと書いてありますね。こりゃ今日一日では無理ぢゃ。
現在の水路も記されていますが、ここは旧水路跡を辿ることにします。しばらく行くと藤の森稲荷神社。丁寧に説明文が書かれています。昔はこの辺りにはスタンドと称する小さな飲み屋がいっぱいありました。
まだまだ分かりやすい
上の写真の通路を抜けたところで、用水跡は完全に消滅しています。アステ川西(阪急百貨店も入る)の建設時に旧水路を破壊したようです。ちっ!よけいなことをするでない(怒)。
やむなく、アステ川西の西側に進みます。この辺りは昔は日通のトラックヤードとか能勢電車の川西池田駅があったところ。今は大きな団地になっていますが、その一画に道標が再設置されています。残念ながら方角を考えずに置かれていますが、それでもそのままゴミとして持っていかれて南港の埋め立てに使われてしまうよりはいい。大きい方には小童寺への案内も記されていました。
「?」、小童寺さんには甚だ申し訳ないのですが、この地点では多田院への道標というのなら納得できるのですが、小童寺というのはどうもと言う感じです。如何に孝子伝説で有名であるとは言え、この地点を小童寺目指して多くの人が歩いたとは思えません。あるいは小童寺には渡辺綱の墓があるということで、この付近に分布するその子孫の方によって遠祖の墓への道しるべとして立標されたということでしょうか。ともあれ、ここらには多田街道が通っているはずですから、その方面への道標はあってしかるべきではあります。
JRの川西池田駅の前には源満仲像、多田のまんちゅうさん、或いはまんじゅさんです。この線路より北のところで新水路も探そうかなと思いましたが、時間も迫っていますので線路を越えることにしました。阪急の川西能勢口駅やこの駅の周辺は旧小花村です。この駅から少し西に行くと寺畑村ですが、線路を越えて栄根(さかね)村に進みます。改めて思うに、この路線は福知山線なんですね。近年の名称は宝塚線ですが、それでは旅情は湧かぬ。はるか福知山まで行くのだと思うとジワーと旅情が滲み出てくるというものです。少し向こうの武田尾て、未だ温泉はあるのでしょうか?奥の三田がえらい開発されたしなあ。
線路の南で用水路は比較的簡単に見つかりました。駅の下を暗渠となって流れ、ここで地上に顔を出します。
栄根の古い集落をのんびりと歩きます。銅鐸(今は東京国立博物館にあり、めためた立派なものです)の出土地はどの辺りかな等と思いながら進むと用水路がいきなり最明寺川に流れ込んでしまいました。「???」であります。
栄根村を流れる
最明寺川
このところで加茂井以外にも後2つの流れ(といっても三面張り)が最明寺川に流れ込んでいます。「あれあれ?伊丹まで流れてるというのに何ぢゃいな?」。
近くの畑でイチジク(川西市はイチジクが名産)の剪定をされていた人に話をうかがいました。
すみません。これ加茂井ですよね。
そうやで。
この加茂井というのは最明寺川に流れ込んでシマイなんですか?
いやいや、未だ先もあるでー。
「?」という状態がしばらく続きましたが、説明を伺って納得しました。加茂井は最明寺川の対岸へまた流れ出していて、その水は必要に応じて最明寺川の流れをせき止めて取水するとのこと。
今少し下流でそのせき止めるところを造れば、従来通り猪名川の水が加茂や釧路の田を潤したのですが、取水口は加茂井が最明寺川に流れ込むところよりも上流にありますから、今の加茂井はここからは最明寺川の水ということになります。
この合流点には橋がなかったので、ずうっと下流まで行って橋を渡り、再び合流点に戻ってくると取り入れた最明寺川の水が流れ出るところがありました。今は水が必要ないのか、用水に水は流れていません。
水をせき止めるところ
この枯れた用水沿いに大きな坂道のあるところまでやって来ました。加茂井はなおも枯れたまま南下していきますが、今日はこれと別れて坂を登ります。
分水のためのしくみはある。
坂を登り詰めたところに鴨神社、京都の上賀茂、下鴨さんと同じですね。もっと遡れば加茂氏(賀茂氏・鴨氏)の本拠は葛城山東麓。鴨氏はいつ頃にこの地にやって来たのでしょうね。
このお宮さんの禁令、なかなかおもしろいでしょう。
そう、この周辺は弥生の大集落である加茂遺跡が広がっていて、分けてもこの神社付近がその中心地帯です。よい子は決してそのようなことをしたらあきませんが、境内を少し掘れば弥生の土器片や石鏃がゴロゴロと出土します。その密度から、ここは石鏃の生産工場だったのだと遠い昔に聞いたことがあるような。
本日は多くの人が境内で左義長の準備をされていました。「エッ?これ燃やしてしまうの?住めるやん。」。
弥生集落としての最盛期は一世紀とのことで、邪馬台国の三世紀や大和朝廷が成立してくる四世紀には既に衰退していたとのことですが(そういえばこの遺跡付近には前方後円墳が見られないようです)、方形周溝墓などは見つかっています。加茂の衰退後に小戸や火打が台頭してくるようで、大和朝廷と結んだ勢力は火打に勝福寺古墳を造ったようです。銅鐸をシンボルとする信仰はやがて前方後円墳や銅鏡に価値を置く信仰に変わっていったとのことで、加茂遺跡の首長層はその乗換が出来なかったのでしょう。
近くには市立の資料館もあります。中に入りましたが愛想もクソもない。別に不愉快なことは無いのですが、大阪市の橋下市長なら「閉鎖ですよ!閉鎖!」というでしょうね。各地の学芸員の方の親切に馴れた身には「見たければ見たらー」とか、入った瞬間の「何しに来てんワレー」いう感じはちょっとむかつくのでありました。展示はそれなりに分かりやすい展示でした。できたら国家形成のしくみの中での賀茂遺跡の位置についても記してもらえれば素晴らしいのにと思います。
ここで、遅い昼食です。ただただ一軒のみチェーン店のうどん屋が開いていました。客は小生一人です。絹延橋でうどんが食えなかった恨みを加茂ではらす。うー、絹延橋のうどんはうまいねんやろなあ。研究所いうぐらいやもんなぁ。マジンガーZとか隠してるんやろか。別に加茂のうどんが不味い訳ではないけれど。ビールは飲み会まで我慢我慢。
近くの公園も遺跡を保存するためのものです。急激な都市化の中では難しかったと思いますが、市も思っているよりは広い土地を確保したようです。
加茂の古い集落に入り、宮川石器館というのを探しましたが、見つけられませんでした。坂を下ったところには道祖神(青面金剛)。そろそろ待ち合わせの時間が気になるころになってきました。のんびり、村見物をしている場合ではない。
この後、「いけるかなー?」等と思いながら池田に向かいました。根性でたこ焼きを食うためです。…結果として、たこ焼きを食う時間は無くて、そのまま池田駅から電車に乗ることになりました。しまった!加茂のうどん屋で時間を取ったのが失敗。次回はたこ焼きを食べてから加茂の大きな坂の下に行き、加茂井を伊丹へと辿りたいと思います。と思っていたら、鴨神社で左義長の準備に目を取られ、見るべきものを見ていないようです。次回は鴨神社がスタートです。
本日は夕刻から飲み会、酒の味をうまくするためにも徘徊は不可欠であります。さて、どこを徘徊しようかと思った時に長年宿題としていた加茂井(かもゆ)を思い出しました。
加茂井は兵庫県川西市において、旧小戸村を始めとして小花村、寺畑村、栄根村、加茂村、久代村など周辺十九ヶ村(ちょっと多すぎる気もしますが)を灌漑していた水路で、その水利権は今も厳然と存在するようです。
浅学を恥じなければなりませんが、小生などはこの水路をずっと明治以後のものと勝手に決め込んでいました。けれども実は元禄以前に既にこの水路が存在していたことを知り、「これは跡を辿れるうちに辿っておかねば。」とずっと思っていました。暗渠になっている部分はもはや難しいかなと思いますが、行けるところまで行ってみようと思います。
加茂井が兵庫県の東端を流れる猪名川から分岐するのは絹延橋という橋の少し上流のところです。絹延橋という名はこの地域に濃密に伝承されている「アヤハトリ・クレハトリ」の織姫渡来伝説から来ています。その取水口は何度も見ていますから、小生は別段の感慨もないのですが、本日は美観と言うことに関しては殆ど無縁であることを予め記しておかねばなりません。
取水口から取り込まれた水は堤防の下を通り、今や三面張りの水路となって右岸を流れて行きます。往時はゲンゴロウやタガメもたくさんいたろうに。
取水口の反対側
以前にも書いたことがあるように思いますが、この付近では猪名川が大阪府池田市と兵庫県川西市の境界ではなくて、この加茂井が境界となっています。猪名川から加茂井までの狭いところが右岸でありながら池田市になっている訳です。これは、大多数の川西市民を震撼させる事実であります。地球レベルで見ればどうでもいいことなのですが、猪名川右岸に池田市の土地がある理由もそのうちに調べてみたいと思います。
追記 この件に関して師匠よりメールをいただきました。曰く「池田と川西の境界が加茂井とはしらなんだ。これはたんなる思いつきだが対岸の村の出店があった可能性がある。宝塚に美座という地区があるが、これ元は右岸にあって 洪水でぼろぼろになった。流路が変わったので村ごと対岸へ変わった村だ。猪名川も流路が変わったことが関係しているかもしれんぞ。」と。ありがとうございます。
右が川西市
左が池田市
振り返って撮ったので右が池田市
絹延橋には「絹延橋うどん研究所」、知人の店です。といってもそれを知ったのはつい最近のこと。師匠から「いっぺん食べてこーい。」との連絡をいただきました。もう既に1時半を回っていたのですが、店は盛況で座れません。中に入って「久しぶりー。覚えてる?また来るわー。」と握手だけをしてすぐに出てきました。うどんを湯がいていた手でしたから、たいそう温かい手でした。師匠によると、この店には池田の銘酒「緑一」(知る人ぞ知る)も置いているとのことですから、近いうちに再訪しなくてはなりません。奥さんはビール通とのことだから、周山ビールのヴァイツェンも置くように頼んでみよう。
この「絹う研」の前辺りで加茂井は暗渠になります。しばらくは猪名川に沿って下ることになります。この道は篠山街道です。
絹延橋から200メートルほど下流、ここいらの現在の住所表示では「小戸[おうべ]」ですが、「天王宮[てんのみや]」の名も残っています。
今日はその天王宮の実体もつきとめてやろうと道行く人に尋ねましたが、ある人は小戸神社への道を教え、ある人は既に廃絶して存在しないと教えてくれました。いずれ図書館にでも赴いてじっくり調べようと思います(いつになるやら)。歩けば歩くほどに宿題が溜まっていきますね。
小戸村中心部(現在の3丁目付近か)への道には「天王宮地蔵」、安永2年(1772)に九ヱ門という人が建立したそうです。
中橋(ここいらでは上流から絹延橋、中橋、呉服橋と橋が架かる。二橋は極めて典雅な命名であるのに対し、この橋はただ二橋の真ん中にあるので中橋という。)の手前で、加茂井は暗渠を出て猪名川と別れ、西に流れ始めます。これも道路を歩いていないと分からぬことで、堤防上をずっと歩いていると見過ごしてしまいます。この付近は以前は大きな友禅染の工場があったところ、今はすっかり団地と住宅地に変貌しています。この会社の社長のてかけさんが住んでいた洋館も今はありません。
しばらく行くと、用水は民家の中に入ってしまいます(小戸三丁目9の表示付近)。流れ込む先は以前は500坪はあろうかというお屋敷でしたが、今は例によって何十件もの建て売り住宅になってしまっています。このことで用水を辿る分には今の方が分かりやすくなっています。その旧お屋敷の向かい辺りにはプロパンガスや伊丹米で知られる伊丹産業に関係する人が住んでいました(今も住んでいるかも知れません)。
上流を眺める
旧お屋敷を出た水は、まっすぐに神社の方に流れていきます。昔、確かこの辺りのマンションに住んでいる方にクラッシックカーのプラモデルをもらったことがあります。プラモデルて、何百と作りましたが残りませんねえ。メッサーシュミットのプロペラだけが残っているというのを久しく話のオチにしていましたが、とうとうそのプロペラも無くなってしまいました。だから、そのクラッシックカーもとっくにありません。
小戸神社までやって来ました。御祭神は大山祇神(おおやまつみのかみ)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)=春日さん(藤原氏の祖先神)、と我等が素戔嗚尊です。境内にあるのが「喜八大明神」で一度いわれを宮司さんに聞きたいなと思っているのですが、本日も社務所は閉まっていました。以前、このお社の再建の棟上げの日に社務所の前に立っていたら宮司さんが中に招き入れて縁起物の5円玉とお守りを下さいました。その折に尋ねればよかったのですが、宮大工たちが飲んでいる酒に目を取られて機会を逸しました。その後はなかなかお会いする機会がありません。喜八さん、加茂井の横におられるところから、かつての水争いの小戸村の英雄であるとしたら何か劇的なのですが。
小戸神社
喜八大明神
この神社付近の杣(そま)家で50年ほど前に元禄九年[1696]の文書が見つかりました。この用水の利用をめぐっては何度も流血の騒ぎがあったのを代官金丸又左衛門の肝いりで周辺の村々が水利権について合意し、それを文書としたものです。まあそうですね。日照りの年などに小戸村や小花村で水を田に入れてしまったら下流域には水は行かなくなる。
この時の合意は水をせき止める時の杭の打ち方や石の入れ方なども「二人で持ち上げられる程度の石を5、6個」等と実に細かいことまでを取り決めたもので、以後は水争いが無くなったとのことです。
まだ、この地域に水田が広がっていたころは、その取り決めに従って上流から順に田植えをしたとのことです。今は小戸村に水田て残っているのでしょうか?いずれにしてもお代官のおかげ。この金丸又左衛門なる人は代官として各地で活躍した人物のようです。どこかにこの人を祀る生祠なども建立されているかも知れません。要注意人物であります(笑)。
文書の見つかった杣家は渡辺家(渡辺綱の後裔という・この地域に広がる多田御家人のことを考えるとその可能性は高い)や西野家と並んで、小戸の名家であるようです。この小戸村は大昔は釣鐘山の麓にあったという言い伝えもあります。
金丸又左衛門の名によっても、江戸時代にはこの地域が天領であったことが分かるのですが(この人物は近畿一円に事績を残している)、代官所の所在は?等と言う次の「宿題」がまたまた浮上しました。→これはぼちぼち分かってきたことなのですが、摂津や播磨などの天領は大坂代官の管轄であったようです。
阪急電車の高架下辺りから加茂井は再び暗渠となります。けれどもその暗渠の上は道になっているので、しばらくは辿ることが出来ます。この付近には加茂井の上に小屋掛けした一杯飲み屋があり、大昔にとろろ飯とビールというのをやったのですが、綺麗さっぱりと無くなっています。
高架は阪急宝塚線
マンホール、「雨水」となっている。模様は笹竜胆。
旧能勢口商店街(今は消滅)のところに何と何と「加茂井の記念碑」がありました。平成11年に建立されたものです。水利組合は今も現役ですね。ヌヌヌ、伊丹まで灌漑していたと書いてありますね。こりゃ今日一日では無理ぢゃ。
現在の水路も記されていますが、ここは旧水路跡を辿ることにします。しばらく行くと藤の森稲荷神社。丁寧に説明文が書かれています。昔はこの辺りにはスタンドと称する小さな飲み屋がいっぱいありました。
まだまだ分かりやすい
上の写真の通路を抜けたところで、用水跡は完全に消滅しています。アステ川西(阪急百貨店も入る)の建設時に旧水路を破壊したようです。ちっ!よけいなことをするでない(怒)。
やむなく、アステ川西の西側に進みます。この辺りは昔は日通のトラックヤードとか能勢電車の川西池田駅があったところ。今は大きな団地になっていますが、その一画に道標が再設置されています。残念ながら方角を考えずに置かれていますが、それでもそのままゴミとして持っていかれて南港の埋め立てに使われてしまうよりはいい。大きい方には小童寺への案内も記されていました。
「?」、小童寺さんには甚だ申し訳ないのですが、この地点では多田院への道標というのなら納得できるのですが、小童寺というのはどうもと言う感じです。如何に孝子伝説で有名であるとは言え、この地点を小童寺目指して多くの人が歩いたとは思えません。あるいは小童寺には渡辺綱の墓があるということで、この付近に分布するその子孫の方によって遠祖の墓への道しるべとして立標されたということでしょうか。ともあれ、ここらには多田街道が通っているはずですから、その方面への道標はあってしかるべきではあります。
JRの川西池田駅の前には源満仲像、多田のまんちゅうさん、或いはまんじゅさんです。この線路より北のところで新水路も探そうかなと思いましたが、時間も迫っていますので線路を越えることにしました。阪急の川西能勢口駅やこの駅の周辺は旧小花村です。この駅から少し西に行くと寺畑村ですが、線路を越えて栄根(さかね)村に進みます。改めて思うに、この路線は福知山線なんですね。近年の名称は宝塚線ですが、それでは旅情は湧かぬ。はるか福知山まで行くのだと思うとジワーと旅情が滲み出てくるというものです。少し向こうの武田尾て、未だ温泉はあるのでしょうか?奥の三田がえらい開発されたしなあ。
線路の南で用水路は比較的簡単に見つかりました。駅の下を暗渠となって流れ、ここで地上に顔を出します。
栄根の古い集落をのんびりと歩きます。銅鐸(今は東京国立博物館にあり、めためた立派なものです)の出土地はどの辺りかな等と思いながら進むと用水路がいきなり最明寺川に流れ込んでしまいました。「???」であります。
栄根村を流れる
最明寺川
このところで加茂井以外にも後2つの流れ(といっても三面張り)が最明寺川に流れ込んでいます。「あれあれ?伊丹まで流れてるというのに何ぢゃいな?」。
近くの畑でイチジク(川西市はイチジクが名産)の剪定をされていた人に話をうかがいました。
すみません。これ加茂井ですよね。
そうやで。
この加茂井というのは最明寺川に流れ込んでシマイなんですか?
いやいや、未だ先もあるでー。
「?」という状態がしばらく続きましたが、説明を伺って納得しました。加茂井は最明寺川の対岸へまた流れ出していて、その水は必要に応じて最明寺川の流れをせき止めて取水するとのこと。
今少し下流でそのせき止めるところを造れば、従来通り猪名川の水が加茂や釧路の田を潤したのですが、取水口は加茂井が最明寺川に流れ込むところよりも上流にありますから、今の加茂井はここからは最明寺川の水ということになります。
この合流点には橋がなかったので、ずうっと下流まで行って橋を渡り、再び合流点に戻ってくると取り入れた最明寺川の水が流れ出るところがありました。今は水が必要ないのか、用水に水は流れていません。
水をせき止めるところ
この枯れた用水沿いに大きな坂道のあるところまでやって来ました。加茂井はなおも枯れたまま南下していきますが、今日はこれと別れて坂を登ります。
分水のためのしくみはある。
坂を登り詰めたところに鴨神社、京都の上賀茂、下鴨さんと同じですね。もっと遡れば加茂氏(賀茂氏・鴨氏)の本拠は葛城山東麓。鴨氏はいつ頃にこの地にやって来たのでしょうね。
このお宮さんの禁令、なかなかおもしろいでしょう。
そう、この周辺は弥生の大集落である加茂遺跡が広がっていて、分けてもこの神社付近がその中心地帯です。よい子は決してそのようなことをしたらあきませんが、境内を少し掘れば弥生の土器片や石鏃がゴロゴロと出土します。その密度から、ここは石鏃の生産工場だったのだと遠い昔に聞いたことがあるような。
本日は多くの人が境内で左義長の準備をされていました。「エッ?これ燃やしてしまうの?住めるやん。」。
弥生集落としての最盛期は一世紀とのことで、邪馬台国の三世紀や大和朝廷が成立してくる四世紀には既に衰退していたとのことですが(そういえばこの遺跡付近には前方後円墳が見られないようです)、方形周溝墓などは見つかっています。加茂の衰退後に小戸や火打が台頭してくるようで、大和朝廷と結んだ勢力は火打に勝福寺古墳を造ったようです。銅鐸をシンボルとする信仰はやがて前方後円墳や銅鏡に価値を置く信仰に変わっていったとのことで、加茂遺跡の首長層はその乗換が出来なかったのでしょう。
近くには市立の資料館もあります。中に入りましたが愛想もクソもない。別に不愉快なことは無いのですが、大阪市の橋下市長なら「閉鎖ですよ!閉鎖!」というでしょうね。各地の学芸員の方の親切に馴れた身には「見たければ見たらー」とか、入った瞬間の「何しに来てんワレー」いう感じはちょっとむかつくのでありました。展示はそれなりに分かりやすい展示でした。できたら国家形成のしくみの中での賀茂遺跡の位置についても記してもらえれば素晴らしいのにと思います。
ここで、遅い昼食です。ただただ一軒のみチェーン店のうどん屋が開いていました。客は小生一人です。絹延橋でうどんが食えなかった恨みを加茂ではらす。うー、絹延橋のうどんはうまいねんやろなあ。研究所いうぐらいやもんなぁ。マジンガーZとか隠してるんやろか。別に加茂のうどんが不味い訳ではないけれど。ビールは飲み会まで我慢我慢。
近くの公園も遺跡を保存するためのものです。急激な都市化の中では難しかったと思いますが、市も思っているよりは広い土地を確保したようです。
加茂の古い集落に入り、宮川石器館というのを探しましたが、見つけられませんでした。坂を下ったところには道祖神(青面金剛)。そろそろ待ち合わせの時間が気になるころになってきました。のんびり、村見物をしている場合ではない。
この後、「いけるかなー?」等と思いながら池田に向かいました。根性でたこ焼きを食うためです。…結果として、たこ焼きを食う時間は無くて、そのまま池田駅から電車に乗ることになりました。しまった!加茂のうどん屋で時間を取ったのが失敗。次回はたこ焼きを食べてから加茂の大きな坂の下に行き、加茂井を伊丹へと辿りたいと思います。と思っていたら、鴨神社で左義長の準備に目を取られ、見るべきものを見ていないようです。次回は鴨神社がスタートです。
川西と池田の境界がこの加茂井ですか。何で猪名川と違うんやろうというのは興味あるテーマです。
我が里の北にある「八丁」、ここは昔知井村と弓削村と数百年もの間争いのあったところです。今広域林道が走っている分水嶺の稜線がその境界線だろうと考え勝ちなのですが、弓削村の人が峠を越え深く浸透していました。かの馬場の滝は京北町だった様に記憶していますが、、、それを考えるとまさに水利権がヒントなのでしょうね。境界というのは実効支配というか経済活動と言おうか、そういった要素が大きいのでしょう。それと今の行政区分は新しいものになるときどちらに入るかという決断を求められた時に住民がどう判断したかという面白い情報を提供してくれます。かの名田庄が小浜市にではなく、おおい町になったことも自然の境界線から考えると不合理な面がありますが面白いテーマを提供してくれます。もっと近くの話では、広河原などが何故京北町にならず京都市に入ったかなども面白い勉強課題を与えてくれます。更に、若狭の人の話を聞いていると、何で福井県やんね、という感情もありますしね。福井県庁へ行くより京都や大阪へ行く方が便利やのに、また原発の危険外にいてその恩恵の一部を横取りしやがって(なのでしょうかね、、)、何で越前に牛耳られんとあかんね等々、興味津々であります。
それとこの「加茂井」という名の由来は何なのでしょうね。後で出てくる鴨、加茂うんぬんと関係あるのでしょうか。それと、何で「ゆ」やねん?
羽田の地ビール、周山街道、「絹う研」さんにちゃんと薦めておいて下さいよ~。実現の暁にはその陰にgunkanatagoさんのお陰やで~とちゃんと説明しておきますから、羽田さんに来られたらあれこの待遇は、と驚かせてみせましょう。
「加茂井」は一部暗渠になっている様ですね。これで思い出すのが、京は鷹峯あたりの若狭川、これを聞いたときは、何でここに若狭やねん、でした。
忘れてました、池田といえば、呉春。この酒が入ったぜ~と、我々はクレハルオフと称して集まりました。緑一ファンさんには何を騒いでるねん、と笑われるかしら。
何で、何で、頻発のコメントですが、これぞgunkanatagoブログの楽しみであります。謝々
なぜマイナーな旅と思ったのか?それは農業や米作りの苦労、さらに農業用水のありがたさを、私も含めて、現代人が忘却したからでしょう。食料自給率が下がるのは好ましくないといった議論はよく聞きますが、農民が、低収入で、暑い日も寒い日も土とたたかい、なりわいとして農業を維持していく苦労はわかっていない。(私も昔、江戸時代、播州で水争いをして死者が出たという古文書をみたことを思い出しました)。百姓の視点にもどって歴史を検証するという心がけは大切ですね。でも、百姓のヒーローもでてこないし、素人にはとっつきにくいのも事実。それでうどん屋の話なども混ぜているのだろうと、はいかい堂さんのサービス精神も想像した次第。
富山の方言に「みゃぁらくもの」ということばがあり、地酒の名前にもあります。直訳すれば、身の楽な者。ひろげていうと、あまり働きもせず、なんの役にも立たないものにうちこんでいる道楽者、風流人、ぐらいの意味です。私の気にいってることばです。このレポートも立派なみゃぁらくものにしか書けないものだと思います。下も期待します。飲み屋の話も入れといてください。コメント、からみやすいので。(笑)
「境界というのは実効支配というか経済活動と言おうか、そういった要素が大きいのでしょう。」、本当にそうですね。もやーと考えていたことを明快にまとめていただき感謝です。猪名川右岸の池田市についても、「わしらは池田市に。」という住民の気持ちがあったのでしょうね。或いは、池田側の人がこちらに田畑を持っていたとか。知井村と弓削村の話もおもしろいですね。
若狭国が福井県に編入されているのは?ですよね。小浜の人などは京都に出る方が遥かに近いですから。昔、京都府が傾いているのを意識しなかったころ、「小浜まで来てんから、ついでに敦賀の気比大社や」等と気楽に考えていて、同じ若狭なのに、えらい遠かった覚えがあります。敦賀を越えて越前となれば、遥か彼方ですね。
加茂井の由来はお書きになっておられるように加茂の方を灌漑したからだと思います。「ゆ」という言葉は、用水路を表す意味で比較的多く使われているようです。以前は蕩々と流れていたのですが、今は暗渠だらけです。
呉春は呉春でウマイと思います。緑一の方はまあ希少価値と言うことで。
各地での水争いは、現代の我々には想像も出来ないほど深刻であったようです。西宮の廣田神社の近くにも確かそのような碑が立っていたように思います。考えてみれば、上流の村が流れをせき止めて全部自分の田に水を入れてしまえば、下流はアウトですものね。
水路に初めて興味を持ったのは、奈良県御所市で葛城山麓を歩いていた時です。細い細い流れですが、山から流れてくる水を見事に分水しているしくみを見て、「田に水を入れる」ということの苦労というかそういうものを知りました。加茂井も一部ですが、とても綺麗に流れているところもあり、そういうところでは欠かさずに井路の清掃も行われているのだろうと思います。
飲み屋、しまったなあ。加茂井(下)の徘徊の後も池田のたこ焼き屋に行ってしまいました。伊丹の飲み屋(例えば丸美)等で飲んだら良かったですね。
一見地味な今回の加茂井の徘徊ですが、生活の第一級の水路、水源をたどる歩きもgunkanatagoさんなればこそ。知ることが出来ありがとうございます。
もうひとり似た御仁を知っていますけど・・・(笑)
この記事でお花も2輪見つけることも出来ました。ササリンドウは市花でしょうね。宇治のマンホールはヤマブキでした。
身近なところでは、古里K村の上区の真ん中に「中の池」があります。夏はヒシの実が見事に生り数多くのヤンマが飛び交い、上区の子どもたちの遊び場でした。
中の池が下区の池だということを知ったのは大人になってからで、池は下区の大切な水源だったので、一滴の水も上区は使えなかったそうです。
コメントになっていませんね。ごめんなさい。
また、絶品の金柑のラム酒煮もありがとうございました。師匠等のテーブルに回したら「アッ」という間に無くなりましたね。欠食児童ばっかりで申し訳ありません(笑)。来来週にアップするつもりの「下」で記したと思うのですが、小生もちょっと真剣にねぎ焼きを追求しようと思っております(爆)。池田のたこ焼き屋のおばちゃんにもねぎ焼きをメニューに加えるように頼んでみます。
宇治市のマンホール、ヤマブキ、確かカラーのものもありましたね。川西市の笹竜胆は源氏に由来したものです。確か市の表彰も「笹竜胆賞」であったように思います。
中の池の水、上区が一滴も使えないというのはシビアですね。「水」というものに対する人々の気持ちがよくわかります。
金丸某は悪代官みたいな印象を受けますけど、中々の名代官だったのかも。
渡辺綱の名が出て来ますが、彼の関係する一条戻り橋の下を流れる堀川は排水路でしたから、ややこしい問題は何も無かったのでしょう。
流れる水は紫色で昼間は汚く見えましたが、川岸には柳並木などあって、中々の風情でした。ずっと下流からは暗渠になりますが。
上桂川~大堰川の流域にある丹波では、水利の問題を寡聞にして聞いたことはありません。
栃本には〝向かい〟にも集落がありましたので、「洗濯岩」の下流に井堰を設けて、碁石山の裾沿いに人工の水路を作って水を引いていました。「てんど」を通過する地点では、岩石を繰り抜いて10メートルばかりのトンネルが掘られていました。あんな細いトンネルをどうして掘ったのか、疎開者の私には大きなナゾでした(今でもです)。
井堰のある場所を、地元では「イネ」と呼んでいました。何か謂れがあるのでしょうか(井根?)。
栃本の〝向かい〟には今も田畑がありますから、この「イネ」の水路は生かされているのでしょう。
それにしましても、今回の暗渠徘徊は、凄まじいものを感じました。歴史とは、人間の営みとはかくも残酷なものなのか、とつくづく思います。暗渠を喜ぶのは、ジャン・バルジャンくらいな者ではないですか・・・。
まあ、気を取り直して、「絹延橋うどん研究所」へは、一度お供しなければいけませんネ。「緑一」にも、長いことお目に掛かっておりませんし。
最近、我が家の近くの百貨店に「お酒屋さんのお酒」と称する酒を売っており、中々の味合いなのでもっぱら愛飲しております。値段も1升千円で手頃です。何かの折りに一度下げて参りましょうか・・・。
代官の金丸又左衛門は、ここだけでなく、琵琶湖畔や中河内にも事績が残っていますが、たいへんな能吏であったようです。もともとは甲州の人ですから、例のおっさんとは何処かでつながるとは思います。
なになにの1、栃本にそのような施設があるのですね。ありがとうございます。今までは、橋を渡ったことは無かったのですが、これは一度調べに行かないといけません。その際は道草様の著書をもう一度読んでからにします。各地の岩盤をくり抜いた用水や排水を見るたびに農民にとっての「水」というものの深刻さが理解できます。今の我々にしても水がなければ生きていけないのは同じなのですが、どうもぼんやりしているようです。
なになにの2、1升千円!それは破格ですね。しかもなかなかの味ときたら、それは一度飲まないとあきません。こういうのに馴染んだらますます高い酒が飲めなくなります(笑)。超一流の所はよう入りませんが(アホらしゅうて)、京都市内のとある店、冷酒1合(といってるけど8勺ぐらいしかない)が2000円、後で伝票を見てひっくり返りました。それだったら2升も飲めますね。
絹延橋うどん研究所は、日曜日はどうもあきません。閉店が早すぎます。だから、「うどん研究所」を主目的とするツアーでも組まねば、なかなか行けません。よければ、平日に顔を出してやって下さい。小生より、師匠の名の方が通りますから、「師匠の教え子やけど」とか言って入ってケムに巻いてやって下さい。「おれも5回生や」と言っていただいたらヤツは沈没すると思います。