聖武・孝謙・淳仁・称徳から、光仁・桓武への皇位の継承は新王朝を開くという意識で実行されたようで、中国などでも新しい王朝が開かれると新皇帝(太祖と贈り名されることが多い)の先祖が何らかの形で顕彰されるのですが、桓武天皇なども母方の祖父などに対して頻りに贈位を行っています。東野治之氏の『遣唐使船』(朝日新聞社から出ていることが残念、ああいう反社会的な企業は速やかに消えるべき)によれば、母方の者に対する顕彰は、当時の新知識であった『春秋公羊伝』に基づいて実施されているということです。桓武に先祖顕彰の根拠を与えた公羊伝を招来した人物には褒美が与えられているのを見ても、桓武としてはこれをやりたくてやりたくて仕方がなかったと思われます。
また、桓武天皇は交野原で祭天の儀を執り行っているのですが、これなど中国における「封禅」の儀式を意識したものではないかと思われ、長岡京・平安京への遷都と相俟って、新王朝を開くという意識を強く持っていたことを示しているのではと思われます。その際、旧王朝の正当な後継者とその母を結局は謀殺することになった。歴史上では、「そんなのはアッタリマエやんけ!」と何も気にしない人もいるのですが、確かアーヘンのカール大帝の玉座から大帝のミイラを突き飛ばして、自分がその玉座に座った奴とか…、桓武天皇は臨終の際の勅などを見ても、それを気にする人であったのでしょう。
井上内親王と他戸親王の怨霊化には、今までにつらつらと述べてきた事情があったとすると、最初の御霊会にこの方たちの名が見あたらないのは、この方たちの怨霊は桓武天皇個人に由来する者であった故に、当時の疫病の蔓延には無縁とされたためでしょう。後述しますが、崇道天皇(早良親王)はそうはいかない。井上内親王と他戸親王は旧王朝の記憶として消え去るべきものでしたが、崇道天皇は新王朝で発生した怨霊だからです。
吉備真備も863年の御霊会では祭祀の対象とはなっていません。この人物については、「何で怨霊やねん?」という気がするのですが、今現在は祀られているものは仕方がない。何とかこじつけていきましょう。
吉備真備の奈良朝における破格の出世は、奈良・平安時代を通じて一番のものではないかと思われます。天神さん、菅原道真は右大臣になって直ぐに陥れられましたが、その父も祖父も文章博士でこれは従5位下相当官、国司の中でも一番上の「守」と同様でありますし、5位以上は立派な貴族です。これに対して吉備真備の父は衛門少尉といいますから正7位上相当官です。しかも、かつてはその地域の王であつたかも知れませんが、もはや完全に地方豪族となってしまった家系の出であります。渡唐して学問を修めたことが出世の端緒になったことは確かですが、同様の山上憶良は筑前守に留まっています。
右大臣にまで昇るという異様な出世は、やはり孝謙天皇が一種の独裁者であったから可能だったのでしょう。740年の藤原広嗣の乱に際しては、広嗣による排撃の対象になりましたが、孝謙天皇の父聖武天皇は吉備真備を擁護し続けました。764年の藤原仲麻呂の乱では、自ら作戦を担当し仲麻呂の打倒=孝謙天皇の勝利に役割を果たしました。その後は道鏡の陰に隠れてしまいましたが、称徳朝に於いても重要な役割を果たしたことは確かでしょう。孝謙(称徳)天皇と道鏡の仲が巷間伝わるようなものであったとしても、吉備真備はこれを寧ろ微笑ましく眺めていたのでは。
称徳天皇が亡くなったときに、吉備真備は長親王の子である文室浄三(孫の宮田麻呂が怨霊となっている)・大市兄弟(天武天皇の孫)を皇位に就けようとしましたが、藤原百川に阻まれました。これはもうクーデターといってもよいような事件でしたので、自らを「やり手」であると自負していた吉備真備も「長生きすると恥をかくなあ!」という言葉を残して、即刻引退ということになったのです。この場合、やられた側が寧ろ恬淡としていてもやった側は何となく後味が悪い、ましてや色々の怪異譚も残る人物であるから、これはきちんと祀っておこう、そうしないと怖いでぇということになったのではないかと愚考するのです。
つまり、井上内親王と他戸親王、吉備真備は旧王朝の正当な後継者と無二の忠臣ということで怨霊化した。そういう点で他の4名の方とは事情が異なるのではと思うのです。8名の御祭神ですから8-3=5やろということなのですが、今一人、藤原広嗣は生存した時代という点では最も古い、この方が合祀された訳をまたまた考えねばなりません。
写真に作為はありません。自然にこうなっとりました。
また、桓武天皇は交野原で祭天の儀を執り行っているのですが、これなど中国における「封禅」の儀式を意識したものではないかと思われ、長岡京・平安京への遷都と相俟って、新王朝を開くという意識を強く持っていたことを示しているのではと思われます。その際、旧王朝の正当な後継者とその母を結局は謀殺することになった。歴史上では、「そんなのはアッタリマエやんけ!」と何も気にしない人もいるのですが、確かアーヘンのカール大帝の玉座から大帝のミイラを突き飛ばして、自分がその玉座に座った奴とか…、桓武天皇は臨終の際の勅などを見ても、それを気にする人であったのでしょう。
井上内親王と他戸親王の怨霊化には、今までにつらつらと述べてきた事情があったとすると、最初の御霊会にこの方たちの名が見あたらないのは、この方たちの怨霊は桓武天皇個人に由来する者であった故に、当時の疫病の蔓延には無縁とされたためでしょう。後述しますが、崇道天皇(早良親王)はそうはいかない。井上内親王と他戸親王は旧王朝の記憶として消え去るべきものでしたが、崇道天皇は新王朝で発生した怨霊だからです。
吉備真備も863年の御霊会では祭祀の対象とはなっていません。この人物については、「何で怨霊やねん?」という気がするのですが、今現在は祀られているものは仕方がない。何とかこじつけていきましょう。
吉備真備の奈良朝における破格の出世は、奈良・平安時代を通じて一番のものではないかと思われます。天神さん、菅原道真は右大臣になって直ぐに陥れられましたが、その父も祖父も文章博士でこれは従5位下相当官、国司の中でも一番上の「守」と同様でありますし、5位以上は立派な貴族です。これに対して吉備真備の父は衛門少尉といいますから正7位上相当官です。しかも、かつてはその地域の王であつたかも知れませんが、もはや完全に地方豪族となってしまった家系の出であります。渡唐して学問を修めたことが出世の端緒になったことは確かですが、同様の山上憶良は筑前守に留まっています。
右大臣にまで昇るという異様な出世は、やはり孝謙天皇が一種の独裁者であったから可能だったのでしょう。740年の藤原広嗣の乱に際しては、広嗣による排撃の対象になりましたが、孝謙天皇の父聖武天皇は吉備真備を擁護し続けました。764年の藤原仲麻呂の乱では、自ら作戦を担当し仲麻呂の打倒=孝謙天皇の勝利に役割を果たしました。その後は道鏡の陰に隠れてしまいましたが、称徳朝に於いても重要な役割を果たしたことは確かでしょう。孝謙(称徳)天皇と道鏡の仲が巷間伝わるようなものであったとしても、吉備真備はこれを寧ろ微笑ましく眺めていたのでは。
称徳天皇が亡くなったときに、吉備真備は長親王の子である文室浄三(孫の宮田麻呂が怨霊となっている)・大市兄弟(天武天皇の孫)を皇位に就けようとしましたが、藤原百川に阻まれました。これはもうクーデターといってもよいような事件でしたので、自らを「やり手」であると自負していた吉備真備も「長生きすると恥をかくなあ!」という言葉を残して、即刻引退ということになったのです。この場合、やられた側が寧ろ恬淡としていてもやった側は何となく後味が悪い、ましてや色々の怪異譚も残る人物であるから、これはきちんと祀っておこう、そうしないと怖いでぇということになったのではないかと愚考するのです。
つまり、井上内親王と他戸親王、吉備真備は旧王朝の正当な後継者と無二の忠臣ということで怨霊化した。そういう点で他の4名の方とは事情が異なるのではと思うのです。8名の御祭神ですから8-3=5やろということなのですが、今一人、藤原広嗣は生存した時代という点では最も古い、この方が合祀された訳をまたまた考えねばなりません。
写真に作為はありません。自然にこうなっとりました。