ちょいと路地に入れば、そこかしこに大阪らしさは残っているのですが、最も濃密に浪花の庶民の哀歓が染みついている所と言うと、やはり天王寺界隈かと思います。坂田三吉を梅田の阪急のプラットホームに立たせても全く似合わないが、天王寺駅の阪和線のホームならさもありなんという風に受け止められます。それでも阿倍野再開発というやつで、天王寺はその片身を削がれてしまった感が有り、南西部分は随分と味気ない街になりました。また、天王寺駅の陸橋に物乞いの姿が見られなくなっていますが、これなど意図的に物乞いを作れとは言えませんが天王寺らしさがやはり少しずつ消えていっているようで、少し寂しさを感じるところです。
さて、天王寺駅を起点に谷町筋を北上すれば、夕陽丘や生国魂神社、高津神社など他地の人にはさほど知られてはいないが、大阪の風土を考える上では絶対に無視できぬところを散策することができます。が、その前にちょっと寄り道。
初代竹本義太夫生誕地の碑辺りから天王寺公園の東の縁に沿って北に向かうとラブホ街があります。ラブホというより「連れ込み宿」とでもいったほうが似つかわしいのですが、あるラブホの前に「茶臼山由来の碑」があります。
この碑文、多分全国一珍妙なものだと思われます。茶臼山は古墳なのですが、大阪の役の際には徳川家康の本陣がおかれたところです。そのことに関して、関ヶ原の戦いも大坂夏の陣もグチャグチャにしてかき混ぜて記されているのがこの碑文です。真田幸村の紹介なども「信州の田舎の住人」などと当たっているけど、ちょっと他のものでは見ることのできぬ表現がしてあり、石田三成と浅野長政がともに関ヶ原で家康と戦っているのも面白い。これを書いた人は大まじめで書いているのですが、真面目であればあるほどさらにおかしさが増すのです。南禅寺の決戦でしょうか、坂田三吉はここ一番の大切な対局でやらずもがなの端歩突きをやってボロ負けしました。しかも2回も。この碑がどうもそういう三吉精神と被さってくるのです。論理などというものは全く通じない、1万円や2万円では建たぬ碑を思い込みだけでバーンと建てる、その情熱と狂気、アホやけどおもしろいのです。これはこれで、立派に大阪の一面を表す記念物となっている。今後誰かが賢しらぶって間違いだらけだからと言って撤去などせぬようにしたいものです。
堀越神社から四天王寺を右に見て、少し北に行くと愛染堂と大江神社です。大江神社には「夕陽岡」の碑や芭蕉の句碑が建てられています。新古今和歌集の選者でもある藤原家隆は、この辺りから茅渟の海に沈む夕陽を見て、弥陀の浄土の存在を確信したのでしょう、「契りあれば難波の里に宿り来て波の入り日を拜みつるかな」の和歌を詠み、この地に隠棲して往生したという伝承があります。この近くには、家隆の墓もあります。芭蕉の句碑は「あかあかと」の句碑で、これは「おくのほそ道」にある句ですから、夕陽の連想だけでここに建てられており、ちょっと悪のりというところです。
浪花娘が浴衣でお参りする愛染さんも亦興味深いものがありますが、他日のこととして今少し北に行けば口縄坂です。
大阪のあらゆる坂の中で最も有名なこの坂は、今となってはやはり織田作之助と切り離しては考えられぬ所があります。司馬遼太郎の「燃えよ剣」の中にもこの坂が出てきますが、これは新撰組の斜陽を夕陽丘と掛け合わしたイメージでしょうか。鳥羽伏見の戦いに敗退して大阪に撤収した新撰組の屯所がこの近くの寺に置かれたとのことです。が、やはりここの夕陽は極楽幻想と関連して捉えたい。織田作の口縄坂は「木の都」などに詳しく記されています。これも特には阿弥陀信仰に触れていませんが、家隆の歌については記述があります。現在は「木の都」の一番最後の部分が説明板にも記されています。曰く「口繩坂は寒々と木が枯れて、白い風が走つてゐた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思つた。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直つて来たやうに思はれた。風は木の梢にはげしく突つ掛つてゐた。」と。この坂を下りて右に向かえば、渋谷天外などの墓、寺町の中を通りますので、この辺りの徘徊は随分と線香臭くなることを覚悟せねばなりません。さて、酒でありますが、ここは天王寺に戻りましょう。チェーン店ではないおもろい居酒屋が、数は減ったとは言え、わんさかとありますよってに。
さて、天王寺駅を起点に谷町筋を北上すれば、夕陽丘や生国魂神社、高津神社など他地の人にはさほど知られてはいないが、大阪の風土を考える上では絶対に無視できぬところを散策することができます。が、その前にちょっと寄り道。
初代竹本義太夫生誕地の碑辺りから天王寺公園の東の縁に沿って北に向かうとラブホ街があります。ラブホというより「連れ込み宿」とでもいったほうが似つかわしいのですが、あるラブホの前に「茶臼山由来の碑」があります。
この碑文、多分全国一珍妙なものだと思われます。茶臼山は古墳なのですが、大阪の役の際には徳川家康の本陣がおかれたところです。そのことに関して、関ヶ原の戦いも大坂夏の陣もグチャグチャにしてかき混ぜて記されているのがこの碑文です。真田幸村の紹介なども「信州の田舎の住人」などと当たっているけど、ちょっと他のものでは見ることのできぬ表現がしてあり、石田三成と浅野長政がともに関ヶ原で家康と戦っているのも面白い。これを書いた人は大まじめで書いているのですが、真面目であればあるほどさらにおかしさが増すのです。南禅寺の決戦でしょうか、坂田三吉はここ一番の大切な対局でやらずもがなの端歩突きをやってボロ負けしました。しかも2回も。この碑がどうもそういう三吉精神と被さってくるのです。論理などというものは全く通じない、1万円や2万円では建たぬ碑を思い込みだけでバーンと建てる、その情熱と狂気、アホやけどおもしろいのです。これはこれで、立派に大阪の一面を表す記念物となっている。今後誰かが賢しらぶって間違いだらけだからと言って撤去などせぬようにしたいものです。
堀越神社から四天王寺を右に見て、少し北に行くと愛染堂と大江神社です。大江神社には「夕陽岡」の碑や芭蕉の句碑が建てられています。新古今和歌集の選者でもある藤原家隆は、この辺りから茅渟の海に沈む夕陽を見て、弥陀の浄土の存在を確信したのでしょう、「契りあれば難波の里に宿り来て波の入り日を拜みつるかな」の和歌を詠み、この地に隠棲して往生したという伝承があります。この近くには、家隆の墓もあります。芭蕉の句碑は「あかあかと」の句碑で、これは「おくのほそ道」にある句ですから、夕陽の連想だけでここに建てられており、ちょっと悪のりというところです。
浪花娘が浴衣でお参りする愛染さんも亦興味深いものがありますが、他日のこととして今少し北に行けば口縄坂です。
大阪のあらゆる坂の中で最も有名なこの坂は、今となってはやはり織田作之助と切り離しては考えられぬ所があります。司馬遼太郎の「燃えよ剣」の中にもこの坂が出てきますが、これは新撰組の斜陽を夕陽丘と掛け合わしたイメージでしょうか。鳥羽伏見の戦いに敗退して大阪に撤収した新撰組の屯所がこの近くの寺に置かれたとのことです。が、やはりここの夕陽は極楽幻想と関連して捉えたい。織田作の口縄坂は「木の都」などに詳しく記されています。これも特には阿弥陀信仰に触れていませんが、家隆の歌については記述があります。現在は「木の都」の一番最後の部分が説明板にも記されています。曰く「口繩坂は寒々と木が枯れて、白い風が走つてゐた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思つた。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直つて来たやうに思はれた。風は木の梢にはげしく突つ掛つてゐた。」と。この坂を下りて右に向かえば、渋谷天外などの墓、寺町の中を通りますので、この辺りの徘徊は随分と線香臭くなることを覚悟せねばなりません。さて、酒でありますが、ここは天王寺に戻りましょう。チェーン店ではないおもろい居酒屋が、数は減ったとは言え、わんさかとありますよってに。
京都の北山へ帰るまで約40年間大阪は阿倍野にいましたので夕陽丘界隈も徘徊しました。七坂は全部歩きましたし、生魂神社や上六の飲み屋にも多くの思い出があります。大学もこの近くにありました。この界隈は昔の大阪を感じることが出来る我がお気に入りスポットです。
楽しそうなブログですね。あちこちを訪れられたお話を楽しみに読ませていただきます。
我がブログにリンクを貼らせていただき鯛のですが。
>おもろい居酒屋が、数は減ったとは言え、わんさかとありますよってに。
と書かれていますが、阿倍野と云えばやっぱし「明治屋」ですよね。ここの酒を呑まずして大阪の居酒屋を語る事なかれ、とまで思っております。
mfujino様のブログを拝見させていただきました。京北のみならず、広く丹波の歴史・文化について調べておられますので、小生も大いに勉強させていただきます。京北には縁もゆかりもなかった小生ですが、mfujino様や道草様のご指導をいただいて、色々と知っていこうと思っております。阿倍野の明治屋、寡聞にして知りませんでした。前に入ったあそこがそうかなと思う店もありますが、近いうちに明治屋に突撃します。