本日は、西国街道の郡山宿(茨木市)と芥川宿(高槻市)の間を歩きます。西国街道は、日本最初の街道である山陽道のことで、広い意味ですと京都から大宰府までということになりますが、江戸時代以後「西国街道」の名称が使われ、狭い意味では京都から西宮を指すということです。その間の宿場は山崎、芥川、郡山、瀬川、昆陽ということになります。
通暁しておられる方々を除く大部分の人には意外なことと思われるかも知れませんが、西国大名が参勤で江戸に赴く場合、山崎からは渡しを使って伏見へ、伏見からは山科を経て大津へということになり、京都には入りません。淀川左岸を通る「京街道」とは、伏見で合流します。今日の西国街道の起点は東寺ということになっていますが、多くの人は京都を迂回するルートを採りました。幕府にしてみれば、警戒している西国大名が朝廷のおられる京都をウロウロするのは目障りでしょうし、大名にしてみれば京都で一泊すればそれだけ路銀も要るし、それから何かと誘惑が多い(笑)。
師匠は東寺から西宮を超えて、神戸まで西国街道(山陽道)を歩いておられますが、小生は断片的にブラブラしただけです。いずれ、切れている部分をつなぎたいと思っているのですが、いつになることやらと申す処です。
郡山宿には、本陣の享保年間の建物が残っていて、17代目の御当主がこれを守っておられます。この御当主が何と師匠とは古文書の学習仲間、ということで本陣の建物・資料を見せて下さるばかりか、本陣の歴史について講義もして下さいました。
左の門が御成門。
御成門を入ってすぐに左手のところに五色椿が植えられています。枯死した先代はひとかかえもあるものだったということですが、今の椿もなかなか立派です。その横にはさらに立派なモチノキも植えられています。この椿により、郡山宿の本陣は「椿の本陣」と呼ばれてきました。
勉強中。
御当主は齢90を超えておられますが、まことに矍鑠としたもので、お話の声もよく通ります。江戸時代、参勤する各藩がいかに経費を節約するために苦労していたかということや、享保年間に向かいの旅籠から火が出て、本陣も焼けてしまったときに西国諸藩に再建の寄付を求めたこと等々、興味深いお話をたくさんしていただきました。関札には「~様御宿」とは記さないということや、彦根の井伊家の殿様が有馬に湯治に行ったときのお供が412名、腰元10名に腰元の世話をする武士が4名、本当によもやま話の宝庫でもあります。
御当主には、本陣内を自由に見学した後は、好きなところで飯を食べても良いといっていただきました。我々は昼食を同行の方に恵んでいただきました。ありがとうございました。
玄関
古文書類。木刀は当主が大名にお目見えの時に使用。
上段の間。時計も江戸時代のもの。
関札
おくどはん(復元)
茶室
紫式部・同行の方に教えていただきました。
さて、郡山宿から芥川宿までは約6キロ、師匠がからむ徘徊では散歩の域を超えません。本陣の御当主の主食は日本酒であるとのこと、また池田の酒を持ってお訪ねしますね。
宿場の東の端にある高札場跡。
ここより東の西国街道は、今は国道171号線の抜け道になっていて、右へ左へとブラブラしながらの徘徊とはいきません。1列縦隊で進まねば危険です。この付近に住んでいる友人が、「自動車は生活道路に入らぬというマナーが必要だ。」といつも言っていたのもナルホドと思われます。
道標
白井河原合戦跡
白井河原の合戦は、入京後の織田信長によって摂津三守護の一人に任じられた和田惟政が同じく三守護に任ぜられた荒木村重の意を受けた中川清秀等に討ち取られた合戦で、和田氏と連合した茨木氏の没落は決定的なものとなり、和田氏もその後に息子の惟長が高山氏によって高槻城を奪われています。1571年という段階で摂津の混乱はまだまだ激しいものがあったということが分かる戦いです。中川氏と高山氏は後に信長に反した荒木氏を裏切りますが、中川清秀は最後は賤ヶ岳の合戦で戦死しています。荒木氏は例の末路、高山氏が家康によってマニラに追放されたことは有名ですから、この時期にこの辺りで名を知られた武将はいずれも徳川大名となって残ることはできませんでした。
この一帯は古い集落がまだまだ残っていると思われて、住宅の表札も同じ名字が続きます。
法華寺由来
法華寺本堂
阿為神社お旅所
耳原(みのはら)辺りの風景
太田の道標
茨木市の太田まで来ると、道が少し登りになっている崖の下に広大な空き地が広がります。東芝の工場跡地だそうです。ここを登り切ったところが太田茶臼山古墳の正面ということになります。この古墳は現在宮内庁によって継体天皇陵に指定されていますが、前方後円墳の編年やその他から継体天皇のころよりもずっと古い古墳であることは、もはや衆目の一致するところです。最近の研究では継体天皇の父系の先祖が被葬者だろうといわれているそうです。
かなたに太田茶臼山古墳
茨木市を出て高槻市に入ります。街道を少し離れて北に行くと今城塚古墳、長いこと整備工事をやっていましたが、晴れて工事も完了、立派な資料館も造られました。森に住んでいたタヌキやキツネは太田茶臼山への引っ越しに忙しかったことでしょう。この今城塚古墳こそ本当の継体陵であるということは学問的にはほぼ証明されていると言っていいでしょう。中世には三好氏によって城が築かれ、近世から近代にかけては御陵としては一顧だにされず、それが幸いして本格的な調査をすることができました。この近くの新池では、太田茶臼山や今城塚に並べられた埴輪を製作した窯が見つかっています。それにしても高槻市の教育委員会はお金持ちです。ミュージアム相当施設もここだけではありませんし、しかも全て入場無料。
後円部右手の濠
後円部
前方部右隅
同行していた小学校教諭が「もう春の遠足はここで決まり」と太鼓判が押せる施設になっています。資料館では「勾玉作り」の実習もできるそうですから、小学生は喜ぶでしょう。
埴輪祭の復元
さて、本日11名の参加でしたが、4名を残して、ここからタクシーで戻られました。約4キロの散歩でしたが、少し暑い日だったので、どうもお疲れ様でした。今、よく考えたら資料館は見ておられませんね。残り4名はビールの幻影を目の前に見ながら今少し歩きます。
芥川の宿が近くなってきたところに、島上郡郡衙跡、本来は山陽道に面していたはずです。この広さで未だ3分の1の復元だといいますから、郡衙というのも相当に大きな施設で役人も多くいたであろうことが分かります。
郡衙跡
芥川を越えると金比羅講の灯籠。さらに分かりにくいのですが、水門の跡。そして一里塚。昔からの街の名残は町並にも見ることができますが、本陣跡やその他旅籠跡などの表示は見つけられませんでした。この近辺は何度も来ていますが、本陣というものが気になったのは今回が初めてでした。
一里塚(お堂の後ろに残っている)
高槻市の盛り場に来ると、いつもの店で打ち上げであります。ゴーヤの天ぷらが無くなったのは一大痛恨事でありますが、なすの煮浸しなどビールのアテには困りません。それにしても、酒飲みなのに通常の酒飲みが頼むアテを全く食べない集団は、ボチボチ店では「けったいな連中」と思われ始めているでしょう。
郡山宿本陣の御当主は、以前はサラリーマンをされていて、古文書の勉強を始められたのは定年後とのことです。今は朗々と古文書を読み、意味も解いていかれます。小生の如き怠惰の徒も勇気凛々、懦夫をして起たしむるありというのは、このような出会いをいうのでしょうね。
通暁しておられる方々を除く大部分の人には意外なことと思われるかも知れませんが、西国大名が参勤で江戸に赴く場合、山崎からは渡しを使って伏見へ、伏見からは山科を経て大津へということになり、京都には入りません。淀川左岸を通る「京街道」とは、伏見で合流します。今日の西国街道の起点は東寺ということになっていますが、多くの人は京都を迂回するルートを採りました。幕府にしてみれば、警戒している西国大名が朝廷のおられる京都をウロウロするのは目障りでしょうし、大名にしてみれば京都で一泊すればそれだけ路銀も要るし、それから何かと誘惑が多い(笑)。
師匠は東寺から西宮を超えて、神戸まで西国街道(山陽道)を歩いておられますが、小生は断片的にブラブラしただけです。いずれ、切れている部分をつなぎたいと思っているのですが、いつになることやらと申す処です。
郡山宿には、本陣の享保年間の建物が残っていて、17代目の御当主がこれを守っておられます。この御当主が何と師匠とは古文書の学習仲間、ということで本陣の建物・資料を見せて下さるばかりか、本陣の歴史について講義もして下さいました。
左の門が御成門。
御成門を入ってすぐに左手のところに五色椿が植えられています。枯死した先代はひとかかえもあるものだったということですが、今の椿もなかなか立派です。その横にはさらに立派なモチノキも植えられています。この椿により、郡山宿の本陣は「椿の本陣」と呼ばれてきました。
勉強中。
御当主は齢90を超えておられますが、まことに矍鑠としたもので、お話の声もよく通ります。江戸時代、参勤する各藩がいかに経費を節約するために苦労していたかということや、享保年間に向かいの旅籠から火が出て、本陣も焼けてしまったときに西国諸藩に再建の寄付を求めたこと等々、興味深いお話をたくさんしていただきました。関札には「~様御宿」とは記さないということや、彦根の井伊家の殿様が有馬に湯治に行ったときのお供が412名、腰元10名に腰元の世話をする武士が4名、本当によもやま話の宝庫でもあります。
御当主には、本陣内を自由に見学した後は、好きなところで飯を食べても良いといっていただきました。我々は昼食を同行の方に恵んでいただきました。ありがとうございました。
玄関
古文書類。木刀は当主が大名にお目見えの時に使用。
上段の間。時計も江戸時代のもの。
関札
おくどはん(復元)
茶室
紫式部・同行の方に教えていただきました。
さて、郡山宿から芥川宿までは約6キロ、師匠がからむ徘徊では散歩の域を超えません。本陣の御当主の主食は日本酒であるとのこと、また池田の酒を持ってお訪ねしますね。
宿場の東の端にある高札場跡。
ここより東の西国街道は、今は国道171号線の抜け道になっていて、右へ左へとブラブラしながらの徘徊とはいきません。1列縦隊で進まねば危険です。この付近に住んでいる友人が、「自動車は生活道路に入らぬというマナーが必要だ。」といつも言っていたのもナルホドと思われます。
道標
白井河原合戦跡
白井河原の合戦は、入京後の織田信長によって摂津三守護の一人に任じられた和田惟政が同じく三守護に任ぜられた荒木村重の意を受けた中川清秀等に討ち取られた合戦で、和田氏と連合した茨木氏の没落は決定的なものとなり、和田氏もその後に息子の惟長が高山氏によって高槻城を奪われています。1571年という段階で摂津の混乱はまだまだ激しいものがあったということが分かる戦いです。中川氏と高山氏は後に信長に反した荒木氏を裏切りますが、中川清秀は最後は賤ヶ岳の合戦で戦死しています。荒木氏は例の末路、高山氏が家康によってマニラに追放されたことは有名ですから、この時期にこの辺りで名を知られた武将はいずれも徳川大名となって残ることはできませんでした。
この一帯は古い集落がまだまだ残っていると思われて、住宅の表札も同じ名字が続きます。
法華寺由来
法華寺本堂
阿為神社お旅所
耳原(みのはら)辺りの風景
太田の道標
茨木市の太田まで来ると、道が少し登りになっている崖の下に広大な空き地が広がります。東芝の工場跡地だそうです。ここを登り切ったところが太田茶臼山古墳の正面ということになります。この古墳は現在宮内庁によって継体天皇陵に指定されていますが、前方後円墳の編年やその他から継体天皇のころよりもずっと古い古墳であることは、もはや衆目の一致するところです。最近の研究では継体天皇の父系の先祖が被葬者だろうといわれているそうです。
かなたに太田茶臼山古墳
茨木市を出て高槻市に入ります。街道を少し離れて北に行くと今城塚古墳、長いこと整備工事をやっていましたが、晴れて工事も完了、立派な資料館も造られました。森に住んでいたタヌキやキツネは太田茶臼山への引っ越しに忙しかったことでしょう。この今城塚古墳こそ本当の継体陵であるということは学問的にはほぼ証明されていると言っていいでしょう。中世には三好氏によって城が築かれ、近世から近代にかけては御陵としては一顧だにされず、それが幸いして本格的な調査をすることができました。この近くの新池では、太田茶臼山や今城塚に並べられた埴輪を製作した窯が見つかっています。それにしても高槻市の教育委員会はお金持ちです。ミュージアム相当施設もここだけではありませんし、しかも全て入場無料。
後円部右手の濠
後円部
前方部右隅
同行していた小学校教諭が「もう春の遠足はここで決まり」と太鼓判が押せる施設になっています。資料館では「勾玉作り」の実習もできるそうですから、小学生は喜ぶでしょう。
埴輪祭の復元
さて、本日11名の参加でしたが、4名を残して、ここからタクシーで戻られました。約4キロの散歩でしたが、少し暑い日だったので、どうもお疲れ様でした。今、よく考えたら資料館は見ておられませんね。残り4名はビールの幻影を目の前に見ながら今少し歩きます。
芥川の宿が近くなってきたところに、島上郡郡衙跡、本来は山陽道に面していたはずです。この広さで未だ3分の1の復元だといいますから、郡衙というのも相当に大きな施設で役人も多くいたであろうことが分かります。
郡衙跡
芥川を越えると金比羅講の灯籠。さらに分かりにくいのですが、水門の跡。そして一里塚。昔からの街の名残は町並にも見ることができますが、本陣跡やその他旅籠跡などの表示は見つけられませんでした。この近辺は何度も来ていますが、本陣というものが気になったのは今回が初めてでした。
一里塚(お堂の後ろに残っている)
高槻市の盛り場に来ると、いつもの店で打ち上げであります。ゴーヤの天ぷらが無くなったのは一大痛恨事でありますが、なすの煮浸しなどビールのアテには困りません。それにしても、酒飲みなのに通常の酒飲みが頼むアテを全く食べない集団は、ボチボチ店では「けったいな連中」と思われ始めているでしょう。
郡山宿本陣の御当主は、以前はサラリーマンをされていて、古文書の勉強を始められたのは定年後とのことです。今は朗々と古文書を読み、意味も解いていかれます。小生の如き怠惰の徒も勇気凛々、懦夫をして起たしむるありというのは、このような出会いをいうのでしょうね。
椿本陣へはもちろん初めてですが、昔の遺品が実に沢山残っていて、まさに時代劇の中へ紛れ込んだ感がありました。ご高齢にも拘わらず、当主の説明も大したものでした。定年後から古文書の勉学とは、恐れ入りました。徘徊堂さんなら、古文書はおろか象形文字や喫形文字の読破も可能です。頑張ってください。
それにしても、江戸への参勤交代には当然ながら京都を通ったものと思っていましたのに、迂回通路があったとは。尤も、その方が合理的なのは事実ですが。大名も様々で、苦心惨憺の倹約振りなどを聞いて、目からウロコでした。井伊家などは、例外中の例外なのでしょう。古色溢れる庭先を眺めながらの昼食。私は、飯も茶も恵んで頂きました。有り難うございました。
今城塚古墳は興味津々でしたが、帰路の足の便を御懸念されました大名の奥方様のお供も必須でして、史料館へ寄れず残念でした。それにしても、堀を取り巻く埴輪の器が、6千個も並んでいるのは壮観でした。史料館へは、いつか再訪せねばなりません。
しかし、ここが本当の継体陵と知って、宮内庁はさぞ臍を咬んでいることでしょう。それにしても、天皇陵をどうして発掘させないのか。今や、世界中の世界観が変貌しているのに、我が国の姑息さは情けない限りです。宮内庁は何を恐れて、閉塞しているのでしょうか。
高槻の酒本陣へは、残念ながら寄れずに終わりました。またの機会を楽しみにしております。「慎ましく大名椿で慰める」道草。
宮内庁の建前は「墓だから」という単純明快なものです。本当は、墓ならば墓なりの調査方法もあると思うのですが。今現在の古墳研究のレベルは素人目ながら凄いと思います。考古学で言うところのモノがきちんと語っていて、3世紀から6世紀の政治状況まで判ります。これで、御陵の発掘が本格化すれば、もう大変なことになるのですが。
昭和天皇は明快に「掘れ」と言っておられました。今上陛下も同じお気持ちだと思いますが。
慎ましく…の句、最高です(爆)。機会がありましたら、能因塚や伊勢寺に行って、その後で…というのはいかがでしょうか。
そうだgunkanatagoさまと師匠に顧問となって貰おう。顧問料は、、まあ周山ビール位しか(^_・)
当日はお誘いを受けていたのに参加できなかったことが悔やまれます。これは単独でも下見に行かねばなりませぬ。資料などご協力下さいませm(. .)m
おっと、奈良の五條市のガイドブック作成まだだった。頑張らねば、、、
参加させて頂いた5人分御礼もうしあげます。
椿本陣のご当主90歳をすぎていらっしゃるのですね。お肌ツヤツヤ お声も朗々と 元気の固まりのような方でしたよね。お屋敷内の色々道草さまのコメントにあるように、まさに時代劇の世界でした。私の一番のお気に入りは 江戸時代の時計、姿 形も美しく 聞かせて頂いた音色もしっかりとしていて、見とれてしまいました。(私 時計が好きなのです)本陣の椿満開のころ訪れたいですね。 今城塚の資料館本当に惜しい事をしました。同行した方内2人が今城塚と資料館再訪されて、T先生の説明を思いだしながら 半日を塚で過ごされたとの事でした。
西国街道今までとんと ご縁のない街道でしたが、急に身近に感じられて京都から西宮 の何処か 知らずに歩いていたかも、、、。 それにしても歴史って理解できれば楽しそう
理解??知識がなければ こんなに難解な。。。。
徘徊堂さま今後もよろしくお願いいたします。
小生も最初は、あのように説明して下さるとは思っていませんでした。関札の表現一つとっても知らないことでしたので、本当にありがたかったです。
五条、行ってこられたのですね。秋になり、空がスコンと晴れると大和路が呼びます。五条の宇智にも早く行かねばと思います。
ところで、またまたmfujino様の歴史探訪のネタ袋に入れていただけることがありましたよ。土曜日の夜にメールしますね。アッ、家村さんの店、やはり思っていた酒屋さんでした。宮城の酒を大々的に宣伝されてました。意識が高いですね。
皆さんを池田に御案内したことはあるのですが、かりんとう様は未だですね。よかったら、池田たこ焼き徘徊をまた企画しますね。有馬街道の小浜宿も師匠がバッチリ御案内します(勝手に決めてる)。
今城塚は、皆さんの束ね役として、資料館をご覧にならずに帰られたことは残念でしたね。既に再訪された方がおられるというのはビックリですが、摂津富田からだったら歩いてもしれています。
椿の本陣の時計の音色、透き通っていましたね。時計がお好き?了解いたしました。ウロウロするときに注意することにします。
ライト付き差し棒でのご当主のお話は自身満々で楽しく聞かせていただきました。(耳が遠いから聞き逃しも多かったかも)調度品や建具もさすがにタイムスリップの世界でした。関札は見応えありました。
道中亀岡への文字を見て、ああ近いんだと納得したり、して楽しく歩きました。
私は古墳を縦断したのは初めてでこうなってるんだと感激しました。6000の円筒や公園の埴輪群にもびっくり!とても悔やまれるのは資料館に入らなかったこと。感動が覚めないうちに訪れなくては・・・と思っています。
明日、再び今城塚に行き、その後で高槻の古い寺を回ります。教育委員会の企画で師匠が申し込んでくれました。教育委員会が根性無しだと雨天中止になるかも知れませんが。予定には入っていないのですが、平安時代の歌人である伊勢が隠棲した寺も偵察してきます。
多分、計画は師匠主催ですが、ムチャクチャな距離にならぬようにしっかりと見張ります(笑)。来年の春ぐらいになるかも知れませんが、またご参加下さいね。