花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

「みやび」から「ほろび」へ

2011年11月08日 | 徘徊情報・洛中洛外
 雨の休日、わしらの徘徊に雨天中止の言葉はない!けれども山はちょっと遠慮(弱気)ということで、本日の前半は「みやび」の世界であります。京都の四条通に面した茶舗にて、活花展が行われています。テーマは「みやび」、平安貴族の姫の姿をイメージしたものです。

             

 通常、活花展というと机の上に白い布を敷き、命(いのち)というものを活けているはずなのに、何か無機的に作品が並んでいるだけというものを想像しますが、この活花展は造形芸術的要素を組み入れ、しかも自然への慈しみを忘れないことを主眼としていますから、見応えがありますし、しかも決して花にカラースプレーを吹き付けたりはしない(笑)。空間をどのように生かすかが活花の要諦であるならば、この展示は見事な成功例といえると思います。
 花器と思えぬような花器、琴、三宝等々道具立てにも工夫が凝らされています。第一等の見どころは雅楽の笙を吹く人までもが展示の一部として、平安空間を織り出しているところです。この人、横笛も琴も引いておられましたから、雅楽器にはオールマイティ。まあ、小生の如き者の批評よりも展示されたものを見ていただくのがよいでしょう。

             

             

             

             

             

             
             壁に映る影をみるべし

             

 やはり、活花は清浄力と、敢えて付け足すならば力でありましょうか、その力も山の木を根こそぎ引いてきてというようなのがありますが、そんな木の悲鳴が聞こえるような力ではなく、神仏の慈愛というか、そのようなものが作品に注がれているところ、これが大事です。
 この茶舗が煎れてくれた茶もいただきましたが、さすがに本業、家で飲んでいる茶とは全く味が異なりました。小生は大昔からこの店で茶を買っておりましたが、昔は普通の事務服を着たオバチャンとオネーチャンが、「あっらー、いらっしゃい。」という感じだったのに、今は和服を着たお姉さんとスーツのおじさんが、慇懃に出迎えてくれます。ビルも京都を意識した立派なものに建て替えられています。伊右衛門で随分と儲けたなあと申す処。オッ、これで何処かもうお解りですね。

 さてさて、活花展で随分と長居をさせてもらいましたが、ここからは日常に戻ります。本日は、特には予定がありませんので、四条烏丸で長いこと(といっても2分ぐらい)考えました。フッと思いついたのが、夏にウロウロした膏薬図子(こうやくのずし)、あの時は神田明神が閉まっていたのですが、もしかしたら開いているかも知れない。ひとまずは膏薬図子に行ってみよう。
 御存じの方は読み飛ばしていただきたいのですが、承平・天慶の乱(935~941)に於いて、板東で討ち取られた平将門の首は京都に送られ、この辺りに晒されました。将門の首が大声で叫んだり(空を飛ぶことも出来る)したため、この首を供養したのが空也上人で、「くうやくよう」が訛って「こうやく」となったとのこと。今ここに神田明神が祀られているのは、京都という町の歴史的な連続性を示すものです。

             
             四条通から図子に入る。左の駐車場が残念。

             
             図子に面した路地の中から。

 思惑通り、本日は神社が開いていました(変な表現)。あの時は、これは全くの民家で、その一室にお祭りしてあるのだろうと思っていましたが、中は全く改造され、お社があり、何か謎の空間もありました。先客がいて、何かミステリーツァーを楽しんでいるようです。そうここは一種の魔界なのでしょうね。

             
             神田明神

             
             これは何なら?(岡山弁)

             
             突き当たりを右に折れると

             
             角に木製の仁丹住所表示

             
             突き当たりを左に折れると

             
             綾小路通に出ると琺瑯製仁丹住所表示

 木製の住所表示から綾小路に出るまでに仁丹の住所表示は今一枚あります。綾小路に出たところが有名な杉本家住宅、本日は内部公開をしているようです。

             

 そのまま綾小路通を西進、堀川通まで歩きます。堀川に出ると、もうあちらこちらポリコマンだらけ、雨の中を御苦労様です。私服(イヤホンをしているので分かる)を捕まえて、何があるのかを聞いてみると皇太子殿下の車がまもなく通るとのこと、さもありなん。上空にはヘリも飛んでいます。歩いているうちに皇太子殿下の車列が通らないかな、今日は沿道にはあまり人がいなくて寂しいから、思いきり手を振ってお見送りしようと堀川通をそのまま下ります。堀川署の南には本圀寺跡、江戸時代には朝鮮通信使の宿所であったところです。

             

 植え込みの中に左女牛井(さめがい)跡、この辺りは清和源氏の六条の館があったらしいとのことです。そういえば保元の乱後に息子の源義朝に殺された為義は「六条判官」と言われていましたね。ここから堀川通を東に越えれば醒ヶ井通ですが、この語源となった井戸です。ここで為義塚が梅小路の方にあることを知りました。

             

 反日の牙城西本願寺の前は息を止めて通ります。が、もの凄く広大なので途中で息継ぎをせざるを得ません。幕末、新撰組は壬生から屯所をこの寺に移して何やかやと嫌がらせをしました。近藤君、土方君、偉いぞ!
 西本願寺の東南の隅にあるのが興正寺、真宗仏光寺派の門主であった蓮教上人が蓮如さんに帰依して、仏光寺を離れて興した宗派の寺です。もっとも興正寺という寺名そのものは、古くからあったようです。この時に蓮教上人は仏光寺派の大部分の寺・信者を率いて蓮如さんの弟子となりましたから、仏光寺派は一挙に衰え、本願寺派が興隆することになります。けれども、そのまま本願寺派に溶け込むことが出来なかったのは(現在は独立した宗派)、やはり内部で色々とあったのでしょう。

             
             興正寺本堂

 リーガロイヤルホテルの前に新撰組不動村屯所跡の碑、新撰組の京都における最後の屯所です。時期が下るに連れて屯所はだんだんと南下した訳です。
 
             

 気がつくと、ポリコマンの姿は全く見えません。「あっ、そうか(納得)、七条通を越してしまったからなあ。京都駅から新幹線でお帰りになるのか。」、皇太子殿下のお車を拝することはできませんでした。そればかりか、為義塚に行く道も分からなくなりました。まあ自由徘徊だから、それもよし。
 JRの線路をくぐって東寺の縄張りに入ってきました。「よし、それならば西寺跡だ!」、ここらあたりが小生のヒネくれているところです。八条通を西へ西へ。途中、六孫王神社に参拝します。清和源氏第一代の源経基を祀る神社です。
 経基は平将門の乱の折に将門が自分を殺そうとしていると誤解して板東から逃げ出し、朝廷に将門の謀反を告げた人物として、人気は今一な人です。武士の始まりとされる満仲の父にあたるのですが、この親子関係も疑わしいところはあります。けれども、その後に藤原純友の乱の平定に用いられているところを見ると、経基の人柄などは将門記が誇張して記しているところがあるかも知れません。何にしても、今はしっとりとした良いお宮さんです。

             

             
             六孫王神社御本殿

 時代は下って、鎌倉幕府の第3代将軍実朝の御台所は実朝が暗殺された後に京都に戻り、この地に遍照心院を建立、神社はその鎮守となったとのことです。
 新千本通まで来ました。平安京の朱雀大路です。ヌヌヌ、時はまさに黄昏、おおまがとき(逢う魔が時)、雨も降っている。朱雀大路の果てといえば羅城門ではないか。平安時代には早くから死体捨て場になっていたところ、鬼も出たところ、こいつは楽しみです。よーし、何でも来い!と身構えて見ましたが、持ち帰りの餃子店に列を成す車列を見たぐらいで、何等怪しげなものは出ません。羅城門跡を示す石碑は児童公園の一画に申し訳なさそうに立っています。ちょっと観光ルートから離れたら京都市は全く駄目ですね。説明もありません。

             

 平安京の入り口に羅城門を挟んで建立された東寺と西寺、東寺は空海に与えられ、西寺は守敏に与えられました。この両僧が雨乞いの祈祷をやり、敗れた守敏が逆恨みに空海に矢を放ったところ、それを防いだお地蔵さんが今も祀られているという矢取地蔵もすぐ近くにありました。

             

 もちろん、こういった話は、東寺が今もなお真言密教の中心として栄えているのに対して、西寺が廃れてしまったために作られた話でしょう。西寺が廃寺となっていった原因として先ず守敏と空海の雨乞い競争の話が出来る。さらに雨乞いに敗れた守敏の逆恨みの話が出来る。思えば守敏は気の毒な僧です。今日の雨はその涙雨?
 東寺が残り、西寺が滅んだ理由は「運」でしょう。教団の形成も運、後継者として教団経営ができる僧がいたかも運、勿論心がけ次第で呼べる運、離れる運もあるでしょうが、寿命などはどうしても図りがたい。空海の死が10年早ければ、今の東寺は無いかも知れないし、空海をカリスマとして教団を経営する弟子達がいなければ、やはり東寺は存在しなかったかも知れません。
 西寺跡は一部が公園になっています。土壇が単に建物の跡としては高すぎるような気もします。この近くにお土居の地名も残りますが、土壇の上の礎石が動いていないとすれば時代的には矛盾します(師匠に確認しましたが、礎石は動きまくっているそうです)。また、知られているお土居の遺構からはずれすぎてもいる。うー、分からん。また師匠にうかがおう。【追記 師匠によると、この地域のお土居の地名はやはり豊臣秀吉のお土居だそうです。この辺りは東寺を取り込む形で造られていたそうで、お土居町近辺は南北の線、ということは西寺跡の墳丘は関係がないのか、それを伺うのは忘れました】

             

             

             
             現在の西寺にも西寺跡の碑。

 なん?最初は「みやび」の世界に心を遊ばせていたものが、膏薬図子を南に曲がった後からは、全く違う世界をウロウロすることとなりました。四条通を渡って北に向かっていれば、また異なる世界が開けたかも知れません。
 魔所としての膏薬図子は人を「みやび」から「ほろび」へと導いてくれました。まあ、どう転んでも「するめの天ぷら」を食うということは、我が運命ではあるのですが。これで途中で車にでもはねられていたら本当の滅び。
 それでも、西寺の後は新幹線の高架を東海道線と勘違いして、高架上に駅を探し続けていました。あるわけありませんね。次の駅は新大阪ですから。西大路駅の近くで駅のアナウンスが聞こえた…これも運ですね。 

 


 

         


12 コメント

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新鮮さと羨ましさで、 (mfujino)
2011-11-08 22:38:50
gunkanatagoさま、羅城門跡は一度訪れてみたい所でしたがどうも殺風景ですね。東寺があれば西寺が。この辺りのことをいろいろ調べている方が楽しいかも分かりません。平安京の周囲というか四辺を歩いてその規模を実感するのも楽しいかなあとも思います。それと昔の大内裏辺りをうろうろと。
まあ私はこんな事書いているのですがgunkanatagoさんはぶらりと出掛けられてあちこち徘徊されていますね。京都の街はちょっと歩けば棒ならぬ史跡に当たる楽しさというものですね。しかしこれは歴史の知識が無くては楽しめません。私は予習をしておかないととてもとてもこの様に楽しむことは出来ませぬ。予習も無しに、ばったり出会した史跡と楽しく会話されるスタイルには尊敬の念を抱きます。
活け花の雅の世界から始まり、酒やたこ焼きがでフィナーレを迎えない、新鮮な気分も味わえたというものでございました(^_・)この活け花のプリゼンには興味を抱きますね。この日の酒はどうだったのでしょうね。次の機会には京都駅の近鉄名店街の「薩摩」で鹿児島焼酎もお楽しみ下さい。しまらっきょうもあるかもしれませぬ。
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あー(残念) (gunkanatago)
2011-11-09 13:45:03
 mfujino様、コメントをありがとうございます。しまった、しまったというところです。薩摩に行くチャンスだったのに、最後はビールとスルメの天ぷらしか考えていませんでした。来月、臨時で下京をやろうかという話も出ていますから、その時にと思いますが、焼酎は反対多数で却下されるかも知れません。
 羅城門、もう少しオドロオドロしい雰囲気が残っていてもいいのにと思いましたが、児童公園の中にショボク立っていました。昔の写真を見ると説明板があったようなのですが、だれかに引き抜かれてそのままになっているみたいです。
 吉祥院なども名前は聞くのですが、行ったことがないので、来年あたり普通はまず行かない下京ツアーというのを計画しましょうか。その前に、池田第2弾を具体化させたいと思っています。
 大内裏跡、上京ですね。小生も最近になってようやくボチボチと歩くようになったのですが、見るべきものは多いですね。京都市内だとmfujino様のアクセスもまず大丈夫と勝手に決めています(笑)。
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魔界はまあ可愛い所。 (道草)
2011-11-09 15:26:56
生花か活花かどの表現がどうなのか私には分かりませんが、写真で拝見する限り何とも煌びやかな展示です。文中に書いて居られます如く、太い木の根や花の沢山付いた枝をごっそり剪って来て並べた何とか流の大袈裟な展示もありますが、これは一つの物語を擬えて展開されているのでしょうか。
雨の日の徘徊堂さんの目の保養になったのでしたら、誠に結構か、と。最後のお茶は宮沢某が淹れてくれれば、まさに宮中の皇子になった感があったでしょうけど。それとも、緑一か初日の出でも振る舞われたら、もう居座り状態だったことでしょう。

冗談は扠て置き(半分は本気ですが)、膏薬図子は一種の魔界なのでしょうか。一条戻り橋もその類だと聞いたことがあります。私の住んで居た旧大宮通と大宮通の間に〝抜け路地〟と呼ぶ細い間道があり、入り口に祠が建っていました。その中に3~4軒の紅殻格子の家(長屋)が並んでいましたが、天井になっている個所は暗くて怖かったものです。私達は肝試しに通ったりしていましたけど、今は更地の駐車場になっていますから、そんなに伝統のある通りでは無かったのかも知れません。短い通りで、双方の出入り口には陶製の仁丹住居標識が掛かっていました。何か、遙か昔の夢の世界の様です。

新撰組の屯所は徐々に南下したとの由。いつでしたか札幌支社長(女性でした)が上京した時、新撰組の墓のある壬生寺へ案内した事があります。最後の屯所の位置と関係があるのかどうかは知りませんが、人の気配の無い静かな寺でした。
最後の西寺跡ですか羅城門跡ですか。この辺りも京都の魔界の一つ、と謂われている様ですけど、徘徊堂さんは雨に導かれて魔界から魔界へと徘徊されたのでしょう。皇太子の車にも鯣の天麩羅にも出逢わず、何か静かな行脚だった様ですが。
「秋雨に鯣の天麩羅預け置き」道草。
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少しの間 (gunkanatago)
2011-11-09 16:02:08
 道草様、コメントをありがとうございます。おっしゃる通り、京都には「魔界」といわれているところがたくさんありますね。上京一帯は、それこそ平安宮のあったところですから随所に魔所の口が開いているように思われます。昔の町並を大切にするようになったのは最近のことですが、それでも毎年毎年なつかしいところが消えていきます。最近では一昨々日に、西国街道の提灯屋が建て替えられてモダンな家に変わっているのを見ました。暗くて寒い家から明るい近代的な住まいにしたいという住人の気持ちはよく分かりますから、無下に批判することは出来ませんね。逆にだからこそ、例えば椿の本陣のすごさが分かるというところでしょうか。
 するめの天ぷら、羅城門では見つけられませんでしたが、結局はいつもの店で食べましたよ(笑)。壬生寺は、ここ数年は賑わっていました。そろそろかなあと考えています。壬生狂言も結構な賑わいですから、ここ2、3年は神泉苑狂言を見ています。
 宮沢某てべっぴんでしょうか?(爆)。
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スルメの目的は (道草②)
2011-11-09 16:28:51
完遂でしたか。何よりでした。宮沢りえが美形かそうでもないか、は好みの問題ではないですか。私のタイプではありませぬ。
強いて好みを申せば、香川某なんかがいいです。お茶を奨めてくれてはいませんが・・・。
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香川某 (gunkanatago)
2011-11-09 17:47:26
 懐かしい女優ですね。最近左右田某(あまりにも百姓のオッチャンがピッタリで最初分かりませんでした)とともに足腰の薬の宣伝に出ていませんか?八千草某といい、昭和も遠くなりにけりというところでしょうか。
 宮沢某、健康な痩せ方ではないような。
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徘徊はどこでも大丈夫ですが、、 (mfujino)
2011-11-09 18:25:13
問題は〆の一杯。その後をどうやり過ごすかが私の問題であります(^_・)まあ車の中で酔いを覚まして、というバイタリティがある内にあちこち巡りたい。仕事を辞めたら車で海岸線沿いに日本一周なんて夢も持っています。その時は毎晩旅館に泊まれるほど蓄えがありませぬ故、テントや車泊などが必要ですので今からノウハウを得ておかないとね。
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バスも (gunkanatago)
2011-11-09 18:46:44
mfujino様、そうですね。バスでの往復を考えていました。いつも、車中泊等をしていただき、申し訳ないと思っています。小生は車中泊は、真冬の高野山と愛知県の犬山で経験しました。高野山は失敗、ヒーターを止めると寒くて寒くて、1時間おきに自販機で温かい飲み物を仕入れました。車の中に毛布ぐらいは積んでおかねばならないと学びました。ただ学んだだけ(笑)。日本一周、小生も同じことを考えています。猫にエサをやるため2日に1回は戻らないとダメですが(爆)。
 バスもたまにご利用下さい。何か今のままだと池田~篭坊温泉のバスのように無くなってしまうのではないかと心配しています。
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寝具を装備して (mfujino)
2011-11-10 00:39:33
いやいや毛布程度ではございません。布団など寝具一式を積み込んでのスタイルであります。今の車を買う時息子がこれやったらシュラフを積み込んで寝られるぜと強く薦めたのですが、今は息子に感謝しています。
野麦峠へ向かって走っている時、キャンピングカーと同じ方向に走ったのですが、羨ましかったですね。
そうJR バス、路線存続かどうかの瀬戸際の様ですね。
京都市街地は狭いもの、まさに歩いてあちこち見て回れますね。パリの街も良く似たものです。これに自転車を組み合わせたら徘徊には鬼に金棒。
車・自転車・足を組み合わせての徘徊、これって夢だなあ。そしてモバイル通信で聞きたいことがあればgunkanatagoさんとどこからでも質問できたら言うこと無し(^_・)
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なるほど (gunkanatago)
2011-11-10 13:33:15
 後部座席をフラットにしたら、足を伸ばして寝ることが出来ますね。エアマットを敷いたら、シュラフで十分ですね。もはやシーズンではないのですが、ついこの間まで宇津峡のオートキャンプ場にたくさん車が停まって、その横ではテントが花盛りでした。あれで1晩\3500ぐらいでしたか、栃本に行けば水場もトイレもあってタダ、やはり情報は大切ですね。
 宇津峡から日吉ダムへの道で、車を停めて泊まっている人も今年は多く見ました。風呂は日吉温泉があるし、なかなか快適なのではと思いました。ハイエースのような車も便利なようですね。
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