花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

高槻城近辺

2012年06月04日 | 徘徊情報・摂津国
 薩摩の島津や仙台の伊達など地生えの大大名や(伊達はちょっと動かされていますが)阿波の蜂須賀や土佐の山内など関ヶ原までの功臣は除いて、江戸時代の大名というのは植木鉢に植えられた樹木みたいなもので、幕府の都合や時の権力関係によって領地を召し上げられたり、与えられたりしました。そんな中にあって、1649年から明治維新に至るまで一貫して同一の領地を治めたのが高槻藩永井氏です。
 永井氏は三河以来徳川氏に仕えた譜代大名で、高槻藩の藩祖は永井直清です。直清は尚勝の次男で、長男の尚政の家系は1680年から大和の新庄藩として続き、明治維新を迎えました。尚政は幕府草創期に老中を務めていますが、その後は一族に2名、若年寄に就任した人がいるぐらいで、幕政の枢機には関わらなかったようですが、まあ京・大坂間の要地を恙なく治めたということが何よりの貢献であったのかも知れません。
 高槻の大名といえば、高山右近が知られていますが、近世の高槻はその殆どが永井氏の治世下にありました。右近といえば、近代のキリスト教徒達によって持ち上げられた上に持ち上げられ、「白皙にして優しげな苦悩する青年吉利支丹大名」のイメージが出来上がっていますが、高槻の寺や神社を随分と焼いたので、近世を通じて地元での評判はむしろ悪かったように思われます。考えてみれば、豊臣秀吉の禁令に逆らい、明石藩(当時)をポンと差し出す等ということは原理主義者でないとできませんね。家臣も全部失業する訳ですし。
 右近はともかく、江戸期の高槻藩の藩祖である直清は随分と領民にも慕われたようです。古くからあった野見神社の境内に永井神社が創られ、今も神として斎かれています。高槻市のしろあと歴史館でこの直清の特別展をやっているということで、高槻城界隈を少し歩きました。

 本日は城跡に向かって東から迫ります。トップの写真は春日町にある旧家と樹木です。八幡町に入ったところに「都加母止塚」なるもの。その時は、これは調べたらすぐ分かると油断していましたから、近所の人に話を聞くこともしませんでした。



 ところが、アテにしていた高槻市教育委員会の石ぶみの本にも載っていないし、摂津名所図会に記載があるらしいのですが、詳しい記事は無いようで、結局何なのかさっぱり分かりません。ただ今、鋭意調査中であります。師匠が(爆)。

 経過 ただ今師匠は、八面六臂の大活躍で足跡塚等を調べて下さっています。高槻市教委の各位に当たり、さらに神戸大学の山口誓子記念館にまで行って、摂津名所図会(都加母止塚の記載はあるが説明が一切無い。)の解題などに当たって下さっているのですが、戦況は「苦戦」の一語です。ただ、名所図会に併記されている足跡塚に関しては、都加母止塚とは異なり、何らかのものが残っているようです。「だいだらぼっち?」と一言、気になる言もありますが、さてどうなることでしょう。小生も近く今一度都加母止塚に行って、聞き込んでみたいと思います。



 八幡大神宮は随分と古くから鎮座されていたようです。この神社も右近によって焼かれています。今のイメージはともかく、領民にとっては「迷惑なヤツ」であったことは間違いないでしょう。斎藤茂太氏が「豆腐のごとく」というエッセイの中で自分の母のことを精神病理学的に分析していますが、どうもそんな感じがつきまといます。斎藤輝子さん、人から服を借りて、「この服はノースリーブの方がいい」と思うとハサミでジョキジョキと袖を切ってしまって、その跡をかがることもせず「袖を切っておいてあげたわよ。」とそのまま返したそうです。



 高槻市は市中の古木を指定して大事にしているのですが、この近辺では枯死した木までもが保存されています。上の写真の木はちゃんと生きていますね。



 高槻城の正門跡です。藩主参勤の折には、ここから行列が出て北に向かい、西国街道を「下にい、下に」と進みました。京中には入らず、伏見から山科を経て大津に入ったのでしょうね。



 しろあと歴史館は、高槻市の文化行政のレベルが相当に高いものであることを示しています。今回の展示の目録もなかなか充実しています。キュレーターの解説を聞くことができたのもラッキーでした。館員の応対も本当に丁重です。高槻藩のシンボルカラーが「赤と白」だったということなどは初めて知りました。甲冑や日本刀は勿論、家臣の家に伝わった火事場装束なども立派なものです。


三の丸付近

 歴史館のすぐ東が野見神社、野見宿禰(菅原道真の先祖)を祀ります。その境内を2分して永井神社。境内に永井先公遺愛碑が建てられています。永井直清は領内の文化行政にも心を配り、伊勢廟や能因法師墳に石碑を建てたのもこの人です。やはり有力大名ですね。これらの碑の撰文は林羅山ですから。高槻市以外でも島本町の「待宵小侍従の碑」や伏見の鳥羽地蔵内の戀塚(袈裟御前を顕彰)を建立しています。今われわれが「へぇー」とか「ホォー」とか言いながら、これらの史跡を巡っているのを「おー、来よった。来よった。」と喜んで見ていてくれているのでしょう。





 これはどうも江戸時代のおたまや(霊廟)に共通する建築のように見えます。日光の陽明門などは装飾がうるさすぎて、京大の会田雄次博士などは「かたわの小人」と表現していましたね。所謂差別用語2つの連語。それに比べれば、この門は随分とスッキリしています。






野見神社本殿

 神社の境内を出たところに藤井竹外の屋敷跡の碑、幕末の漢詩作家で、頼山陽の弟子です。今は殆ど埋もれてしまっていますが、往時は「絶句竹外」といわれ、その芳野懐古と題した七言絶句が特に有名だったということです。確かにこの詩を読むと吉野に行って古寺の坊さんに「落下深き処に南朝を説く」ということをしてもらいたいなあという気になります。但し、今の吉野は「山寺春を尋ぬれば春寂寥」とはいきませんね。桜の満開時はモノスゴイ人ですし、食い物屋はボッタクルし。近鉄阿部野橋から特急に乗ることができず、満員の急行で立ったまま吉野に行って以来、桜の季節に吉野に行くことは無くなりました。車で行くのも自殺行為。それよりも今は京北(京都市右京区京北)ですね。光厳院がいらっしゃるし、落花深き処で北朝を説きましょう。オット脱線。

芳野懐古

古陵の松柏天飈に吼ゆ
山寺春を尋ぬれば春寂寥
眉雪の老僧時に帚を輟め
落花深き処南朝を説く



 天草四郎のイメージも入っているのではないかと思われる右近像が立っているのは高槻カトリック教会。大友宗麟といい高山右近といい、教会が聖人扱いする大名は普通の感覚から考えるといずれも「問題あり!」です。少なくとも高槻の領民は右近が去って「やれやれ」という思いをしたことは確かでしょう。バテレンの坊さん、怒るかな?




右近顕彰碑

 ここまで来れば、阪急高槻市駅が目の前です。居酒屋なじみ野の「おかえりなさーい」という声が外にまで漏れています。小生も入って、そう言ってもらうことにします。徘徊の跡で「するめの天麩羅」が食えるのは大いなる喜びです。
 ウロウロと歩くと何らかの宿題ができてしまうものですが、今回の「都加母止塚」は大きな宿題です。名所図会(青地で記しましたように既に師匠は現物を見られたとのこと)では往時は横に「足跡塚」もあったとのこと。師匠、頑張って下さいね(爆)。


4 コメント

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近くて遠き高槻市。 (道草)
2012-06-04 17:13:15
高山右近の名は耳にしたことがありますが(良いほうで)、永井氏云々は聞いたことがありません。にも拘わらず後者の方がマトモな人材とか。大友宗麟も似たり寄ったりですか。こうなりますと、歴史とは何ぞやの感益々深まるのみです。
そもそも、足跡や手を突いた後にに湖が出来たなどと、だいだらぼっちとは何者なのでしょう。地震か何かなのでしょうか。

それにしても、斎藤輝子はマトモではないです。息子達は医者かどうか知りませんが、まぁ、医者が総て正常とは限りませんが。
高槻はかなり近い近郊ですが、これまではNの本拠地であるのと例の氷室関係しか知りませんでした。それが、gunkanatagoさん(+師匠)のお陰で徐々に親近感が増して来ました。するめの天麩羅もちゃんと有るみたいですし・・・。

薄皮を少しずつ剥いで五月晴れ(道草)
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いちどじっくりと徘徊を (gunkanatago)
2012-06-04 17:54:11
 道草様、コメントをありがとうございます。高槻は富田方面の徘徊にご参加いただきましたが、高槻市駅周辺はまだですね。城跡から始めて古曽部の古い集落や伊勢廟を巡りましょうか?最後は「おかえりなさーい」の店で日本酒(かなり充実してると思います)とスルメの天麩羅。
 あの斎藤茂吉にそのような妻がいたというのは何かおもしろいです。茂太氏も北杜夫氏も鬼籍に入ってしまいましたが。高山右近、大友宗麟、見方を変えたら気違いです。カトリックから見たら聖人でしょうが。八木の内藤如安のみ「まとも」ということにしておきましょう(笑)。
 だいだらぼっちは伝説の巨人ですね。多分足跡塚というのは大きな足跡が残っていたのだろうと思われます。最後の最後に悲劇がおこったエキスポランドのジェットコースター「ダイダラザウルス」はこのだいだらぼっちから取った命名でした。
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殿様もいろいろ (mfujino)
2012-06-07 20:26:26
gunkanatagoさん、高槻ですか、永井氏ねえ、、全然知りませんでした(*_*)でもこう言った話を聞けるのがこのブログの楽しさです。
大名ってまあサラリーマンみたいですね。領主は領民の生活を預かる大変な役目を負っていたのでしょうが、浅野内匠頭の様な胆略思想のお殿様を持てば部下は大変だった。逆に歴史的事件には登場しないが善政を敷いたお殿様も数多くいたことでしょう。
美山の島城に登らねばなりませんが、その為には川勝氏のことを調べなくては、と思っていますが、なかなか資料が無くて弱っています。我が同級生に教えを乞わないといけませんが、かれはどうもオープンでは無くて、さてどう扉を開けるか、、(^_・)
今長老ガ岳行きに向けて色々準備していますが、東さんからいろいろ盗んでおります。新しい発見があればまた書こうと思っています。長老、仏主峠と言えば美山と和知側両方からアプローチしないといけないし、同じ事は美山の知井の話をしようとすれば名田庄側からも見なければなりませんし、大変です。まあこれが峠を語る楽しさでもあるのですが。

高槻からえらい山奥に入った話に逸れてしまいました。乞容赦。
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美山の島城 (gunkanatago)
2012-06-08 15:40:48
 mfujino様、コメントをありがとうございます。土地の百姓にしてみれば、年貢がやすくて水の便の心配をしてくれる殿様が一番と言うところでしょうね。高槻藩は番田井路の開削などによる新田開発も行っています。
 川勝氏、幕府ではなかなか偉いさんになっていますね。陣屋はどこにあったのかな等と思っています。島城もボチボチ登りどきという感じがしますね。
 長老の準備、お疲れ様です。お紺さんの話をあのように知った上は、本当に仏主峠は越えてみたいところです。それでも、「往復型」の登山ではなく、「貫通型」を選ぶと車の待機場所も2つ必要だし、本当に大変ですね。
 他にも東さんからどんどんと引き出して下さいね。いろいろな話を聞かせていただけるのを楽しみにしております。
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