花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

八尾史跡漫遊2

2012年06月11日 | 徘徊情報・河内国
 師匠主催による八尾の徘徊、本日は近鉄大阪線高安駅からの出発です。待ち合わせまで少し時間があったので、駅の周辺をブラブラしました。以前に生駒山地の山沿いをブラブラした時に、この駅の辺りにも立ち寄っているはずなのですが、何も覚えていません。まあ、記憶力の低下を嘆くよりも新鮮な気持ちでウロウロできることを喜びましょう。高安といえば、伊勢物語の「高安の女」、山沿いには業平道も設定されています。ただ、高安の女にとっては結局は悲恋物語です。業平君は結局は幼馴染みを選んだ訳ですな。


駅前の商店街

 本日の徘徊は、この近辺の和菓子店に蕎麦を食いに行くことから始まります。師匠が店の人から聞いたところによりますと、菓子職人を蕎麦打ちの修行に出して、このサービスを始めたとのこと。善哉、善哉。
 その途中で通る曙川中学校、円形校舎を「珍しなー」と見ていたら、その隣の南山本小学校にも似たような校舎がありました。この辺りでこういう風に校舎を建てることが流行したことがあるのでしょうね。


曙川中学校


南山本小学校

 和菓子の名店である桃林堂までは20分ぐらい、昔はその名を背負った桃のゼリーを八尾の西武までよく買いに来ました。その菓子は今も健在です。以前は八尾駅に近い古民家が本店でした。夏の暑い日に、その店に飛び込み、古民家特有のヒヤーとした空気の中で店員が奨めてくれた水ようかんを食べたのは何年前のことでしょうか。その時の店員の応対が素晴らしく、一度にファンとなって何度も西武に足を運んだものです。
 その後、この店は2つに割れて、先だって古民家の方を訪ねたところ、5時頃までには行きますと予約の電話を入れ、実際には4時過ぎに到着しているのに、しっかり閉店していたという笑い話があり、もう八尾ではあのようなゆったりとした時間は二度と持てぬのかな等と思っていました(店が2つに割れたことを知らなんだ)。
 しかるに、師匠が八尾を威力偵察中に「桃林堂で蕎麦を食うたでー。」と連絡を下さり、「なんぢゃそれ?」とよく調べてみると、知る人ぞ知る五智菓や小鯛焼など、以前の銘菓は全てこちらの方に移行していたことを知り、欣喜雀躍した訳であります。



 広い敷地の中には木々がいっぱい植わっています。下の花はきちんと名も記されていたのですが、メモをする習慣を持たぬ身、すっかり忘れてしまいました。本日は、他に予約の客も無いということで座敷の部屋を用意してくれました。





 あのすばらしい応接もしっかりと生きていました。そば湯を運んでくるとき等にも何度も何度もやけどをせぬように気遣ってくれます。蕎麦も大変ウマイ!何よりもよくある蕎麦屋のオッサンの御託を聞かなくていいのは素晴らしい。和菓子は蒸したてのホヤホヤでした。師匠のおかげで老後の楽しみが1つ増えちゃった(爆)。ここは庭先で好きな和菓子を食うこともできます。あとは酒類の提供ぢゃな。小生は和菓子で酒が飲めまっせー。







 さて、蕎麦も食うたし、さあ帰ろうかというところですが、徘徊はこれから、師匠曰く「この付近の式内社の濃密なる分布を見るべし。」と。途中にある医院の軒先にツバメの子、何と5羽もいます。最初は医院のビル全体がピンクなのを見て、何という悪趣味と思ったのですが、玄関にツバメが巣を造っているところをみると素晴らしい先生なのでしょう。



 式内社の1つ目は阪合神社、御祭神は瓊瓊杵尊(天孫降臨の天孫)と、その子である彦火火出見尊(山幸彦)、祭祀を行っていた小阪合遺跡に住んでいた人たちは大王家と同族であることを意識していたのでしょう。





 真宗の寺の屋根に上がる花やシャチに皆さんワイワイ言いながら歩きます。この寺、道に面した側が開いていたら道場形式で面白いのになあと思いました。



 今東光が長年にわたって住職を勤めた天台院、河内の人間を無学文盲のように扱って悪いヤツチャと思いますが、まあ「しゃあないボーズやな」と憎みきれません。大江健三郎なんかの方が遥かに陰険でいやらしい。瀬戸内某尼は東光氏にとっては不肖の弟子ですね。
 ここでは、ダックスフントがワンワンと出迎えてくれました。ワンコはいつもいつも可愛いのう。写真を撮ればよかった。






文学碑

 近鉄の山本駅前を通ります。まだ、一駅しか歩いていないことになります。駅前には八坂神社。



 この付近から真っ直ぐに北に向かって流れる恩智川と道路に沿ってささやかに流れる玉串川が江戸時代初期のつけ替え前の大和川の名残です。これだけの地域が干しあがったら随分と新田ができたというのも納得できます。




山本八幡宮



 ほー、山本新田は住友かぁ、ほんで鴻池新田は鴻池。この近辺に力石が移されています。1つ80キロから100キロの巨大なものですが、この石の横におられた方に「昨年12月にこの石が枠の外に出されていた事件があり、以後は鎖でつないだのだ。」と教えていただきました。写真では見えませんが、鎖でつないだ力石など珍しいのでワイワイ言ってたら、そのように教えて下さいました。



 ここからは、玉串川沿いにずーっと北上します。カサをかぶらせてもらっているお地蔵さん、かいらしいですね。



 山本高校前で東に折れると御野県主神社、やはり式内社です。その境内には高橋是清撰文の碑や旧大和川の堤防が残されています。神池にはかいらしい鴨やドデカイ鯉がいました。




旧大和川堤防





 再び玉串川の方に戻ります。川はとうとうこんなに狭くなってしまいました。その近くにいつもとは異なる仁丹の住所表示、随分新しく見えますが、50年以上は経っているとのこと。師匠はここのご主人とも話をされたそうですが、自分が生きている限りはこの表示を守るとのこと。ありがたい話です。そのご主人は、住所表示を求めて幾千里の師匠をどう見られたのでしょうね。





 八尾には3つの寺内町があります。このうち、久宝寺寺内と八尾寺内とは前回に訪れました。残る一つが萱振寺内です。近づいていくと環濠、もしくはそのなれの果てかと思われるものが見られます。いずれも明治期に拡充されているそうです。





 萱振寺内町の中心は恵光寺、門の近くには蓮如上人もおられます。ここでも寺の方や集まっていたボーイスカウト関係の方が気持ちよく声をかけて下さいました。この寺の門前の道は河内街道です。「寺はとにかく開いてんといかん。」師匠の言であります。




蓮如上人



 随分と社域が狭くなってしまっていますが、加津良神社も式内社です。御祭神は牛頭天王、この神社の門前で萱の松明を振って神事を行ったのが萱振の語源ということです。




右 若江・松原等とある道標

 八尾北高校の中に萱振1号墳、幸い高校の門扉は開いていました。校舎側から見るとナンノコッチャと思いますが、逆から見ると成る程方墳です。今日は、グラウンドで社会人の方が野球をされていたので入ることができましたが、平生は入れません。となると、せめて外から見えるようにしておくべきでは。


前からー


後ろからー

 その西側に高塚地蔵、正安3年(1301)の銘があるといいますから、並の古さではありません。700年以上も人々の祈りを受け止めてこられた地蔵尊も摩滅が甚だしい。お堂には電球もセットされ、お地蔵さんの姿もよく見えます。





 西郡天神社の手水場の横には巨大な塔の心礎があります。この辺りには巨大な寺院があったそうです。







 埋蔵文化財調査センターの前を通ります。本日は特別に開館しているということで、キュレーターの方の丁寧な説明を聞くことができました。古代に於いては八尾が巨大な河内湖の沿岸部で、現在の東大阪市などは湖の底だったそうです。八尾に濃密にその当時の遺跡が集中していることが理解できます。



 この辺りまで来ると、何といっても大坂夏の陣で戦死した木村重成についての伝承です。先ずは墓参り。



 ところが、道路を隔てた墓地にある木村重成に討ち取られた山口重信の墓はものすごく立派で、「???」でしたが、山口氏が譜代大名と知って謎が解けました。写真はありませんが、重信の墓の撰文は林羅山、山口一族にしてみれば重信がここで戦死してくれた結果、後代の一族は安穏に生きていくことができる。ところで、羅山、これはもう完全にアルバイトをしていますね。
 十三峠への分岐点を越えて進むと若江鏡神社、やはり式内社です。ウー、雷神の手形石というのを見るのを忘れたー。神功皇后の手形を埋めたという手形石は、宝篋印塔でした。ということはそんなに古いものではない。





 近くに木村重成堂と木村重成陣所跡、もうこうなると単に大坂夏の陣で戦死した武将という事実を超えて、何か天下統一を果たした武将という感じです。確か徳川家康が重成の首実検に臨み、髪に香をたきこめたその覚悟を嘆賞したという話が残っていましたが、血や泥で汚れた首は徹底的に洗って化粧を施してから実検に供します(特に大将級の首はそうする)から、これは作り話でしょう。首を取り立てのホヤホヤで見た現地指揮官がそう感じたというのならば話は別ですが。木村重成、そういえば中之島公園内にも立派な記功碑がありましたね。





 しばらく行くと若江城跡、「城跡」と言えるものは何も残っていません。河内に於いては高屋城と並んで、守護所となっていた城ですから、この城の話を始めるとキリもないことになります。ここでは最後の城主は三好長慶の養子である義継で、1573年に織田信長に攻められて、ここで自害していることだけを記しておきましょう。先祖代々随分と公方様にいじめられたのに、最後は室町将軍に殉じました。と言っても足利義昭は生き延びたけれども。この三好氏の選択、今現在の目から見れば「何を馬鹿なことをやっているんだ」というところですが、当時は武田信玄も上杉謙信も存命です。毛利氏の水軍も強いし、もちろん浅井・朝倉もいる。織田信長の覇権が確立していた訳ではないので、義継の選択もむべなるかなというところです。ただ、場所が悪かった。四国に帰って反抗していたら、生き延びることができたかも。といっても、四国を実効支配している訳ではないだろうから、帰ることもできなかったかな。後ろのキツネの塚も何となく気になりますね。





 道路を挟んで、美女堂氏の遺愛碑、美女堂氏はかの源満仲の息源賢(美女丸)の子孫を公言していたようですね。立派な僧侶になったはずだし、平安時代のこの時期には僧侶の妻帯は禁止されていましたから、美女丸云々は作り話かも知れません。それでも源氏と河内は深い関係にありますから、河内源氏のうちの誰かの子孫なのでしょう。まあ勿論、僧の妻帯禁止は建前で、実態としては随分と妻帯していたようです。まあ、堅いことをいいなさんなというところでしょう。こやつをあまり厳格に適用するとカトリックの司祭にしばしば見られる倒錯現象がおこります。そういえば本朝のスチュワーデスを殺してイタリアに逃げ帰った悪いヤツもいましたね。閑話休題、駅の近くには、山口重信に討ち取られた飯島三郎右衛門(木村重成家来)の墓もありました。




 さて、若江岩田から京橋に赴き大団円はイカ焼きの「やまげん」、イカ焼きの堅焼き、女性陣には不評でしたね。となるとここのソフトなイカ焼きは、オリジナルですから、世間のイカ焼きは総じて不評なのかも。やまげんのイカ焼きは本当にウマイけれども、ジャンルとしての「イカ焼き」はまだまだ研究の余地ありというところでしょう。師匠のみ、酒のアテとしての効用を強調されていましたね(爆)。

 

 


8 コメント

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Unknown (mfujino)
2012-06-12 00:52:25
gunkanatagoさん、師匠はだいぶ八尾に入れ込んでおられる様ですね。今回のコースを何回下見にこられたのでしょうかしら。コース設定をするのも大変なことだと想像出来ますが、ご本人はこれが一番楽しいのかも知れませんね。この界隈を徘徊するにはやはり歴史に詳しい人と一緒でないと楽しめないのではとも思います。
パソコンでカシミールの地図を見てたら木村重成と山口重信の墓がちゃんと記されていますね。大坂夏の陣で家康軍を迎え打ちした武将の史蹟はもう少し南の柏原や道明寺のあたりなのでしょうね。
真田幸村が九度山から紀見峠を越えてこの辺りに到着した頃はこの一体はまだ湖というか湿地帯だったと思います。だから八尾に古墳があるとは思ってもみませんでした。でも高安の辺りは信貴山の山裾に近いですよね。弓削道鏡関連のものは無いのかしら?
南海地震が起こればこの辺りまで津波が押し寄せてくることでしょう。昔の道が通っていたところや立派な城が築かれていた所は安全だろうと先人の知恵から学ぶべきでしょうね。あれ、ちょっと脱線してしまいました。
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やぁおどろきの八尾の土地。 (道草)
2012-06-12 10:11:43
高安の女となれば〝君来むと言ひし夜ごとに過ぎぬれば頼まぬものの恋ひつつぞ経る〟のいじらしい物語を思い出しますが、現在の高安の女はどうでしょうか・・・。それにしても、gunkanatagoさんは和菓子で酒の両刀使いの名人だったとは。御薄に和菓子の小生は度量が狭過ぎるのかも知れません。

この花は石楠花です。それも、純粋の国産種です。最近は西洋石楠花が蔓延していますが、どうも風情が感じられません。さすがは、天下の八尾の老舗の庭です。
燕が巣を造る場所は蛇などの外敵を防ぎ易い条件の所で、家主の性格や人格とは無関係みたいです。そうでないと、我が家の軒端に巣を造ってくれない理由が分かりません・・・。

八尾と云えば今坊主が浮かびますが、スチュワーデス殺人の伊司祭に比べたら愛嬌があると言うものです。弟子の瀬戸内尼は、もうそろそろ御免とも申したくなりますけど。
gunkanatagoさんの怨敵の大江の作品では、「万延元年のフットボール」が一番面白かった記憶があります。内容は殆ど忘れました。

動物を愛護する人は、性格も人格も優れているのでしょう。gunkanatagoさん、ミチを誤りましたネ。人間のガキんちょの相手などではなく、獣医か愛護私設の経営者になられたらよかったのに。
それにしても八尾には力持ちが多いのですか。100キロの石を弄ぶのですから。朝吉も驚きでしょう。片や、お地蔵さんに笠を被せる優しい人情もあるみたいですけど。
玉串川は知りませんが、大和川はかつては武庫川と争って、関西で1~2番目に汚い川と言われていました。今はどうでしょうか。それにしましても横書きの仁丹住所表示を初めて見ました。これは、京都の縦長の勝ちですネ。デザインは仁丹か住民なのか知りませんが。

八尾の土地は相当な歴史を有する地域だと、よく分かりました。1000年の流れの中では木村・山口・三好などはほんのひと時の存在なのでしょうし、蓮如などは掠めて通っただけにしか過ぎないのかも知れません。

この日の最後は、定番の烏賊天ではなくて烏賊焼だったのですか。師匠の齒は頗るお丈夫な様で何よりです。

烏賊焼きは堅焼き柔焼き梅雨近し(道草)
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河内湖 (gunkanatago)
2012-06-12 15:23:46
 mfujino様、コメントをありがとうございます。お書きになっていただいたように、徘徊は「下見」も楽しいものですね。下見だからといって仕上げの酒場を省略することはないですから(爆)。
 八尾の埋文センターの方の説明によると、八尾が古代河内湖の岸辺であったそうで、東大阪は当時は湖の底だったそうです。木村重成の墓の辺りが境目ですね。だから大きな古墳は八尾にはあるけれど、東大阪には無いそうです。
 大坂夏の陣は、城にこもることができないので、豊臣方はやむなく出撃したのですが、一隊は道明寺方面へ、一隊は若江方面に向かいました。道明寺では後藤又兵衛が戦死していますね。両方面とも結局は敗れてしまったので、最後の真田幸村による天王寺方面への攻撃につながっていくようです。
 弓削道鏡関係は八尾市南部にたくさんあります。由義宮跡は拍子抜けでしたが、またボチボチと訪ねていこうと思います。今年の夏は京北関係の盆踊りも是非とも見に行きたいのですが、この八尾の盆踊りも興味津々です。
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ありがとうございます。 (gunkanatago)
2012-06-12 15:42:06
 道草様、コメントをありがとうございます。石楠花の純粋種とのこと、ご教示ありがとうございます。小生などは平生「石楠花尾根が~」などと言っている癖に肝心のその花の区別もつかないということで恥ずかしく思います。「これが石楠花ね。」と教えてもらったときはいいのですが、次に見たときにはもう何か分からない。
 仁丹の住居表示、小生もこのタイプのものは初めて見ました。仁丹本社が空襲にやられていますから、詳しいことは今ひとつ解らないようです。南河内には、何かしら懐かしく感じるものが多く残っていますね。
 大和川は今は随分ときれいになりました。あのころは、奈良盆地の汚水を全部まとめて引き受けていたので汚かったのですね。奈良県側での下水処理施設の整備が進んでいるようです。堺から大阪に歩いたときにも大和川の最下流の橋を渡りましたが、「汚い」感じはありませんでした。
 多忙にしておられるので、なかなか機会がありませんが、河内方面の徘徊に是非一度御光来下さい。「やまげん」のトイレ、ささ舟様もかりんとう様も見学されましたよ(笑)。
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ホンシャクナゲ (mfujino)
2012-06-13 00:21:46
gunkanatagoさん、花の名前ですが、6枚目の写真の花のことですよね。
これはホンシャクナゲではないと思います。
例えば我がブログの5月1日「山が微笑み始めた」に載せた写真やgoogleで画像検索して見てください。花弁の表情がまるで違います。また葉が廣いですね。
では何の花かって?私にそれを聞くのは聞く人を間違っています(^_・)生き植物図鑑さんに聞いてみてください。

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おー、そうじゃ! (gunkanatago)
2012-06-13 18:13:20
 mfujino様、生きた植物図鑑、最近は仕事が忙しいのと職業病とも言える膝の故障(柔道5段)とで徘徊にしばらくご無沙汰でしたから、ついつい、忘れていました(爆)。早速質問してみることにしますね。
 石楠花は祖父谷峠から狼峠への林道に沿っても随分咲いていたように思います。山で指摘されて「あー、そうか!」と思うのに、里に出てくるともう忘れていますね。 

 ということで問い合わせたら、即返事をいただきました。

 おそらく、花の形から(カルミア)だと思います。
 アメリカしゃくなげとも言って、しゃくなげの類似種です

ということです。お世話をかけました。
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石楠花はアメリカにもありご同輩。 (道草)
2012-06-14 18:22:17
カルミアでしたか。石楠花(アメリカではそう呼んでいるとは申せ)と混同して申し訳ありません。
gunkanatagoさんなら、目を瞑っていても緑一と呉春、長老と初日の出、烏賊天と海老天の区別は付くでしょうけど、どうも耄碌が始まりました・・・。深謝です。
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いえいえ (gunkanatago)
2012-06-15 14:45:31
 道草様、同じ石楠花の仲間ですね。小生など、何度見ても石楠花と他の花の区別がつきません。あ、もちろん、石楠花とカーネーションとか石楠花とスミレとかだったら区別がつきますよ。
 いまここで、覚えても、次に見たときに言えるかどうか怪しいです。人の名前とか(これも最近怪しいですが)と入る場所が違うようですね。
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