現在は京都市の右京区に編入されていますが、かつての北桑田郡京北町の中心部が「周山」です。「しゅうざん」というこの響きは地名としては珍しいと思われますが、明智光秀の命名とされます。支那古代史に於いて、殷を滅ぼした周は「岐山」のふもとに興りました。織田信長が稲葉山城(岐阜城)を攻略した後に、この地に新しく名を付けようということになり、新興の国家から中原の覇者となった周の故事にちなんで岐阜と名付けたことは知られていますが、光秀もまた、この故事により周山の雅名を冒したのであります。
勿論、信長の意としては麾下の一武将があたかも天下を欲するが如き地名を付けるということを許すとは思えませんから、寧ろこの命名は信長の意思であり、周山城の築城も信長の命を受けて光秀が実行したものではないかと思われます。少なくとも、この広大な山城の跡を見るとそういう気がします。光秀が信長を殷の紂王、自身を周の武王に見立て、いずれは信長を掃討する気持ちを持って周山の名を付けたという話は、光秀が本能寺の変を起こした結果から加上されたものでしょう。
周山城天守跡
1579年(天正7年)2月28日、明智光秀は丹波攻略戦の仕上げのために亀山(現在の亀岡)に出陣します。信長の武将達は自らの所轄するところがあっても、喫緊の課題のある場合は他の武将の救援に廻ったりしますから、1576年に八上城に波多野秀治が籠もってからも一挙に城攻めとはいかなかったのです。
さすがにこの時には、満を持していたものとみえて、諸将の救援も得て、5月5日には氷上城の波多野宗員父子を自殺させ、6月2日には遂に八上城に波多野秀治兄弟を捕縛、安土に送っています。丹波の反信長勢力の首魁を倒した後は掃討戦として、7月19日には宇津城を落とし、残党が籠もったと考えられる鬼城(鬼ヶ嶽城・亀岡市千歳町)を攻め、7月24日には山国荘を旧に復した恩賞を朝廷から賜っています。
さらに8月9日には黒井城に赤井直照を降し、10月24日には信長に対して丹波・丹後の平定を報告しています。翌年の8月2日に丹波は正式に光秀の領国となりました。光秀は最初は宇津城に手を入れましたが、やがて周山城を築いたため宇津城は廃されました。1581年の4月17日に宇津城の井戸を掘るために吉田兼見に対しての派遣を要請、18日には亀山の普請人足を挑発していますが、ここでいう宇津城は周山城のことでしょう。となると周山城の築城はちょうどこの頃から始まったものと考えられます。この段階では「周山」という名が都に伝わっていた形跡はありません。本能寺の変は1582年の6月ですから、おおよそ1年余りの間に城はかなり整備されたものと考えられます。
大手門跡
さて、よく晴れた秋空の下、師匠を周山城に案内してきました。農協前の登山口から30分、天守台の跡まで来たときに既に師匠は「思てたよりはるかに大きい城やなあ」と感心されています。この付近の尾根という尾根は削平されて曲輪も立てられていたものとみえて、立派な石垣も残っています。
けれども、この段階では我々はまだ本当の広大さを知らなかったし、ちょっとした盛り土の持つ意味なども全く知らずにどんどんと尾根道を歩んでいました。ところどころにトップの写真にある山シャクヤクの実がなっています。山に入って「花泥棒」をする諸君、来年のシーズンには多くの人がここをパトロールすることになったからね。泥棒なんぞをして悪業を積まぬように。
本丸にいたときにmfujino様から電話が入りました。「何してるー。」「周山城の天守跡です。」「西の砦まできいひんか?」。ちょうど30名ほどの方々を黒尾山に案内されていたのです。山城研究家も同行しているということで、嬉しいことに現地にてお話を拝聴させてもらうこととなりました。
堀切
西の砦までは十分余り、黒尾林道に出たところでキョロキョロしていると、一台のトラックが林道を疾走してきます。停車後に降りてこられたのは京北トレイルの整備責任者の方です。ここで、あけびや夏ハゼの実を食べさせてもらいながら、ご一同を待ちました。全身が体力の塊のような方で、後で一緒に歩き始めたときもナタを振るいながら、登山者が迷わぬように、また史跡を壊さぬように、しっかりと道を造っておられました。
ご一同と合流後は、もう一度天守の方にいっしょに引き返しましたが、往路にはただの山道であったものが、復路は研究家の教えを受けて虎口、おり、門跡等々城の施設がありありと浮かんできます。師匠曰く「眼がてきてはるわ」と。このような勉強の機会を与えて頂き、mfujino様には感謝の一言であります。研究家の方の解説も親切で分かりやすく、この方の書かれた論文なども読んでみたいと思いました。
井戸跡(兼見に派遣された「山」が掘った?)
残念ながら小生の拙い写真術では、帰宅後に見たら何が門跡で何が何なのか分からなくなっているものもだいぶありました。現地にいるときは本当に門が見えたような気がしたものです。
さて、周山城から下山(下城)後は、皆さんと別れて「周山ビール」です。いつもの地ビールに加えて、羽田酒造が市内の料亭に卸している日本酒を呑みました。本日は、塩で食う「マイタケの天ぷら」と「とうがらしのたいたんアボガト入り」が最高でした。周山で周山城を見て周山ビール、もう皆が知っていて当然なのですが、長坂越に至る途中の「しょうざん」と間違える人が多いのは歯がゆいことであります。
飲み過ぎたためか(バスに乗る直前に食うた亀屋さんのソフトクリームがとどめかな)、帰路のJRバスの中で小便がしたくなり、師匠と別れて一人高雄学校前で降りました。その後は、真っ暗な高雄を一人でウロウロ。例の女占い師の家などもつぶさに観察しましたよ。広大です。
何とかかんとか京都駅近くまではたどりつき、リド飲食街。本日は開いている店は一軒だけでした。ここのトイレの前の水道は、いつ見てもしびれさせてくれます。何と麗しいんだ!手を出すと水が出てくる最近のヤツは人をバカにしている感じです。
建物越しに見る京都タワーは、何か「お前はほんまにアホやのう」と言っているようです。おかしいな、周山城では思いきり勉強していたのに、高雄で降りてからがチョット変でした。不思議なこともあったのですが、それはまた今度のお楽しみということで。
勿論、信長の意としては麾下の一武将があたかも天下を欲するが如き地名を付けるということを許すとは思えませんから、寧ろこの命名は信長の意思であり、周山城の築城も信長の命を受けて光秀が実行したものではないかと思われます。少なくとも、この広大な山城の跡を見るとそういう気がします。光秀が信長を殷の紂王、自身を周の武王に見立て、いずれは信長を掃討する気持ちを持って周山の名を付けたという話は、光秀が本能寺の変を起こした結果から加上されたものでしょう。
周山城天守跡
1579年(天正7年)2月28日、明智光秀は丹波攻略戦の仕上げのために亀山(現在の亀岡)に出陣します。信長の武将達は自らの所轄するところがあっても、喫緊の課題のある場合は他の武将の救援に廻ったりしますから、1576年に八上城に波多野秀治が籠もってからも一挙に城攻めとはいかなかったのです。
さすがにこの時には、満を持していたものとみえて、諸将の救援も得て、5月5日には氷上城の波多野宗員父子を自殺させ、6月2日には遂に八上城に波多野秀治兄弟を捕縛、安土に送っています。丹波の反信長勢力の首魁を倒した後は掃討戦として、7月19日には宇津城を落とし、残党が籠もったと考えられる鬼城(鬼ヶ嶽城・亀岡市千歳町)を攻め、7月24日には山国荘を旧に復した恩賞を朝廷から賜っています。
さらに8月9日には黒井城に赤井直照を降し、10月24日には信長に対して丹波・丹後の平定を報告しています。翌年の8月2日に丹波は正式に光秀の領国となりました。光秀は最初は宇津城に手を入れましたが、やがて周山城を築いたため宇津城は廃されました。1581年の4月17日に宇津城の井戸を掘るために吉田兼見に対しての派遣を要請、18日には亀山の普請人足を挑発していますが、ここでいう宇津城は周山城のことでしょう。となると周山城の築城はちょうどこの頃から始まったものと考えられます。この段階では「周山」という名が都に伝わっていた形跡はありません。本能寺の変は1582年の6月ですから、おおよそ1年余りの間に城はかなり整備されたものと考えられます。
大手門跡
さて、よく晴れた秋空の下、師匠を周山城に案内してきました。農協前の登山口から30分、天守台の跡まで来たときに既に師匠は「思てたよりはるかに大きい城やなあ」と感心されています。この付近の尾根という尾根は削平されて曲輪も立てられていたものとみえて、立派な石垣も残っています。
けれども、この段階では我々はまだ本当の広大さを知らなかったし、ちょっとした盛り土の持つ意味なども全く知らずにどんどんと尾根道を歩んでいました。ところどころにトップの写真にある山シャクヤクの実がなっています。山に入って「花泥棒」をする諸君、来年のシーズンには多くの人がここをパトロールすることになったからね。泥棒なんぞをして悪業を積まぬように。
本丸にいたときにmfujino様から電話が入りました。「何してるー。」「周山城の天守跡です。」「西の砦まできいひんか?」。ちょうど30名ほどの方々を黒尾山に案内されていたのです。山城研究家も同行しているということで、嬉しいことに現地にてお話を拝聴させてもらうこととなりました。
堀切
西の砦までは十分余り、黒尾林道に出たところでキョロキョロしていると、一台のトラックが林道を疾走してきます。停車後に降りてこられたのは京北トレイルの整備責任者の方です。ここで、あけびや夏ハゼの実を食べさせてもらいながら、ご一同を待ちました。全身が体力の塊のような方で、後で一緒に歩き始めたときもナタを振るいながら、登山者が迷わぬように、また史跡を壊さぬように、しっかりと道を造っておられました。
ご一同と合流後は、もう一度天守の方にいっしょに引き返しましたが、往路にはただの山道であったものが、復路は研究家の教えを受けて虎口、おり、門跡等々城の施設がありありと浮かんできます。師匠曰く「眼がてきてはるわ」と。このような勉強の機会を与えて頂き、mfujino様には感謝の一言であります。研究家の方の解説も親切で分かりやすく、この方の書かれた論文なども読んでみたいと思いました。
井戸跡(兼見に派遣された「山」が掘った?)
残念ながら小生の拙い写真術では、帰宅後に見たら何が門跡で何が何なのか分からなくなっているものもだいぶありました。現地にいるときは本当に門が見えたような気がしたものです。
さて、周山城から下山(下城)後は、皆さんと別れて「周山ビール」です。いつもの地ビールに加えて、羽田酒造が市内の料亭に卸している日本酒を呑みました。本日は、塩で食う「マイタケの天ぷら」と「とうがらしのたいたんアボガト入り」が最高でした。周山で周山城を見て周山ビール、もう皆が知っていて当然なのですが、長坂越に至る途中の「しょうざん」と間違える人が多いのは歯がゆいことであります。
飲み過ぎたためか(バスに乗る直前に食うた亀屋さんのソフトクリームがとどめかな)、帰路のJRバスの中で小便がしたくなり、師匠と別れて一人高雄学校前で降りました。その後は、真っ暗な高雄を一人でウロウロ。例の女占い師の家などもつぶさに観察しましたよ。広大です。
何とかかんとか京都駅近くまではたどりつき、リド飲食街。本日は開いている店は一軒だけでした。ここのトイレの前の水道は、いつ見てもしびれさせてくれます。何と麗しいんだ!手を出すと水が出てくる最近のヤツは人をバカにしている感じです。
建物越しに見る京都タワーは、何か「お前はほんまにアホやのう」と言っているようです。おかしいな、周山城では思いきり勉強していたのに、高雄で降りてからがチョット変でした。不思議なこともあったのですが、それはまた今度のお楽しみということで。
ビール、勿論ヴァイツェンですよね。いつも一番に呑みます。前の時は一気飲みになり、勿体なかったので今回は味わって二気飲み(笑)になりました。他の地ビール店、ケルシュとアンバエールに当たるものは結構あるのですが、ヴァイツェンに当たるものは少ないです。ベルギービールのヒューガルデンホワイトがちょっと似ているのではと思っています。
高雄の不思議というのは、アップするほどのことではありません。つい最近まで、ある家に住んでいた(今もかも知れない)一家があって、まさにその家から出てきたお婆さんが「私は高雄に住んで40年になるが、そんな人たちのことは聞いたこともない!」等と言ってたので、哀れ一家は床の下に埋められているのかな等と思っただけです(爆)。
「周山」の地名の由来は支那古代史に於いて、、、そうだったのですか。それにしても周りがみな山、中学校校歌も「緑も深き杉木立、恵れる山を窓に見て、、、」すかさずピッタリの名前じゃないでしょうか。
周山城での出会いよかったです。私も井戸跡を見たかったのですが、黒尾山登頂で(たいそうな)のびていたので、あのたらたら坂道が降りられなかった程疲れていました。
夏ハゼの実下さったトレイルのおじさまの鉈さばき勇ましかったですね。
下山後の周山も同じくらいに楽しまれたようで^^周山街道ビールは何がお好みでしょうか?私は3種のうちではバナナの香りのするヴァイツェンが飲みやすかったです。
終バスの高雄で降りられたのでしょうか?暗いのに、、、SECOMで囲われた女占い師邸も含む?高雄以降の不思議第二弾を楽しみにしています♪
あの安土城ですら、本格調査はつい最近に行われたばかりですから、周山城の本格調査はなかなか難しいように思います。石垣などが自然に崩れていくのは如何にも惜しいのですが、逆に築城当時の石垣がそのままに残っている姿というのもいいかなとちょっと矛盾した考えに捕らわれてしまいます。
何にしても周山周辺だけでも見るべき処が多く、もっとマメに歩かねばならないと思っています。これが丹波一円ということになると、もう幾ら時間があっても足りません。
これから寒くもなるので年内は難しいかも知れませんが、八木城は先ず実現させたいと考えています。また、宜しくお願いします。
文化財を守る会の先生、けしかけてもらって幸せだったと思います。あのようなすばらしい機会は滅多にありません。自分自身はまだまだ眼ができていませんから、今後も勉強しなくてはなりませんが、山中をウロウロしていて不自然な削平地などに出会えば、先ず「山城?」と考えることができるようにはなりました。何も見えていない目から、0.01ぐらいの視力は得たかな等と思っています。
八木城へは大昔に登ったことがありますが、その時は「内藤如安の城」程度の知識しかなく、丹波守護所が八木にあったということも知りませんでした。八木城は皆様と登城したいと考えておりますが、これにほど近いところにある神尾山城は近いうちに強行偵察して参ります。
氷上城は黒井城のすぐ近くにあったらしいのですが、氷上落城後も黒井城は随分と頑張っていますから、その違いはどういうところにあるのかなども現地で考えたいですね。また宜しくお願いします。
周山の地名の由来を、私達は誰からも聞かされたり教えられたことがありませんでした。中学校へ通学している期間でも、学校の敷地内に大きな礎石などはありましたが、周山城の歴史など一言も習わずに過ぎて終いました。
昨今でこそ、京北地区の隠れた数々の遺跡や旧跡が注目され始めておりますが、過疎の兆しの見え始めた地元の住民間では、今後どれ程の成果が挙がるのか。徘徊堂さんの如き篤実の方への期待を待つしか無いのか、とも思えぬこともありません。
ただ、この周山城址は、今は単なる遺跡として保存(?)されているだけで、発掘調査の計画は皆無の様に思えますが、地元では如何なのでしょうか。現状の如き外堀の外からの観察では、これ以上の新規発見は望むべくも無いでしょうし・・・。
周山と申せば周山城もさりながら、締め括りの周山麦酒は当然の流れでしょう(これが主目的?)。選歌の御礼にご馳走する機会は・・・その内にあるでしょう。唐辛子とアボガドの和洋コラボが実現しましたか。アボカド(Avocado)が正しいらしいですけど、別名が鰐梨とのことですから和製も存在するのかも。高雄では女占い師の怨霊に遭遇されたのでしようか・・・?
「秋深し周山城址と美酒の宴」道草
周山城の縄張り図についてはgunkanatagoさまがお持ちだったと思いますが、若江さんの方が広範囲で詳しいのではと思ったりしていますが、高橋さんも詳しく調査されているなあ~と思いました。今回は西の遺構から本丸、大手門とこの戦国時代最終期の山城を解説付きで探訪できた、幸せ気分いっぱいでございます。
今日は文化財を守る会の偉いさん達とミーティングがあり、後で昼飯をご一緒させて貰ったこの城趾探訪に参加された最高齢80才超の先生に下熊田からなら楽やったでしょう、と聞くと、緩やかな登りで良かったとの返事を貰いました。実は事前に、先生この機会は逃したらあきまへんで、とけしかけたのですが、どうも本心は当日まで腰が痛いとかいろいろ言い訳も用意されていたようです。でも登り切ると、僕が最高齢やったなあ、とまんざらでない言葉を聞きましたので、けしかけて良かったと思っています。
ピックアップトラックで林道を上がってきた、髭のまもちゃん、口は悪いのですが根が優しい人柄です。彼と上手く連携して京北トレイルにかかわらず地元の山の楽しみを都会の人に楽しんで頂く企画を練っていきたいと思うとります。ええ山男でっせ。
この周山城の築城についてどうしても触れなければならないのが、縄野坂の戦いです。これに関しては山国荘を実証的に研究されている中央大学の坂田先生の著作を読み始めたのですが、今まで地元で語られていた歴史を実証的に覆しておられます。今回城趾を案内して頂いた高橋さんなどの専門家のお話しを聞いたりするにつけ、学問をする方は凄いもんだという認識し直しうれしくなりました。
八上城趾の高城山もいいですよ。ここで光秀の母上が処刑されたのかとかいろいろ想像すると目の前の景色が変わって見えてきますしね。黒井城、八木城、縄野坂(この近くの蜜厳寺跡を探したいものですね)、中江城に明日が谷城なども探訪しましょう。
帰路、高雄で下りての散策、夕方は京都駅の酒界探訪、徘徊堂の名に恥じない動きでございます。しかも次回のお楽しみを上手く演出したりして、心憎いものですなあ~。