京都市右京区京北の宇津盆地に伝わる貞任伝説、首を埋めた貞任峠を始めとして、盆地を囲む各所に安倍貞任の身体を八つ裂きにして埋めたという伝承が残ります。同じような話は旧日吉町や園部町(現南丹市)、さらに亀岡市にも伝わるのですが、狭い範囲に濃密に伝えられているのが宇津盆地です。
以前に宇津城祉に登り、西の谷に降りて宇津盆地の上浮井というバス停に出たことがありました。自宅に帰り、京北トレイルの地図(これがまたようできた地図です)で歩いたところを確認した時に思わず「何と!」と叫びたくなるような発見がありました。宇津城につながる尾根から西の谷に下り立った地点から150メートルも北に行けば「日高見峠」というのがあったのです。「ああ、ここは何時か行かんとアカン。」、長いことそのように思い続けてきたのですが、今回ようやくこの峠を越えることができました。
手足を埋めたという足手山か?
といっても本日は最初から日高見峠を目指した訳ではありません。久しく宿題となっている頭巾山、新嘗祭のこの日に登らねば、そろそろ雪が降る。以前はかなりの積雪でも平気でラッセルしましたが、山登りそのものよりも下山後の酒に中心が移ってからは、そのような情熱も薄れています。「この日しかない!」と決心して、珍しく地図も昼食も準備して「いざ出陣!」と言う時に雨、ここは素直に頭巾山はあきらめた訳であります。
「どうしよう」と思っている時にピン!と浮かんだのが日高見峠、あそこならば殆どが林道だし、傘を差していても楽に行ける。この際、宿題を果たしておこうと考えた訳です。
西の谷に入る前に、先ずは庄ノ谷(ここいらでは谷は「タン乃至ダン」と読みます)の紅葉にご挨拶、これも以前からの宿題でした。
宇津城祉ももやの中
庄ノ谷の紅葉、色は今一つでしたが、本来そう赤くならない種類のようです。それでも紅葉している間に来ることができて良かった良かった。
ここまで来たら、宇津城祉にもというスケベ根性も湧いてきますが、今日のコンディションでは登る道はエライことでしょう。ここから引き返して予定通り西の谷(殿ノ谷・宇津氏の館がこの谷の出口辺りにあったことによるか?)に入ることにします。
そう遠くはないのですが、貞任の首が埋められたという貞任峠も、足が埋められたという人尾峠ももやの中です。
バラバラにされて埋められた貞任がひどく祟るというので源頼義が勧請した八幡さん。ここには師匠に読んでもらいたい石碑が2つあります。一つは嫌がるやろなあ。
殿ノ谷に入ってすぐに墓、それを過ぎると下の写真のような林道がしばらく続きます。けれども途中で林道は途切れており、倒木地帯を抜ける時にもうドロドロになりました。倒木地帯を100メートル抜けると再び林道に出ます。
さて、話せば長くなるのですが、日本国の別称である「ひのもと」の名は本来は生駒山の西麓、今日の東大阪市の石切辺りの日下の地を指すものでした。小学校の名前などに「孔舎衙」の名が今も使われています。
神武東征説話では、この地に上陸した神武天皇(イワレヒコ)の軍隊を迎え撃ったのが登美能那賀須泥毘古(登美の長脛彦・とみのながすねひこ)とその妹を妻とした饒速日命(にぎはやひのみこと)で、神武軍は大いに苦戦を強いられ、兄の五瀬命が戦死するに至ります。
神武軍は一旦撤退し、熊野の方に回り、紀伊半島を縦断して奈良盆地に入り、結果として長脛彦を倒して橿原宮で初代の天皇に即位するのですが、その際に饒速日命は神武と同じ天孫であることが分かり神武に帰順、軍事をもって大和朝廷を支えた物部氏の祖となります。
近年有力になりつつある説に「邪馬台国東遷説」があります。3世紀には筑後川流域の筑紫平野にあった邪馬台国が、その後大和へ移動した。神武東征説話はそのことを反映したものであるという説です。この説に依れば饒速日命は邪馬台国の本格的な東遷以前に既に東への移住を果たしていた人々=物部氏の信奉していた神ということになり、この神が長脛彦の妹を妻としていたということは、物部氏の東遷が軍事的な征服という形ではなく、極めて平和裡に行われていたことを示しています。これは皮肉なことですが、後に神武天皇を祖とする大和朝廷が今日の朝鮮半島から大量の帰化人、しかも多くの農民を率いて帰化した人たちに土地を与えて各所においたことと共通するかも知れません。
長脛彦は後に蝦夷と呼ばれる人たちの先祖でしょう。これは蝦夷出身であることを寧ろ誇りとしていた秋田氏などが長脛彦の兄弟の子孫を称していることも傍証になります。となると物部氏の移住は新しい農耕技術を伝えてくれるという点でも当時の「蝦夷」にとっては好ましいことでもあったのでしょう。
滝もあるでー
けれども邪馬台国本隊が移動してくるとなると話は別で、田畑の所有一つを取っても、もはや服属するか抵抗するかの二者択一しか無いという状況下で物部氏の本流は服属を選び、「蝦夷」の統領たる長脛彦は抵抗を選んだということでしょう。けれども物部氏の傍流の中には長脛彦とともに抵抗する道を選んだものが多くあり、谷川健一氏は大和から東、東海地方にかけての国造が多く物部氏であることはそれを示唆していると述べられています。つまり蝦夷の本隊と東に逃れる途中の道筋にそれぞれ住みついたものであろうということです。
時代は下って平安時代の初期、蝦夷の勢力は遥か東北地方にまで後退していますが、邪馬台国の後裔たちは律令国家を形成しています。9世紀の末期にこの律令国家に抵抗した蝦夷の首長の一人が「阿弖流為(アテルイ)」です。最終的には坂上田村麻呂に降伏し弟の母礼とともに畿内に護送された後に処刑されます。この阿弖流為の支配していた国が日高見国(やっと出てきた)で、この転訛が「北上」であるとされています。
「ヒタカミ」にせよ、「ヒノモト」にせよ。遠い遠い昔に「蝦夷」の本拠が畿内にあったころの記憶を受けているのではないかと思われます。「ヒノモト」はどこにも出てきていないではないかと言われそうですが、安倍貞任の息子を遠祖とする津軽の安東氏(秋田氏の先祖でもある)が「日の本将軍」を名乗っていたことでご勘弁いただこうかと思います。これはもう日本全体を指しているのではないでしょうから(安東氏が大陸と交易するための必要上からそう名乗ったとも考えられますが)。
考えてみれば、京北町の「弓削」という地名からもここには物部氏の一大集団が居住していたことは事実で、この地の物部も大和朝廷への帰順を嫌って逃れてきたものかも知れません。大和朝廷に帰順した物部氏の宗家が滅び去った後も、遥か昔の記憶を一族間に伝え、日高見国、安倍氏、奥州藤原氏等々「蝦夷」の伝統を受けつぐ人々に強い共感を抱き、その共感が峠に「日高見」の名を付け、貞任伝説を生み出していく根っこになったのではと思うのです。(あーしんどかった!)ぶっちゃけて言うと、日高見という名は貞任にもつながるので地図を初めて見た時に驚いたということです(笑)。
日高見峠
トレイルの地図では、この付近はビューポイントということになっています。本日は今ひとつですが、晴れている日は確かにそうでしょう。スコンと晴れていたら年賀状に使ったのに。
だらだらと坂を下り「宇野」という集落に出ました。今ここには調べるものが無いのでうろ覚えなのですが、確か「宇野の尼さん」という話が伝わっているところでは。道がトンデモナイので車では来たくないところですが、大昔に日吉の方から初めて持越峠を越えて来た時に「あー、きれいなところやなあ!」と思ったのはこの辺りです。峠の西側にも綺麗な村が連なっています。
地図に「石標」とだけあるものを見に行きます。道標かというと、それだけではない。「これは何」と一言では決められぬ不思議なものでした。
正面は法華塔と
側面1には文政7年(1821)と
側面2には石要尼さんが村中安全のため記したと
そして裏面には左に行くと殿田・篠山へとひらがなで記してあります。いずれまた師匠にも足を運んでいただいて見てもらおうと思います。このような体裁のものを見たのは初めてです。やっぱり来てみるもんやなあ(詠嘆)。
宇野坂を下ります。ちゃんとした道になっていたのは谷の降り口までで、もう10年もするとこの道は無くなるでしょう。
宇野坂へ
道の真ん中に新芽
ドロドロになりながらしばらく進むと「浅江」に出ました。浅江にはどんな話が伝わっていたかな?こういうことなら「京北の昔語り」を持ってくれば良かった。
宇野坂を抜ける
何か無いかなと宝林寺付近をウロウロとしましたが、何もよう見つけませんでした。
宝林寺本堂
宝林寺
何でもないところですが、何故か後ろが気になります。何かが付いて来ている?振り返りざまにパチリとやれば何か写るかな等と思いましたが、何も写りません。もしかしたら遥か後方の矢代中の日吉神社が気になっていたのかも知れません。何度も振り返りました。
浅江
道が合流するところ、つまり下明石(あけし)では大きな木がしきりに葉を落としています。写真ではうまく撮れていません。「おお、もう冬やんけ。」という感が強まります。ウー、ここで雪になるまでに明日ヶ谷(あすがたん)に行かねばならぬという宿題を思い出してしまいました。
濃密に残る「蝦夷」に関連した伝承、はるか邪馬台国の東遷にまで遡らなくても平安時代に、東洋史的な言い方をすれば王朝政府に帰順した熟「蝦夷」が「俘囚」という名で集団で移住させられたようなこともあったのかも知れません。さらなる問題は峠を挟んで宇津側が「日高見」なのか、それとも宇野側なのかということです。また、この付近には字名として古夷とか夷ノ谷とか何やら意味ありげな名がならんでいます。高槻の都加母止塚と言い貞任伝説と言い茫漠たるテーマ、シャーマンを呼ぼうかな。
以前に宇津城祉に登り、西の谷に降りて宇津盆地の上浮井というバス停に出たことがありました。自宅に帰り、京北トレイルの地図(これがまたようできた地図です)で歩いたところを確認した時に思わず「何と!」と叫びたくなるような発見がありました。宇津城につながる尾根から西の谷に下り立った地点から150メートルも北に行けば「日高見峠」というのがあったのです。「ああ、ここは何時か行かんとアカン。」、長いことそのように思い続けてきたのですが、今回ようやくこの峠を越えることができました。
手足を埋めたという足手山か?
といっても本日は最初から日高見峠を目指した訳ではありません。久しく宿題となっている頭巾山、新嘗祭のこの日に登らねば、そろそろ雪が降る。以前はかなりの積雪でも平気でラッセルしましたが、山登りそのものよりも下山後の酒に中心が移ってからは、そのような情熱も薄れています。「この日しかない!」と決心して、珍しく地図も昼食も準備して「いざ出陣!」と言う時に雨、ここは素直に頭巾山はあきらめた訳であります。
「どうしよう」と思っている時にピン!と浮かんだのが日高見峠、あそこならば殆どが林道だし、傘を差していても楽に行ける。この際、宿題を果たしておこうと考えた訳です。
西の谷に入る前に、先ずは庄ノ谷(ここいらでは谷は「タン乃至ダン」と読みます)の紅葉にご挨拶、これも以前からの宿題でした。
宇津城祉ももやの中
庄ノ谷の紅葉、色は今一つでしたが、本来そう赤くならない種類のようです。それでも紅葉している間に来ることができて良かった良かった。
ここまで来たら、宇津城祉にもというスケベ根性も湧いてきますが、今日のコンディションでは登る道はエライことでしょう。ここから引き返して予定通り西の谷(殿ノ谷・宇津氏の館がこの谷の出口辺りにあったことによるか?)に入ることにします。
そう遠くはないのですが、貞任の首が埋められたという貞任峠も、足が埋められたという人尾峠ももやの中です。
バラバラにされて埋められた貞任がひどく祟るというので源頼義が勧請した八幡さん。ここには師匠に読んでもらいたい石碑が2つあります。一つは嫌がるやろなあ。
殿ノ谷に入ってすぐに墓、それを過ぎると下の写真のような林道がしばらく続きます。けれども途中で林道は途切れており、倒木地帯を抜ける時にもうドロドロになりました。倒木地帯を100メートル抜けると再び林道に出ます。
さて、話せば長くなるのですが、日本国の別称である「ひのもと」の名は本来は生駒山の西麓、今日の東大阪市の石切辺りの日下の地を指すものでした。小学校の名前などに「孔舎衙」の名が今も使われています。
神武東征説話では、この地に上陸した神武天皇(イワレヒコ)の軍隊を迎え撃ったのが登美能那賀須泥毘古(登美の長脛彦・とみのながすねひこ)とその妹を妻とした饒速日命(にぎはやひのみこと)で、神武軍は大いに苦戦を強いられ、兄の五瀬命が戦死するに至ります。
神武軍は一旦撤退し、熊野の方に回り、紀伊半島を縦断して奈良盆地に入り、結果として長脛彦を倒して橿原宮で初代の天皇に即位するのですが、その際に饒速日命は神武と同じ天孫であることが分かり神武に帰順、軍事をもって大和朝廷を支えた物部氏の祖となります。
近年有力になりつつある説に「邪馬台国東遷説」があります。3世紀には筑後川流域の筑紫平野にあった邪馬台国が、その後大和へ移動した。神武東征説話はそのことを反映したものであるという説です。この説に依れば饒速日命は邪馬台国の本格的な東遷以前に既に東への移住を果たしていた人々=物部氏の信奉していた神ということになり、この神が長脛彦の妹を妻としていたということは、物部氏の東遷が軍事的な征服という形ではなく、極めて平和裡に行われていたことを示しています。これは皮肉なことですが、後に神武天皇を祖とする大和朝廷が今日の朝鮮半島から大量の帰化人、しかも多くの農民を率いて帰化した人たちに土地を与えて各所においたことと共通するかも知れません。
長脛彦は後に蝦夷と呼ばれる人たちの先祖でしょう。これは蝦夷出身であることを寧ろ誇りとしていた秋田氏などが長脛彦の兄弟の子孫を称していることも傍証になります。となると物部氏の移住は新しい農耕技術を伝えてくれるという点でも当時の「蝦夷」にとっては好ましいことでもあったのでしょう。
滝もあるでー
けれども邪馬台国本隊が移動してくるとなると話は別で、田畑の所有一つを取っても、もはや服属するか抵抗するかの二者択一しか無いという状況下で物部氏の本流は服属を選び、「蝦夷」の統領たる長脛彦は抵抗を選んだということでしょう。けれども物部氏の傍流の中には長脛彦とともに抵抗する道を選んだものが多くあり、谷川健一氏は大和から東、東海地方にかけての国造が多く物部氏であることはそれを示唆していると述べられています。つまり蝦夷の本隊と東に逃れる途中の道筋にそれぞれ住みついたものであろうということです。
時代は下って平安時代の初期、蝦夷の勢力は遥か東北地方にまで後退していますが、邪馬台国の後裔たちは律令国家を形成しています。9世紀の末期にこの律令国家に抵抗した蝦夷の首長の一人が「阿弖流為(アテルイ)」です。最終的には坂上田村麻呂に降伏し弟の母礼とともに畿内に護送された後に処刑されます。この阿弖流為の支配していた国が日高見国(やっと出てきた)で、この転訛が「北上」であるとされています。
「ヒタカミ」にせよ、「ヒノモト」にせよ。遠い遠い昔に「蝦夷」の本拠が畿内にあったころの記憶を受けているのではないかと思われます。「ヒノモト」はどこにも出てきていないではないかと言われそうですが、安倍貞任の息子を遠祖とする津軽の安東氏(秋田氏の先祖でもある)が「日の本将軍」を名乗っていたことでご勘弁いただこうかと思います。これはもう日本全体を指しているのではないでしょうから(安東氏が大陸と交易するための必要上からそう名乗ったとも考えられますが)。
考えてみれば、京北町の「弓削」という地名からもここには物部氏の一大集団が居住していたことは事実で、この地の物部も大和朝廷への帰順を嫌って逃れてきたものかも知れません。大和朝廷に帰順した物部氏の宗家が滅び去った後も、遥か昔の記憶を一族間に伝え、日高見国、安倍氏、奥州藤原氏等々「蝦夷」の伝統を受けつぐ人々に強い共感を抱き、その共感が峠に「日高見」の名を付け、貞任伝説を生み出していく根っこになったのではと思うのです。(あーしんどかった!)ぶっちゃけて言うと、日高見という名は貞任にもつながるので地図を初めて見た時に驚いたということです(笑)。
日高見峠
トレイルの地図では、この付近はビューポイントということになっています。本日は今ひとつですが、晴れている日は確かにそうでしょう。スコンと晴れていたら年賀状に使ったのに。
だらだらと坂を下り「宇野」という集落に出ました。今ここには調べるものが無いのでうろ覚えなのですが、確か「宇野の尼さん」という話が伝わっているところでは。道がトンデモナイので車では来たくないところですが、大昔に日吉の方から初めて持越峠を越えて来た時に「あー、きれいなところやなあ!」と思ったのはこの辺りです。峠の西側にも綺麗な村が連なっています。
地図に「石標」とだけあるものを見に行きます。道標かというと、それだけではない。「これは何」と一言では決められぬ不思議なものでした。
正面は法華塔と
側面1には文政7年(1821)と
側面2には石要尼さんが村中安全のため記したと
そして裏面には左に行くと殿田・篠山へとひらがなで記してあります。いずれまた師匠にも足を運んでいただいて見てもらおうと思います。このような体裁のものを見たのは初めてです。やっぱり来てみるもんやなあ(詠嘆)。
宇野坂を下ります。ちゃんとした道になっていたのは谷の降り口までで、もう10年もするとこの道は無くなるでしょう。
宇野坂へ
道の真ん中に新芽
ドロドロになりながらしばらく進むと「浅江」に出ました。浅江にはどんな話が伝わっていたかな?こういうことなら「京北の昔語り」を持ってくれば良かった。
宇野坂を抜ける
何か無いかなと宝林寺付近をウロウロとしましたが、何もよう見つけませんでした。
宝林寺本堂
宝林寺
何でもないところですが、何故か後ろが気になります。何かが付いて来ている?振り返りざまにパチリとやれば何か写るかな等と思いましたが、何も写りません。もしかしたら遥か後方の矢代中の日吉神社が気になっていたのかも知れません。何度も振り返りました。
浅江
道が合流するところ、つまり下明石(あけし)では大きな木がしきりに葉を落としています。写真ではうまく撮れていません。「おお、もう冬やんけ。」という感が強まります。ウー、ここで雪になるまでに明日ヶ谷(あすがたん)に行かねばならぬという宿題を思い出してしまいました。
濃密に残る「蝦夷」に関連した伝承、はるか邪馬台国の東遷にまで遡らなくても平安時代に、東洋史的な言い方をすれば王朝政府に帰順した熟「蝦夷」が「俘囚」という名で集団で移住させられたようなこともあったのかも知れません。さらなる問題は峠を挟んで宇津側が「日高見」なのか、それとも宇野側なのかということです。また、この付近には字名として古夷とか夷ノ谷とか何やら意味ありげな名がならんでいます。高槻の都加母止塚と言い貞任伝説と言い茫漠たるテーマ、シャーマンを呼ぼうかな。
庄ノ谷もすっかり紅葉したのですネ。日高見峠は京北トレイルエリアとはなっていますが、この辺りは道標も整備されているのでしょうか。
長い解説は難しいので、幼稚な質問をします。この峠の宇津村城址の西側に黒尾山(569メートル)があり、また東側(周山城址近く)にも黒尾山(509メートル)があります。向かい合ってなぜ同じ名称の山があるのでしょうか。混乱すると思うのですが、何か歴史的な謂れがあるのでしょうか。
それと日高見は邪馬台国に繋がる何かがある、とのG説は新説なのですか?もしかして真説かも・・・。弓削が弓削道灌と縁があるとの地元の説は、ども眉唾らしいですが。
それにしましても、貞任峠にも纏わる遠大な歴史の背景は、このまま闇の彼方なのか、或いは、いつかは少しは明白になる部分もあるのか。どちらにしても、歩き回ることの意義の深さを痛感させられる徘徊記です。
茶色の落ち葉の中の、小さな樒の芽の緑がいじらしい思いです。新しい生命の息吹みたいです。
邪馬台国東遷説は多くの学者が唱えています。日高見国は寧ろ追い払われた側ですが(笑)。後代に王朝政府が「蝦夷」と呼んだ人たちの名残というか跡というか、そういうものが何か宇津に見られるなあというところです。
道鏡については「弓削」という地名から後代に結びつけられていったものと思われます。ただ勿論道鏡も物部氏ですし、田貫の屋敷跡の伝承などから考えると道草様ご自身も遡れば物部氏である可能性が強いと思います。但しこれらの姓は源氏から養子を迎えて源氏になったとか途中で変わることも多いです。
黒尾山、近くに白尾山もありますね。なぜすぐ近くに黒尾山が2つあるのかはこれからの宿題ですね。
日高見峠という名に敏感に反応されたのはさすがです。私にゃこの日高見とか入るとその素直な性格からか(^_・)眺望とイメージしてしまうのが精々でございます。
「宇野」が登場するのは珍しいですね。しかしさすがです。石標に何かを感じ、歩いて霊を感じられる。ここには何か眠っていそうです。お寺の中に残る物を見てみたい気持ちになっています。眠ってまっせ~(^_・)てな気持ちです。間接的な伝手もありますのでハカマイラー師匠を巻き込んで一度ご一緒願いたい、気持ちになりました。
本文でも述べていますが、まだ日吉ダムができる前、「本当に抜けられるのだろうか」と思いながらこの道を走ってきて、「何と綺麗なところだ!」と感嘆しながら走った道です。
蝦夷や熊襲など大和朝廷に抵抗した人たちは、何か熊などの毛皮をまとっただけの「野蛮人」として表記されがちですが、実態としては大和朝廷に十分拮抗できるだけの文化を有していたと思います。その呼称も蝦夷などは明らかに蔑称ですから何かいい呼び方がないかな等と思います。「縄文人」、ちょっと古すぎますか?アッこれは先日上洛した東北の友人のハンドルネームでした(笑)。
お久ぶりの山紀行いいですね。
ひと目惚れされた日高見峠に行かれてほんと良かったです。日高見峠の写真、昔はこんな所が子ども達の遊び場でした。雪の木馬滑りが思い出されます。
日吉町には宇野姓がけっこうあるようですが、こちらの集落はどうかしら?宝林寺は桜を見せて頂きました。あつあつの生姜入りの甘酒のご接待も。
gunkanatagoさんは霊感がおありなんですね、きっと。
うちでは日吉側の黒尾山は「西黒尾山」と単純に云っていたようにおもいます。
前に読んだ本『八幡宮略起』のメモが出てきました。”七つに切断した貞任の体は首を貞任峠に、腰・下肢は人尾峠に、肩・胴は粟生谷の高谷に、手足は足手山に埋める。が確かなことはわからない。”と記してありました。
??でいいのかもね。
霊感はそんなに強い方ではないとおもうのですが、宇野坂から下明石に出るまで、何かが付いてきているなあという感じがしきりにしました。林道の途切れたところで山道に入りビチョビチョになりましたからそれが原因かも知れません。
成る程日吉側は西黒尾山ですか。人尾峠から登りましたが、尾根筋への取り付きが大変でした。ピークと思われるところにも何もありません。東の黒尾山はしっかりとトレイルルートに入りましたが、こちら側はどうなるのでしょう。人尾トンネルの希望はあるようですが、紅葉山や栗尾峠と同じく造り始めたら早いかも知れませんね。
蝦夷は、大和朝廷および律令国家が相当にてこずった、逆に言えばたいへん力があった勢力でしょう。
アテルイの日高見国と共通の字をもつ日高見峠に、蝦夷勢力のなごりをみて、さらに貞任伝説とのつながりを類推するgunkan atagoさんの探訪の旅、勇躍、出発する気魄がいいですね。こうのは独り旅に限ります。血湧き肉踊る紀行文だと思います。
私にもささやかな経験があります。近鉄に俊徳道というけったいな名前の駅があるなと思い、調べてみたら、説教節の「しゅんとく丸」に登場する舞台であったことがわかりました。その俊徳丸の生まれ故郷から、ライ病にかかり収容された天王寺まで歩いたことがあります。他の人からみれば、何を酔狂な、アホちゃうか、ということでしょうが、血湧き肉踊る1日ハイキングでした。機会があればもう一度いってみたいです。途中、立ち飲み屋の誘惑に負けて沈没しないように、くれぐれも気をつけなければいけませんが、、。
日高見国の実体は不明ですが、大和朝廷とその後継たる律令国家側ではかなり具体的にその国家の存在を意識していたようです。縄文人が作っていた「国」と言うだけで何かロマンチックなものを感じます。
俊徳丸伝説、河内では妙に濃厚ですね。そうか、天王寺まで歩かれましたか(賛)。小生もこれは大切なテーマとして、いつか歩いてみたいと思っています。そうですね、天王寺ならば立ち呑み屋の誘惑だらけですね。逆にこちらの日高見伝説の方は、そういう場所が全く無いので、それはそれで辛いことです(笑)。