花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

神戸、山沿いから海へ

2012年12月03日 | 徘徊情報・摂津国
 本日は、師匠の案内で神戸、前回の「兵庫の津」を徘徊した時には行けなかった山沿いの平氏関連遺跡を中心に巡ります。行くところは「平氏の福原」と言わなければならないようで、同行の方が娘さんにどこに行くのかと聞かれて、単に「福原」と答えたら、「エッ?何であんなところにお母さんが!」と驚かれたそうです。ましてやお父さんなら「行き先は福原だ」と言えば家庭崩壊を招くかも。ここまで読んで、何が書いてあるのか分からないアナタは聖人君子。

 さて、集合は高速神戸駅、震災以後の街の変わり様は凄まじく、ちょっと来ない間に駅付近は大きく変わっています。集合時に同行の方が「空気チョコ」なるものを下さいました〈訂正 後で調べたら呼吸チョコのまちがいどした・爆〉。これが非常にウマイ、瞬時に皆の中でブームになり、他の同行の方もこれを求めて地下街の菓子屋に走っておられました。世の中は変わるのう(詠嘆)、全く知らんかった。

 変わるものはさておき、変わらぬのは駅を出てすぐの湊川神社、先ずは楠公のお墓にお参りです。が、ここが楠公の墓であるとされてはいても楠公の墓である可能性はとても低いと師匠の隠し球。今回は写真を撮り過ぎたので、ショボイ水戸黄門像は割愛します。七五三も行われていて境内は賑わっています。なんかこの時期には必ず湊川神社に来てるなあ、小生は北朝贔屓なのに。


楠公墓



 本殿の裏手に廻ると楠公戦死の地、もうちょっと山側でないかな、水道博物館の付近にも「楠公戦死の地」という表示がありますが、こちらの方が妥当ではと思うのですが、別にムキになって否定したいとかそのような気持ちはありません。まあ、日本地図を広げたら「この辺り」に全て入ってしまいますわなあ。


楠公戦死地

 神社を東に出ると神戸地裁、ヤマダ電器裁判所支店とも言われています(爆)。



 神社の北側を西に向かい、交差点を渡ると突然の煉瓦塀、旧楠小学校の塀ですが、建て替え時に一部を保存したそうです。後ほど居留地でも見ましたが、神戸市は結構そういう面では努力している感じです。



 大倉山公園の入り口付近に橋本関雪顕彰碑、この辺りに生家があったそうです。いまでは随分と影が薄くなりましたが清浦奎吾揮毫の碑などを見ながら行くと、大倉山公園の入り口の西側に廣厳寺。


橋本関雪顕彰碑


清浦奎吾揮毫碑


廣厳寺

 かつて師匠がこの寺で和尚さんと話をされていた折、和尚さんが「実はな、うちに楠木正成の墓があるんや。」と言われたそうで、「見たいか?」と問われて「見たい見たい!」というと見せて下さったとかで、その折、また見たかったら来なさいと言って下さったそうです。本日も大黒さんでしょうか師匠が声をかけるとニコニコして鍵を開けて中庭に入れて下さいました。墓は観音開きタイプで、武将の墓に多い形でした。



 科学的もヘッタクレもなく、師匠の幸運、和尚の親切を勘案し、楠木正成の墓は断固これであります(爆)。

 大倉山公園に入るとかつて伊藤博文の巨大な銅像が建っていた台座が残されています。像は日露戦争の講和時に一度引き倒され、その後修復されましたが大東亜戦争時に供出されたそうです。台座だけでも本当に巨大で、もし像が立っていたらスゴイでしょうね。まるで北朝鮮(爆)。




大倉山公園由来碑

 公園を出て、病院の北側の道を西に行くと「荒田八幡」、平清盛の異母弟である頼盛の屋敷跡です。安徳天皇も一時期ここにおられたということです。





 頼盛は平氏の都落ちには同行せず、平氏一門が壇ノ浦に没した後も一年余りを生きながらえて京都で病没しています。

 日本電力の変電所(現関西電力有馬道変電所)であった古いビルを眺め、鑑別所の北側を少し入ると神戸昇天教会、神戸では最も古い教会建築です。ミサも終わっているということで中に入れていただけました。写真の取り方が悪いので金光教の教会のように見えますが、英国国教会、日本では聖公会の教会です。




明治43年築



 平野の交差点には、現存最も新しいであろう平清盛像。なかなか精悍です。



 その交差点から少し西に行き、湊山小学校の北の壁外に「雪見御所跡」の碑、平清盛邸跡です。ここいらには雪御所町の地名も残ります。おやおや小生が知っている福原とは随分違うぞ。通には昭和がいっぱい残っています。



 平野の交差点に戻り喫茶店で昼食、よく店が開いていたもんだ。この交差点の南北の道は「有馬街道」です。街道らしく「塞神(さいのかみ)」=道祖神がおられます。


有馬街道



 少し北に上がったところに祇園の社、ディエーという階段を上る人と、裏に回って坂道を登る人。



 ここの祇園さんは播磨の広峰さんから牛頭天王を京都に勧請した時にここでちょっと一休みされたことに由来するそうです。境内には実に珍しい「日清戦争従軍祈念碑」があります。軍曹から二等卒まで10名ほどの名が刻まれています。この辺りから出征された人たちでしょう。





 再びディエーという階段を下ります。この辺りは五宮町、嘗て神戸八宮巡拝をしたときに通ったところです。




生島四郎奉献灯籠

 その時には知りませんでしたが。幕府の軍艦奉行であった勝海舟が神戸操練所を作った際に自らも神戸に移り住んだ寓居祉がこの辺りにあったそうです。「あった」と言ったのは今回訪れてみたら完全な更地になっていて、碑も何も無くなっていたからです。残念。
 代わりといっては何ですが、あの清浄な禅寺、「祥福寺」まで坂道を登ります。京都の妙心寺の老師であった山田無文師がおられた寺です。本当に美しい寺で、清浄第一の寺を挙げよと言われたら小生は躊躇無くこの寺を挙げます。何か空気までが洗われている感じです。京都の薄汚い観光寺院は見習えよー。





 五宮神社の裏山の紅葉、写真では判りにくいのですが、実に綺麗です。


五宮神社

 大通りを東へ、ここいらの並木、並木には珍しく赤い実がなっていました。水の科学博物館の前に洪水で山から流されてきた石が祈念碑になっているものがあります。近くの地蔵さんは道標を兼ねています。この博物館の前には楠公の終焉地はここだという掲示があります。


流石



 諏訪山公園を北に行けば名前の由来である諏訪神社、これを北に行けば前に登った堂徳山ではないかいな。


諏訪神社


句碑


市街を望む

 ここの金星台は近代最初の金星観測が行われたところです。勝海舟の海軍操練所に関する撰文碑も建てられていました。勝海舟て物部氏だったのですね。江戸時代の学者では荻生徂徠が物部氏であることを強烈に意識していて自分の名乗りも物徂徠などとしていたことは有名ですが、勝もということは知らなんだ。




金星台

 いつも前を通るだけで「なんじゃー?」と思っていたのが相楽園、三田藩九鬼家の家老の家柄であった小寺泰次郎が屋敷に造った庭園です。見事な菊がたくさん展示されています。




蘇鉄も有名らしい






つわぶき 教えてもらった名を珍しく覚えていたぜー

 厩舎の前では花嫁さんの写真撮影が行われていました。厩舎前でいいのか?



 異人さんの家も移築されています。


旧ハッサム住宅

 姫路藩の藩主が利用した御座船の一部が保存されています。



 周囲に林立する高層ビルは目障りです。これは都市部にある庭園に共通した悩みでしょう。けれども本当に良い庭です。思わず写真を撮ってしまいます。











 相楽園を出た後は西に向かって関帝廟、道観です。



 山手通りに出て少し東に行くと神戸教会。震災後に綺麗に復元されましたが、戦災の跡をしっかりと残しているのは一つの見識です。







 花隈城祉まで下ってきましたここでまたまた師匠に新しいことを教わりました。城跡のこの部分は別名を「ドン山」、大阪城の「ドン」と同じように時刻を知らせる砲音が発せられていたとのこと。それだけでなく、港に入港している船舶がそれを見て時刻を合わせることができるようにカラーボールの上げ下げが行われていたとのこと。「ドン」だけでは何故ダメなのかというと音が船に伝わるまでに時間が経ってしまうからだそうです。なるほど、そういうことは知らんかったわい。



 元町の商店街をよぎって旧居留地に。ここにはレトロなビルがたくさん残っています。震災後も旧に復す形で綺麗に補修されています。


元町商店街


壁だけを残したビル





 メリケン波止場の入り口、これはすぐ前にアメリカの領事館が建っていたためにそう呼ばれるようになった訳で、正式には「萬國波止場」というみたいです。但し、側面にはメリケン波止場と刻まれていました。



 むかーし、タクシーの運転手さんやその筋の人たちと「チンチロリン」をしたころとは様変わりです。何か明るく健全な場所に変わってしまっています。分けても驚きはサンタマリア号、はるばるとスペインから航海してきたということです。







 海援隊を記念したオブジェも建てられています。意味はよう分かりせんが。



 海上保安庁の巡視船が停泊していました。尖閣の守備、御苦労様です。どうせなら戦艦大和級の巡視船を造ってあげたいなぁ。



 震災の跡を一部保存しています。近くには金星台で見たのと同じ碑がありました。右側は陸奥宗光の顕彰碑です。そうか陸奥も繰練所のメンバーですね。





 三宮方面へ戻ると居留地のビルに灯りが点っています。なかなか良い雰囲気です。南京町を少しだけ抜けて、酒は「なぎさ亭」という食堂で飲みました。とにかく安い。なぜ賀茂鶴なのかは分からないけれど。





 ではではと皆さんと別れて一人抜け駆けのぼっかけ焼きそば、ン?神戸だから「そば焼き」かな。ここは多人数で行って並んで座ることは先ず不可能であります。本日は「ぼっかけそばカレーかけ」結構なお点前でございました。



 



8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ちゃっかり抜け駆けたな (mfujino)
2012-12-04 06:24:42
gunkanatagoさん、神戸の街をあちこちまさに徘徊された様で、その内容も豊富と見ました。大勢の歴女を従えて師匠コンビの説明も熱が入ったのではないでしょうか。

福原と言えば平家ですよね(^_・)そして清盛といえばやはり交易でしょう。しかしその後この津が海援隊までどう活用されたのでしょう。源氏の海外を見る目はどうだったのでしょうかね。港と言えば神戸、日本の海の窓口だったのに、今や釜山に大きく水をあけられてしまっている様で残念な現状です。神戸ファッションも余り話題に上らない様な気がするのですが。震災後100m道路が何本か出現したということもない復旧で終わってしまったことが日本の衰退の現状を表しているのではないかなあと勝手なことを考えています。今の選挙でも、福祉や生活ばっかしを訴えている輩がかくも多い日本は益々衰退の道を辿るでしょう。

楠公さんの墓は幾つあったのでしょう。吉富荘に残る貞任の墓の数と良い勝負なのでしょうか?私も北朝贔屓なのですが、これは光厳さんの墓を見ているからでしょうか。楠公さんはあの脂ぎった姿を想像させる後醍醐陣営の中にあって爽やかさで語られているからでしょうか、と質問の連続です(^_・)

今回は庭や花の写真がいつもより多かったですね。南京町は通り過ごされたとのことですが、そういえばgunkanatagoさんが中華料理を話題にすることはないなあ。一人こっそりと「そば焼き」に抜け駆けられたそうで、結構なお点前でなんて書いたら、ずるい~って抗議のメールが殺到するんじゃないかな(^_・)
返信する
晩秋の神戸の街に歴史あり。 (道草)
2012-12-04 06:58:36
このところ、日曜日は他の予定と重なって、中々徘徊に参加出来ず残念に思っております。今回は、例の(と申しましても行ったことはありません)福原からスタートですか。gunkanatagoさんには馴染み深い所でしょう。それより「空気チョコ」なんて初めて耳(目ですか)にしました。
それもそうとして、湊川神社は楠公には縁が無いのですか。例の桜井の別れの後に兵庫へ向かって足利軍に敗れ、自刃してこの神社に祀られていると聞いたことがありますが・・・。廣厳寺にあるのですか。
歴史なんていい加減なものなのですねぇ。私は、北朝でも南朝でもどちらでもいいのですが。それより、楠公は自害ではなくて戦死ですか?

神戸地裁の建物は風変わりですけど、上部を建て増ししたのでしょうか。ヤマダ電器にそっくりなのですか。旧楠小学校の煉瓦塀の保存は結構ですが、この裁判所は完全にアンバラスではないですか。

橋本関雪はここが生地とか。現在は銀閣寺前に邸宅があって、邸内や庭を公開しています。関雪の後継の長男が、かつて合唱サークルで家内とも友達でした。もしかしたらもしかしてたかも・・・と聞いたことがあります。かなり早くに若死にしたそうですが、そのコトが原因でもないでしょう・・・。今は奥さんが取り仕切っているそうですし。

ところで、最近でも清盛像の建立がされているのですか。この写真ではその貫禄がよく分かりませんけど、「雪見御所跡」の石碑はかなりの物に見えます。gunkanatagoさんのご懇意の場所はこの辺りなのでしょうか。
ここにも祇園神社があるのですネ。それよりディエーって何ですか?かなり長そうに見えますけど。祥福寺はご推奨だけあって、中々清浄な佇まいに見えます。京都の俗仏寺は見倣え!とはご尤もです。
盛り沢山の徘徊録でかなり疲れましたが、最後の方で紅葉や菊花で目の保養をさせて戴きました。石蕗もありますし。
私もかなり昔に、元町の古本街へ行ったことがあります。今も健在なのかどうか・・・。「ぼっかけそばカレーかけ焼きそば」は中々美味しそうに見えます。さぞ、ビールが弾んだことでしょう。
返信する
三宮で思い出しました。 (gunkanatago)
2012-12-04 15:17:45
 mfujino様、コメントをありがとうございます。楠木正成の首塚は河内長野の観心寺にありますから(この点、足利尊氏の人のよさが現れていますね。)、もし神戸の墓に遺体が埋まっているとしたら胴塚ということになりますね。湊川神社か廣厳寺のどちらかということになりますが、墓には参り墓というのもあるそうですから、まあ候補地が2箇所ぐらいならば「どちらも正しい」でいいのではと思います。
 神戸港の現状、確かに綺麗にはなりましたが、産業面では衰退していますね。復興時に帝都復興院総裁の後藤新平や御堂筋を造った関一の如き人物がいなかったことが悲劇だったと思います。となると今回の震災の復興も今の民主党政権が続いたらなかなか辛いのですが、まあもうじき潰れるだろうと期待しています。先日、高槻を巡ったら岡田・辻元・細野の3人で写ったポスターが掲示してあって、思わず吐きそうになりました(爆)。よく維新はぶれるとか言われますが、原則魔では政治はできないとおもいます。アホの社民党や共産党のような教条主義を期待しているのでしょうか。
 ぼっかけそば、師匠と別れてから思い出しました。本当は明石焼を食べに行ったのですが、既にしまっていました。たくさん並んでいたら止めたのですが、並んでいたのは3人で、しかもそのうちの二人は続きの席が空くのを待っていましたから、すぐに座れてラッキーでした。
返信する
あれあれ? (gunkanatago)
2012-12-04 15:39:00
 道草様、コメントをありがとうございます。福原、「行ったことはありません」と表向きはみんなそう言っておかないと家庭に波風が立ちます(爆)。麗しの福原は今少し駅寄りということになると思います。良い薬も開発され以前ほど騒がなくなりましたが、日本のエイズ死亡者第1号でしたか、それが福原のお姉ちゃんであった時は大騒ぎになりました。
 楠公は戦った末の自害ですから、戦死と言っていいと思います。織田信長や真田幸村なども同じかと思います。どこで線を引くかは難しいですが、戦闘が収まって戦場を離脱した後の自害は戦死と言えないとは思います。
 神戸地裁は、古い煉瓦建築を残す形で建て替えをしました。それはそれで一つの見識なのですが、出来上がった物が笑える建物になってしまいました。司法に必要な権威というかそういうものが全く感じられません。お笑いのような建物で裁く側も裁かれる側もちょっと可哀想な感じがします。裁判官が、「主文、被告人を死刑に処す」と言った後でニターと笑って「ジョーダンやんか」と言うような感じです。
 空気チョコ、なかなかの逸物です。小生も全く知りませんでした。よく通るフォーラムフォーの地下にも同じ菓子屋があって、確認したらやはり売っていました。一度お試し下さい。ぼっかけそばは長田が本拠地なのですが、三宮で食うならここです。
返信する
思い出されることばかり (ささ舟)
2012-12-08 11:55:28
こんにちは~
今回は懐かしい所が少し出てきて一気に見せて頂きました。平野とこの先の鈴蘭台に30年ほどのお付き合いの知人がいます。加納町の仕事場から北野をを抜けて平野に行きました。今はないかも判りませんが有馬街道の交差点角で玉子だけ山のように積んで売っているお店があり、その筋向かいにトントンと階段を上がると小さな喫茶店があり、ボウルの様なまん丸のグラスで出されるグレープフルーツの絞りたてジュースは絶品でした。もしやそこの喫茶店では?
相楽園の菊も旧バッサム住宅のお庭も素晴らしいですね。ひとりででも入れるのでしょうか。ぼっかけそばカレーかけ、美味しそう食べたくなりました。
祖父は神戸に入りびたし?だったそうで、うんうん・・・
徘徊のご案内ありがとうございます。明日も大分考えたのですが、この足では一万歩がやっとで、参加できないのがとても残念です。
返信する
さすが! (gunkanatago)
2012-12-08 13:21:29
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。さすが、平野という地名をよく御存じです。小生は今回初めて、ああこの辺りを平野と言うのかと知りました。ずっと「あの辺」で通してきた地です。入った喫茶店は南西角の店で、上る階段はありませんでした。
 相楽園、これも初めてでした。もちろん個人でも入ることができます。駅からもそう遠くありませんから、またお出かけ下さい。神戸に入りびたりて、お祖父さんはモダンな方だったのですね。小生も震災前の元町の雰囲気は好きでよく通ったのですが、震災を契機にあまり行かなくなっていました。
 足、大丈夫ですか?一度完治されたと喜んでいたのですが。暖かくなれば、また調子も良くなるでしょうね。お大事にして下さい。
返信する
一見の客です。失礼します! (浮舟)
2012-12-13 11:09:28
 こんにちは。このブログをはじめて拝見しました。ご常連との間の、あまりに渋いレベルのやりとりに、入り口で、長時間、行きつ戻りつした一見の客です。長い逡巡の後、コメントを書くことにしました。

 私は道草さんのブログを通じて、花鳥風月の道を勉強中の若輩者です。道草さんのブログのlinksを通じてここへたどり着きました。フリートーキング風のおもしろいブログですね。みなさん、一家言の持ち主です。
 今、ベトナムで隠居生活をしておりますが、神戸の垂水で定年まで過ごした私としては、神戸の記事は懐かしく、読んでいて「そうそう、そうだった」と「それは知らなかったなあ」の連続でした。そしてちょっと、一言、言いたいなあという気分になった次第です。

 須磨浦公園まで足をのばされたらよかったのにと惜しまれます。平敦盛が熊谷直実に打たれたところや一の谷布陣の際の、安徳天皇の仮の行在所もあり、変化のあるハイキングになったでしょう。(おそらく時間がなかったのでしょうね)。
 神戸昇天教会のことは全く知りませんでした。へー、そうだったの、でした。
 神戸地裁の建物ですが、市民の笑いものといっていいでしょう。古いものと新しいものの調和をめざして改築するという事前のふれこみでしたが、できたものがコレ!!
 調和じゃないでしょう、くっつけただけでしょう。神戸市民、恥辱の記念物です。

以下のこと、お答いただけたら幸いです。
 *荻生徂徠が物部氏の流れを自負していたというのは『政談』でしょうか?天皇を守護する武門の家だったからでしょうか。もしそうなら、徂徠は単純な男になってしまいますが? 
 *あなた様のHNですがもと巡洋艦愛宕の乗組員でしたのですか?(いやそんなバカな、ですね)

以下のこと、おおいに賛成です。
*京都の観光寺はダメというご意見。同感です。。高い拝観料で善男善女と仏が出会うのを妨げているという感じです。金満住職は、夜、祇園で生臭さ坊主丸出しで遊んでいるとか聞きましたが、今は不景気かな?
 *「原則魔(原則を守るような人間でしょうか?)に改革はできない」のご意見、賛成です。ですが、人間はおそろしいほど現状維持が好きですからねえ。また日本人はすぐ妥協しますよね。「何もそこまでやらなくても」と。こと官僚制度の改革に関しては、ここは中国にならって、「おぼれる犬は打て」です。中途半端にやると息を吹き返して前より悪くなる可能性もあります。速やかに徹底的に、こそが本物の改革でしょう。

 うどんに七味、刺身にわさび、おでんにからし、薬味のない料理などありえない。刺激のない人生は無きにひとしいと思います。(自己紹介の追加です)。
 





返信する
ありがとうございます。 (gnanatago)
2012-12-13 14:54:10
 浮舟様、コメントをありがとうございます。ベトナムで悠々自適とはうらやましいです。これから日本が最も大切に付き合っていかなくてはならない国ですね。また、色々東南アジアのことをご教示下さい。
 神戸はこの日は目一杯でした。ご賢察のとおり、何せ集合時刻が遅い上に夕刻にはアルコールタイムが待っていますから(笑)。
 徂徠が物部氏であったことは政談には書いていなかったように思いますが、隅から隅までしっかりと読んだ訳ではないので、もしかしたら将軍吉宗にも知ってもらいたいと書いているかも知れませんね。あちこちの揮毫などで物徂徠の号を使っているようです。
 重巡洋艦愛宕は好きな船です。京都には西に愛宕の峰がそびえています。ハンドルネームは何も考えずにパッと打ちこんで、それいらい使用しています。横文字が苦手ですから時々間違えています。
 昨日は清水寺の貫首が下手くそな字を満天下に晒していました。以前の漢字検定協会の理事長(そもそもヤツが始めたことですから、恥を知るものは今年の漢字なんか無視します)の時には、1回50万円の謝礼を受け取っていたとのこと。今はどうしているのかは不明ですが、恥ずかしい話です。
 ベトナムでの生活、十分に刺激的ですね。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。