全国の木地師のルーツは、滋賀県の愛知川上流の君ヶ畑ということになっていて、今日も多くの木地師の家譜には、先祖がその地域出身であることが記されているということです。この近くにある「京の水」と称する湧き水なども含めて、この地域には興味深い伝承がまだまだあるに違いないと思われます。御陵と称するものも永源寺町にあり(宮内庁が指定するからといって必ずしも権威あるものではありませんが、この役所が認める御陵は京都の大原にあります。)、祭も盛大に行われているようです。ただ、この地域、アクセスは非常に悪く、まあ車でしか行けませんし、そうすると酒は飲めませんしということで、この地域について語る資格は小生にはありません。
そこで、手の届く範囲である京都の伝承について述べていきたいと思います。嬰児としての親王が登場するのは、二ノ瀬と大岩の間にある夜泣峠(よなきとうげ)です。乳飲み子であった親王が乳母と伴に貴船に向かう途次、この峠で夜になり、夜泣きをされた場所ということになっています。これは雲ヶ畑から貴船に向かうときに大岩というところから山に入って通る所で、市内から貴船に向かう際には通る必要のない峠ですから、もはや惟喬親王が嬰児のころから雲ヶ畑に隠棲していたことにもなり、不自然です。ふもとに惟喬親王を祀る守谷神社(或いは惟喬親王の母を祀る富士神社)があることから、まあ、惟喬親王の名を借りた伝承でしょう。この守谷神社も以前は惟喬親王社と称していたそうです。二ノ瀬の守谷神社から雲ヶ畑の惟喬神社に向かうには夜泣峠を通ることになる。その辺りから生まれた伝承といえるのではないでしょうか。若しくは、惟喬親王の神霊が泣き泣き雲ヶ畑から母堂を祀る二ノ瀬まで超えたのかも。
夜泣峠
池波正太郎著「真田太平記」では、真田方の忍者の忍び小屋が夜泣峠にあることになっていますが、諜報活動に携わる忍者の拠点としてはあり得ないと言わぬまでも、やはり不自然です。名前がお気に入りだったのかも知れませんが、逢坂山かどこかに設定するべきでした。
夜泣峠を大岩の方に降りて、雲ヶ畑方面に入っていくと高雲寺、岩屋橋の惟喬神社と縁(ゆかり)の深いところが続きます。ただ不思議なことに、ここより薬師峠への途中にある京都でも屈指の不動明王の聖地志明院に全く惟喬親王の址がない。惟喬親王のおられたころには既に志明院は存在しているはずなのですが、惟喬親王の影すら見えない。これは本当に不思議なことですが、今は宿題ということにさせていただきます。機会があれば、志明院の和尚さんにも伺ってみようと思います。
さて、志明院を過ぎて桟敷ヶ岳という山に登ると、そこは惟喬親王が山に桟敷を敷いて都を眺めたというのが山名の由来にもなっています。頂上付近には惟喬親王が遠く京都を望んだという都眺めの岩というのがあります。ただ実際は、どれが都眺めの岩なのか今一つ判らないらしく、中には到底京都市内が見えぬ所にあるガレ場を以てそれであるという人もいます。小生は、写真の岩がそうなのではと考えています。
薬師峠を越えて大森という集落に下ると惟喬親王の影が強くなります。大森に多い名字である「長」「大神」「高橋」であったか、このあたり不正確かも知れませんが、親王の従者の子孫であるとする伝承を伝えています。この集落も人々の流出が甚だしい。名家に伝わる古文書など今のうちに調査するべきだと思いますが、小生にはその能力も時間もなく、やや歯がゆい気持ちがするところです。
さて市内に出てきたところでは、玄武神社が惟喬親王を祭神としています。玄武は四神のうち北方の守護を司るものということで、北山に伝承の多い惟喬親王を祀る神社としては、いかにもピッタリというところです。ただ、各地の伝承を全て本当に住まわれたということで取り入れようとしているため、神社による親王の説明では、本当に慌ただしく居を移したことになってしまっています。まあ一種の引っ越し魔というところですが、すると今度は何故にそれだけ引っ越しせねばならなかったか?ということで、藤原氏刺客説などが生まれてくるのでしょう。
親王は、大阪府枚方市に口承の残る「渚の院」(京阪電車御殿山駅周辺に「渚」の地名有り)の主でもあります。このあたりは朝廷の猟場(枚方市駅周辺に「禁野」の地名有り)でしたから、惟喬親王が実際に来て、歌を詠んだという可能性は高いと思いますが、口承の残る全ての土地に生身の人としての惟喬親王の暮らしがあったと見ることには無理があるでしょう。
(08年5月の記事に加筆して再録)
そこで、手の届く範囲である京都の伝承について述べていきたいと思います。嬰児としての親王が登場するのは、二ノ瀬と大岩の間にある夜泣峠(よなきとうげ)です。乳飲み子であった親王が乳母と伴に貴船に向かう途次、この峠で夜になり、夜泣きをされた場所ということになっています。これは雲ヶ畑から貴船に向かうときに大岩というところから山に入って通る所で、市内から貴船に向かう際には通る必要のない峠ですから、もはや惟喬親王が嬰児のころから雲ヶ畑に隠棲していたことにもなり、不自然です。ふもとに惟喬親王を祀る守谷神社(或いは惟喬親王の母を祀る富士神社)があることから、まあ、惟喬親王の名を借りた伝承でしょう。この守谷神社も以前は惟喬親王社と称していたそうです。二ノ瀬の守谷神社から雲ヶ畑の惟喬神社に向かうには夜泣峠を通ることになる。その辺りから生まれた伝承といえるのではないでしょうか。若しくは、惟喬親王の神霊が泣き泣き雲ヶ畑から母堂を祀る二ノ瀬まで超えたのかも。
夜泣峠
池波正太郎著「真田太平記」では、真田方の忍者の忍び小屋が夜泣峠にあることになっていますが、諜報活動に携わる忍者の拠点としてはあり得ないと言わぬまでも、やはり不自然です。名前がお気に入りだったのかも知れませんが、逢坂山かどこかに設定するべきでした。
夜泣峠を大岩の方に降りて、雲ヶ畑方面に入っていくと高雲寺、岩屋橋の惟喬神社と縁(ゆかり)の深いところが続きます。ただ不思議なことに、ここより薬師峠への途中にある京都でも屈指の不動明王の聖地志明院に全く惟喬親王の址がない。惟喬親王のおられたころには既に志明院は存在しているはずなのですが、惟喬親王の影すら見えない。これは本当に不思議なことですが、今は宿題ということにさせていただきます。機会があれば、志明院の和尚さんにも伺ってみようと思います。
さて、志明院を過ぎて桟敷ヶ岳という山に登ると、そこは惟喬親王が山に桟敷を敷いて都を眺めたというのが山名の由来にもなっています。頂上付近には惟喬親王が遠く京都を望んだという都眺めの岩というのがあります。ただ実際は、どれが都眺めの岩なのか今一つ判らないらしく、中には到底京都市内が見えぬ所にあるガレ場を以てそれであるという人もいます。小生は、写真の岩がそうなのではと考えています。
薬師峠を越えて大森という集落に下ると惟喬親王の影が強くなります。大森に多い名字である「長」「大神」「高橋」であったか、このあたり不正確かも知れませんが、親王の従者の子孫であるとする伝承を伝えています。この集落も人々の流出が甚だしい。名家に伝わる古文書など今のうちに調査するべきだと思いますが、小生にはその能力も時間もなく、やや歯がゆい気持ちがするところです。
さて市内に出てきたところでは、玄武神社が惟喬親王を祭神としています。玄武は四神のうち北方の守護を司るものということで、北山に伝承の多い惟喬親王を祀る神社としては、いかにもピッタリというところです。ただ、各地の伝承を全て本当に住まわれたということで取り入れようとしているため、神社による親王の説明では、本当に慌ただしく居を移したことになってしまっています。まあ一種の引っ越し魔というところですが、すると今度は何故にそれだけ引っ越しせねばならなかったか?ということで、藤原氏刺客説などが生まれてくるのでしょう。
親王は、大阪府枚方市に口承の残る「渚の院」(京阪電車御殿山駅周辺に「渚」の地名有り)の主でもあります。このあたりは朝廷の猟場(枚方市駅周辺に「禁野」の地名有り)でしたから、惟喬親王が実際に来て、歌を詠んだという可能性は高いと思いますが、口承の残る全ての土地に生身の人としての惟喬親王の暮らしがあったと見ることには無理があるでしょう。
(08年5月の記事に加筆して再録)
御陵の名称も、桃山御陵が近くです。山科には御陵と称する駅もあります。役所が認めたかどうかは知りません。
徘徊堂さんご推薦の名水は、何処がNO1でしょうか。もちろん、銘酒NO1と結び付くのでしょうが。
刺客という要素も頭に入れなくてはならないのですね。実際は何処に安住されたのでしょうか。権力争いの凄さ、存在自体で命を狙われる等々、色々考えると恐ろしいものです。永源寺界隈は秋の混雑期を外して訪れてみたいところです。