花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

八十島めぐり 1

2012年08月09日 | 徘徊情報・浪花
 本日は、大阪にて所用ありというところでしたが、少し時間が取れたので「よし、どっかに行こう!」ということにしました。といっても、お昼を大きく回っているので、そう遠いところには行けない。市内でまだ足を踏み入れていないところに西淀川の南部がありますので、その辺りをウロウロすることにしました。
 出発は阪神電車千船駅。この辺りは昔は淀川や神崎川の造るデルタ地帯で、流されてきた土砂によって幾つもの島ができ、数多くの島という意味で「八十島」といわれたところです。平安時代から鎌倉時代まで、天皇の即位ごとに、この島々の有り様を国生みの説話に重ねて「八十島祭」が行われ、勅使も使わされたということです。生魂さんは、これら島々の神をお祭りした神社ですね。
 「千船」も「八十島」と同じで、数多くの船が行き来したことを形容したものでしょう。駅前には千船病院が建てた碑があります。エライ!



 この千船のある佃(島)は左門殿川を挟んで尼崎市に面しています。左門殿川に関する伝承は、またリベンジ(爆)をやったときにご紹介します。
 さて、駅に掲げられていた地図を必死で覚えます(爆)。何か田簑神社というお宮さんがあるらしいということで。歩き始めました。今、地図を見ると、この地点にあっては、海=南西なのですが、感じとしては南にずっと下る気分です。途中はゼロメートル地帯の真価を発揮して堤防がムチャクチャ高く途中の見通しがききません。工場-倉庫-トラックヤード、また工場という感じで道が続きます。
 この佃の漁師が江戸に移住して、自分たちの住むところに故園の名を冠し、そこで名物になったのが「佃煮」、けれどもここには1軒の佃煮屋もありません。



 ところがどこまで歩いても神社らしいものが見えてきません。とうとう佃(島)の端にまで来ましたが、ついに神社は発見できず。まあ地図もうろ覚えだったので、間違ったかなと思いながら橋を渡って中島に入りました。などと、今は偉そうに書いていますが、この時はどこを歩いているのか全く解っていませんでした。


ここらでは神崎川は中島川というらしい。


工場・機能美を見よ

 きっと、ここを南下したら神社に着くんだと思って西南に進みます。すると神社が見えてきました。やったい!正義は勝つ!と勇躍境内に駒を進めますが(だれが馬に乗ってんねん!)、その名は五社神社。「あれぇ?おっかしいな!ひょっとしたら田簑神社は別名を五社神社というのかも。」と神社に入りますが、全く田簑神社という名が見つかりません。



 このお宮さん自体もいい神社で、よくある何柱かの神様を合祀した神社ですね。お伊勢さん、住吉さん、愛宕さん、八坂さんが合祀されています。お伊勢さんは内宮・外宮の神さん二柱で全部で五社。鳥居も随分と古いものでしたがメモしなかったので江戸時代のものとしか覚えていません。今調べると「くさ」に霊験あらたかなそうですが、そういうことを一切書いていないのはゆかしいですね。



 オッカシイナー、目指す神社はもっと向こうかな等と考え、中島も一番端まで行きましたが、土砂置き場があって巨大な建設機械があるだけ、戻ってくる途中に野球場がありました。ナント!試合をしているのは丹後から来た少年達。「ぼくたちは丹後から来たので、この辺りの神社については分かりません。」とホント明快に答えてくれました。試合はこれからだそうです。ガンバレ!丹後少年。


丹後少年。随分遠いけど。

 神社周辺は昔から集落があったところなのでしょう。古い土蔵が残っていました。その前で、通りかかったお爺さんに「あんのー、ここは一体どこですかぁ?」等と間抜けな質問をすると、「あー、迷子になってんなあ。そこの老人ホームの前からバスが出てるので、それに乗っていきー。」と優しいけど、人をアホ扱い。「どこか」ということは教えてくれませんでした。言っても理解できないと思われたのでしょう。



 とにもかくにも43号線まで戻ってきて、橋を渡ると出来島です。阪神難波線の駅があって、やっと自分のいるところがわかりました。



 そこから先も、どこをどう歩いたのか。今地図を見ると「姫島神社」にも寄れていません。ついたところが阪神姫島駅。ここで謎が解けました。駅の地図は北を上としていないのです。田簑神社に行くなら、千船駅を南西では無くて北東に行かねばならないのでした。けれども、地図では駅の下に描いてあったので、反対の方角に行ってしまった。この姫島駅でも南西を上に地図が書かれています。うー、地図を見つけたとき「阪神エライ!野球は弱いけど(爆)。」と褒めて損した。それにしてもメチャクチャ歩いた感があるのに結局は一駅。



 阪神電車が梅田駅に着くと阪神百貨店の地下に飛び込みました。「ビールぢゃ、ビール。」。ここでちょっとわからぬことが…。
 後から座った隣のオッサンは小生と同じもの(お好み焼きと生中)を頼んだのですが、小生は店のスピードクジとやらを引いて、大当たりぃということでオネエチャンがティシャツをくれました。隣のおっさんはくじ引き無し。これは、「隣のおっさんが10万円(景品に何があるのか知りませんが)とか当てたら嫌やなぁ。」とじーっと見ていたから確かです(爆)。
 また食い物が出たと同時に隣のオッサンは金を払わされてましたが、小生は全部食い終わった後でええとのこと。おまけに生中は半額でした。何じゃー?イカ玉とブタ玉で待遇が違うのかな?隣のオッサンは何も疑問に思わぬようで、ブタ玉をがっついていました。まあ今回は五社神社の御利益ということで。ありがとうございました。

 


6 コメント

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地図を見てる方が楽しい (mfujino)
2012-08-11 00:53:38
gunkanatagoさん、思い出しました。僕も大阪在住の頃自転車で神戸まで走ったのですが、帰りは伝法大橋を渡ってから道に迷ってしまいました。日も暮れてしまいあちこちをくるくる廻っていました。環状線の西九条を見付けて何とかこの苦労から解放されたのですが、南北や目印がないというのは迷路への入口であります。この辺りは分かりにくですね~。
中島川のことを書いてはりますけど、神崎川はちゃんと海まで名前は付いてまっせ。出来島から南西方向に流れるのが神崎川で中島川は神崎川の本流の様に流れています。ちょうど新淀川と昔の淀川の様な様子です。
この出来島という駅名も面白いですね。初島、松島、姫島、御幣島、、、いっぱい残っていますね。昔はさぞ風情のあるところだったことでしょう。しかし昔はいろんな水害にも苦しめられたのではと想像しますが。背を高めれば目が悪く、風情を楽しめば流される。
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正義とは最後に麦酒が半額に。 (道草)
2012-08-11 09:28:21
猛暑の真っ只中を御苦労様でした。ご指摘の如く、駅前の地図はどうして本来(上が北)の描き方ではないのでしょうねぇ。私もたまに首を180度に曲げて、まさに思案投げ首状態になることがままあります。
しかし、無地図派のgunkanatagoは、先天的な御才能と御人徳で無事ご生還され何よりでした。もしかして、五社神社はg家の御先祖に所縁があるのかも。バスを教えてくれた老人も、人品を観て極めて正常に判断したのでしょう。
阪神のオネエチャンに到っては、明らかに好意以上の行為ではないですか。Tは7連敗ですけど・・・。
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中島川 (gunkanatago)
2012-08-12 21:39:32
 mfujino様、コメントをありがとうございます。中島川、神崎川とは別にあったのですね。深謝です。本当にややこしいところで、一旦工場地帯に入ると目印が無くなってしまいます。それでも、ところどころに昔の名残もあるので、しばらくは楽しめそうです。
 ご指摘の通り、名にし負うゼロメートル地帯、水害には随分と苦しめられたでしょうね。本当、目に悪いのですが、堤防は随分と高いです。これがまた、桜の木が植えられるような代物ではなくて、本当にコンクリのかたまりです。
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未だに分かりません。 (gunkanatago)
2012-08-12 21:47:11
 道草様、コメントをありがとうございます。ええ加減なファンで怒られるかも知れませんが、1985年以後、阪神ファンを続けてきていいことは一つもなかった(爆)。今年はもう最悪ですね。かといって他に応援したいチームも無く、今現在は野球は見て見ぬふりです。
 百貨店の謎、当日は「いか玉祭」だったとか、絶対に「なーんや」という解答があると思うのですが、未だに何のこっちゃ分かりません。もらったティシャツが厳然と存在するので夢ではないようです。
 バスの老人、タイミング良く現れましたから、住吉さんのお使いかも知れません。
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 (ささ舟)
2012-08-13 14:48:29
八十島めぐりと伺いましてと云うより、ブログ中ほどの「艀」の写真から、何故か半世紀ほど前、職場から安治川近くの水上施設を見学したことが思いだされました。(でも場所は定かでありませんが)生来、海に縁のない者が見た初めての「家船」の生活にただただ心の刺激の強かった思いが残っています。
♪艀(はしけ)の通いにぎやかに♪の「港」を口ずさみながら書いています。
八十島めぐりはそう近くではないのかも知れませんが・・・論外なコメントですみません。
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昔を想像して (gunkanatago)
2012-08-14 19:47:00
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。また、お返事が遅くなり申し訳ありませんでした。おっしゃるとおりで、この辺りはもはや中世どころか近世の面影も完全になくなっています。かつての状況をできるだけ想像して歩かねば仕方のないところです。
 そしてまた、近代の水上生活者もほとんどが姿を消しました。伊根の舟屋などは今もその姿がみられますが、丹後は海がきれい。為し得れば、汚水の海からは逃れて、陸で暮らしたいというのが、皇子の人の思いであったのではと思います。
 今は往時より少しは海のニオイはマシになっていますが、それでも丹後の海に比べようもありません。
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