せんだって、mfujino様に「近江の記事が3つ」と指摘していただき、改めてカテゴリーを見直しました。横に出ている数字は記事の数だったのですね(爆)。それで、「花洛」なのに摂津が一番多いやんけと気づき、その摂津を見直しているうちに、「おや?富田がない!」ということにも気付きました。昔、あれだけうろついた富田なのに富田駅周辺の徘徊はあるのに、富田御坊の記事がない。
といっても今回は最初から富田を目指したのではなくて、ウロウロしているうちに富田に辿り着いたわけで、まあ怪我の功名。この間のうちから、目的無く歩いていたときに偶然見つけた都加母止塚と足跡塚が大変興味深いので、まあいわば二匹目の泥鰌を求めて徘徊しているうちに富田に辿り着いたという次第。
本日は、小生にとっては全く未知の地域である市役所の南西部から始めました。オリンピックも何もかも無視して、炎天下の徘徊です。歩き始めてすぐに素盞鳴尊神社を発見、幸先ええやんけ!と喜びましたが、説明も何もありません。おまけに「鳩に餌をやるな」ということをクダクダと説明付で書いている。「うー、ろくでもない!縁起悪い。」と思いながら既にして神も去ってしまわれたかも知れぬ神社を出るとすぐに芥川の土手です。
このまま、芥川沿いに北上しようとする気持ちもおこりましたが、それは知っているところに行って安心しようということにつながるので、ここは近くの橋を渡って、未だ歩いたこともない土地をうろつきます。しばらく行くと、芥川の支流である女瀬川、今まで行く度かこの川を渡っているのですが、女瀬川というということは初めて知りました。
地名は「津之江」とか「五百住」とか何か興味深い名が続きます。けれども何にもよう見つけません。小学校に如是小学校というのがあり、先ほどの「女瀬」はこのようにも書くのかということを知りました。伊勢物語で男が連れ出した姫君が鬼に食われたのは芥川流域なので、それに絡むのではなどと勝手に想像していたのですが、怪しくなりました。
アカン、何もないやんけと思っているうちに小寺池、ああもう知っているところに出てしまった。
ベンチの下では鳩たちが直射日光を避けて涼んでいます。鳩にもそういう智慧はある。もちろんヒモジイという感情もあるでしょう。何かの縁でこの世に共におるわけですから、「汚れる」ぐらいのセコイ理由で排除すべきではないのです。汚れたら掃除したらええねん。最後の言葉は小生が言っても全然説得力はありませんが。
ここまできたら、蕎麦の「ほの香」。富田酒の清鶴が飲めます。蕎麦は師匠も太鼓判。富田酒については芭蕉の高弟である幇間の其角が「けさたんとのめやあやめのとんたさけ」と回文で詠んだ句が知られていますが、今は富田の蔵元は2件です。危うきに遊ぶと評される其角、芭蕉の弟子の中では一番好きです。支考なんかちょっとコワイもんなあ。例によって蕎麦の写真は撮れていません。
ここから富田御坊に向かいます。途中に入江若水の墓がある寺もありますが、よーく見ると寺の入り口に「宗教者九条の会」のポスター。「あかん!アホの気が漂っている。」ということで無視します。
基本的に「憲法9条」云々を言うヤカラは勉強不足+性格異常者が多いですね。自分の果たすべき責任を誰かになすりつけて平気な連中、昨今の原発デモにもつながるような。穢れたものを見てしまったと、後で神社で目を洗いましたが、別に神は誕生しませんでした(爆)。
富田御坊は本照寺、もともとは光照寺といったそうです。今も大きな伽藍がありますが、摂津名所図会が刊行されたころには本堂がなかったようで、そのことも掲示板に記されていました。
本照寺の隣に三輪神社、立派な神社です。ここの手水舎の水をいただいて、穢れた目ん玉を洗います。すると目に飛び込んできたのは鳩の姿、おー、えーお宮さんやなあ。
隣は普門寺、そう1561年に三好長慶に下った細川晴元が退隠した寺です。長い長い抗争は終わり、晴元には普門寺が終の棲家となりました。長慶にとって晴元は父の仇なのですが、両者の関係はそう単純なものではありません。本日は両者の長い戦いについては略します。晴元の死は1563年、長慶は64年、戦いが集結したときに2人に残されていた時間はわずかでした。既に1560年には桶狭間で織田信長が今川義元を討ち取っています。晴元が変質者でなくて、長慶と一致協力して畿内を治めていたらなあと考えるのも真夏の妄想。
普門寺から道に出たところに道標。ここから南に下っていく道の感じは奈良町の果てによく似ていると思います。
ここをしばらく西に行って、少し南下すると酒造会社です。この一画の一部が建て売り住宅の用地になっているのが惜しい。
駅に戻る途中にも大正時代の道標がありました。駅までの道の酒屋さんで富田酒を買うことが出来ます。駅に近づいたら銘菓「たらちね」。
結局、二匹目の泥鰌は見つかりませんでした。自分が歩いた筋をひとつずらしたらーナドと思いますが、まあキリもないことになりますね。
で、本日もゴーヤの天麩羅であります。冷や奴を半分かじっているところがイヤシイですね。アカン、パターン化している。2つの塚はとても興味深いけれども、次の徘徊は高槻を離れねば。
といっても今回は最初から富田を目指したのではなくて、ウロウロしているうちに富田に辿り着いたわけで、まあ怪我の功名。この間のうちから、目的無く歩いていたときに偶然見つけた都加母止塚と足跡塚が大変興味深いので、まあいわば二匹目の泥鰌を求めて徘徊しているうちに富田に辿り着いたという次第。
本日は、小生にとっては全く未知の地域である市役所の南西部から始めました。オリンピックも何もかも無視して、炎天下の徘徊です。歩き始めてすぐに素盞鳴尊神社を発見、幸先ええやんけ!と喜びましたが、説明も何もありません。おまけに「鳩に餌をやるな」ということをクダクダと説明付で書いている。「うー、ろくでもない!縁起悪い。」と思いながら既にして神も去ってしまわれたかも知れぬ神社を出るとすぐに芥川の土手です。
このまま、芥川沿いに北上しようとする気持ちもおこりましたが、それは知っているところに行って安心しようということにつながるので、ここは近くの橋を渡って、未だ歩いたこともない土地をうろつきます。しばらく行くと、芥川の支流である女瀬川、今まで行く度かこの川を渡っているのですが、女瀬川というということは初めて知りました。
地名は「津之江」とか「五百住」とか何か興味深い名が続きます。けれども何にもよう見つけません。小学校に如是小学校というのがあり、先ほどの「女瀬」はこのようにも書くのかということを知りました。伊勢物語で男が連れ出した姫君が鬼に食われたのは芥川流域なので、それに絡むのではなどと勝手に想像していたのですが、怪しくなりました。
アカン、何もないやんけと思っているうちに小寺池、ああもう知っているところに出てしまった。
ベンチの下では鳩たちが直射日光を避けて涼んでいます。鳩にもそういう智慧はある。もちろんヒモジイという感情もあるでしょう。何かの縁でこの世に共におるわけですから、「汚れる」ぐらいのセコイ理由で排除すべきではないのです。汚れたら掃除したらええねん。最後の言葉は小生が言っても全然説得力はありませんが。
ここまできたら、蕎麦の「ほの香」。富田酒の清鶴が飲めます。蕎麦は師匠も太鼓判。富田酒については芭蕉の高弟である幇間の其角が「けさたんとのめやあやめのとんたさけ」と回文で詠んだ句が知られていますが、今は富田の蔵元は2件です。危うきに遊ぶと評される其角、芭蕉の弟子の中では一番好きです。支考なんかちょっとコワイもんなあ。例によって蕎麦の写真は撮れていません。
ここから富田御坊に向かいます。途中に入江若水の墓がある寺もありますが、よーく見ると寺の入り口に「宗教者九条の会」のポスター。「あかん!アホの気が漂っている。」ということで無視します。
基本的に「憲法9条」云々を言うヤカラは勉強不足+性格異常者が多いですね。自分の果たすべき責任を誰かになすりつけて平気な連中、昨今の原発デモにもつながるような。穢れたものを見てしまったと、後で神社で目を洗いましたが、別に神は誕生しませんでした(爆)。
富田御坊は本照寺、もともとは光照寺といったそうです。今も大きな伽藍がありますが、摂津名所図会が刊行されたころには本堂がなかったようで、そのことも掲示板に記されていました。
本照寺の隣に三輪神社、立派な神社です。ここの手水舎の水をいただいて、穢れた目ん玉を洗います。すると目に飛び込んできたのは鳩の姿、おー、えーお宮さんやなあ。
隣は普門寺、そう1561年に三好長慶に下った細川晴元が退隠した寺です。長い長い抗争は終わり、晴元には普門寺が終の棲家となりました。長慶にとって晴元は父の仇なのですが、両者の関係はそう単純なものではありません。本日は両者の長い戦いについては略します。晴元の死は1563年、長慶は64年、戦いが集結したときに2人に残されていた時間はわずかでした。既に1560年には桶狭間で織田信長が今川義元を討ち取っています。晴元が変質者でなくて、長慶と一致協力して畿内を治めていたらなあと考えるのも真夏の妄想。
普門寺から道に出たところに道標。ここから南に下っていく道の感じは奈良町の果てによく似ていると思います。
ここをしばらく西に行って、少し南下すると酒造会社です。この一画の一部が建て売り住宅の用地になっているのが惜しい。
駅に戻る途中にも大正時代の道標がありました。駅までの道の酒屋さんで富田酒を買うことが出来ます。駅に近づいたら銘菓「たらちね」。
結局、二匹目の泥鰌は見つかりませんでした。自分が歩いた筋をひとつずらしたらーナドと思いますが、まあキリもないことになりますね。
で、本日もゴーヤの天麩羅であります。冷や奴を半分かじっているところがイヤシイですね。アカン、パターン化している。2つの塚はとても興味深いけれども、次の徘徊は高槻を離れねば。
ただ、芥川は何度も聞きましたが、女瀬川の名は訊いたことがありませんでした。確か、水無瀬川もあったと思うのですが?
そうですか。三輪神社の手水舎の水は、総ての汚れを洗い流してくれるご利益があるのですか。外観も中々立派な神社に見えます。お隣りの普門寺も、さぞ由緒があるのでしょう。
我が家から比較的近い御香宮の美味しい水は、最近は不純物が混在しているとかで取水禁止になっているとか。別に鳩を疎外してはいなかった、と思うのですけど。
最後は落ち着く処へ落ち着かれて何よりでした。ただ、氷室の名が登場しなかったのが残念ではありますが・・・。
御香宮、とうとうそうなりましたか。亀岡の乳の泉などもそうですが、大量のポリタンクを持ってきて水をくみに来る業者とおぼしき連中が泉に煙草をポイ捨てするわ、辺りを徘徊して民家に侵入するわで、源泉からの採取を禁じました。どこでも水の湧くところマナーの悪い連中と管理者とのいざこざは絶えぬようです。
御香宮も水質云々ではなく、多分神社側がウンザリしたのではないでしょうか。
富田や茨木界隈の電器機械の工場、ほとんど撤退してしまいました。そのうちシナでエライ目にあって帰ってくるでしょうけど。
そうだ師匠が「とんだ酒」を書いておられたのを思い出していたら、ここにもちゃんと登場してますね。とんだ酒だわい、と申すところ。
富田御坊ですか。吉崎御坊へ行った時、御(お)坊さんが、御坊とは寺院事務所があるところって説明を聞いた様な気がするのですが、この辺りの拠点だったのでしょうね。真宗の県庁ってところなのでしょうか?
憲法九条や原発反対ってデモしてる輩の単細胞的脳構造には何か寒いものを感じています。昔の安保反対と同じ精神構造ですね。
蓮の季節ですね~、あちこちで咲いてます。平の沢池にも咲いていましたね。福徳寺のはどうなんだろう、近すぎて最近は行ってません。しかし大阪の川は風情がないですなあ(*_*)
今回は摂津富田ですね。ずいぶん前に摂津峡や樫田の菖蒲園は数回行きました。
其角の「けさたんとのめやあやめのとんたさけ」なるほどなるほど、どちらから読んでもですね。すると昔からお酒と菖蒲が有名だったのか知ら?
芥川の源流はどの辺りかな。昔は樫田、出灰から亀高へ同級生が3人来ていました。
富田御坊は知りませんでした。阪急沿線の総持寺、(あっ、茨木市かな)は巡礼でお参りしました。21番穴太寺の次が攝津に入り総持寺ですね。
ゴウヤの天ぷら美味しそうですね。私も好きです。
大阪の川、高度経済成長期に殆どが三面張りの味気ない姿になりました。根底にあったのは「ただ水を流す通路であればよい」という考え方ですね。これでも、そこそこ土砂がたまってマシになってきたほうです。これらの川を生き物が棲めて子供たちが遊べる川にしていくというだけでも随分と雇用が生まれますのにね。
マスコミの事実を隠した反原発デモの報道にうんざりしています。アジっているのは、間違いなく極左の連中です。
今は、丹波方面と北摂、公共輸送機関が切れてしまっているのは残念です。亀岡発高槻行や、池田行のバスがあってもいいと思いますのにね。
総持寺にも有名な蕎麦屋があります。一度、総持寺辺りからウロウロして、最後にゴーヤの天麩羅で締める徘徊を計画しますね。