花洛転合咄

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源頼光勲功記①

2010年12月13日 | 徘徊情報・河内国
 江戸期宝永年間に出たとされる『源頼光勲功記』は、今から30有余年前に当時の多田院の宮司さんにより訳出本が出されましたが、既に絶版となって久しいようです。宝永以後には『源頼光勲功図会』と称するものが幾つかの「勲功図会」の中の一冊として出版されていますが、それらの多くは『前太平記』の翻案であるとされています。幸いにして、『前太平記』は国書刊行会より出版されているために手に入りやすく、また此の本が後に書かれた多くの書物のネタ本とされたということは十分に頷けるところで、実におもしろい内容となっています。
 以前に素朴なあこがれとして源頼光の父である満仲について取り上げましたが、さらに論を進め源家の将軍を顕彰するべく、敢えて『源頼光勲功記』の名を冒して、その伝承を取り上げます。近年、源家を取り上げる者は、その心事を曲解し、北摂の英雄たちを矮小化するものが多いのですが、例えそれが事実に近いものであっても多田御家人の多くを友人に持つ身としては「それが、どうした?」というところです。
 源頼光は、満仲の長子であります。後に源氏の惣領家となっていくのは、頼光の弟の頼信の系統で、満仲・頼光までは神人相関というか、ある意味怪しげな伝説に彩られているのに対し、頼信からは俄然人間界の出来事のみが伝わるようになります。この一線はどういうところで引かれているのか、未だに答も出せていないのですが、頼光の子の頼国ともなれば、もはや単なる一受領でしかなく源家草創期の神話とは全く縁遠くなってしまいます。
 さて、理屈はともかくとして、頼光伝説中の最大のものは、やはり「大江山の鬼退治」でありましょう。その粗筋などは、どのようにしても知ることが出来るものでありますから、ここで再録はしませんが、基本的には「酒呑童子」なる鬼の親分を奇計を以て討ち果たした話です。この一話を以て頼光は戦前までは「英雄中の英雄」・「武将の中の武将」の立場を確保していました。今は老人が昔話として孫どもに「昔、頼光さんという武将がいてなぁ…。」というように語る習わしはほぼ尽きてしまい、第一老人社会でも余程の好事家でない限り、そういう話が伝わらない、かくして為すことのない老人は日がな一日スーパーなどのベンチに腰かけて人生の無駄遣いという状態に陥っているようです。閑話休題。
 さて、この酒呑童子については、伝えられているその形状(大男・色白)により沿海州あたりから流れ着いた白系ロシア人であるという珍説もあるのですが、頼光のころは沿海州は女真(狩猟民族・清朝はこの後裔)のパラダイス、白系ロシア人説はロマンチックではありますが、まあちょっと無理があります。また、その根拠地として旧大江町(現福知山市)の大江山を指す場合も多く、旧大江町などはその伝説を基として町おこしなどをしていたため、ちょっと言いにくいのですが子分の茨木童子の伝承から考えて、大江山=丹後説も無理なような気がします。
 やはり頼光が退治した酒呑童子の本拠地は京都と亀岡の境界の大枝の山々と考えるのがいいと思います。老ノ坂の名を持つ山並みは、そのまま高槻や茨木に伸びて、池田まで続いています。頼光の都以外の根拠地であった摂津多田荘からは、南下して西国街道に出て上京するより、北上して老ノ坂を越える方が稍近いように思えます。
 律令国家が漸くその力を失い、地方に武士が勃興した原因の一つは治安の悪化であります。老ノ坂は今日でも夜中に一人で越えろなどと言われるとちょっと遠慮したい場所で、くねくねと山道が続きます。往時なれば山賊群盗の栖であったであろうと容易に想像することができます。丹波山城間にあって旅人を襲ったり、時には都に出て乱暴な働きをする連中が多くいたと考えられます(余談ですが鈴鹿峠にも山賊の鏡岩の伝説が残っていますね)。
 多田荘と京都の往復の過程で、こういう群盗を(時に山賊の首領)を退治することもあったのではないでしょうか。老ノ坂に今も残る酒呑童子の首塚、その伝承は逆にここに首塚があったために後に作られたものでしょう。多田院に残る「首洗いの池」、これは武士の本拠で私的制裁が行われていたことが貴族の日記に残されていますから、幾つかの首は実際に洗ったであろう、後年「首洗い」の伝えが残り、さればということで酒呑童子と結びついたのでありましょう。
 となると、顕彰すると言っておきながら頼光鬼退治を卑小なものにしてしまっているではないかとお叱りを受けそうですが、山賊でも何十人と子分のおるものが酒呑童子のモデルでしょう。現実にそやつを討ち取るということは凄いことなのであります。例えば新撰組の名を高からしめている池田屋事件でも新撰組が討ち取った人数は9名です。この一件で池田屋事件は、何度も何度も語られているのです。頼光も、一時的にせよ、老ノ坂の山賊を壊滅せしめたということであれば、十分に英雄たる資格はあるのです。

 写真は、池田市の五月山(麓の神社に頼光手植松の残骸あり)


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