花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

花隈城等々

2011年11月29日 | 徘徊情報・摂津国
 世に、人の夢の話を聞くぐらい馬鹿臭いことは無いと申しますが、敢えて書かせていただくと、ピロシキを食う夢を見ました。小生は、夢などトンと見ない方で(というか見ても忘れる)、ここ数年でも記憶に残る夢は殆ど無いのであります。栂尾の明恵上人は「夢記」などを残されましたが、小生の夢記などは3行もあればそれで終わる。
 新開地の「よつばや」でピロシキを頼み、アツアツが出てきて「ナハハ、ナハハ。」と喜んで食おうとしたところで目が覚めたのですが、しばらくは鼻の周辺でピロシキのニオイがしておりました。もうそれからは、頭のおおよそ10分の9をピロシキが支配している。近所の人と会っても「こんにちわーピロシキ」、「どこにいきゃはんの?」、「ちょっとその辺までピロシキ」とこんな具合。幸い、本日は予定も何も入っていなかったので、夢をかなえるため(ささやかすぎて自分でもゲーが出そう)、新開地界隈をブラブラしました。

 因業な話ですが、最近は何があってもウロウロしてからでないと食い物がウマクない。純粋に食べるためだけの外出が出来なくなっています。さすがに結婚式の披露宴に出席したときには、黒服を着ていてはウロウロしにくいので、やむなく家から会場のホテルに直行しましたが、やはりビールがあまりウマクありませんでした。
 従って、飲み会やその他で友人と待ち合わせをする時でも最低1~2時間はウロウロしてから、その場所に行きます。これはお呼ばれも同じ、どうせ食うならおいしく食わねばなりません。朝の6時から始まる茶事に永遠に行けないだろうなあと考える所以でもあります。多分師匠も同じような体質になってしまっている筈です(笑)。

 本日は混雑している南側を避けて、三宮の北側の通りを西に向かいます。その名も三北通(さんきたとおり)。歩いてしばらく行くと義市商店、神戸牛ステーキ(小さいけど)、神戸ワイン、明石焼きが「神戸づくし」というセットになっている店です。よく来た店ですが、ヌ?値段が上がっているような。何にしても本日はピロシキピロシキ。

             

 元町の駅を超えたところに花隈城址があります。ここの石垣やその他は全てが最近のもので往時の城の遺構は殆ど残っていません。公園全体を「この付近花隈城跡」という石碑だと考えればいいです。

             

 花隈城は、織田信長から1574年に摂津守護に任じられた荒木村重が築いた城で、山陽道(西国街道)や神戸沖を航行する船舶の監視の機能を滝山城から引き継いだ城と考えられます。当時は織田信長は石山本願寺と交戦中で、播磨の動静も未だ定まらず、本願寺に組する毛利氏に対処する必要がありました。
 1578年、荒木村重は織田信長に反しますが、翌年の9月には籠城中の有岡城(伊丹)を脱出して尼崎城に入ります。有岡城の落城後は尼崎城とこの花隈城で織田軍と対峙したのですが、花隈城は1580年7月2日に信長の武将池田恒興(信輝)によって落とされました。その後まもなく廃城になったようですから、花隈城の城としての命は極めて短いものであったわけです。既に同年の1月に三木城の別所氏が滅亡していますから、播磨一円も殆ど平均され、花隈城の役割も不要になったのでしょう。
 ところで、尼崎城の落城については、何等記録を見ませんが、どうであったのでしょう。また、村重は毛利氏に逃れるまではどちらの城にいたのでしょう。尼崎城にいる村重を有岡城から家来が説得に行くのですが、説得できないと知るや家来もまた逃げてしまいます。そのせいで有岡城に残された女子供は信長によって皆殺しにされました。もう本当に戦国武将らしい戦国武将です。江戸時代の朱子学のアカがついた目で見ると許されざることでしょうが、本人はいたって平然としていたのでは。

             

 摂津池田氏の家臣から出発した村重の城を尾張池田氏が落とす。城跡に建つ碑には信輝の子孫が揮毫しています。

             
             南、海側を臨む。ビルだらけ。

 現在の公園は城のごく一部で、往時の城はこの辺り一帯に広がっていました。天守閣付近は寺となっています。何かあるかなと中に入り、「おっ、説明板。」と思って近づいたら「お墓参りの規則10箇条」でした。近くには厳島神社がありました。

             

             
             厳島神社

 そのまま下山手通りに出ると神戸教会、神戸女学院の親分です。1932年の建物、戦災にも震災にも耐えてなかなかに美しい。

             

 通りを超えて北に進むと関帝廟、三国時代の英雄関羽雲長を祀る道観(道教の寺)です。小生が三国志に狂ったのは中2のころ、近年のブームには背を向けていましたが、先日久しぶりに宮川尚志先生の「諸葛孔明」を読んだらやはり面白い。三国志は演義や小説類よりもきちんとした正史に基づくものの方が逆に面白いのです。もっとも、時代は違いますが史記などに記されている話の中には随分と芝居の影響を受けているものもある(確か刺客列伝など[うろ覚え])と晩年の宮崎市貞先生が言っておられますから、なかなか話は難しい。
 映画レッドクリフなどは史劇ではなく、まあ一種のSFですね。これ以外でも、赤壁の戦いなどで「曹操の軍80万」等というのは、やめたほうがいい。この漢末から三国の争乱時には、それまでの支那史を形成してきた民族は殆ど全滅しかかっていますから、80万もの軍勢を握っていたら争乱をとっくに収めてまだまたお釣りが来る。今の漢民族は、隋や唐の帝室がそうであったように、北方や西方の遊牧民族や狩猟民族が何度も何度も南下してきて混血に混血を重ねて出来上がったものです。

             

             

 中では紙銭なども売られていましたし、線香も映画「霊幻道士」等に出てくる長いヤツ。中でお祀りされている関羽は完全に京劇スタイルです。
 下山手教会はついに震災から立ち直ることが出来ず、碑だけを残してマンションになっていました。

             

 南下すると八宮神社(六宮合祀)、先だって七宮にもお参りしましたから、またまた一から全部お参りせよということかな?

             

             
             神戸地裁、工夫したのに電器の量販店みたい。

 ほど近くに湊川神社、御祭神の性格というものはあまり問われずに七五三に来るべき人は来るようですね。今日ばかりは大楠公も笑顔で過ごされる一日でしょう。巫女さんも走っています。出店もチラホラと出ています。

             

 ということで、本殿周辺は避けてお墓参りをします。徳川光圀によって建てられた「嗚呼忠臣楠子之墓」という墓標が建つところです。

             

 隣に建つ徳川光圀像は第一印象「ショボー」というところですが、撰文は徳富蘇峰、原像は平櫛田中、鋳造伊藤忠雄と錚々たるメンバーです。けど、何かしょぼいしひ弱です。光圀は老境にあっても、家臣の藤井紋太夫を手打ちにした人物ですから、もう少し骨太に造るほうがいいのでは、といまさら言っても仕方がないですね。栄養失調の老人を墓前に置かれて大楠公も苦笑いされているのでは。

             

 福原です。平清盛を想像してはいけません。ここは小生の知っている土地の中では最もポン引きの多いところです。写真の柳筋もさることながら一つ西の桜筋がすごい。筋と筋の間の道にもワンサカ。今はどうなっているかな。ブーーーーーーーーーン(偵察中)、同じです(断定)。10メートルに1人ポン引きがいて誘ってくれます。清盛の福原京は滅んだけど、今の福原の灯よ永久[とわ]にと申す処。呼び込み禁止条例、ヤクザとのつきあい禁止やその他云々、本当にケチくさくてセコイ時代だけど頑張ってね。そんなことよりも共産党(ヤクザ以下やんけ)の非合法化とか、やるべきことはいっぱいあるのに…(嘆息)。

             

 めざす「よつばや」は新開地の駅にあります。先ずはピロシキ、それから串カツ、酒は菊正宗一種類のみです。本日は明石焼きは遠慮しました。理由は後述します。ピロシキのタネの発酵中はチャイコフスキーの音楽を聴かせているそうです。河内音頭にしてくれと申す処。

             

             

             

 実は、新開地の駅に降りる前に近くで「たこ○水産」というのを発見していました。これは、今入っておかないとまた夢に見る。ということで、明石焼きは遠慮したのです。

             

 食い物の方がビールより先に出てくる店も珍しいですが、それだけ食いもん商売にすれていないということでしょう。たこ焼きも未だ熟さずというところ、たこはウマイのですが、粉がついて行っていません。よつばやで明石焼きも食えば良かった。

             

 まあ、明石焼きは、ここでないといかんということもありませんから、夢には出てこないでしょう。それでも帰宅後に何か忘れているなあという感じがずっとしていました。何やろう?あー気持ち悪い。翌日になって思い出しました。師匠が飲み屋に忘れた傘を取りに行くこと、でした(爆)。
                        

 




 


6 コメント

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Unknown (mfujino)
2011-11-30 01:14:51
gunkanatagoさま、今回は神戸の地ですか。我が大阪時代は神戸の思い出は余りないのですね。六甲へは何回か行ってますし、震災の後は日曜日毎に炊きだしに参加したりしてましたが。あそうそう、阿倍野から自転車で中華街まで走り、ネギラーメンを食し、神戸港を見て夕暮れに漸く帰宅したこともありました。
gunkanatagoさまにとっては灘は特別な響きがあるでしょうし、今回はピロシキですか。先日美山で久しぶりに再会した我が上司は、おい藤野君あそこの※は美味いらしいぞ、行こか、と昼飯を食いに地下鉄に乗っていったりいろいろ経験させて貰いました。あ、あれ食いたいと足を運ぶのは健康、健全な姿であります。究極は余市、いや小樽のウニ丼を食いに行こうかという話も出ましたがこれは実現していません。本人は毎年食する機会があり、美味そうに話しをするものですから、行きたい気持ちもあるのですが、、、
神戸や横浜の中華街で美味い中華料理を食いたいというのは我が願望であります。京北には中華の店がないのが不満。
美味なるもの求めて足を運ぶ
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神戸の中華街など (gunkanatago)
2011-11-30 13:34:51
 mfujino様、コメントをありがとうございます。mfujino様の上司に当たる役割を今度は御本人がしていただいて、「といごぼ天うどん」や「しまらっきょう」等々いろいろと教えていただきました。「あ、あれ食いたいと足を運ぶのは健康、健全な姿であります」とのお言葉、ありがとうございます。
 京都では、四条川端にピロシキを食べに通いましたが、ここはピロシキだけでは済まないし、ピロシキだけをとれば新開地の勝ち!だと思います。
 神戸の中華街は、偏食家の小生には縁のないところです。どうしても中華料理店に行かねばならなかった時は、ポテトばかりを食べて酒を飲んでいました。そこで、mfujino様が中華街で食事されている時に、小生はピロシキを食べていて、その後に合流して三宮で地ピールを飲むなどはどうでしょう(笑)。
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偶然に・・・ (ささ舟)
2011-12-01 15:08:55
いや~楽しいですね。夢の続きで神戸にピロシキを食べに行かれたのですか^^
私も神戸のピロシキと信州の野沢菜のおやきが大好きです。とにかくこねたものは何でも好きです。
恥かしいですが荒木村重のことは何も知りませんでした。たまたま昨日借りた『細川ガラシャ夫人』三浦綾子著を読み進んでいますと何と、荒木村重の名前が目に飛び込みました。明智光秀の娘、玉子(ガラシャ)の姉、倫は荒木村重の嫡子村次の最初の妻だったとか。
*光秀は最後まで、村重が信長と和睦するよう働きかけたが・・・
信長の残虐な刑の恐ろしさ、ここでは書けません。*光秀はこの噂を亀山城で聞いたそうです。
私いまここを読んだとこです。あまり偶然だったから、ひとりで興奮しています。
gunkanatagoさんは、この本読まれましたか?この部分コピーしてお送りましょうか?
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荒木村重 (gunkanatago)
2011-12-01 15:37:02
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。コピーして送っていただくのは申し訳ないです。書名を教えていただきましたので、また池田文庫で読ませていただきますね。三浦綾子はクリスチャンとしてガラシャ夫人に興味を持ったのでしょうね。
 そう、光秀の娘は荒木村重の息子に嫁ぎましたが、謀反の時に離縁されています。戻った後は湖水渡りで知られる明智左馬之助に嫁ぎましたが、幸せだったのは本能寺の変までですね。左馬之助は坂本城で自害したことになっているのですが、行方をくらませたという説もあるようです。2人で静かに暮らしたのであれば大団円です。
 尼崎の七松、京都での荒木一族の処刑は酸鼻を極めたようです。信長もさることながら、当然そうなるのにそういう道を選んだ村重父子にも?ですよね。
 神戸のピロシキを御存じとはサスガ!信州のお焼きもウマイですね。何か夢に出てきそうです(笑)。
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食べ物の恨み辛みは大きくて。 (道草)
2011-12-02 09:59:21
夢にも正夢とか逆夢とか悪夢とか善無など色々ある様ですが、食べ物の夢ほどコワイものはない、と言います(言いませんか?)。いずれにしても、覚えている夢なんて極稀で、朝には大抵忘れているものです。そうかと思えば、大昔に見た夢(断片ですが)を未だに覚えていたりすることもあったりして、かなり複雑です。ただ、人間は眼球以外でも、ものを見ることは可能だ、との証明になるのは事実です。

神戸の元町でしたか、ラーメンを食べたことはありますけどピロシキは無いです。三田の神戸牛を売りにしている店が難波にもあって、昼食で入った記憶はありますが。そう言えば、梅田のぶぶ亭とかの明石焼きは何度か食べました。最近の食女食男からすれば邪道かも知れませんが・・・。

肝心の荒木某は、明智より先に信長に反抗したのでしたか。遠藤周作「反逆」をずっと昔に読みましたが忘れました。女房子供や家臣などの多数が処刑されたのに、本人は生き延びたとか。戦国武将の生き様と申せは、まさにその通りなのでしょうけど。
三国時代になれば、なおさら雲どころか宇宙の彼方です。「霊幻道士」は確かキョンシーとかが出て来ませんでしたか?劇画調の映画でしたけど。

福原まで来れば、完全にgunkanatagoさんの縄張りでしょう。10メートルで1人から声を掛けられるとなると、相当なカオとお見受けしました。カードか何かお持ちとか?最近はicocaが使えるのかも知れません。
それもそうとして、神戸のピロシキは、河内音頭より六甲おろしではないでしょうか。どちらにしても、チャイコフ某は遠過ぎて効き目は無いのでは。最後のたこ焼きはやや残念でしたが、粉は何処産のが最高なのか・・・。それと、最近は100円の傘を売っていますので、それなら何処で忘れても諦めは付きますから。
私事ですが、パソコンが故障するやら長女が遊びに来るやら(両者に因果関係はありませんが)で、ばたばたしております。南禅寺は紅葉が美事でした。
「たこ焼きに釣られてごめん明石焼き」道草。
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戦国時代は (gunkanatago)
2011-12-02 13:53:06
 道草様、コメントをありがとうございます。南禅寺に行かれたのですね。平日だったら、未だ歩ける感じでしょうが、土日はやはりエライことになっているようですね。
 我々はどうしても江戸時代の朱子学的な観念論で過去を眺めてしまいますから、荒木村重の所業なども非難の的になってしまいますが、考えてみれば、信長以前というか応仁の乱から約100年間は、村重の行動が寧ろ普通でした。潔く腹を切るなどということはある種責任のある武将は絶対にしません(笑)。
 伊丹の有岡城から尼崎城にいる村重を説得するために赴いた家老が、説得できないと悟った瞬間に村重と共に仲良く逃走、ああ戦国時代やなあと思います。村重はその後確か道薫でしたか、これを名乗って秀吉に仕える茶人として余生を送ったようですから、野間峠の怪奇ごときにビビル我々とは精神の逞しさが違うなあと思います。
 新開地、いいところです。大阪の天王寺に比べるとちょっと寂しいかなという感じもします。
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