本日は、師匠の案内で西賀茂の徘徊。雲ヶ畑や鞍馬に行くバスに乗ると、上賀茂神社付近からは川の東を走ります。その時に西に見えているところが西賀茂なのですが、今までは殆ど足を踏み入れなかったところです。以前は、一面に田畑が広がっていましたが、今は宅地化の波が押し寄せてきているところでもあります。
出発地の市バスの西賀茂車庫から少し北に上がります。五山の送り火の舟形がすぐ近くに見えています。本日の徘徊の前半は、この山の麓に沿って歩いていきます。この辺りは賀茂川が山間部から出て、京都盆地に流れ出すところ。かつては川上村と呼ばれていました。この村の鎮守が川上大神宮です。
御祭神はスサノオの命ということですが、拝殿の前に盛られている白砂などを見ると、やはり上賀茂神社の影響もあるのかなと思われます。鳥居の上に比叡山が見えます。
本殿は覆い堂の中
本日は詳しく見ることはしませんでしたが、近くに一条昭良(後水尾天皇の弟で関白、出家して恵観)の西賀茂山荘の跡である醍醐の森が見えています。
大神宮からさらに山近くにまで進むと霊源皇寺、後水尾天皇の勅願寺です。江戸時代初期のころの天皇で、幕府とは何かと悶着があられた天皇です。有名なところでは紫衣事件などがそうですね。1629年に皇位を娘に譲られた後、崩御される1680年まで、おおよそ50年間に渡り院政を敷かれ、その間に修学院離宮の造営など文化面でも多くの事績を残されました。この寺は1636年に仏頂国師(有名な沢庵禅師の弟子・芭蕉の禪の師である仏頂禅師とは別人)を開山として開かれたそうです。修学院離宮は京都の東北の端にありますが、西北の端も忘れてへんよと申す処。
寺の下には、有名な建築家が建てた住宅があるそうなのですが、非公開です。何か白砂の庭からミサイルが出てきそうな感じです。
けれども、それらは全て地下に埋設されているし、決して寺の雰囲気を損なっているものではありません。正面に移っているのは、幕末に和宮降嫁後に失脚した岩倉具視が蟄居生活をおくった建物です。岩倉は、ここから西芳寺に移り、さらに岩倉村で計5年間蟄居しました。
紅葉の向こうに本堂
正伝寺は門前だけで失礼し、法雲寺へ。30年ほど前に四条大宮から移ってきたお寺さんですが、今では何かしっとりとした雰囲気も出ていて、これはこれで良い寺だと思います。境内に道標があるのですが、これはどこからか持ってきたものです。師匠はかつて御住職に尋ねられたことがあるのですが、御住職自身も「ようわからん。」と答えられたそうです。
この寺の信徒開館屋上からの眺めは絶景です。諸氏、洛中の観光寺院の人混みの中で紅葉を見るのはつまらんよ。ここは、完全に貸し切り状態です。
左端・比叡山、右端・大文字
上賀茂神社のご神体「神山」
墓園の十一面観音は西賀茂観音と呼ばれていて、日本でも最大級だそうです。その最大級というのには別に感心しませんが、ちょうど咲いていた十月桜(同行の人に教えていただきました)の向こうでより優しく微笑まれているように見えました。
正門
洛西でエゲツナイ商売をしている寺と名前は似ていますが、西方寺は浄土宗の寺です。かの洛西の寺の坊主はとにかく不行跡で有名で、酔っぱらって祇園から帰る途中、あまりに行儀が悪かったのでタクシーの運転手に殴られて歯を折った話なども伝わっていますが、その坊主はもう死んだかなー。
と、そんなことを言いたいのではありません。今回の徘徊で師匠に教えていただいてもっとも良かったなあと思っている本尊美利茶道先生の顕彰碑がこの寺にあります。
ホンソンピーリチャード先生は、英国の貴族です。ワーテルローの戦いで戦死したウイリアムホンソンピーと何か関係があるのかどうかは分かりませんが、京都一中(現在の洛北高校)の英語教師として1924年から教鞭を執られました。英国貴族の「ノブレスナンチャラ」を地でいく方で、1937年に亡くなられるまで、ずっと無給でとおされたということです。
京都にいらっしゃる以前から、日本の神社や文化について研究をされていて「昭和の小泉八雲」と評されたこともあるそうで、大の日本酒好きでアテはウニとカラスミとコノワタがお気に入り、いつも着物姿でいらっしゃったそうです。アメリカが大嫌いというところも嬉しいですね。
師匠にいただいた資料は40年ほど前に書かれたものですが、京都一中時代に本尊美先生に師事された仏光寺の御門跡(先々代か?)が先生の思い出を綴っておられます。「こんな偉い先生がおられたとは」、毎回言いますが、本当に世の中知らんことだらけです。境内の紅葉もなかなかです。
太田垣連月の碑もある
西方寺の西側の山手に市営小谷墓地が広がっています。ここには太田垣蓮月や北大路魯山人の墓にお参りします。師匠は鉄道唱歌の作曲者である多梅雅(おおのうめわか)の墓を探すぞーと宣言、この広大な墓地の中ではそれは師匠のライフワークになるでしょう(爆)。賀茂県主歴代の墓もあるということですから余程に古い墓地です。
西方寺を東に向かうと大将軍神社、スサノオの命と陰陽道の星宿が習合したお宮さんです。桓武天皇は多分に平安京を霊的に守護するために都の東西南北に大将軍神社を造営しました。ここは、その北の大将軍神社です。
拝殿
さらに東に進むと神光院です。やはり賀茂氏によって建立された寺で、晩年の太田垣蓮月尼は境内の一室に棲みました。何気なく写真に撮ったサザンカは実は大変有名なものだそうです。
蓮月尼の住まいが不動堂になっている?
この寺は「きゅうり封じ」でも知られていて、境内には「うり之塔」がありました。口がいやしい小生などは、体の悪いところをさすったキュウリをその後でバリバリと食うのかなと思っていましたが、地に埋めるそうです。
中興堂
弘法大師にゆかりの寺ですから、やはり神泉苑のように龍王を祀るのでしょうか?それとも弁天さん?
大宮交通公園の中には、豊臣秀吉によるお土居がわずかに残されています。けど、話を聞かなければ、全く解りません。
久我神社は「大宮の森」と言われ、大宮通の語源となった神社だそうです。京都市南部の久我地域も賀茂氏の居住を偲ばせるところですが、賀茂氏の北上とともに久我の名もついてきたようです。神武天皇を熊野から大和へと導いたヤタガラスは、賀茂氏の祖神の変化した姿で、御祭神=ヤタガラスということで航空関係の方々の信仰も集めています。
神紋フタバアオイ
境内を通り抜けさせていただいた總神社にはタラヨウの木、このお宮さんでは恋文の木というそうです。
この付近は、その名も牛若町。源義朝の別邸があったらしく、源氏関係分けても常磐御前にからむ伝承が色濃く残ります。以前に弁慶の力石のところでも申し上げましたが、牛若丸と弁慶の出会いの場も五条大橋とするよりは、この辺りであったと考える方が合理的です。牛若丸産湯の井戸はこの地域で2つあります。
産湯の井戸1
産湯の井戸2
牛若丸胞衣塚
産湯の井戸2のあるところは、土地を所有されておられる方が大変熱心に勉強されているようで詳しい説明がありました。道しるべには次のようなものも。
今宮神社が今回の一応のゴールです。神社は70年ぶりに作り替えた提灯のお披露目などでごった返していました。あぶり餅も食えません。あれだけ並んでいるのは初めて見ました。
力石
今宮神社
大徳寺を抜けて北大路に出る途中に鼓判官平康頼の塔。これは大徳寺以前、雲林院の名残である可能性が強いですね。
さて、ここで同行の方々とお別れです。我々は口いやしく酒を飲みに行きます。本日は「さかえ庵」で鳴門鯛などを呑みました。この店の名物であるフライドごぼう、少し来ない間に随分と少量になっていました。本当、何と変わり果てた姿になったんだ(詠嘆)というところです。
その後は錦の市塲をブラブラしましたが、開いている店は殆どありません。暗いアーケードの下を通ってきた身には錦天満宮の煌々たる灯りは随分と嬉しいものに感じられました。
ちょっと変わった鳥居
出発地の市バスの西賀茂車庫から少し北に上がります。五山の送り火の舟形がすぐ近くに見えています。本日の徘徊の前半は、この山の麓に沿って歩いていきます。この辺りは賀茂川が山間部から出て、京都盆地に流れ出すところ。かつては川上村と呼ばれていました。この村の鎮守が川上大神宮です。
御祭神はスサノオの命ということですが、拝殿の前に盛られている白砂などを見ると、やはり上賀茂神社の影響もあるのかなと思われます。鳥居の上に比叡山が見えます。
本殿は覆い堂の中
本日は詳しく見ることはしませんでしたが、近くに一条昭良(後水尾天皇の弟で関白、出家して恵観)の西賀茂山荘の跡である醍醐の森が見えています。
大神宮からさらに山近くにまで進むと霊源皇寺、後水尾天皇の勅願寺です。江戸時代初期のころの天皇で、幕府とは何かと悶着があられた天皇です。有名なところでは紫衣事件などがそうですね。1629年に皇位を娘に譲られた後、崩御される1680年まで、おおよそ50年間に渡り院政を敷かれ、その間に修学院離宮の造営など文化面でも多くの事績を残されました。この寺は1636年に仏頂国師(有名な沢庵禅師の弟子・芭蕉の禪の師である仏頂禅師とは別人)を開山として開かれたそうです。修学院離宮は京都の東北の端にありますが、西北の端も忘れてへんよと申す処。
寺の下には、有名な建築家が建てた住宅があるそうなのですが、非公開です。何か白砂の庭からミサイルが出てきそうな感じです。
けれども、それらは全て地下に埋設されているし、決して寺の雰囲気を損なっているものではありません。正面に移っているのは、幕末に和宮降嫁後に失脚した岩倉具視が蟄居生活をおくった建物です。岩倉は、ここから西芳寺に移り、さらに岩倉村で計5年間蟄居しました。
紅葉の向こうに本堂
正伝寺は門前だけで失礼し、法雲寺へ。30年ほど前に四条大宮から移ってきたお寺さんですが、今では何かしっとりとした雰囲気も出ていて、これはこれで良い寺だと思います。境内に道標があるのですが、これはどこからか持ってきたものです。師匠はかつて御住職に尋ねられたことがあるのですが、御住職自身も「ようわからん。」と答えられたそうです。
この寺の信徒開館屋上からの眺めは絶景です。諸氏、洛中の観光寺院の人混みの中で紅葉を見るのはつまらんよ。ここは、完全に貸し切り状態です。
左端・比叡山、右端・大文字
上賀茂神社のご神体「神山」
墓園の十一面観音は西賀茂観音と呼ばれていて、日本でも最大級だそうです。その最大級というのには別に感心しませんが、ちょうど咲いていた十月桜(同行の人に教えていただきました)の向こうでより優しく微笑まれているように見えました。
正門
洛西でエゲツナイ商売をしている寺と名前は似ていますが、西方寺は浄土宗の寺です。かの洛西の寺の坊主はとにかく不行跡で有名で、酔っぱらって祇園から帰る途中、あまりに行儀が悪かったのでタクシーの運転手に殴られて歯を折った話なども伝わっていますが、その坊主はもう死んだかなー。
と、そんなことを言いたいのではありません。今回の徘徊で師匠に教えていただいてもっとも良かったなあと思っている本尊美利茶道先生の顕彰碑がこの寺にあります。
ホンソンピーリチャード先生は、英国の貴族です。ワーテルローの戦いで戦死したウイリアムホンソンピーと何か関係があるのかどうかは分かりませんが、京都一中(現在の洛北高校)の英語教師として1924年から教鞭を執られました。英国貴族の「ノブレスナンチャラ」を地でいく方で、1937年に亡くなられるまで、ずっと無給でとおされたということです。
京都にいらっしゃる以前から、日本の神社や文化について研究をされていて「昭和の小泉八雲」と評されたこともあるそうで、大の日本酒好きでアテはウニとカラスミとコノワタがお気に入り、いつも着物姿でいらっしゃったそうです。アメリカが大嫌いというところも嬉しいですね。
師匠にいただいた資料は40年ほど前に書かれたものですが、京都一中時代に本尊美先生に師事された仏光寺の御門跡(先々代か?)が先生の思い出を綴っておられます。「こんな偉い先生がおられたとは」、毎回言いますが、本当に世の中知らんことだらけです。境内の紅葉もなかなかです。
太田垣連月の碑もある
西方寺の西側の山手に市営小谷墓地が広がっています。ここには太田垣蓮月や北大路魯山人の墓にお参りします。師匠は鉄道唱歌の作曲者である多梅雅(おおのうめわか)の墓を探すぞーと宣言、この広大な墓地の中ではそれは師匠のライフワークになるでしょう(爆)。賀茂県主歴代の墓もあるということですから余程に古い墓地です。
西方寺を東に向かうと大将軍神社、スサノオの命と陰陽道の星宿が習合したお宮さんです。桓武天皇は多分に平安京を霊的に守護するために都の東西南北に大将軍神社を造営しました。ここは、その北の大将軍神社です。
拝殿
さらに東に進むと神光院です。やはり賀茂氏によって建立された寺で、晩年の太田垣蓮月尼は境内の一室に棲みました。何気なく写真に撮ったサザンカは実は大変有名なものだそうです。
蓮月尼の住まいが不動堂になっている?
この寺は「きゅうり封じ」でも知られていて、境内には「うり之塔」がありました。口がいやしい小生などは、体の悪いところをさすったキュウリをその後でバリバリと食うのかなと思っていましたが、地に埋めるそうです。
中興堂
弘法大師にゆかりの寺ですから、やはり神泉苑のように龍王を祀るのでしょうか?それとも弁天さん?
大宮交通公園の中には、豊臣秀吉によるお土居がわずかに残されています。けど、話を聞かなければ、全く解りません。
久我神社は「大宮の森」と言われ、大宮通の語源となった神社だそうです。京都市南部の久我地域も賀茂氏の居住を偲ばせるところですが、賀茂氏の北上とともに久我の名もついてきたようです。神武天皇を熊野から大和へと導いたヤタガラスは、賀茂氏の祖神の変化した姿で、御祭神=ヤタガラスということで航空関係の方々の信仰も集めています。
神紋フタバアオイ
境内を通り抜けさせていただいた總神社にはタラヨウの木、このお宮さんでは恋文の木というそうです。
この付近は、その名も牛若町。源義朝の別邸があったらしく、源氏関係分けても常磐御前にからむ伝承が色濃く残ります。以前に弁慶の力石のところでも申し上げましたが、牛若丸と弁慶の出会いの場も五条大橋とするよりは、この辺りであったと考える方が合理的です。牛若丸産湯の井戸はこの地域で2つあります。
産湯の井戸1
産湯の井戸2
牛若丸胞衣塚
産湯の井戸2のあるところは、土地を所有されておられる方が大変熱心に勉強されているようで詳しい説明がありました。道しるべには次のようなものも。
今宮神社が今回の一応のゴールです。神社は70年ぶりに作り替えた提灯のお披露目などでごった返していました。あぶり餅も食えません。あれだけ並んでいるのは初めて見ました。
力石
今宮神社
大徳寺を抜けて北大路に出る途中に鼓判官平康頼の塔。これは大徳寺以前、雲林院の名残である可能性が強いですね。
さて、ここで同行の方々とお別れです。我々は口いやしく酒を飲みに行きます。本日は「さかえ庵」で鳴門鯛などを呑みました。この店の名物であるフライドごぼう、少し来ない間に随分と少量になっていました。本当、何と変わり果てた姿になったんだ(詠嘆)というところです。
その後は錦の市塲をブラブラしましたが、開いている店は殆どありません。暗いアーケードの下を通ってきた身には錦天満宮の煌々たる灯りは随分と嬉しいものに感じられました。
ちょっと変わった鳥居
この西賀茂の終戦直後あたりはきっと田畑が広がる風景だったのでしょう。しかしこれだけの古い寺院があるとは全く知りませんでした。本尊美先生の話には心引かれますね。昭和の小泉八雲といわれるとか。まあこのお墓を訪れられるのはT師匠のお膝元の関係もあるのでしょうが、カラスミや納豆をあてに菊正宗を愛飲されたとか、gunkanatagoさまの日本酒好きは本尊美先生の系統なのかと解釈すると頷けるものがあります。酒の共にはカラスミからたこ焼きやピロシキへの変遷はある様ですが。
東北の端の修学院離宮へは大昔に訪れたことがありますが、西北の端は殆ど未知の世界です。しかし、この西賀茂観音は日本一の背高とか。高台寺にも石造の馬鹿でかい観音(坐像)がありますが、夜などに徘徊しますと(勝手ですが)暗闇の中では不気味としか見えません。ここの観音さんはどうか知りませんが・・・。
それよりも、こうした徘徊には、いつも新しい発見が幾つかあるのが最大の楽しみと申せます。本尊美利茶道は、昭和の小泉八雲と呼ばれた学者とか。私も何も知りませんが、石碑を前にして逸話など聞くと、自ずと親近感が沸くものと思います。太田垣蓮月や北大路魯山人などもずらりとあって、収穫は大きかった様で何よりでした。多梅雅の墓は次の楽しみ、と言うところですか。
多羅葉の葉は、尖った物で文字を書くと長く残るとか。戦国時代には、これで情報のやりとのをしたそうです。私の同級生の童話作家の忍者シリーズにも登場します。今は、葉書の木とか郵便局の木とか呼ばれているそうですが。
今宮神社にゴールされたのなら、あぶり餅は食されなかったのですか。老舗が2軒あって左側の方が美味しい、と知人が申しておりました。以前に実行しましたけど、餅は餅でした。1回で沢山です。
それにしても、風景の優れた辺りの徘徊は、さぞ気分爽快だった事と思います。この時の紅葉は穏やかな色合いで、人影も少ないとのこと。その紅葉も今は散り始めているのでしょうか。季節の過ぎる早さをしみじみ感じさせられます。
「揚げ牛蒡小さくなりて時を知る」道草。
小生のことはさておき、師匠は間違いなく本尊美先生直系の弟子です。長いこと先生を裏切ってウィスキーに走っていたようですが(爆)。先生と師匠の間には仏光寺の御門主がおられるのですが、酒の系譜はどうなのでしょうね(笑)。
先日の名古屋の人ですが、高雄から嵐山まで歩こうという企画だったみたいで、バス5台を連ねてきたと言っておられました。みんながそういう企画が大好きだとも。観光寺院を巡るだけのクダラナサにみんなが気が付き始めているように思えます。
当日、あぶり餅屋は二軒とも長蛇の列で、並んでまで食うことには寧ろご婦人方が固執されませんでした。「やめとこ、やめとこ!」とアッサリしたものです。何かこういう対応を見ても、卑弱でウジウジとした様子を「女々しい[めめしい]」とするのは誤りで、逆に最近の男どもの情けなさからこれを「雄々しい[おおしい]」とせねばならぬのではとチャリ毛あたりから下に汗が流れるのを感じます(笑)。「オオシイことをするな!」と注意されたりして。
その代わりに國防婦人会の方々は喫茶店で思いきりスィーツとやらを食べてはおられましたが(爆)。あ、これで思い出しましたが、もうじきクリスマスですね。小生は毎年毎年、心斎橋あたりで売っているというベジタリアンクリスマスケーキを食わされます。これがもうマズクてマズクて、イエスも受難であったかも知れませんが小生の受難をどうしてくれるといつもイエスに文句を言っています。
それに今回はgunkanatagoさまの徘徊の王道を見せて頂きました。(文章の達人は云うまでもないからおいといて)見事に的確な写真、(いつの間にとられたのかしら?)それにおばちゃんや婆さんの交通整理をしながらも、見るべきとこ聞くべきとこを見逃されない。これ王道と云わずでか、雄々しくて気高いではないでしょうか(笑)。
gunkanatagoさまは、ベジタリアンクリスマスケーキでイブを素敵に過ごされるのですか。羨ましいです。私はいま静かなブームのベジタリアンケーキはまだ一度も頂いていません。今年はそれに決めた、しかし不味いかな??
ベジタリアンケーキ、不味いですよ。イブは毎年「うんざり」の世界です。不味いから、半分以上がこちらに回ってきます。密かに猫にやっても、勿論猫も食いません。「こんなもんじゃ」と思わねば食えたものではありません。「もみない」という表現がピッタリのように思います。心斎橋の店は、それでも大流行というから本当に不思議ですね。
西賀茂徘徊お世話になり有り難うございました。
忘れていた事色々思いだして 楽しい一日でした。
でもねそれ以上にアレレとショックをうけました。
ベジタリアンケーキ 密かに猫にやっても食いませんとの事。
いま私このケーキ多分ケーキ:サクレの事だと思います。塩味で 野菜とかベーコン チーズ 魚介類 などが入っていませんでしたか??このケーキ作っては 団地の友に差し上げているのですが、~~~~嗚呼~気を使ってのリップサービスなのかなー美味しい~~~て一応ね。 でも本心がねー
心斎橋のお店の品でその評価ですものね。
反省大です。 やはりケーキは甘いほうがよいのかな。左党の徘徊様のお気に召すケーキどのようなものでしょうね。大流行が不思議ダイエットですよ多分??2601
ベジタリアンケーキは肉食をしない人のためのケーキですから、ベーコンや魚介類は一切入っていません。卵と牛乳すら使いません。それでナマ甘いというか、そんな味です。ですから、かりんとう様が作っておられるサクレというものではないと思いますから、安心して下さい(笑)。塩味のケーキは美味そうではないですか。
小生は甘党も辛党もOKですよー。羊羹やどら焼きをアテに熱燗を飲むこともできます(爆)。
ケーク:サレ です。失礼いたしました。