先だって松下幸之助翁に誓った八百八橋総ナメ、松下さんも何でワシやねんと思っておられると思いますが、小生も何で松下さんなんかはわかりません。まあ、本日より浪花で橋を渡った場合は番号を付けていこうと思います。果たして何番まで行くでしょうか?
天明年間にお遊びで作られた橋の番付、これによって西の大関(当時は横綱は無い)とされているのが難波橋(1)、トップの写真でも分かるように別名はライオン橋です。この間からチョロチョロと記している蕪村の春風馬堤曲では、淀川の堤防を同行した藪入りで里に帰るねえちゃんの奉公先は「浪花橋辺財主の家」とありますから、この辺の商家であったということになります。
薔薇のシーズンというのは、本当は何時なのか分かりませんが、橋の下のバラ園では幾つかの花がきれいに咲いています。大阪市営なのでこれを橋下バラ園という。おっと!オヤジになってしまった。
ジーナ・ロロブリジータ
そのバラ園にあるのが「ばらぞの橋(2)」、こやつが2つ目になるとは全く想像しませんでした。薔薇の品種名、これはまあ絶対に覚えられませんね。そういう名前の薔薇があるというのは覚えても、ではこれは何でしょう等とやると絶対に分からない。
メルヘンケーニキン
中之島の東の端から螺旋階段で上がれるのが東の大関である天神橋(3)。先ずは最高位に敬意を表します。
橋のたもとには昔の橋名板が保存されています。
と、ここで「電気の球」を買ってこいという下命を受けているのを思い出しました。駅前の店が大将の急死で閉店したので便利が悪いとのこと。そのうち量販店にLEDを買いに行くからと言ったのですが、「あれは、体に悪い。」ということで電球でないといけないそうです。どのへんが体に悪いのかは知りませんが、まあ体に悪いと思い込んでいるものは体に悪いに違いありません。小生などは鶏肉は体に悪いと思っていますから、絶対に食べません。電球を求めて天神橋筋商店街に向かいました。
南の入り口
既にして菅公はこの社より去ったと判断した天満宮にはお参りしませんが、先だっての徘徊で食い意地に負けて見に行かなかった料亭門前の川端康成生誕地の碑を見に行きます。
その後は電球を求めて商店街を北上します。天三(天神橋筋3丁目)付近の高架下の鰻屋の前は夫婦橋(4)、鰻はどうでも良いのですが、この近所の990円たこ焼き食べ放題は気になります。この橋が架かっていた天満堀川とやらは今は埋め立てられています。したがって渡橋といえるかどうかは怪しいのですが、まあ今後四ツ橋なども数に数えるために「何でもあり」にしておこう。それから浪花の範囲をどうするかということもあります。純粋な江戸期の大坂の町場だけでは橋の数は知れたものになるのでは。ということで、これも「何でもあり」と言うことにしておきます。それはともかくとして、この夫婦橋にはなかなか悲しい話が伝わっています。たこ焼き屋は今が夕方ならば確実に入っていたと思いますが、まだ日は高い。
結局、電気の球を買うのに天六まで行くか?ということになりました。あまりに電球屋が無いので、道を歩いているオッサンに「電気の球が欲しいねんけど?」と尋ねると100円ショップを教えてくれました。何と何と、100金て何でもありですね。小生は基本的にはかばん類は持ちませんから、電気の球を下げての徘徊になってしまった。
天六から東に向かい大川(旧淀川)へ。この辺りはついこの間に師匠の案内でウロウロしたところです。都島橋(5)を渡ります。
左岸より
橋のたもとの遊歩道には水道発祥碑、ただ遊歩道に降りるにはだいぶと遠回りをしなくてはなりません。橋の上から飛び降りたら簡単なのですが、先だって六甲山で遭難したオッサンが「ガケを飛び降りたら足を痛めて動けなくなった。」と言っているのを聞いたばかりですから、ここは自重します。
遊歩道を歩いて源八橋(6)へ。桜宮神社にお参りしなくてはなりませんから、この橋は渡って対岸にデンをしたらまた戻ってきます。
源八橋を渡っていたら天神祭の練習と思われる舟がやってきました。まあ、一生懸命ですから、この祭の当日ぐらいは天神さんもお社に戻ってきゃはるかも。今度北野の天神さんにでも参ったら、そうしたって下さいと小生からも頼んでおこう。神官ども反省せえよ。
説明を読むと、昭和11年まではここには橋はなくて「渡し」があったとのこと。小生などは単純に源八さんという人が渡しをやっていたのだと考えていましたが、いろいろと説があるようです。蕪村の句なんかも書いてあります。
桜宮の由来は桜宮神社から。本来は野田の方にあったお社ということです。主祭神は天照大神です。何やかんやと碑があるのですが、説明は一切ありません。師匠の宿題です(爆)。ただ神社そのものについてはメチャクチャ詳しい説明書が賽銭箱の横に置いてありました。親切なんか、そうでないんかよう分からん。
桜宮橋[銀橋](7)を渡ります。拡幅の後がはっきりしていますね。
渡ったところは造幣局、江戸時代には与力や同心が住んでいたところで、今も与力町や同心町の名が残るようです。見せ物小屋が建っていたのはどの辺かな。
泉布観はこの間に改修工事が終わって近くから見ることが出来るようになりました。その隣の建物は披露宴などで使われているようです。ただ送迎のお姉ちゃんがじっと立っていると泉布観だけを見に来た人間は少し気づつない感じがします。仕方がないからこちらはそのお姉ちゃんをじーと眺めることにしました。これを難しく言うなら風景を構成する小道具の一つと見る。別に難しくないか。
泉布観の一角に煉瓦小屋が残っています。なかなかに良い雰囲気です。
道路に沿って西に進むと謎の銅板と大塩平八郎の乱にゆかりのエンジュの木の跡。大塩君、自分の家のすぐそばで大砲をぶっ放したのですね。往時の浪花の人の多くはコヤツに家を焼かれているのですが、長いこと権力への抵抗=善というような(但し社会主義政権への抵抗は悪というご都合主義)、アホな史観が蔓延っていましたから、どちらかというと大塩君は「良い者」に分類されています。けれども、まあハッキリと言って友達にはしたくない男です。身内だったらもっと迷惑。当時の人が家を焼かれてヘラヘラと笑っていたとは思えません。乱の直後に能勢で騒ぎをおこした山田屋大助君のほうがまだ愛嬌があるてなもんや。
そのまま進むと天神橋筋商店街の天一付近に戻ってきました。途中で、与力町とか同心町を確かめようとしたのですが、地名としては西天満という名以外は確認できませんでした。まだ4時にもなっていませんが、本日の徘徊はここまでのようです。結局本日は7つの渡橋に留まりました。
再び、環状線の天満駅付近まで北上します。この時点で夫婦橋近くのたこ焼き屋のことはすっかりと忘れていました。歩くほどに宿題がたまりますね。本日は環状線天満駅近くの但馬屋でちょっと一杯です。実はこの店、その名を備前屋と思い込んでいて、ネットでは全く出てこないしオッカシイナーということで、1週間後に確認に行きました。
「呉春」が並んでいますね。この店、大瓶ビール(スーパードライというのは気に食わぬが)が何と350円(但し、付出し150円が自動的に付くので結局は500円、そういう点では京橋の満足屋の390円の方が安い、ただ天満にも満足屋があるので今度比較してみよう。)、アテはもう何百種類あるやを知らずという店です。手許のメニューというのがないので壁にかかってるのを見て頼むのですが、どうも目移りして頭の中に何があるのかが入ってきません。よう「串カツ」を見つけたもんだ。ポテトフライとポテトサラダは間違えました。ビールの安さに目が眩んでいますが、アテの価格は普通です。こちらはあんまり安いとコワイですね。ただ使い回し等と言うことでは船場吉兆の例もありますから、要するに人間のデキの問題で、価格はあまり関係ないのかも知れません。
帰路、今度は大瓶ビール330円という店も見つけました。驚くべし天満!愛すべし天満!ストリップはどうなったのかな?(1週間後に調べたところ10月半ばまで休館中でした)ただこちらは立ち飲みでしたから本日はパスしました。このままいったら、そのうちにビールを飲んだら店がお金をくれるというところを見つけそう。
天明年間にお遊びで作られた橋の番付、これによって西の大関(当時は横綱は無い)とされているのが難波橋(1)、トップの写真でも分かるように別名はライオン橋です。この間からチョロチョロと記している蕪村の春風馬堤曲では、淀川の堤防を同行した藪入りで里に帰るねえちゃんの奉公先は「浪花橋辺財主の家」とありますから、この辺の商家であったということになります。
薔薇のシーズンというのは、本当は何時なのか分かりませんが、橋の下のバラ園では幾つかの花がきれいに咲いています。大阪市営なのでこれを橋下バラ園という。おっと!オヤジになってしまった。
ジーナ・ロロブリジータ
そのバラ園にあるのが「ばらぞの橋(2)」、こやつが2つ目になるとは全く想像しませんでした。薔薇の品種名、これはまあ絶対に覚えられませんね。そういう名前の薔薇があるというのは覚えても、ではこれは何でしょう等とやると絶対に分からない。
メルヘンケーニキン
中之島の東の端から螺旋階段で上がれるのが東の大関である天神橋(3)。先ずは最高位に敬意を表します。
橋のたもとには昔の橋名板が保存されています。
と、ここで「電気の球」を買ってこいという下命を受けているのを思い出しました。駅前の店が大将の急死で閉店したので便利が悪いとのこと。そのうち量販店にLEDを買いに行くからと言ったのですが、「あれは、体に悪い。」ということで電球でないといけないそうです。どのへんが体に悪いのかは知りませんが、まあ体に悪いと思い込んでいるものは体に悪いに違いありません。小生などは鶏肉は体に悪いと思っていますから、絶対に食べません。電球を求めて天神橋筋商店街に向かいました。
南の入り口
既にして菅公はこの社より去ったと判断した天満宮にはお参りしませんが、先だっての徘徊で食い意地に負けて見に行かなかった料亭門前の川端康成生誕地の碑を見に行きます。
その後は電球を求めて商店街を北上します。天三(天神橋筋3丁目)付近の高架下の鰻屋の前は夫婦橋(4)、鰻はどうでも良いのですが、この近所の990円たこ焼き食べ放題は気になります。この橋が架かっていた天満堀川とやらは今は埋め立てられています。したがって渡橋といえるかどうかは怪しいのですが、まあ今後四ツ橋なども数に数えるために「何でもあり」にしておこう。それから浪花の範囲をどうするかということもあります。純粋な江戸期の大坂の町場だけでは橋の数は知れたものになるのでは。ということで、これも「何でもあり」と言うことにしておきます。それはともかくとして、この夫婦橋にはなかなか悲しい話が伝わっています。たこ焼き屋は今が夕方ならば確実に入っていたと思いますが、まだ日は高い。
結局、電気の球を買うのに天六まで行くか?ということになりました。あまりに電球屋が無いので、道を歩いているオッサンに「電気の球が欲しいねんけど?」と尋ねると100円ショップを教えてくれました。何と何と、100金て何でもありですね。小生は基本的にはかばん類は持ちませんから、電気の球を下げての徘徊になってしまった。
天六から東に向かい大川(旧淀川)へ。この辺りはついこの間に師匠の案内でウロウロしたところです。都島橋(5)を渡ります。
左岸より
橋のたもとの遊歩道には水道発祥碑、ただ遊歩道に降りるにはだいぶと遠回りをしなくてはなりません。橋の上から飛び降りたら簡単なのですが、先だって六甲山で遭難したオッサンが「ガケを飛び降りたら足を痛めて動けなくなった。」と言っているのを聞いたばかりですから、ここは自重します。
遊歩道を歩いて源八橋(6)へ。桜宮神社にお参りしなくてはなりませんから、この橋は渡って対岸にデンをしたらまた戻ってきます。
源八橋を渡っていたら天神祭の練習と思われる舟がやってきました。まあ、一生懸命ですから、この祭の当日ぐらいは天神さんもお社に戻ってきゃはるかも。今度北野の天神さんにでも参ったら、そうしたって下さいと小生からも頼んでおこう。神官ども反省せえよ。
説明を読むと、昭和11年まではここには橋はなくて「渡し」があったとのこと。小生などは単純に源八さんという人が渡しをやっていたのだと考えていましたが、いろいろと説があるようです。蕪村の句なんかも書いてあります。
桜宮の由来は桜宮神社から。本来は野田の方にあったお社ということです。主祭神は天照大神です。何やかんやと碑があるのですが、説明は一切ありません。師匠の宿題です(爆)。ただ神社そのものについてはメチャクチャ詳しい説明書が賽銭箱の横に置いてありました。親切なんか、そうでないんかよう分からん。
桜宮橋[銀橋](7)を渡ります。拡幅の後がはっきりしていますね。
渡ったところは造幣局、江戸時代には与力や同心が住んでいたところで、今も与力町や同心町の名が残るようです。見せ物小屋が建っていたのはどの辺かな。
泉布観はこの間に改修工事が終わって近くから見ることが出来るようになりました。その隣の建物は披露宴などで使われているようです。ただ送迎のお姉ちゃんがじっと立っていると泉布観だけを見に来た人間は少し気づつない感じがします。仕方がないからこちらはそのお姉ちゃんをじーと眺めることにしました。これを難しく言うなら風景を構成する小道具の一つと見る。別に難しくないか。
泉布観の一角に煉瓦小屋が残っています。なかなかに良い雰囲気です。
道路に沿って西に進むと謎の銅板と大塩平八郎の乱にゆかりのエンジュの木の跡。大塩君、自分の家のすぐそばで大砲をぶっ放したのですね。往時の浪花の人の多くはコヤツに家を焼かれているのですが、長いこと権力への抵抗=善というような(但し社会主義政権への抵抗は悪というご都合主義)、アホな史観が蔓延っていましたから、どちらかというと大塩君は「良い者」に分類されています。けれども、まあハッキリと言って友達にはしたくない男です。身内だったらもっと迷惑。当時の人が家を焼かれてヘラヘラと笑っていたとは思えません。乱の直後に能勢で騒ぎをおこした山田屋大助君のほうがまだ愛嬌があるてなもんや。
そのまま進むと天神橋筋商店街の天一付近に戻ってきました。途中で、与力町とか同心町を確かめようとしたのですが、地名としては西天満という名以外は確認できませんでした。まだ4時にもなっていませんが、本日の徘徊はここまでのようです。結局本日は7つの渡橋に留まりました。
再び、環状線の天満駅付近まで北上します。この時点で夫婦橋近くのたこ焼き屋のことはすっかりと忘れていました。歩くほどに宿題がたまりますね。本日は環状線天満駅近くの但馬屋でちょっと一杯です。実はこの店、その名を備前屋と思い込んでいて、ネットでは全く出てこないしオッカシイナーということで、1週間後に確認に行きました。
「呉春」が並んでいますね。この店、大瓶ビール(スーパードライというのは気に食わぬが)が何と350円(但し、付出し150円が自動的に付くので結局は500円、そういう点では京橋の満足屋の390円の方が安い、ただ天満にも満足屋があるので今度比較してみよう。)、アテはもう何百種類あるやを知らずという店です。手許のメニューというのがないので壁にかかってるのを見て頼むのですが、どうも目移りして頭の中に何があるのかが入ってきません。よう「串カツ」を見つけたもんだ。ポテトフライとポテトサラダは間違えました。ビールの安さに目が眩んでいますが、アテの価格は普通です。こちらはあんまり安いとコワイですね。ただ使い回し等と言うことでは船場吉兆の例もありますから、要するに人間のデキの問題で、価格はあまり関係ないのかも知れません。
帰路、今度は大瓶ビール330円という店も見つけました。驚くべし天満!愛すべし天満!ストリップはどうなったのかな?(1週間後に調べたところ10月半ばまで休館中でした)ただこちらは立ち飲みでしたから本日はパスしました。このままいったら、そのうちにビールを飲んだら店がお金をくれるというところを見つけそう。
そういえば、三越もライオンでしたね。高麗橋の三越が無くなってもう何年になるのでしょうか。当時はそれなりに衝撃的でした。その後で天満橋の松坂屋が無くなり、今ではデパートやスーパーが消え去っても、何となく当たり前という感覚になってしまったように思われます。
大塩平八郎、文字通り「思い込んだら命がけ」なんですが、「正義のためであるから周りの人を巻き込んでもよいのだ」というか、そういう感じが鼻につきます。決起を止めようとする一番弟子を斬り殺している辺りもなんじゃいなと思います。精神科にかかれば絶対に何らかの病名が付く人間であったと思います。それだけに引退するまでは与力としては優秀であったようです。
但馬屋のらっきょう、全く気が付きませんでした(爆)。今こうして見たら本当にうまそうですね。ビール、2本目からは純粋に350円です。スーパー玉出の隣の隣が990円たこやき食べ放題です。
仲宗根美樹の「川は流れる」を聞きながら読みました。たまたま聞きたかったんですけど・・(笑)あれも都会を流れる川をうたっていますよね。
難波橋のライオン像、いろいろ説はあるけど天王寺動物園のライオンが珍しかった頃で人気があった動物という話が妥当でしょう。三越の社長もライオン像を作っつてますね。そうとうライオン好きで、息子に雷音(らいおん)と命名したというのを本で読んだことがあります。(子どもは迷惑じゃ)
泉布観は貨幣の館の意味ですか、わざわざ、何でややこしい名前にするんでしょう。それが文化というものだと自問自答しました。
大潮平八郎は与力でありながら、幕府の腐敗を告発した、いわば内部告発者という一面と、知行合一の陽明学の理念の実践者としての一面から、私も高評価をしてきましたが、いまの市民運動家のもっている例の胡散臭さもあるかもしれません。ま、さきがけ的存在というのはだいたい胡散臭いです。それでいいように思います。
天神橋の990円の食べ放題のたこ焼き、なんとも悩ましい値段ですが、今の私は、もとを取れそうにないのでパスですね。
ビールが安い店と思いきや、つまみが強制的についてくるとは。独禁法違反じゃないですか、セット販売は。額は小さいけど(笑)ところでこの店、ビン詰めのらっきょがうまそうですね。私ならたのみます。ははは。
最後に橋の写真もすばらしいけど、スーパー玉出の写った街角の写真もいいですね。最近、街角ファンです。家や店が無くなったり、持ち主が変わり、更地になったり、ビルになったり、これもまちがいなく諸行無常だと思います。
先ずは江戸時代の浪花の境域から始めて、やがてはその郊外に対象を広げたいと思います。
難波橋、なんせ大阪の市標が「みおつくし」ですから、西欧の紋章と見比べたら見劣りはしますね。
次回にアップさせていただきますが、道頓堀川には近松の「生玉心中」ゆかりの橋がありました。曾根崎心中の大ヒットに気をよくして、似たような話をたくさん書いたみたいですね。
難波橋などを見ると、おなかなか重厚な感じだわい、と思っていたのですが、パリで朝の散歩をしているときに見た飾りなどには歴史を感じ重く感じまして、帰国して見た大阪の橋がどうも模倣や薄っぺらさを感じざるを得ませんでした。
もう一つは「梅田橋」です。かの曽根崎心中をみたあと、<梅田の橋を鵲の橋と契りて、、、>という道行き場面の近松っあんの名文に心曳かれて二人が天神ノ森へどういうルートを歩いたのかをトレースした時に探した橋です。こういった現存しない橋もこのシリーズの対象にして欲しいなあと思いました。
折角の今回の橋と離れたコメントお許しの程を。
飲み屋の基準というほどのものは無いのですが、十三の居酒屋のように満員で入るに入れないところはどうしても避けてしまいます。適当に人がいて、適当に空いていてというところでしょうか。「するめの天麩羅」も重要な要素です(爆)。
橋の番付は、錦橋(近く御案内できたら嬉しいです)のデコレーションになっている江戸時代のかわら版(かな?)に記されたものです。小さなところは読んでいないのでも、今度しっかりと写してこようと思っています。
京都はやはり三条大橋でしょうね。東京の日本橋は今はあまり面白くない感じですね。東京は広いので住んでいる所によって一杯候補が挙がるのではないでしょうか。
橋にも番付けがあるのですか。東京なら二重橋でしょうか?それとも日本橋かな?京都は三条大橋でしょうか?
去年、いや一昨年でしたか、ばらぞの橋を渡りました。ばらの名前の多いこと、まるで覚えられません。
写真のジーナ・ロロブリジータの黄色いばらは、イタリアの誇る小麦色の個性女優の名にふさわしい色だと思います。BとWの差が素晴らしい!
初めてのお店で飲屋さんに入られる時の基準は何かしら・・・
本日より浪花八百八橋計画応援団を結成しましょう♪
夫婦橋の哀話とは、まあ夫が旅先から予定日に帰ってこなかったので、妻がそれを苦にして池に身投げをし、その後で帰ってきた夫が後追い身投げをしたという話だったと思います。こう書いてしまうとただのヒステリーの話になってしまいますね。
東洋ショーは本文に書いたように休館中で、小生はこの界隈ではあまり非合法地帯は知りません。あくまで「明るく健全な天満」という感じですが、やーさんの事務所もあるし、そんな警察の標語みたいなことを言ったらせせら笑う通の人もいるだろうと思います。
今回、改めて橋を渡ることで昔の大坂の領域というかそういうものを改めて意識するようになりました。
それにしましても、何でライオンなのでしょう。この像が出来た当時は、動物園のライオンが珍しかったのでしょうか。ただ、難波には、河童の方がふさわしい様にも思えますが。
2番目は「ばらぞの橋」ですか。最近は仮名書きが普通みたいですが、昔なら「薔薇園橋」としたことでしょう。
ジーナ・ロロブリジータは、超有名なかつてのイタリアの女優です。かなり妖艶な感じでしたので、私は特に贔屓ではありませんでしたけど、それでも中々のモノでした。
ところで、お求めの「電気の球」とは白熱球のことですか。今は、外観が蛍光灯でも白熱灯はかなりあるみたいです。
昔は「マツダランプ」がその代名詞みたいなものでしたので、これは東芝の旧社名ですか。とすれば、マツシタより先に発明したのかも。
第4の「夫婦橋」に伝わる悲話とは何でしょう。夫の側の哀切な物語でしょうか・・・。
それにしまして、990円食べ放題のたこ焼きは、さすがは天満橋界隈の面目躍如ではないですか。100円ショップもあるみたいですし。確かに「100均」より「100金」の方が感じが出ています。gunさんの造語ですか?
最後に「呉春」の文字を久々に拝みました。それにしましても、安いと思ったビールに、自動的にアテが付いて来る、とはさすがに難波商法、と感服です。
それ以上(以下?)に安い飲み屋もあるのは、さすがに天満と、更に感服です。飲んだ後、目の保養もされたのでしょうか。