東横堀川に沿った徘徊は何年か前にもやったのですが、先だってより八百八橋計画を始めたので、もう一度橋を確認しながら歩いてみようと思いました。本日の出発点は谷町九丁目です。橋名の(数字)は、これをやり始めてから通算で何個目かを表します。
江戸時代の大坂の町を考えるときに、例えば難波は難波村だし、北も梅田などは町場には入りません。東も都島村や毛馬村だし、本当の大坂の町というのはお城の東側、北は大川(淀川)、西は木津川(西横堀川にするとあまりに狭い)、東は東横堀川、南は道頓堀川に囲まれたごくごく狭い地域が所謂「大坂」ではないかな等と思われます。ただ大川の北であっても天満は古くから大坂三郷に数えられていますから、これは領域内。
そうなると、既に埋め立てられた川や堀を計算したりして、どうあがいてもそんなに橋があるとは思えません。したがってこの徘徊では、江戸時代の「大坂」を意識しながらも現在の大阪市の境域を対象として行きたいと思います。本日は純粋に大坂の橋であります。
まず最初に高津さんにお参りです。仁徳天皇を祀るこのお宮さんは落語でもお馴染みです(崇徳院・高津の冨等)。石柱の揮毫は陸軍大将の宇垣一成です。このお社の境内に梅乃橋(8)、この橋が架かっていた梅川は今は流れはありません。道頓堀川はこの梅川の流れを拡幅したものだと言われています。
このお社には久しぶりにお参りしましたが、神社の中にあるあれやこれやについて説明の立て札が立てられていました。なかなかに親切であります。そのあれやこれやはまたの機会にして、縁切り坂を下って川の方に向かいます。
高津さんから下って、道頓堀川に架かる下大和橋(9)、本日は道頓堀川に架かる橋はこれだけです。おなじみの道頓堀の景色はもう少し西に行かないと見られませんね。この橋は、近松門左衛門の生玉心中の舞台であるよし、説明もありました。この橋を南に渡って東に向かい、生玉さんの森で心中したという訳か。曾根崎と言い、天の網島と言い、心中した場所の地名を採って作品名としているのですね。生玉心中も、遊女と友達を裏切る悪いヤツが出てくるというプロットというか、筋立ては曾根崎心中と同じ感じです。
少し戻って上大和橋(10)、この橋を渡るのでついでに下大和橋もと思った訳であります。本来の下大和橋はもう少し西にあったそうです。東横堀川に架かる橋は、その街灯もひとつひとつが異なり、面白いので写真に撮ります。
北に歩いて瓦屋橋(11)、この付近で瓦の原料となる土を採っていたとのこと。今では考えられませんね。
続いて東堀橋(12)、橋を渡って戻ってきている場合もありますが、基本は橋を渡ると対岸の川沿いを進み、次の橋でこちら側に戻ってきますから、両岸に有るものをしっかりとチェックするには往復する必要があります。まあ、そういう邪魔くさいことはしないので川岸にある何やかんやは沢山見落としていると思います。
さらに久之助橋(13)、人の名に由来するようですが、何者じゃと言うことまでは分からぬようです。
この右岸が住友家の銅の製錬所跡です。立派なビリヤード場も残っています。今はホームレスのおっさんの憩いの場。ここらのホームレスはホントに風呂に入らぬようですね。昔よく言葉を交わしていた鴨川の橋の下のホームレスは「におい」が気になったことなんか一度も無かったのですが、ここでは強烈です。まあ、そうでしょうね。我々は「ホームレス」という言葉でくくってしまいますが、一人一人が個性を持った人間でありますから。近くのベンチでペットボトルのお茶を飲みながら話をしているおばちゃん2人に脱帽です。見事にホームレスの存在もニオイも黙殺しています。
末吉橋(14)は近世初頭の豪商である末吉孫左衛門に由来するとのことです。街灯はどこにでもあるものでした。昔はここから西に長堀川が流れていて、これを北に越えると島之内ですね。この地名は今も残っています。長堀通は昔は末吉橋通ですね。
安堂寺橋(15)、こやつを真っ直ぐに東に行けば玉造、そして暗がり越えということで、奈良街道につながるみたいです。ここも街灯は普通のものだったのでしょうね。写真を撮っていません。
久宝寺橋(16)は東横堀川の開削時に河内の久宝寺村から来た人が集まって住んでいたところからその名が来たとのことです。とりわけ美しい橋ですが、阪神高速が景観を台無しにしているのがよく分かりますね。
農人橋(17)、今や中央大通や阪神高速の出口を間に挟みます。身投げの名所のように思われているのは落語(饅頭こわい)の影響でしょうね。今の中央大通、昔は農人橋通だったのでしょうか。
さて、本町橋(18)です。現存する橋として大阪では最古の橋だそうです。また、東横堀川が開削されたときにも一番に架けられた橋だということです。南から歩いていて、あれあれ?もう本町かぁという感じです。
この橋を渡って左岸を歩くと町奉行所跡や何やがありますが、今日は川を離れないのでパスです。それでも天野屋利兵衛の顕彰碑などは見ることが出来ます。小生は親吉良の立場で、討ち入りのあった年末が近づくと何やかんやと大石たちが話題になるのに胸くそ悪くなる人間ですから「天野屋利兵衛は男でござる」て、アホかいな見たら分かるわいと思いますが、この碑の裏側の文字が摩耗などによって読めなくなっているのは惜しい。三州吉良湊、そのうち行くよー。
大手橋(19)、これを東に行くと大阪城の大手門につながるということでしょうか?いっぺん試してみんとあきません。て、よく考えたら地図を見たら済む話ですね。橋の形状はいったん遊歩道の方に降りて見ます。
平野橋(20)、大塩平八郎はこの橋の右岸の商家を焼き払った後に、この橋を渡って町奉行所を襲おうとして敗退したようです。武器を持たざる者には強く、武器を持つ者にはメチャメチャ弱い。戦場から離脱後、最終的に「昔の恩を知るならかくまえ!」と押しかけたのが四ツ橋筋あたりの知人の家、露顕したときに大塩は爆弾自殺をしますが(死骸は塩漬けにし、1年後に飛田墓地で磔、大塩生存説が巷で広まったため)、かくまった美吉屋五郎兵衛夫婦は牢死しています。この牢死というやつがくせもので、首謀者の多くも牢死しています。仕置き前に毒を盛るとか首を絞めるといったような習慣があったのかも知れません。それとも牢内の環境が極端に劣悪だったのかも。生きていても五郎兵衛は獄門、妻は死罪と判決書にはあります。たまらん話ですが、この大塩に何人かの与力や同心が荷担しているのは小生には理解不能であります。
はやくも高麗橋(21)のたもとの里程元標跡に到達であります。江戸の日本橋に当たるのがこの高麗橋。以前はどちらにも三越百貨店がありましたが、高麗橋の方は無くなってしまいました。本年の師匠案内徘徊は京街道(大津~大坂)完歩を目標にしていますが、ここで大団円となります。どこで飲むかが最大の問題です。堺筋線で恵美須町に出て、新世界かなぁ。たもとの蕎麦屋は他の店に変わっていました。
高麗橋の街灯は、一番目を引きますね。橋の下のプロムナードには赤い花が咲き、昔の今橋の一部も置かれていました。何にしても阪神高速を何とかしなければ、景観を誇れる都市にはなれませんね。
今橋(22)と葭屋橋(23)は斜めにつながっています。川に出て、大川と東横堀川の分岐を見に行くと、ちょうど観光船が東横堀川の方に入っていくところでした。こっちは、普通に見ていただけでしたが、舟の上からは元気いっぱいに手を振ってくれました。
今橋街灯
天神橋は今日はパスをし、ちょっと歩いて、天満橋(24)を渡ります。難波橋、天神橋と並んで大坂三橋といわれる橋です。今は子守の姿も、子守の背に負われて人形を川に投げ込む「こいさん」もいません。歌に出てくるものでは「住吉踊り」だけは今も続いています。そう言えば歌詞にも「変わらへんのは住吉踊り」とありました。小生の知人はこの橋の上でものすごい人魂を見たということです。
天満橋から中之島の東端
阪神高速、最後まで邪魔!
本日の橋巡りはここまで。天満に飲みに行きます。というのは、前回見つけた大瓶ビール350円の店を「備前屋」と記憶したのですが、ネットでも一切引っ掛からないし、どうも怪しいと言うことで再訪です。これがあるから本日は東横堀川を北上した訳です。何という深謀遠慮。孔明楠公もビックリやんけ。というか、御両人だったらスカタンを覚えませんわなあ(悲)。
今回ウロウロして目立ったのは橋の欄干とかに落書きが多いことです。落書きをする当人たちは芸術のつもりなのかも知れませんが、小汚いことこの上ない。そろそろ日本もサウジアラビアなどを見習って、悪いことをしたヤツは左腕切断とか江戸時代のように顔面に入れ墨とかそういう刑罰を考える時期に来ていると思います。「母さん助けて詐欺」などやったヤツは地獄に堕ちる前に舌を抜くべきであります。
天三で商店街に入るところに山片蟠桃の墓のある寺を見つけました。けったいな話ですが、山片蟠桃の名に蟠桃の生家跡がある播州の宝殿辺りの景色がさっと頭をよぎりました。「にくてん」を食べに行けよということかな?今、写真を見たら近藤宗悦なる人の墓もあるのですね。何者ぞー?
天満の店は「但馬屋」でした(爆)。「タジマ」の名に二重に(爆)。これは分かる人には分かるし、分からない人には全く分からない。前回アップした記事は最初は「備前屋」と書いていました。今回は名刺ももらったので、もう間違えません。先ずは串カツとビールです。壁に貼られたディエーという量のメニューの中にスルメの天ぷらを見つけました。こやつの味も合格であります。
帰路、大瓶3本分で少し足に来るということを悟りました。うどん屋で飲んだ生中がトドメになったようです。飲みながら読んでいる本の文字が踊り出したら撤退すべきだということも。高一以来5本まではビクともしないと豪語していたのに。日本酒も弱くなっているし、また一からしっかりと修養しなくてはなりません。高二の夏に強くなるためにやったカカオフィーズ原液の一気飲み(少なくともこの言葉だけで吐きそうになる者が約5名)、あれだけは絶対にやろうとは思いませんが。
江戸時代の大坂の町を考えるときに、例えば難波は難波村だし、北も梅田などは町場には入りません。東も都島村や毛馬村だし、本当の大坂の町というのはお城の東側、北は大川(淀川)、西は木津川(西横堀川にするとあまりに狭い)、東は東横堀川、南は道頓堀川に囲まれたごくごく狭い地域が所謂「大坂」ではないかな等と思われます。ただ大川の北であっても天満は古くから大坂三郷に数えられていますから、これは領域内。
そうなると、既に埋め立てられた川や堀を計算したりして、どうあがいてもそんなに橋があるとは思えません。したがってこの徘徊では、江戸時代の「大坂」を意識しながらも現在の大阪市の境域を対象として行きたいと思います。本日は純粋に大坂の橋であります。
まず最初に高津さんにお参りです。仁徳天皇を祀るこのお宮さんは落語でもお馴染みです(崇徳院・高津の冨等)。石柱の揮毫は陸軍大将の宇垣一成です。このお社の境内に梅乃橋(8)、この橋が架かっていた梅川は今は流れはありません。道頓堀川はこの梅川の流れを拡幅したものだと言われています。
このお社には久しぶりにお参りしましたが、神社の中にあるあれやこれやについて説明の立て札が立てられていました。なかなかに親切であります。そのあれやこれやはまたの機会にして、縁切り坂を下って川の方に向かいます。
高津さんから下って、道頓堀川に架かる下大和橋(9)、本日は道頓堀川に架かる橋はこれだけです。おなじみの道頓堀の景色はもう少し西に行かないと見られませんね。この橋は、近松門左衛門の生玉心中の舞台であるよし、説明もありました。この橋を南に渡って東に向かい、生玉さんの森で心中したという訳か。曾根崎と言い、天の網島と言い、心中した場所の地名を採って作品名としているのですね。生玉心中も、遊女と友達を裏切る悪いヤツが出てくるというプロットというか、筋立ては曾根崎心中と同じ感じです。
少し戻って上大和橋(10)、この橋を渡るのでついでに下大和橋もと思った訳であります。本来の下大和橋はもう少し西にあったそうです。東横堀川に架かる橋は、その街灯もひとつひとつが異なり、面白いので写真に撮ります。
北に歩いて瓦屋橋(11)、この付近で瓦の原料となる土を採っていたとのこと。今では考えられませんね。
続いて東堀橋(12)、橋を渡って戻ってきている場合もありますが、基本は橋を渡ると対岸の川沿いを進み、次の橋でこちら側に戻ってきますから、両岸に有るものをしっかりとチェックするには往復する必要があります。まあ、そういう邪魔くさいことはしないので川岸にある何やかんやは沢山見落としていると思います。
さらに久之助橋(13)、人の名に由来するようですが、何者じゃと言うことまでは分からぬようです。
この右岸が住友家の銅の製錬所跡です。立派なビリヤード場も残っています。今はホームレスのおっさんの憩いの場。ここらのホームレスはホントに風呂に入らぬようですね。昔よく言葉を交わしていた鴨川の橋の下のホームレスは「におい」が気になったことなんか一度も無かったのですが、ここでは強烈です。まあ、そうでしょうね。我々は「ホームレス」という言葉でくくってしまいますが、一人一人が個性を持った人間でありますから。近くのベンチでペットボトルのお茶を飲みながら話をしているおばちゃん2人に脱帽です。見事にホームレスの存在もニオイも黙殺しています。
末吉橋(14)は近世初頭の豪商である末吉孫左衛門に由来するとのことです。街灯はどこにでもあるものでした。昔はここから西に長堀川が流れていて、これを北に越えると島之内ですね。この地名は今も残っています。長堀通は昔は末吉橋通ですね。
安堂寺橋(15)、こやつを真っ直ぐに東に行けば玉造、そして暗がり越えということで、奈良街道につながるみたいです。ここも街灯は普通のものだったのでしょうね。写真を撮っていません。
久宝寺橋(16)は東横堀川の開削時に河内の久宝寺村から来た人が集まって住んでいたところからその名が来たとのことです。とりわけ美しい橋ですが、阪神高速が景観を台無しにしているのがよく分かりますね。
農人橋(17)、今や中央大通や阪神高速の出口を間に挟みます。身投げの名所のように思われているのは落語(饅頭こわい)の影響でしょうね。今の中央大通、昔は農人橋通だったのでしょうか。
さて、本町橋(18)です。現存する橋として大阪では最古の橋だそうです。また、東横堀川が開削されたときにも一番に架けられた橋だということです。南から歩いていて、あれあれ?もう本町かぁという感じです。
この橋を渡って左岸を歩くと町奉行所跡や何やがありますが、今日は川を離れないのでパスです。それでも天野屋利兵衛の顕彰碑などは見ることが出来ます。小生は親吉良の立場で、討ち入りのあった年末が近づくと何やかんやと大石たちが話題になるのに胸くそ悪くなる人間ですから「天野屋利兵衛は男でござる」て、アホかいな見たら分かるわいと思いますが、この碑の裏側の文字が摩耗などによって読めなくなっているのは惜しい。三州吉良湊、そのうち行くよー。
大手橋(19)、これを東に行くと大阪城の大手門につながるということでしょうか?いっぺん試してみんとあきません。て、よく考えたら地図を見たら済む話ですね。橋の形状はいったん遊歩道の方に降りて見ます。
平野橋(20)、大塩平八郎はこの橋の右岸の商家を焼き払った後に、この橋を渡って町奉行所を襲おうとして敗退したようです。武器を持たざる者には強く、武器を持つ者にはメチャメチャ弱い。戦場から離脱後、最終的に「昔の恩を知るならかくまえ!」と押しかけたのが四ツ橋筋あたりの知人の家、露顕したときに大塩は爆弾自殺をしますが(死骸は塩漬けにし、1年後に飛田墓地で磔、大塩生存説が巷で広まったため)、かくまった美吉屋五郎兵衛夫婦は牢死しています。この牢死というやつがくせもので、首謀者の多くも牢死しています。仕置き前に毒を盛るとか首を絞めるといったような習慣があったのかも知れません。それとも牢内の環境が極端に劣悪だったのかも。生きていても五郎兵衛は獄門、妻は死罪と判決書にはあります。たまらん話ですが、この大塩に何人かの与力や同心が荷担しているのは小生には理解不能であります。
はやくも高麗橋(21)のたもとの里程元標跡に到達であります。江戸の日本橋に当たるのがこの高麗橋。以前はどちらにも三越百貨店がありましたが、高麗橋の方は無くなってしまいました。本年の師匠案内徘徊は京街道(大津~大坂)完歩を目標にしていますが、ここで大団円となります。どこで飲むかが最大の問題です。堺筋線で恵美須町に出て、新世界かなぁ。たもとの蕎麦屋は他の店に変わっていました。
高麗橋の街灯は、一番目を引きますね。橋の下のプロムナードには赤い花が咲き、昔の今橋の一部も置かれていました。何にしても阪神高速を何とかしなければ、景観を誇れる都市にはなれませんね。
今橋(22)と葭屋橋(23)は斜めにつながっています。川に出て、大川と東横堀川の分岐を見に行くと、ちょうど観光船が東横堀川の方に入っていくところでした。こっちは、普通に見ていただけでしたが、舟の上からは元気いっぱいに手を振ってくれました。
今橋街灯
天神橋は今日はパスをし、ちょっと歩いて、天満橋(24)を渡ります。難波橋、天神橋と並んで大坂三橋といわれる橋です。今は子守の姿も、子守の背に負われて人形を川に投げ込む「こいさん」もいません。歌に出てくるものでは「住吉踊り」だけは今も続いています。そう言えば歌詞にも「変わらへんのは住吉踊り」とありました。小生の知人はこの橋の上でものすごい人魂を見たということです。
天満橋から中之島の東端
阪神高速、最後まで邪魔!
本日の橋巡りはここまで。天満に飲みに行きます。というのは、前回見つけた大瓶ビール350円の店を「備前屋」と記憶したのですが、ネットでも一切引っ掛からないし、どうも怪しいと言うことで再訪です。これがあるから本日は東横堀川を北上した訳です。何という深謀遠慮。孔明楠公もビックリやんけ。というか、御両人だったらスカタンを覚えませんわなあ(悲)。
今回ウロウロして目立ったのは橋の欄干とかに落書きが多いことです。落書きをする当人たちは芸術のつもりなのかも知れませんが、小汚いことこの上ない。そろそろ日本もサウジアラビアなどを見習って、悪いことをしたヤツは左腕切断とか江戸時代のように顔面に入れ墨とかそういう刑罰を考える時期に来ていると思います。「母さん助けて詐欺」などやったヤツは地獄に堕ちる前に舌を抜くべきであります。
天三で商店街に入るところに山片蟠桃の墓のある寺を見つけました。けったいな話ですが、山片蟠桃の名に蟠桃の生家跡がある播州の宝殿辺りの景色がさっと頭をよぎりました。「にくてん」を食べに行けよということかな?今、写真を見たら近藤宗悦なる人の墓もあるのですね。何者ぞー?
天満の店は「但馬屋」でした(爆)。「タジマ」の名に二重に(爆)。これは分かる人には分かるし、分からない人には全く分からない。前回アップした記事は最初は「備前屋」と書いていました。今回は名刺ももらったので、もう間違えません。先ずは串カツとビールです。壁に貼られたディエーという量のメニューの中にスルメの天ぷらを見つけました。こやつの味も合格であります。
帰路、大瓶3本分で少し足に来るということを悟りました。うどん屋で飲んだ生中がトドメになったようです。飲みながら読んでいる本の文字が踊り出したら撤退すべきだということも。高一以来5本まではビクともしないと豪語していたのに。日本酒も弱くなっているし、また一からしっかりと修養しなくてはなりません。高二の夏に強くなるためにやったカカオフィーズ原液の一気飲み(少なくともこの言葉だけで吐きそうになる者が約5名)、あれだけは絶対にやろうとは思いませんが。
おっと、昨日はお世話になりました。我なりに楽しい京街道でありました。師匠と一緒に焼き鳥屋へ入れるろいうフィナーレはそうあるものではないでしょう(^_*)O先生も焼き鳥ベタ誉めでしたし。
私はこの東横堀川畔にあるビルで過ごした期間がありなつかしいのですが、まずは本町橋。「ゼー肋」はどないしてるかなあ、もう「親父に似てると言われて嬉しくはないですけど、、」なんて客に答えていた息子の代に代わっていることやろうなああ。爺ちゃんまだ店に出てへんかなあ、、
大手橋だったか名前は覚えてませんが、大手通の西の突き当たり、これは思案橋で、右へとれば淡路町、左へは瓦町へと進みます。よ~し、今度大阪へ行ったらこの界隈を歩いて昔を懐かしもう。昼飯に良く通った店も恐らく殆どなくなってるやろうなあ。というのは商売繁盛した店は更に良い立地を求めて、あかん店は店じまいというところだと思うのですが、我が想像ではあの天ぷら屋とどでかい肉が出てくるMは健在やろうと想像してるんです。店の格好には金を掛けずにサービスに一貫性があるので残っているはずやと思うのですが、これは検証に値する。
もう一つ山形蟠桃が出てきましたが、この大阪の国際的な賞、山形蟠桃賞の初代受賞者がかのキーンさんです。先程チェックしたら今年はもう24代目の授賞式だそうです。この賞の名前で山形先生を知ったのですが、何にも踏み込めてません(*_*)
「大坂」の範囲が、そんなに狭かったとは知りませんでした。やはり、その名の通り坂道の起伏の激しい地域だったのかどうか・・・。
「曾根崎心中」(増村保造)も「心中天の網島」(篠田正浩)も私は映画でしか観ていませんが、どちらも中々の作品でした。やはり、原作がしっかりしているからかも知れませんが。
歌舞伎には心中ものが十数作もあるそうですが、今では〝情死〟などは死語なのでしょう。
それもそうですが、橋の畔の街灯はそれぞれデザインが異なるとは初めて知りました。昔の映画に出て来るような風情が感じられる懐かしい光景です。
また、久之助とは何者だったのか。橋に名を残す位ですからかなり有名人(悪人ではないはず)だったのでしょう。
右岸には、ホームレスが多いとか。gunさんお馴染みの鴨川のホームレスも今はかなり減ったのではないですか。
桜の頃に丸太町から市場まで川岸を歩きましたが、囲いがしてあって「構築禁止」になっていました。三条にだけ〝住宅〟が2軒程ありましたけど、住人の姿は見られず(就業中?)、臭いもしませんでした。
昔は、乞食とかルンペンとか呼んでいましたが、今はホームレスの言葉さえ差別語になっているみたいです。世の中、どうなって行くのですかネ。
農人橋辺りは身投げの名所なのですか。今は、道頓堀へ飛び込む連中が多いみたいですが。それにしましても、名神高速は閉塞感を与え過ぎです。設計者の責任重大ではないですか。
本町橋が大阪最古ですか。もう少し立派な欄頭があってもよいのにと思いますが、質素な方が相応しいのかも知れません。gunさんご立腹の天野屋利兵衛は、大阪では有名人なのでしょう。
それより、大塩平八郎に頼られた知人は、気の毒と言えば気の毒です。まあ、それだけ恩を受けていたのでしょうから、逆恨みしてはいけないのかも。
終盤の高麗橋の街灯は、かなりの風情を覚えます。ただ、高麗の名称は、歴史的な謂れがあるのでしょうけど、かなりユニーク過ぎの感がしますが。
橋の畔の赤い花は、恐らく紅サルビアではないですか。博士に確認して下さい。
そう言えば、天満橋の〝こいさん〟も死語になりましたネ。素敵な言葉ですのに。最後は「但馬屋」でしたか。〝ディエー〟て何語ですか?
それより、大瓶3本が適量とは、gunさんも〝人並み〟になられた証明書です。カカオフィーズ原液(どんなモノか知りませんが)の一気呑みも、最近は中断されている様ですし。
この東横堀川周辺はmfujino様の縄張りですね。ここかしこに思い出の場所があるようですね。また、ゆっくりと徘徊してみて下さい。平日はやはり今も商いの町ですが、土日はシーンとしています。
山片蟠桃、小生もまともには向き合えていません。同時期の人としては富永仲基がいますが、この人の加上論には目を開いてもらった覚えがあります。大乗非仏論(我々日本人が信仰している仏教は仏教ではない)等も面白いですね。ぼちぼちと大坂の学者の本も読んでいかんとあきませんね。
そういえば鴨川は最近ホームレスを見ないですね。三条大橋の下の夫婦者や二条橋の下で鍋をする連中など、どこに行ったのでしょうね。丸太町の橋の下では犬を飼っていました。橋の下は行き場を失った連中のたまるところ、今はそんな感じではなくなりましたね。
「街灯の下で逢いたしこいさんに」、ありがとうございます。いいですねぇ。昔はこういうのを求めてウロウロしていたような気もします。大阪の町も高速道路の地下化を早めねば風情も何もありませんけれど。
カカオフィーズ、しばらくはチョコレートも食えなくなります。たぶん一生飲むことはないと思います。
途中、住友家の銅の精錬所が出てきますが、昔、愛媛県の別子銅山跡に行った事を思い出します。現在、住友グループがあるのは、天領の別子銅山を独占的に採掘できたからです。銅鉱床が地表に出ていて、露天堀が可能なところもあり、そこは歓喜坑と名づけられていました。そりゃ、見つけた住友の手代は歓喜どころか、失禁でもしたのではないでしょうか。
大塩平八郎の事件に巻き込まれた人の話がでてきましたが、シンパシィーをもつ人は当事者よりも割を食うかもしれませんね。当事者は失敗した場合の覚悟ができているが、シンパはそこまで、腹がくくれていないという意味です。
蘭学者で牢破りをした高野長英が、幕府の探索を逃れて全国を逃げ回った時に、かくまった多くの人々がいて、後に拷問をうけたり、命を落としていますが、この場合は処罰覚悟の手助けだったと思います。
でましたね。期待を裏切らずに、定番のイカのてんぷら。
なかなかうまそうですね。ボリウムもあります。
八代亜紀の「舟歌」の出だしは、
♪お酒は ねるめの燗がいい 肴はあぶったイカでいい~
でしたね。
ビールとてんぷら、ちょっとちがいますが・・
私はもう、硬いものはパスです。
住友家の財を生み出したのはひとえに別子銅山ですね。小生も行きたいなと思いながら未だ果たせていません。東は観音寺、西は今治の線で止まっていて、その中間地帯に別子銅山がありますね。
大塩平八郎については、その暴発に心から賛同した人はいないように思います。ひたすらに大塩がみんなを引っ張っていった、言うことを聞かなかった一番弟子は暴発の前に大塩に殺されています。それだけに巻き込まれた人は哀れです。ちょっと尼崎の事件に似ている感じで、自殺したおばはんは大塩の生まれ変わりかも(爆)。
するめの天麩羅、思っておられるよりも軟らかいですよ。これから天満界隈はローラー作戦です(笑)。
大阪の橋も二階建てなのですね。 見た目が悪いですよね。 天下の日本橋も二階建てで、馴染めませんね。
橋のデザインに二つとして同じものはないのでしょうか。 これからますます暑くなる時に水辺の徘徊ですと、少しは涼しげに感じられるかしらとも思いますが、足の下や車から出されるものの熱で、大変でしょうね。 でも、若さに期待して、、、
スルメの天ぷら美味しいですね。 友人に話しますと、「袋いりで売っていますよ。」と教えられたのですが、やはり揚げたてにはかないませんでしょ。 まだ買って食べたことはありませんが。
若いころから居酒屋に入ったことがなく、この年齢になってとても楽しい時間を過ごさせていただいております。
それにしても、さすがにすごい健脚ですね。前をどんどんと歩いて行かれるので、やっぱりすごいなあと思いました。傾斜がないところでの師匠についていくのはみんな大変ですが、鎌倉街道様は平気ですものね。師匠は傾斜があると突然にペースが落ちますから、鎌倉街道様が一番健脚なのでは。
するめの天麩羅やらイカ焼きやら、訳の解らぬ世界に御案内してすみません。これでも時々は懐石なども行ったのですが、最近はもうこの世界ばかりですね。いつか師匠と平日徘徊の折には「緑一」を飲ませろとおっしゃって下さい。池田の料亭がコースに入るかも知れません。
袋入りのものは「うまいか」というやつですね。基本は同じなのでしょうがコロモが分厚くて、酒のアテのスルメの天ぷらとはちょっと違う感じです。
大阪の川、さすがに腐臭は少なくなってきました。けれども、まだまだ夕涼みの風がさわやかだというところまではいきません。
農人橋!大阪の真ん中にこのような名前があるのに少々驚きです。この辺りに田畑があったのはいつごろまでかしら?
高麗橋まで歩きたいのはやまやまですが、(最初から不参加のくせに・・・)暑さにはとてもです。涼風が吹く頃にはご一緒させていただくかも。またよろしくお願いいたします。
串カツは牛ロースです。価格もそこそこですから、昔の新世界・天王寺のようなことはないと思います。昔のは牛だと言っていても全く歯ごたえとか無かったですし。殆どがコロモでした。
農人橋の名前の付いたころですから、ひょっとしたら大阪築城以前に遡るかも知れませんね。石山本願寺の周りには田畑が広がっていたのかも。