おおよそ文化的な面に於いては全く無調法な小生でありますが、恩師や知人の御陰で年に何回かは何か「文化やぞー!」というものに絡ましてもらっています。
本日はお花のお師匠さんとその門人たちの展示会。以前にも記事にしたことがありますが、あれから何年経ったやらと申す処。花を愛でながら笙の音色を聞く、しばしの別世界であります。
小生より少し年上の男性の活花
お師匠さんの活花
笙を吹く人(遠いけど)
お前はホンマに外道やのうと言われるかも知れませんが、お師匠さんの家(何と頭巾山に連なる山麓)に伝わる什器が素晴らしい。
茶臼やなあ
会は年々盛会となり多くの人で立て込んできたので密かに姿を消し、いつもの魑魅魍魎の世界に(爆)。今日もアサヒの黒生が飲みたいし、雨が降りそうだし、ということで烏丸から電車に乗り、久しぶりに大山崎で降りました。ここでカレーうどんを食べて、黒生に到達するまでの「はな」の誘惑を封じ込め、それから西国街道を歩き始めます。最初天王山に登りかけたのですが、雲の様子を見て止めました。本日は雨具という物を持っていません。
寶寺への道標
久しぶりに三宅安兵衛さんの遺志碑を見ました。京都府南部から大阪府北部にかけてたくさん建てられています。時代は大正末から昭和初期。
三宅安兵衛遺志碑
少し行くと離宮八幡宮です。嵯峨天皇の離宮である河陽宮があったことから付いた名です。859年に宇佐八幡から八幡神を男山(現在の石清水八幡宮)に勧請した際に八幡神の神輿がしばらく留まったところです。749年に東大寺の境内に手向山八幡宮が勧請された時は何やら怪しげな巫女さんが付いてきていましたが、男山への勧請で活躍したのは僧の行教、我が惟喬親王にも大いに絡む人物であります。そういえば859年は、惟喬親王と位争いをしたといわれる清和天皇の御代です。
北門の付近に隠れるようにして立っている碑は東京の油商が寄進したものです。この離宮八幡宮は荏胡麻油の座の元締め、中世には山崎は油の町としてものすごく栄えました。
境内にはいると、方15メートルほどのところの周囲に石造物やなんやが並べて建てられています。
油祖像
河陽宮跡の碑
守護不入の結界
相応寺三重塔礎石
守護不入の結界はこのように集めたら意味を為しませんが、まあ道路工事などで何時の間にやら無くなってしまうよりはいいかなというところです。そういえば、15世紀末から16世紀にかけて、京都の実力者が変わるたびに山崎に対する乱入狼藉を禁ずる「禁制」が出されています。我が三好長慶なども確か出していたような。
離宮八幡宮
惣門
惣門は徳川家光の寄進とありますから、江戸時代でも初期のものです。この山崎は西国街道の宿場町でもあったと思うのですが、「宿場」としての名残はあまり無いような気もします。
しばらく行くと有名な「従是東山城國」の石碑、ここからは摂津に入ります。
関大明神
ここでちょっと引き返してJRの山崎駅の方に行くと山陽道の山崎駅(うまや)跡と河陽宮の跡、いずれも駐輪場の地下です。
また戻って南に進み踏切を越えたところがサントリー、ウイスキー試飲ということが頭をかすめますが、探索探索。
今度は踏切の西側を山崎駅の方に向かいます。行ったり来たりで忙しいことです。途中でステンレスの鳥居が建てられている小さな祠を見ましたが、駅までの小さな道には特に何もありませんでした。駅にデンをして再び西国街道に復帰します。
本日は水無瀬神宮はご遠慮して(というより日頃の言動からすると「来るなー」と言われるかも、けれども小生は別に後鳥羽院が嫌いという訳ではありません)どんどんと進むと見慣れた道標、早くも桜井の駅であります。ここをよぎる時は自然と「青葉繁れる桜井のー」という歌が出てきますね。山崎から20分ぐらい。
桜井の駅
島本町町立博物館がリニューアルオープンしていましたが、館内でピアノの演奏会か何かをやっていたので、入るのは遠慮しました。
町立博物館
どんどんと進みます。太閤道からせり出しているために淀川の水運にとっては格好のランドマークであった梶原山、最近では高いマンションにふさがれてなかなか顔が見られません。
梶原山
梶原山を目の前にして雨の勢いが強くなってきました。ここで撤退です。阪急の上牧駅に向かいます。その途中には神奈備の森の跡。
さて、いよいよ「黒生」じゃーと勇躍店に飛び込みましたが、アサヒの黒生は無くなって代わりにスーパードライのブラックとやらに変わってしまっていました(泣)。なんか、シャバシャバで、もみない感じです。これから黒生復活をひつこく言い続けていこうと思っています。
ハムカツが大人げない?
本日はお花のお師匠さんとその門人たちの展示会。以前にも記事にしたことがありますが、あれから何年経ったやらと申す処。花を愛でながら笙の音色を聞く、しばしの別世界であります。
小生より少し年上の男性の活花
お師匠さんの活花
笙を吹く人(遠いけど)
お前はホンマに外道やのうと言われるかも知れませんが、お師匠さんの家(何と頭巾山に連なる山麓)に伝わる什器が素晴らしい。
茶臼やなあ
会は年々盛会となり多くの人で立て込んできたので密かに姿を消し、いつもの魑魅魍魎の世界に(爆)。今日もアサヒの黒生が飲みたいし、雨が降りそうだし、ということで烏丸から電車に乗り、久しぶりに大山崎で降りました。ここでカレーうどんを食べて、黒生に到達するまでの「はな」の誘惑を封じ込め、それから西国街道を歩き始めます。最初天王山に登りかけたのですが、雲の様子を見て止めました。本日は雨具という物を持っていません。
寶寺への道標
久しぶりに三宅安兵衛さんの遺志碑を見ました。京都府南部から大阪府北部にかけてたくさん建てられています。時代は大正末から昭和初期。
三宅安兵衛遺志碑
少し行くと離宮八幡宮です。嵯峨天皇の離宮である河陽宮があったことから付いた名です。859年に宇佐八幡から八幡神を男山(現在の石清水八幡宮)に勧請した際に八幡神の神輿がしばらく留まったところです。749年に東大寺の境内に手向山八幡宮が勧請された時は何やら怪しげな巫女さんが付いてきていましたが、男山への勧請で活躍したのは僧の行教、我が惟喬親王にも大いに絡む人物であります。そういえば859年は、惟喬親王と位争いをしたといわれる清和天皇の御代です。
北門の付近に隠れるようにして立っている碑は東京の油商が寄進したものです。この離宮八幡宮は荏胡麻油の座の元締め、中世には山崎は油の町としてものすごく栄えました。
境内にはいると、方15メートルほどのところの周囲に石造物やなんやが並べて建てられています。
油祖像
河陽宮跡の碑
守護不入の結界
相応寺三重塔礎石
守護不入の結界はこのように集めたら意味を為しませんが、まあ道路工事などで何時の間にやら無くなってしまうよりはいいかなというところです。そういえば、15世紀末から16世紀にかけて、京都の実力者が変わるたびに山崎に対する乱入狼藉を禁ずる「禁制」が出されています。我が三好長慶なども確か出していたような。
離宮八幡宮
惣門
惣門は徳川家光の寄進とありますから、江戸時代でも初期のものです。この山崎は西国街道の宿場町でもあったと思うのですが、「宿場」としての名残はあまり無いような気もします。
しばらく行くと有名な「従是東山城國」の石碑、ここからは摂津に入ります。
関大明神
ここでちょっと引き返してJRの山崎駅の方に行くと山陽道の山崎駅(うまや)跡と河陽宮の跡、いずれも駐輪場の地下です。
また戻って南に進み踏切を越えたところがサントリー、ウイスキー試飲ということが頭をかすめますが、探索探索。
今度は踏切の西側を山崎駅の方に向かいます。行ったり来たりで忙しいことです。途中でステンレスの鳥居が建てられている小さな祠を見ましたが、駅までの小さな道には特に何もありませんでした。駅にデンをして再び西国街道に復帰します。
本日は水無瀬神宮はご遠慮して(というより日頃の言動からすると「来るなー」と言われるかも、けれども小生は別に後鳥羽院が嫌いという訳ではありません)どんどんと進むと見慣れた道標、早くも桜井の駅であります。ここをよぎる時は自然と「青葉繁れる桜井のー」という歌が出てきますね。山崎から20分ぐらい。
桜井の駅
島本町町立博物館がリニューアルオープンしていましたが、館内でピアノの演奏会か何かをやっていたので、入るのは遠慮しました。
町立博物館
どんどんと進みます。太閤道からせり出しているために淀川の水運にとっては格好のランドマークであった梶原山、最近では高いマンションにふさがれてなかなか顔が見られません。
梶原山
梶原山を目の前にして雨の勢いが強くなってきました。ここで撤退です。阪急の上牧駅に向かいます。その途中には神奈備の森の跡。
さて、いよいよ「黒生」じゃーと勇躍店に飛び込みましたが、アサヒの黒生は無くなって代わりにスーパードライのブラックとやらに変わってしまっていました(泣)。なんか、シャバシャバで、もみない感じです。これから黒生復活をひつこく言い続けていこうと思っています。
ハムカツが大人げない?
山崎の辺りは、いつも電車で通り過ぎるばかりの所です。昔油で今麦酒の町ですか。ただ、昔の同僚が上牧に住んでいますので、同期生でよく遊びに(飲みにですが)行きました。
そんな縁で、所帯を持つ際に、あの周辺の宅地を探したものです。もし桜井辺りに住んでいたら、今頃は別れていたかも・・・。
それと、島本町は京都府との境の町で、今でも三島郡のままなのですか。珍しい存在ですけど、何か理由があるのでしょうか。
それにしましても、待望の黒生が無くなっていたのは残念でした。今はドライブラックと称するのですか。Gunkanさんにすれば、味さえ良ければ名前などどちらでも宜しいでしょうけど、やはり水無瀬神宮へ参拝しなかったタタリかも・・・。
先日歩いた古堤もそうでしたが、ここでも旧街道が車の抜け道になっているので、ポケーと歩いてはいられないのですが、サントリーが近づくとやはり思うところが大きくなりますね。暖かくなったら天王山に登って帰路に試飲をやりましょうか?
黒生が無くなったのは事件です。ビール会社の販促戦略もあるのでしょうが、もうちょっとましなものを造れよという気になります。これから「まずいー、まずいー」と言い続けねばならないのが大変です。
アサヒビール大山崎山荘美術館は2回行きました。駅周辺をふらっと歩いただけで行ったとはいえないですね。
近くのサントリーはお嫌いでしょうか?
以前にお越しいただいた時も1階はお通しできる状態ではなかったのですが、猫小屋開業後は2階も完全に物置状態です。かつかつ座ってお茶を飲んでいただくスペースはありますので、来襲は大歓迎です。
大山崎山荘は一度入りたいなあと思いながら、未だ入ったことはありません。いつもそのまま天王山に登ってしまいます。サントリー、試飲させてくれるところは大好きです(爆)。
先日は古堤街道徘徊でお世話になりました。あのなだらかな曲線の街道を歩く気分はなかなかのものでした。やはり知識のある方と一緒だと一人で歩くのとは違う世界が見えてきて楽しいものです。その日も多くの石碑などを見ましたが、今回のこの記事にも沢山石碑が登場します。こうして古の情報が石によって今に伝えられているのは想像を膨らませてくれて有り難いことです。
ステンレスの鳥居や大砲の砲丸などがあるなど神社ってちょっとした博物館ですね。楽しくなります。教条主義でないところが気に入っています。
翌日の柏原はこぢんまりとした街を楽しませてくれました。丹波の都は篠山でその副都心が柏原だったのでしょうか。町も説明板などをしっかり建てていますね。竹田城は30cmの積雪で登場を阻まれてしまいました。しかしここは最近すごいブームで訪れる人が急増しているようです。春にでもなれば車で上がっても駐車場が足らず渋滞が起こるのではないかと心配します。まあそれでも地元がどれだけ潤うかは疑問ですが。
京橋での晩飯タイムはgunkanatagoさんの好みと我が好みが違っているのは楽しかったです。違いというよりも私は好き嫌いが少ないのに対してgunkanatagoさんは好き嫌いのレベルが高いと判断しましたが如何でしょう。人生損してるよ(^_・)
さらに、想像外の華やかな華道展にもお出でになられるとは、これまたびっくりです。多面性をお持ちなのですね。茶会にもお出になられるのですか。御亭主で?それともお客人で?
ハムカツと裂きイカの天ぷらおいしそうですね。裂きイカの天ぷらは初めて食べました。イカよりも何倍か衣のほうが多く、油ぎってましたが、美味しかったです。ただ翌日から油分を控えました。悪玉コレステロールの数値が増えるといけませんので。
古堤は今からアップさせていただきますが、小生も全く知りませんでした。阪奈道路は何度も通っていますのにね。豊中市などもそうでしたが、昔は何もないと思っていた大東市、侮れる土地は無いですね。
竹田城、残念でしたね。ちょうどその日だけが積もっていたようですね。それでも柏原で織田氏の系図関係も分かったということでおもしろかったと師匠に伺いました。
神社はその地域のタイムカプセルとなっているところが多いですね。伝承も侮れませんし、最近は初めてのお宮さんに行くとネッチリと見て回る癖が付きました。
なるほど、スルメの天ぷらにはコレステロールという弱点もあったのですね。次回に予定している新世界の串カツも似たようなものかと思われますので、その前後の「油断ち」を宜しくお願いします(笑)。
串カツの後も、たこ焼きを焼いて頂いたり、足を延ばして加古川のカツ飯や高砂のにくてん等、色々と計画したいと思います。遠くて大変ですが、また頻繁に来て下さいね。
小生自身は無調法で茶道も華道も知りません。茶道は「茶事」というのに誘われているのですが、朝の6時からということで未だ参加できていません。