小生の友人に、四国の松山で交通事故を起こした者がいます。どの程度の事故であったのかは不明ですが、運転していた自分は無傷で助手席に載っていた婦人は大ケガをしました。爾来久しき間小生はその友人を「男気のないヤツ」と非難し続けてきました。今は一切そのようなことは言いません。
小生はよく山で迷います。迷う理由はいろいろありますが、何よりも粗忽で大ざっぱな性格がその原因の最たるものかと思われます。ちょっと怪しいなと思っても「まあエエデ。」とどんどん進む、本当に怪しいなと思うころには既に進みすぎて「引き返す勇気」を発動し得る距離では無くなっている。まあ迷っても方向だけはつかんでいるし、第一に迷うことがイコール「死」につながるようなエゲツナイ山には行かないので今まで元気に生き延びてきています。
2008年9月、小生は2人の知人を案内して雲取に登りました。登りは寺山峠から一ノ谷を遡るルートで最も一般的な道です。下りに色気を出し、雲取峠からハタカリ峠を経て寺山峠に戻る道を選択しました。大分と以前のことですが何回かは歩いている道です。この道をどんどんと進んでいくうちに道が道でなくなりガケを下りる状態になり、「まあエエデ。」と下りきったところはバス停山の家グランド前付近の国道でした。小生は無傷でしたが2人の知人はケガをしました。うち1名は左の腕に今も傷跡が生々しく残っています。それ以来、小生は交通事故を起こした友人を非難するのをやめたのであります。
さて、前置きが長くなりましたが今回はほぼ1年ぶりの雲取、前回のリベンジであります。朝遅く「ノソー」と出かけ、山そのものより後の酒を楽しみにした不純な山登りをする小生でありますから、山行記事を書いても何の参考にもならないと今までは山を徘徊した話はひかえてきたのですが、まあ笑い話にはなるかも知れぬとこれよりは山行きの話も記してみようと思うております。
バス停「花脊高原」に着いたときは既に11時過ぎ、理の当然として誰もいません。花脊中小学校の前のコスモスが迎えてくれます。既に秋色であります。定番の道、スキー場のあった谷を詰めていきます。雲取の出だしでは必ず何かが迎えてくれます。前回は珍しいナナフシでしたが、本日は沢ガニです。ここは登山路で流れに足を突っこむ慌て者もいるため、もう少し奥の流れに避難せよと言い聞かせます。
スキー場跡
谷の終わりに近づくころ、道は右折して木の根道へ。この木の根道が終わるとまもなく寺山峠です。
寺山峠
どなたか風雅な人がおられるのでしょう。峠には金久昌業氏の名著『北山の峠』の一節を彫りつけた板がくくりつけられています。前に来たときには十分に読めたのですが、今はもう読み辛くなっています。普通は、この峠を西に進み「一ノ谷出会い」から一ノ谷を詰めて雲取峠に行くのですが、本日はハタカリ峠を目指すために北の公団巡視路を進みます。京都市の花背山の家の方々が「×」という印を付けている方向ですが、「×」の方向に進むのは何かちょっとアカンのかなという気持ちもします。最初は快調、さわやかな尾根道です。
京都産業大のワンゲル小屋が左手に見えてきます。今一使用されている感じがありません。「オーイ、産業大。外にある便所が朽ち果てて、小便器が山の中に転がり出てるぞ!」というところ。
京産大ワンゲル小屋
さて、昨年はハタカリ峠から寺山峠を目指し、どこかで右折せねばならぬところを真っ直ぐにいったために迷ってしまった。となりますと本日は、どこかで左折せねばならぬということで、踏み跡や目印のテープも解らなくなったところで、「ここぢゃ!」と目星を付けて左折します。
すると、やっぱり間違った。ハタカリ峠にはたどり着けず一ノ谷に直滑降というやつです。やむを得ず、一ノ谷を遡行して雲取峠に辿り着きます。
シダの茂みの中を「ワーイ」と下りてきた
雲取峠に着いて、すぐ右手を見たものが次の写真でハタカリ峠方面です。本当はこの奥つまり光が漏れている辺りから現れなければならないのですが、どちらにしてもシダの茂みを泳ぐことには変わりはありません。北山では何年か前に多くのピークを覆っていたクマザサが一斉に枯れて、今はシダの天下です。クマザサは小生の背丈よりも高いものが多くあり、かつては潜水艦のように進まねばならなかったのですが、今は向こうが見えるだけ楽になりました。
府立大の山小屋は最近塗り直されたようです。比較的によく使われている小屋です。ここで昼飯ぢゃ。
京都府立大ワンゲル小屋
この小屋の前の道を北行すれば灰屋方面に出られますが、かなり荒れていそうです。本日は、お約束通りひとまず頂上に向かいます。
雲取峠
頂上付近の見事なコケ
雲取頂上 911.1m
頂上は全く展望がききませんが、雲取峠に戻る途中でちょっと道を外れると東側がパッと開ける処が有ります。比良山系や皆子山なども見えています。頂上からは二ノ谷を下る道、三ノ谷を下る道、そして雲取峠に戻る道の3つの道がありますが、本日は当初の予定通り一ノ谷を通って芹生(せりょう)に向かうので、もと来た道を引き返します。
雲取峠から一ノ谷を下っていくと渓友倶楽部の山小屋、本日は無人ですが、最も高い頻度で使用されている気がします。青いビニールシートはやめてくれー、中之島のホームレスの小屋ではないのだからというところ。ついでにやめてくれーと思うのは山の中の目印にと木々や草花にペンキを吹きかけていくやつ、自然への慈しみはゼロです。
ここから下の写真の寺山峠への分岐(一ノ谷出合い)までは渓流に沿った気持ちの良い道が続きます。ただ、ここより下手は林道工事が行われていて、それにともなって出た土砂を大量に谷に落としたようで随分と谷が荒れています。ああここも「医王沢」のようになるのかと何やら無念です。二の谷の出合いまでの道が以前のようになるには50年ぐらいかかると思われます。二の谷を遡れば立命館のワンゲル小屋ですが、本日はパス。
それでも自然は健気なもので、追いつめられつつも人に見どころを与えてくれます。芹生までの間、クリンソウの群落が数多く見られますが、芹生に近づくほど大きな群落になるのは人の意思を汲み取ってのことでしょうか。
また、マツカゼソウも白い花を咲かせています。小生が知る草花の中で最もたおやかで優しい草です。
「それにしても林道、ムチャクチャしよるなあ」と悲憤慷慨しつつ、草花を愛でつつ、ややこしい気持ちで三の谷との出合を過ぎます。三の谷出合いでは、いつも何かが見送ってくれる。前はきれいな蝶、本日はトカゲです。この者に挨拶をすれば、ほどなく寺子屋跡であります。小生はこの勢竜天満宮の落ち着いた空間が好きですから、言うにしのびないのですが、勿論歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」が元になって造られたもので、伝承が先にあるものではなくフィクションから生まれたものです。それでも世間の説明では「寺子屋の跡らしきところに明治になって云々」と往生際が悪い。等と思いつつも「ああ、子供の首を刎ねたのは、あの辺りになるのかな?」等とこちらも結構毒されています。
赤い橋の向こうが芹生の本当の寺子屋(小学校)跡ですが、今一解りませんね。
芹生の里も今や更地だらけ、それでも花脊高原を出て始めて人と出会います。芹生の出口、灰屋川にかかる橋の名前も「寺子屋橋」でこれはちょっとと申す処です。
寺子屋橋から芹生峠までは、車も通るのですが、基本的には気持ちの良い樹間の道が続きます。間伐がなされ、日の当たる杉の木の下はマツカゼソウの大群落。
芹生峠
芹生峠から西の斜面に取り付き、一挙に駆け上がると「P760」といわれるポイントです。近くに魚谷山、その向こうに桟敷ヶ岳、目を転ずれば愛宕山が見えていますが、本日はちょっとわかりにくい。
ここから滝谷峠までは約1㎞、滝谷峠から二ノ瀬ユリを通れば、これはもうムービングウォークのようなもので5~6㎞で叡電貴船口又は二ノ瀬であります。が、ここで迷うのが小生の真骨頂、どこで酒を飲もうかなどと考えているうちにP760から滝谷峠に向かう道を1本間違えたのであります。間違えたのはすぐに解ったのですが、引き返す勇気がない。このまま、この方向にずんずん行けば滝谷峠とぶつかるだろうと進みます。途中で、見事な大木にも出会いました。
しばらくは道無き道を登ったり下りたり、北山は何処も尾根筋に道がありますから谷に出て解らなくなれば尾根に登るのです。小一時間ぐらい迷って遊んでいたので、少し暗くなり始めています。「おかしいな」と思い始めたころに前方が明るくなり、「おお、遂に二ノ瀬ユリだ」と駆け上った瞬間に、「あーヤマハコワイ、ヤマハコワイ」とつくづくと思いました。P760に戻ってきていたのです。どこで、方向が解らなくなったのかはさっぱり解りませんが、どこを入ったために迷ったのかはよく理解できました。何れにしても途中からは南に進んでいるつもりで北に進んでいたのです。
途中で暗くなることを考えると、もう滝谷峠経由はあきらめざるを得ません。芹生峠へ駆け下りて、道路を延々と貴船口に向かいます。途中に地蔵堂があり、「成る程、ここのお地蔵さんが挨拶に来いとよばはったんや。」等と勝手に納得。
貴船神社奥の院は既に灯りが点っています。
もはや夏も終わりですが、貴船の床はまだまだ流行っています。小綺麗にした人たちが楽しく床で飲み食いする中にインパールから帰還した復員兵が現れた感もあります。
「おー、そういえば今日は選挙じゃった。」貴船の投票所、なかなかの趣です。何か、戦前に戻ったみたい(戦前に生きていたわけではありませんが)。そういえば、選挙などもう何十年も行ってないなあ。このまま医者と選挙は一生関係なく生きられるかな。
貴船口から叡電にて出町に着けば、いつもの「あうん」という店はもう閉まっています。「ふん!」と言って河原町方面にさまよい出るのであります。
(09年9月記)
小生はよく山で迷います。迷う理由はいろいろありますが、何よりも粗忽で大ざっぱな性格がその原因の最たるものかと思われます。ちょっと怪しいなと思っても「まあエエデ。」とどんどん進む、本当に怪しいなと思うころには既に進みすぎて「引き返す勇気」を発動し得る距離では無くなっている。まあ迷っても方向だけはつかんでいるし、第一に迷うことがイコール「死」につながるようなエゲツナイ山には行かないので今まで元気に生き延びてきています。
2008年9月、小生は2人の知人を案内して雲取に登りました。登りは寺山峠から一ノ谷を遡るルートで最も一般的な道です。下りに色気を出し、雲取峠からハタカリ峠を経て寺山峠に戻る道を選択しました。大分と以前のことですが何回かは歩いている道です。この道をどんどんと進んでいくうちに道が道でなくなりガケを下りる状態になり、「まあエエデ。」と下りきったところはバス停山の家グランド前付近の国道でした。小生は無傷でしたが2人の知人はケガをしました。うち1名は左の腕に今も傷跡が生々しく残っています。それ以来、小生は交通事故を起こした友人を非難するのをやめたのであります。
さて、前置きが長くなりましたが今回はほぼ1年ぶりの雲取、前回のリベンジであります。朝遅く「ノソー」と出かけ、山そのものより後の酒を楽しみにした不純な山登りをする小生でありますから、山行記事を書いても何の参考にもならないと今までは山を徘徊した話はひかえてきたのですが、まあ笑い話にはなるかも知れぬとこれよりは山行きの話も記してみようと思うております。
バス停「花脊高原」に着いたときは既に11時過ぎ、理の当然として誰もいません。花脊中小学校の前のコスモスが迎えてくれます。既に秋色であります。定番の道、スキー場のあった谷を詰めていきます。雲取の出だしでは必ず何かが迎えてくれます。前回は珍しいナナフシでしたが、本日は沢ガニです。ここは登山路で流れに足を突っこむ慌て者もいるため、もう少し奥の流れに避難せよと言い聞かせます。
スキー場跡
谷の終わりに近づくころ、道は右折して木の根道へ。この木の根道が終わるとまもなく寺山峠です。
寺山峠
どなたか風雅な人がおられるのでしょう。峠には金久昌業氏の名著『北山の峠』の一節を彫りつけた板がくくりつけられています。前に来たときには十分に読めたのですが、今はもう読み辛くなっています。普通は、この峠を西に進み「一ノ谷出会い」から一ノ谷を詰めて雲取峠に行くのですが、本日はハタカリ峠を目指すために北の公団巡視路を進みます。京都市の花背山の家の方々が「×」という印を付けている方向ですが、「×」の方向に進むのは何かちょっとアカンのかなという気持ちもします。最初は快調、さわやかな尾根道です。
京都産業大のワンゲル小屋が左手に見えてきます。今一使用されている感じがありません。「オーイ、産業大。外にある便所が朽ち果てて、小便器が山の中に転がり出てるぞ!」というところ。
京産大ワンゲル小屋
さて、昨年はハタカリ峠から寺山峠を目指し、どこかで右折せねばならぬところを真っ直ぐにいったために迷ってしまった。となりますと本日は、どこかで左折せねばならぬということで、踏み跡や目印のテープも解らなくなったところで、「ここぢゃ!」と目星を付けて左折します。
すると、やっぱり間違った。ハタカリ峠にはたどり着けず一ノ谷に直滑降というやつです。やむを得ず、一ノ谷を遡行して雲取峠に辿り着きます。
シダの茂みの中を「ワーイ」と下りてきた
雲取峠に着いて、すぐ右手を見たものが次の写真でハタカリ峠方面です。本当はこの奥つまり光が漏れている辺りから現れなければならないのですが、どちらにしてもシダの茂みを泳ぐことには変わりはありません。北山では何年か前に多くのピークを覆っていたクマザサが一斉に枯れて、今はシダの天下です。クマザサは小生の背丈よりも高いものが多くあり、かつては潜水艦のように進まねばならなかったのですが、今は向こうが見えるだけ楽になりました。
府立大の山小屋は最近塗り直されたようです。比較的によく使われている小屋です。ここで昼飯ぢゃ。
京都府立大ワンゲル小屋
この小屋の前の道を北行すれば灰屋方面に出られますが、かなり荒れていそうです。本日は、お約束通りひとまず頂上に向かいます。
雲取峠
頂上付近の見事なコケ
雲取頂上 911.1m
頂上は全く展望がききませんが、雲取峠に戻る途中でちょっと道を外れると東側がパッと開ける処が有ります。比良山系や皆子山なども見えています。頂上からは二ノ谷を下る道、三ノ谷を下る道、そして雲取峠に戻る道の3つの道がありますが、本日は当初の予定通り一ノ谷を通って芹生(せりょう)に向かうので、もと来た道を引き返します。
雲取峠から一ノ谷を下っていくと渓友倶楽部の山小屋、本日は無人ですが、最も高い頻度で使用されている気がします。青いビニールシートはやめてくれー、中之島のホームレスの小屋ではないのだからというところ。ついでにやめてくれーと思うのは山の中の目印にと木々や草花にペンキを吹きかけていくやつ、自然への慈しみはゼロです。
ここから下の写真の寺山峠への分岐(一ノ谷出合い)までは渓流に沿った気持ちの良い道が続きます。ただ、ここより下手は林道工事が行われていて、それにともなって出た土砂を大量に谷に落としたようで随分と谷が荒れています。ああここも「医王沢」のようになるのかと何やら無念です。二の谷の出合いまでの道が以前のようになるには50年ぐらいかかると思われます。二の谷を遡れば立命館のワンゲル小屋ですが、本日はパス。
それでも自然は健気なもので、追いつめられつつも人に見どころを与えてくれます。芹生までの間、クリンソウの群落が数多く見られますが、芹生に近づくほど大きな群落になるのは人の意思を汲み取ってのことでしょうか。
また、マツカゼソウも白い花を咲かせています。小生が知る草花の中で最もたおやかで優しい草です。
「それにしても林道、ムチャクチャしよるなあ」と悲憤慷慨しつつ、草花を愛でつつ、ややこしい気持ちで三の谷との出合を過ぎます。三の谷出合いでは、いつも何かが見送ってくれる。前はきれいな蝶、本日はトカゲです。この者に挨拶をすれば、ほどなく寺子屋跡であります。小生はこの勢竜天満宮の落ち着いた空間が好きですから、言うにしのびないのですが、勿論歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」が元になって造られたもので、伝承が先にあるものではなくフィクションから生まれたものです。それでも世間の説明では「寺子屋の跡らしきところに明治になって云々」と往生際が悪い。等と思いつつも「ああ、子供の首を刎ねたのは、あの辺りになるのかな?」等とこちらも結構毒されています。
赤い橋の向こうが芹生の本当の寺子屋(小学校)跡ですが、今一解りませんね。
芹生の里も今や更地だらけ、それでも花脊高原を出て始めて人と出会います。芹生の出口、灰屋川にかかる橋の名前も「寺子屋橋」でこれはちょっとと申す処です。
寺子屋橋から芹生峠までは、車も通るのですが、基本的には気持ちの良い樹間の道が続きます。間伐がなされ、日の当たる杉の木の下はマツカゼソウの大群落。
芹生峠
芹生峠から西の斜面に取り付き、一挙に駆け上がると「P760」といわれるポイントです。近くに魚谷山、その向こうに桟敷ヶ岳、目を転ずれば愛宕山が見えていますが、本日はちょっとわかりにくい。
ここから滝谷峠までは約1㎞、滝谷峠から二ノ瀬ユリを通れば、これはもうムービングウォークのようなもので5~6㎞で叡電貴船口又は二ノ瀬であります。が、ここで迷うのが小生の真骨頂、どこで酒を飲もうかなどと考えているうちにP760から滝谷峠に向かう道を1本間違えたのであります。間違えたのはすぐに解ったのですが、引き返す勇気がない。このまま、この方向にずんずん行けば滝谷峠とぶつかるだろうと進みます。途中で、見事な大木にも出会いました。
しばらくは道無き道を登ったり下りたり、北山は何処も尾根筋に道がありますから谷に出て解らなくなれば尾根に登るのです。小一時間ぐらい迷って遊んでいたので、少し暗くなり始めています。「おかしいな」と思い始めたころに前方が明るくなり、「おお、遂に二ノ瀬ユリだ」と駆け上った瞬間に、「あーヤマハコワイ、ヤマハコワイ」とつくづくと思いました。P760に戻ってきていたのです。どこで、方向が解らなくなったのかはさっぱり解りませんが、どこを入ったために迷ったのかはよく理解できました。何れにしても途中からは南に進んでいるつもりで北に進んでいたのです。
途中で暗くなることを考えると、もう滝谷峠経由はあきらめざるを得ません。芹生峠へ駆け下りて、道路を延々と貴船口に向かいます。途中に地蔵堂があり、「成る程、ここのお地蔵さんが挨拶に来いとよばはったんや。」等と勝手に納得。
貴船神社奥の院は既に灯りが点っています。
もはや夏も終わりですが、貴船の床はまだまだ流行っています。小綺麗にした人たちが楽しく床で飲み食いする中にインパールから帰還した復員兵が現れた感もあります。
「おー、そういえば今日は選挙じゃった。」貴船の投票所、なかなかの趣です。何か、戦前に戻ったみたい(戦前に生きていたわけではありませんが)。そういえば、選挙などもう何十年も行ってないなあ。このまま医者と選挙は一生関係なく生きられるかな。
貴船口から叡電にて出町に着けば、いつもの「あうん」という店はもう閉まっています。「ふん!」と言って河原町方面にさまよい出るのであります。
(09年9月記)
北山は本当によく迷います。六甲で迷ったというのは一度もないのですが、これは山に入っている人数の問題もあるでしょうね。最近では、余野~茶呑峠、長谷林道~ナベクロ峠、天童山~比賀江で迷っておりますが、いずれも方向ははっきりしていたのに対して、今回はグルグルマイマイをやっていたので、ちょっと怖れました。
昔一緒に仕事した人と車に乗っていると、あれ道間違えてますよと指摘すると、俺は絶対に引き返さない、前にしか進まない、なんて格好良いと思って言っている人がありました。北山は怖いです。道を見て歩かずに地形を見て歩けと言われますけど展望もきかないし、、
暗くなって疲れた足で滝谷峠から奥貴船へ滝谷を下るのは足を踏み外したら危険なルートですね。ヘッドランプいつも持ってますか?
芹生、学校どころか今や人が全くいなくなるかどうかというところだと思われます。それでも、夏場は民宿などもやっているらしく、以前芹生峠で7~8人のおばちゃんが貴船口から歩いてきたと言って芹生で今夜は宴会だとたくましいことを言っていましたが、その時は芹生峠は数十年ぶりの喧噪につつまれたのではと思われました。
案内した同行者を怪我させたとしても、山行なら同じ道を歩いている訳ですから、そんなに気遣いをされなくても宜しいのでは。ただ、いつか八丁へ数名の女子大生を案内した時、谷川の丸木橋を渡れない者が何人かおり、やむなく私が手を引いて川を渡らせたことがありました。無理に橋の上を歩かせていたら落ちて怪我していたかも。
車の運転の場合は、運転手に身を任せているのですから、運転手に全面的な責任があるでしょう。それも、同乗の相手が若い女性なら兎も角(公けに出来ないでしょうし)、年配者とか老齢者ならそんなに気遣いしなくても宜しいのでは・・・とは暴言でした。
ちょっと話が脱線しました。芹生には小学校と共に周山中学の分校がありました。私達の同級生は2名です。広河原分校は10名でした。因みに、神吉分校は26名で俊才や美女が多く、まさに隔世の感があります。今は総て廃校になっています。コメント総てが横道に逸れました。謝々。