落語の「池田の猪買い」に、甚兵衛さんがアホに池田への道筋を教えて「左へ少ぉし行くと淀屋橋といぅ橋があるなぁ。淀屋橋、大江橋、蜆橋と橋を三つ渡る。お初天神の西門のところに「紅う」といぅ寿司屋がある。」等と言っておりますが、淀屋橋、大江橋は健在ですが、蜆橋は今はもうありません。大江橋と水晶橋の間、北側に延びる道は不自然に西に湾曲していますが、これはかつて流れていた蜆川(曾根崎川)沿いの道だったからです。蜆川は現在の北新地の真ん中を貫流して再び堂島川へと流れ込む川でした。蜆川があればこそ、堂島は「島」であった訳です。冒頭の写真は、茶屋川庄(心中天の網島で知られる遊女小春がいたお茶屋)跡の近くに建てられた橋のモニュメントです。実際の蜆橋は、御堂筋に沿っていて現在はビルの一角にその旨彫り込まれていますが、無粋な珈琲店の看板が邪魔をしています。
看板の裏にあたるところに「蜆橋跡の彫り込みあり」
四ツ橋筋に出れば、桜橋跡の碑がありますが、これはもう墓石のようなものがポツリと立っているだけです。モニュメントから少し南下すると「国産ビール発祥地」の碑、これも前には自転車の不法駐輪を割けるためか工事現場に置く黄色と黒の車止めが無粋です。そこからすぐのところが堂島川で、ガーデンブリッジのたもとに「堂島の米会所跡」を示すブロンズ像があります。
ここでふっと新ダイビルの方を振り返ると「あれ?」という感じで、3階の隅のところに羊がいます。
「ヌヌヌ」と後戻りをして新ダイビルをぐるりと廻ると全ての角に羊がいます。アナクロニズムの世界に生きる小生などは「何か結界を張っているのだろうか」とすぐに考えてしまうのですが、羊がそこで何をしているのかは解りません。
中之島をそのまま突っ切って錦橋を渡ると、阪神高速道路の下に「西横堀川跡」の碑がありますが、ここにも車止めが置かれています。蜆川も西横堀川も長堀もいまは埋められてしまって存在しませんが、かつての西横堀川に沿って南下します。この近くには「阪神高速道路」の記念碑もありますが、目立たぬ所にあり、誰も見ないようです。というよりも敢えて見えぬようにしているのではとも思われます。
高速道路の真下は歩けませんので、すこし東、つまり御堂筋から見ると2本ほど西の筋を南に歩きますと、大阪倶楽部や錢高組分室の古い建物があり、程なく御霊神社にたどり着きます。御霊神社といいますと怨霊が昇華された御祭神と思ってしまいますが、天照荒御魂瀬織津姫が主神ということで、これは相当に古い形式の神様を祀る社です。この社の中には「うつぼの碑」や「肌まもりの木」や「文楽座跡の碑」など興味深いものが多くありますが、狛犬は珍しい青銅製です。
小生などは後ろの酒樽が気になって気になってというところですが、灘・伏見の大手酒造メーカーが全部そろっている中、「黄桜」だけが無かったのは何故でしょうか?
ここより御堂筋に出て、北御堂さらに南御堂、南御堂の前、御堂筋の植え込みの中に「芭蕉翁終焉地」の碑があります。南御堂の中には「旅に病んで…」の句碑もあります。南御堂にお参りする多くの人が本堂の阿弥陀さんを拝みに行く中、我が一行のみは罰当たりで南の隅の句碑周辺に直行です。
この南御堂の隣が摂津一宮の座摩神社、正式には「いかすり神社」というそうです。落語では古着買いで知られるのですが、今では一軒の古着屋もありません。境内に陶器神社があるからでしょう、狛犬は珍しい陶器製です。
摂津の国には一宮が2社あり、もう1社は住吉さんです。そうすると喧嘩するぢゃろうとご心配になるかも知れませんが、どちらのお社も摂津には多い神功皇后ゆかりのお社で兄弟のようなものですから仲良くされているようです。
さてここで、新町の方に足を向けるとサムハラ神社というちょっと変わったお宮さんがあります。御祭神は天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神という所謂造化三神で、高御産巣日神こそアマテラス以前の国家神であったという最近の説を置いておくと最初の神と天津神系の中心神と国津神系の中心神が仲良く祀られています。サムハラに当てられている文字はPCではでません。古い石柱には「高島屋」などが篤く信心をしていたという証拠が残ります。教派神道に位置づけられるのではと思いますが、大本の艮の金神や天理教の天理王命などとは違って、御祭神がある意味ではポピュラーであるところが特徴かと考えられます。
この近くにある新町九件桜堤跡の碑、上部が欠けている加賀千代女の句碑、初代中村鴈治郎生誕地の碑などを駆け足で眺め、いよいよ四ツ橋です。西横堀川と長堀が交差したところに4つの橋が架けられていたのが由来ですが、今は両方が埋め立てられたので存在しません。
阪神高速の下には、小西来山と上島鬼貫の句碑が並んでいますが、いかにも持て余した挙げ句に、その場所に設置したという感じで、大阪市も訳の解らぬ前衛彫刻を御堂筋などに列べるなら、もう少し句碑の周辺を整備しろというところです。鬼貫は伊丹市などで大きく顕彰されていますが、来山は忘れられつつあります。元禄期、談林派の有力俳人であった西鶴が浮世草子の方に向かったのに対して、俳諧から離れず師の師たる西山宗因の後を受け継いでいったのが来山であったということです。師匠である由平が乞うてわが弟子にしたという逸材であったことが「俳家奇人談」に記されています。ただ、「近世畸人伝」では俳人と言うより寧ろ老荘の徒であると結論づけていますが、大酒飲みで酔っぱらって番所に拘置されても、炊事をしなくていいから助かる等とも言っています。辞世は「来山はうまれた咎で死ぬる也 それでうらみも何もかもなし」。
さて、ここをもう少し南に行くとほんの僅かに西横堀川の一部が残っています。これに架かる橋を渡って東に向かうと道頓堀、もうどこでも酒を飲むことが出来ます。
(09年3月記)
看板の裏にあたるところに「蜆橋跡の彫り込みあり」
四ツ橋筋に出れば、桜橋跡の碑がありますが、これはもう墓石のようなものがポツリと立っているだけです。モニュメントから少し南下すると「国産ビール発祥地」の碑、これも前には自転車の不法駐輪を割けるためか工事現場に置く黄色と黒の車止めが無粋です。そこからすぐのところが堂島川で、ガーデンブリッジのたもとに「堂島の米会所跡」を示すブロンズ像があります。
ここでふっと新ダイビルの方を振り返ると「あれ?」という感じで、3階の隅のところに羊がいます。
「ヌヌヌ」と後戻りをして新ダイビルをぐるりと廻ると全ての角に羊がいます。アナクロニズムの世界に生きる小生などは「何か結界を張っているのだろうか」とすぐに考えてしまうのですが、羊がそこで何をしているのかは解りません。
中之島をそのまま突っ切って錦橋を渡ると、阪神高速道路の下に「西横堀川跡」の碑がありますが、ここにも車止めが置かれています。蜆川も西横堀川も長堀もいまは埋められてしまって存在しませんが、かつての西横堀川に沿って南下します。この近くには「阪神高速道路」の記念碑もありますが、目立たぬ所にあり、誰も見ないようです。というよりも敢えて見えぬようにしているのではとも思われます。
高速道路の真下は歩けませんので、すこし東、つまり御堂筋から見ると2本ほど西の筋を南に歩きますと、大阪倶楽部や錢高組分室の古い建物があり、程なく御霊神社にたどり着きます。御霊神社といいますと怨霊が昇華された御祭神と思ってしまいますが、天照荒御魂瀬織津姫が主神ということで、これは相当に古い形式の神様を祀る社です。この社の中には「うつぼの碑」や「肌まもりの木」や「文楽座跡の碑」など興味深いものが多くありますが、狛犬は珍しい青銅製です。
小生などは後ろの酒樽が気になって気になってというところですが、灘・伏見の大手酒造メーカーが全部そろっている中、「黄桜」だけが無かったのは何故でしょうか?
ここより御堂筋に出て、北御堂さらに南御堂、南御堂の前、御堂筋の植え込みの中に「芭蕉翁終焉地」の碑があります。南御堂の中には「旅に病んで…」の句碑もあります。南御堂にお参りする多くの人が本堂の阿弥陀さんを拝みに行く中、我が一行のみは罰当たりで南の隅の句碑周辺に直行です。
この南御堂の隣が摂津一宮の座摩神社、正式には「いかすり神社」というそうです。落語では古着買いで知られるのですが、今では一軒の古着屋もありません。境内に陶器神社があるからでしょう、狛犬は珍しい陶器製です。
摂津の国には一宮が2社あり、もう1社は住吉さんです。そうすると喧嘩するぢゃろうとご心配になるかも知れませんが、どちらのお社も摂津には多い神功皇后ゆかりのお社で兄弟のようなものですから仲良くされているようです。
さてここで、新町の方に足を向けるとサムハラ神社というちょっと変わったお宮さんがあります。御祭神は天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神という所謂造化三神で、高御産巣日神こそアマテラス以前の国家神であったという最近の説を置いておくと最初の神と天津神系の中心神と国津神系の中心神が仲良く祀られています。サムハラに当てられている文字はPCではでません。古い石柱には「高島屋」などが篤く信心をしていたという証拠が残ります。教派神道に位置づけられるのではと思いますが、大本の艮の金神や天理教の天理王命などとは違って、御祭神がある意味ではポピュラーであるところが特徴かと考えられます。
この近くにある新町九件桜堤跡の碑、上部が欠けている加賀千代女の句碑、初代中村鴈治郎生誕地の碑などを駆け足で眺め、いよいよ四ツ橋です。西横堀川と長堀が交差したところに4つの橋が架けられていたのが由来ですが、今は両方が埋め立てられたので存在しません。
阪神高速の下には、小西来山と上島鬼貫の句碑が並んでいますが、いかにも持て余した挙げ句に、その場所に設置したという感じで、大阪市も訳の解らぬ前衛彫刻を御堂筋などに列べるなら、もう少し句碑の周辺を整備しろというところです。鬼貫は伊丹市などで大きく顕彰されていますが、来山は忘れられつつあります。元禄期、談林派の有力俳人であった西鶴が浮世草子の方に向かったのに対して、俳諧から離れず師の師たる西山宗因の後を受け継いでいったのが来山であったということです。師匠である由平が乞うてわが弟子にしたという逸材であったことが「俳家奇人談」に記されています。ただ、「近世畸人伝」では俳人と言うより寧ろ老荘の徒であると結論づけていますが、大酒飲みで酔っぱらって番所に拘置されても、炊事をしなくていいから助かる等とも言っています。辞世は「来山はうまれた咎で死ぬる也 それでうらみも何もかもなし」。
さて、ここをもう少し南に行くとほんの僅かに西横堀川の一部が残っています。これに架かる橋を渡って東に向かうと道頓堀、もうどこでも酒を飲むことが出来ます。
(09年3月記)
大阪駅前ビル周辺は戦後暫らくはバラック建ての店舗が多くて、木造の旭屋書店もあの辺りにありました。そけにしても、サムハラはどうして漢字が無いのでしょう。
元小学校や栃本の川沿いの桜が満開です。八幡宮の八重桜は、まだ莟が膨らみつつあるところでした。今日も朝から好く晴れています。広河原~佐々里方面へ案内して頂く予定です。お仕事ご苦労サマです。
半世紀前、山国小学生時代四つ橋の電気科学館へ連れて貰ったのですが、あの汚い汚いどぶ川の印象が残っています。最近はさすがその印象よりは改善されていますが、もっと綺麗な川になって欲しい気持ちです。道頓堀の改修も進んでいますが、水が綺麗にならないと。まあ、都会がそうだから田舎の良さが認識されるのかもしれませんが( ^_')
陶器の町の陶器神社、浪速らしいですね。
道草さまと京北の桜満喫ドライブをしてきました。今日は大野ダムや佐々里、佐々里峠、広河原などを回ってきました。次は鮎の季節にでもと話しながら。
行ってみたいな。