さて、前回に世間に伝わっている親王の心事は僻事ならんと勝手なる意見を開陳いたしましたが、惟喬親王が、惟仁親王(清和天皇)と壮絶なる即位争いをしたという説話は「源平盛衰記」が伝えているものです。盛衰記は一回一回の話に様々な説話を付け、真にサービス満点の書物なのですが、これとて13世紀の作者が9世紀の人の心事を慮ったものに過ぎません。ましてや昔の人でありますから「第一子でありながら即位できなかったことは悔しかったに違いない。」と思い込む程度は、今よりもさらに強かったに違いありません。従って、親王は位争いに敗れてすぐに落飾・隠居したとなっています。
話自体は荒唐無稽なものです。惟喬親王(作中維高)が、惟仁親王(作中維仁)と皇位を争っている。最初は競馬で勝負することとなり、惟仁親王側の6勝4敗の結果が出た。しかしながら、父の文徳天皇は、この結果をよしとせずに、双方力士を出して相撲で決めることとなった。さて、この競馬の結果についての「天皇猶御心不飽思し召しければ」あたりが、その後長く伝えられた「文徳帝の心は惟喬親王にあったが…」ということの根拠の一つになっているのでしょう。
惟喬親王側の力士は、何と外祖父の紀名虎、この時34歳とありますから、ちょっと無責任です。孫のために立ち上がったのはわかりますが、惟仁側は能雄少将、名門貴族自身が力士となるのも妙ですし、能雄の名は元は「虎」に対しての「熊」であったかも知れません。ただ、能雄は筋肉隆々たる名虎に対して大変な優男との設定ですから、敢えて「熊」の字を避けたのではと思われます。この能雄を伴善男とする伝承もあるようです。
それぞれの側で、祈祷を担当するのが惟喬親王側が真済、惟仁親王側が惠亮なる僧侶で、東密対台密の対決となっています。相撲は当然に名虎有利のうちに勝負が進みましたが、ここで惠亮が独鈷杵を以て自分の頭蓋を砕き、その脳を炎に投じて念じたため、大威徳明王が感応し、遂に能雄が名虎を投げ飛ばし、勝負がついたことになっています。名虎は、結局そのまま死んでしまい(ここらは惟喬親王3歳の時に実際に名虎が死んでいる事実を利用したのでしょう)、祈祷を請け負った真済などは、後に惟仁親王の母である染殿后に懸想して、死後に天狗となって化けて出る始末(これは別の説話ですが)、敗れた側は散々です。そうして、惟喬親王はすぐに出家ということになるのですが、となると渚院の話も何もないことになってしまいます。
伊勢物語では、親王の出家については渚院・天の川の次の段で、「昔、水無瀬に通ひ給ひし惟喬親王、例の狩りしにおはします供に、馬の頭なる翁つかうまつれり。日ごろ経て、宮に帰り給うけり。御送りして、とく往なむと思ふに、大御酒賜ひ、禄賜はむとて、つかはさざりけり。この馬の頭、心もとながりて、『枕とて草ひき結ぶこともせじ秋の夜とだに頼まれなくに』と詠みける。時は三月のつごもりなりけり。親王、大殿ごもらで明かし給うてけり。かくしつつまうでつかうまつりけるを、思ひのほかに、御髪下ろして給うてけり。」とあります。
惟喬親王が出家なさった心事はあれこれと推し量るしかないのですが、盛衰記の記述は信用できないのです。以上を総合して考えると、人の心理にはやはり敗れた者への共感というものが存在する。と同時にそれは現在栄えている者への反発でもある。惟喬親王の母方の出自が紀氏であることから、これはもう藤原氏に徹底的にやられた名門ということで、7世紀の終わり頃から成り上がった藤原氏に対して、小野氏や大伴氏、佐伯氏や紀氏、これらの豪族の無念を象徴する存在となっていったのであろうと考えられます。それは宗教的には藤原氏-比叡山ラインへの反発でもあったかも知れません。逆に、9世紀前半に朝廷の信頼を一番に得ていたのは真言宗で、平城上皇、嵯峨天皇、その后や子女に灌頂を行ったのは空海でありますから、空海の一の弟子とも言える真済が祈祷に於いて敗れるという話は、天台宗側で創られたのかも知れません。真言宗、空海は佐伯氏の出でありますから、惟喬親王の側に位置しただけでなく、平城帝の皇子である高丘親王(虎害伝説で知られる)もその弟子でありますし、この親王の兄の子が在原業平でありますから、大きなつながりが感じられます。その後、天狗となった真済が文徳天皇の女御である染殿后=藤原明子と睦み合ったという伝承は、そのまま藤原氏への復讐となっているのでしょう。伊勢物語の藤原高子も含め、藤原氏の娘はふしだらやでーと宣伝するために。
但し、祭り上げらけた親王にしてみたら迷惑な話で、「わしゃ酔狂な世界を十分に楽しんだ。出家も当時の習いに従ったまでだ。」と思っていらっしゃるかも知れません。となるとこれはもう、吾等徘徊の者の守り神でもあります。真済については、まだまだ興味深いこともありますのでいずれまた申し述べます。以上、惟喬親王について、つらつらと申し述べてきましたが、佐伯有清先生の著作を読んでおりましたら、やはり「文徳帝が惟喬親王の即位を望んでいた」という記述があり、ちょっと自信を失うところです。しかも「藤原良房による文徳帝暗殺」も示唆されています。当時の貴族の日記などに典拠があるのかも知れませんが、小生の如き薄学の身では、未だそのあたりの解明ができないのが残念であります。写真は親王を祀る玄武神社。
(08年7月の記事に加筆して再録)
話自体は荒唐無稽なものです。惟喬親王(作中維高)が、惟仁親王(作中維仁)と皇位を争っている。最初は競馬で勝負することとなり、惟仁親王側の6勝4敗の結果が出た。しかしながら、父の文徳天皇は、この結果をよしとせずに、双方力士を出して相撲で決めることとなった。さて、この競馬の結果についての「天皇猶御心不飽思し召しければ」あたりが、その後長く伝えられた「文徳帝の心は惟喬親王にあったが…」ということの根拠の一つになっているのでしょう。
惟喬親王側の力士は、何と外祖父の紀名虎、この時34歳とありますから、ちょっと無責任です。孫のために立ち上がったのはわかりますが、惟仁側は能雄少将、名門貴族自身が力士となるのも妙ですし、能雄の名は元は「虎」に対しての「熊」であったかも知れません。ただ、能雄は筋肉隆々たる名虎に対して大変な優男との設定ですから、敢えて「熊」の字を避けたのではと思われます。この能雄を伴善男とする伝承もあるようです。
それぞれの側で、祈祷を担当するのが惟喬親王側が真済、惟仁親王側が惠亮なる僧侶で、東密対台密の対決となっています。相撲は当然に名虎有利のうちに勝負が進みましたが、ここで惠亮が独鈷杵を以て自分の頭蓋を砕き、その脳を炎に投じて念じたため、大威徳明王が感応し、遂に能雄が名虎を投げ飛ばし、勝負がついたことになっています。名虎は、結局そのまま死んでしまい(ここらは惟喬親王3歳の時に実際に名虎が死んでいる事実を利用したのでしょう)、祈祷を請け負った真済などは、後に惟仁親王の母である染殿后に懸想して、死後に天狗となって化けて出る始末(これは別の説話ですが)、敗れた側は散々です。そうして、惟喬親王はすぐに出家ということになるのですが、となると渚院の話も何もないことになってしまいます。
伊勢物語では、親王の出家については渚院・天の川の次の段で、「昔、水無瀬に通ひ給ひし惟喬親王、例の狩りしにおはします供に、馬の頭なる翁つかうまつれり。日ごろ経て、宮に帰り給うけり。御送りして、とく往なむと思ふに、大御酒賜ひ、禄賜はむとて、つかはさざりけり。この馬の頭、心もとながりて、『枕とて草ひき結ぶこともせじ秋の夜とだに頼まれなくに』と詠みける。時は三月のつごもりなりけり。親王、大殿ごもらで明かし給うてけり。かくしつつまうでつかうまつりけるを、思ひのほかに、御髪下ろして給うてけり。」とあります。
惟喬親王が出家なさった心事はあれこれと推し量るしかないのですが、盛衰記の記述は信用できないのです。以上を総合して考えると、人の心理にはやはり敗れた者への共感というものが存在する。と同時にそれは現在栄えている者への反発でもある。惟喬親王の母方の出自が紀氏であることから、これはもう藤原氏に徹底的にやられた名門ということで、7世紀の終わり頃から成り上がった藤原氏に対して、小野氏や大伴氏、佐伯氏や紀氏、これらの豪族の無念を象徴する存在となっていったのであろうと考えられます。それは宗教的には藤原氏-比叡山ラインへの反発でもあったかも知れません。逆に、9世紀前半に朝廷の信頼を一番に得ていたのは真言宗で、平城上皇、嵯峨天皇、その后や子女に灌頂を行ったのは空海でありますから、空海の一の弟子とも言える真済が祈祷に於いて敗れるという話は、天台宗側で創られたのかも知れません。真言宗、空海は佐伯氏の出でありますから、惟喬親王の側に位置しただけでなく、平城帝の皇子である高丘親王(虎害伝説で知られる)もその弟子でありますし、この親王の兄の子が在原業平でありますから、大きなつながりが感じられます。その後、天狗となった真済が文徳天皇の女御である染殿后=藤原明子と睦み合ったという伝承は、そのまま藤原氏への復讐となっているのでしょう。伊勢物語の藤原高子も含め、藤原氏の娘はふしだらやでーと宣伝するために。
但し、祭り上げらけた親王にしてみたら迷惑な話で、「わしゃ酔狂な世界を十分に楽しんだ。出家も当時の習いに従ったまでだ。」と思っていらっしゃるかも知れません。となるとこれはもう、吾等徘徊の者の守り神でもあります。真済については、まだまだ興味深いこともありますのでいずれまた申し述べます。以上、惟喬親王について、つらつらと申し述べてきましたが、佐伯有清先生の著作を読んでおりましたら、やはり「文徳帝が惟喬親王の即位を望んでいた」という記述があり、ちょっと自信を失うところです。しかも「藤原良房による文徳帝暗殺」も示唆されています。当時の貴族の日記などに典拠があるのかも知れませんが、小生の如き薄学の身では、未だそのあたりの解明ができないのが残念であります。写真は親王を祀る玄武神社。
(08年7月の記事に加筆して再録)
いずれにしましても1千年以上も昔の真実は何処にありや、の思いが大です。この先1千年経てば、我々の存在などそれこそ灰燼の中でしょうが。歴史とは何ぞや、ですネ。
しかし、これちょっとおかしいのでは、と感じてもそれを覆すには相当資料収集しないといけないですし、第一、資料を集めること自体が大変です。それに歴史的事実って何じゃいな、と考えると、これは迷宮に入ってしまいますのでこれは学者に任せて色々な見方を楽しませてもらっています。