石門心学の余香は尚京中に芳しく、減りつつあると言っても京の老舗には梅岩先生の遺訓をちょっとしたところに貼り出しているところも多いようです。小生が大学時代にお世話になっていた京中老舗の書肆も亦男子小便所の真上、則ち用を足しながら眼の向かう先に何やかやと書いたものが貼ってありました。
その内容は、単なる従業員の心構えとは異なり、道徳を強調したものでありましたが、今にして思えば、「成程、梅岩先生の教えやな」と申す処。今の世は大型店の情け容赦ない進出など、商売の弱肉強食な処のみを強く主張し、みんながうまくいく商いというものを考えぬようですが、皆々が相手様のこと、世の中のことを思って商売をするならば、不幸になる人は一人でも減らすことが出来るのではと思うと心学の復興こそ新たな社会モラルの構築であって、さかしらに「グローバル云々」を言い立てるのは誤りであると思われます。世界がうまくいく為には心学が必要である。世間には英語などという軽薄な言語とその背景にある文化や規則を学ぶことが大切と思う人が多いのですが、それは騙されておるのです。
などと言いながらも先生の『都鄙問答』等も決して胸を張って「読んだぞい!」と言えぬところは哀しいですが、せめて先生生誕の地の空気などを吸って身の修養にしようと亀岡市の東別院東掛に出かけたのであります。
「人の身体の主は心であるから、その心を教え導かん」ということのみを捉えれば、今日の教祖風詐欺師もこれぐらいのことは言うでしょうが、先生と斯様な詐欺師との決定的な違いは、その教養であります。「教養」等という言葉を使えば軽薄な感じもしますが、儒・仏・道の教えを一つ一つ噛みしめて噛みしめて我がものとされていったのであります。先生の残された言葉ひとつひとつに「かなわんなあ」という感慨を抱かせるものがあります。まあ、そんなことは百年も前から分かっていることですから、理屈はこれぐらいにして、亀岡に向かいましょう。
JR亀岡駅から先生生誕地まで10.8㎞の「心学の道」、指定されたのは大分に昔のことなのですが、最近ボチボチと案内なども整備されつつあるようです。司馬遼太郎『街道をいく』等はウソで『タクシーで街道をいく』と書名改むるべしとの以前からの主張に反し、今回は下見ということで自動車で参ります。
東掛に入ってすぐの処に農家そのままの蕎麦屋「いし田」があります。「おう、早速に石田さんの登場だ!」。この近辺に東掛城趾なるものがあって、その城主も石田氏ということで、この国人領主の子孫の方々がこの谷に多くおられるようです。この城の主は、織田信長の入京以前、つまり畿内戦国史の最も面白いころに三好氏等とも組んでいたようで、蕎麦屋のすぐ近くから城跡に登れたようなのですが、それを知ったのは帰宅の後。
写真はボケておりますが、蕎麦屋の床の間にも梅岩先生が鎮座されています。
蕎麦の味については小生は「うまい」と思うのでありますが、今一自信がない。これはまた、師匠のお出ましを願わねばならぬ。単純居士でありますが、小生などは最後のそば湯がまったりとしていれば、それでもう「合格」としてしまうのであります。
蕎麦屋の主人に生誕地について尋ねますが、「うちの隣の隣です。1キロほど向こうです。」と言われると、ここは本当に京都府かいなと思われます。この東掛の里、本当に風光明媚な良い処であります。
店主の言の如く、しばらく行くと生誕地であります。生誕地にある家は勿論「石田」さん、但し、梅岩先生のころからは何回か立て直されていると思います。その家の庭には心学講舍が立てられていて、家の横は「梅岩公園」となっています。只、滋賀県の安曇川の藤樹書院の賑わいと比べると、その影響力たるや藤樹先生にも比肩する梅岩先生なのに少々さびしい感じがします。
梅岩公園にある桜
ヌッ、これは何ぢゃいな?こういうときに友人にちょいとメールで写真を送れば、直ちにシデコブシと返事がある時代、真に便利な世になったものです。
どうも美しい里が荒れた様相を見せるには青いビニールシートや固められたセメントやコンクリートが大きな役割を担っているようです。能勢などは大原等の一部を除いて、もの凄く荒れた田舎のイメージがつきまとうのは、こういったものがチョロチョロと見えるからでしょう。となると、生誕地のすぐ隣にある東別院グラウンドもその周囲は石垣か自然堤防のようにするべきであった。この辺りの景色のただ一つの瑕疵がこのグラウンドです。
まあそれでも、何やら老人たちの笑い声が聞こえているからええでと思いつつ生誕地を去り亀岡方面に向かいます。
国道423号線に出る少し手前に與能神社(式内)があります。梅岩先生も京に赴かれる時には必ず額ずかれたであろうお社です。
本殿
本殿の前には応永21年(1414)の燈籠、その後の戦乱の時代は本当に大変だったでしょう。手水場は野趣に溢れています。この神社の前にはごく最近に建てられたと見られる「心学の道」の碑があり。ハイキングコースが山の方に向かっています。これは一度歩かねばならぬとは思いますが、最終目的地が「生誕地」であるので、そこからどのようにして亀岡の山中を出るかということが大きな問題です。酒を飲むのは「いし田」にしても、ここは3時半には閉まるしなあといらぬ先の心配。
ここより、亀岡駅前付近を経て国道477号線に入れば、まさにまさに花の道、延々と続く桜の景色も独り占めであります。「ホンマに桜だらけやなあ」と思うと、もうこれ以上は桜を植えたりするのは要らぬことで、これからは動物や鳥の餌になるようなものをどんどんと植えてやれと思ったりもします。桜の景色に飽きるというヤツで真に贅沢であります。
さて、どこで飲むべいと申す処ですが、車でありますから難しいところです。こればかりは「ケチ臭いことを言うな!」等と言って飲んで走るわけにも行かない。車を置いて電車で考えることを考えると京都に出るのがいいようですが、生誕地で思い切り吸いこんだ修養の息吹は早くも身体からは出ていったようです。それにしても、亀岡は奥が深い、真に深い。しばらくは徘徊ネタに困ることはありません。100年分ぐらいはストックできそうです。
その内容は、単なる従業員の心構えとは異なり、道徳を強調したものでありましたが、今にして思えば、「成程、梅岩先生の教えやな」と申す処。今の世は大型店の情け容赦ない進出など、商売の弱肉強食な処のみを強く主張し、みんながうまくいく商いというものを考えぬようですが、皆々が相手様のこと、世の中のことを思って商売をするならば、不幸になる人は一人でも減らすことが出来るのではと思うと心学の復興こそ新たな社会モラルの構築であって、さかしらに「グローバル云々」を言い立てるのは誤りであると思われます。世界がうまくいく為には心学が必要である。世間には英語などという軽薄な言語とその背景にある文化や規則を学ぶことが大切と思う人が多いのですが、それは騙されておるのです。
などと言いながらも先生の『都鄙問答』等も決して胸を張って「読んだぞい!」と言えぬところは哀しいですが、せめて先生生誕の地の空気などを吸って身の修養にしようと亀岡市の東別院東掛に出かけたのであります。
「人の身体の主は心であるから、その心を教え導かん」ということのみを捉えれば、今日の教祖風詐欺師もこれぐらいのことは言うでしょうが、先生と斯様な詐欺師との決定的な違いは、その教養であります。「教養」等という言葉を使えば軽薄な感じもしますが、儒・仏・道の教えを一つ一つ噛みしめて噛みしめて我がものとされていったのであります。先生の残された言葉ひとつひとつに「かなわんなあ」という感慨を抱かせるものがあります。まあ、そんなことは百年も前から分かっていることですから、理屈はこれぐらいにして、亀岡に向かいましょう。
JR亀岡駅から先生生誕地まで10.8㎞の「心学の道」、指定されたのは大分に昔のことなのですが、最近ボチボチと案内なども整備されつつあるようです。司馬遼太郎『街道をいく』等はウソで『タクシーで街道をいく』と書名改むるべしとの以前からの主張に反し、今回は下見ということで自動車で参ります。
東掛に入ってすぐの処に農家そのままの蕎麦屋「いし田」があります。「おう、早速に石田さんの登場だ!」。この近辺に東掛城趾なるものがあって、その城主も石田氏ということで、この国人領主の子孫の方々がこの谷に多くおられるようです。この城の主は、織田信長の入京以前、つまり畿内戦国史の最も面白いころに三好氏等とも組んでいたようで、蕎麦屋のすぐ近くから城跡に登れたようなのですが、それを知ったのは帰宅の後。
写真はボケておりますが、蕎麦屋の床の間にも梅岩先生が鎮座されています。
蕎麦の味については小生は「うまい」と思うのでありますが、今一自信がない。これはまた、師匠のお出ましを願わねばならぬ。単純居士でありますが、小生などは最後のそば湯がまったりとしていれば、それでもう「合格」としてしまうのであります。
蕎麦屋の主人に生誕地について尋ねますが、「うちの隣の隣です。1キロほど向こうです。」と言われると、ここは本当に京都府かいなと思われます。この東掛の里、本当に風光明媚な良い処であります。
店主の言の如く、しばらく行くと生誕地であります。生誕地にある家は勿論「石田」さん、但し、梅岩先生のころからは何回か立て直されていると思います。その家の庭には心学講舍が立てられていて、家の横は「梅岩公園」となっています。只、滋賀県の安曇川の藤樹書院の賑わいと比べると、その影響力たるや藤樹先生にも比肩する梅岩先生なのに少々さびしい感じがします。
梅岩公園にある桜
ヌッ、これは何ぢゃいな?こういうときに友人にちょいとメールで写真を送れば、直ちにシデコブシと返事がある時代、真に便利な世になったものです。
どうも美しい里が荒れた様相を見せるには青いビニールシートや固められたセメントやコンクリートが大きな役割を担っているようです。能勢などは大原等の一部を除いて、もの凄く荒れた田舎のイメージがつきまとうのは、こういったものがチョロチョロと見えるからでしょう。となると、生誕地のすぐ隣にある東別院グラウンドもその周囲は石垣か自然堤防のようにするべきであった。この辺りの景色のただ一つの瑕疵がこのグラウンドです。
まあそれでも、何やら老人たちの笑い声が聞こえているからええでと思いつつ生誕地を去り亀岡方面に向かいます。
国道423号線に出る少し手前に與能神社(式内)があります。梅岩先生も京に赴かれる時には必ず額ずかれたであろうお社です。
本殿
本殿の前には応永21年(1414)の燈籠、その後の戦乱の時代は本当に大変だったでしょう。手水場は野趣に溢れています。この神社の前にはごく最近に建てられたと見られる「心学の道」の碑があり。ハイキングコースが山の方に向かっています。これは一度歩かねばならぬとは思いますが、最終目的地が「生誕地」であるので、そこからどのようにして亀岡の山中を出るかということが大きな問題です。酒を飲むのは「いし田」にしても、ここは3時半には閉まるしなあといらぬ先の心配。
ここより、亀岡駅前付近を経て国道477号線に入れば、まさにまさに花の道、延々と続く桜の景色も独り占めであります。「ホンマに桜だらけやなあ」と思うと、もうこれ以上は桜を植えたりするのは要らぬことで、これからは動物や鳥の餌になるようなものをどんどんと植えてやれと思ったりもします。桜の景色に飽きるというヤツで真に贅沢であります。
さて、どこで飲むべいと申す処ですが、車でありますから難しいところです。こればかりは「ケチ臭いことを言うな!」等と言って飲んで走るわけにも行かない。車を置いて電車で考えることを考えると京都に出るのがいいようですが、生誕地で思い切り吸いこんだ修養の息吹は早くも身体からは出ていったようです。それにしても、亀岡は奥が深い、真に深い。しばらくは徘徊ネタに困ることはありません。100年分ぐらいはストックできそうです。
当人は真面目な人物だったらしく、生まれつきの理屈ぽい性格を改めようと努力したとか、奉公先のお婆さんから「たまには外に出掛けてみたら」と夜遊びを進められたエピソードなどがある、と聞いた気がします。
いずれにしましても、改造された亀岡駅の改札前に石像が置かれていると思うのですが。亀岡市と申せば、例の女流母住(姥巣?)が最後までご案内して下さるのではないですか。私も隣村に長年住んで居ましたのに、最終の詰めとなる酒所はまるで存知ません・・・。
今回の與能神社も、本殿の透かし彫りなどすばらしいものです。梅岩先生の教えは、「えげつないことをするな」というところにあると思います。細く長く商いをすれば、富は自ずと蓄積するということだと思います。
ただ、飲むところは少ないですね。京都学園大の諸君などはどこで飲み会をやっているのでしょうね。
でもビジネスマンはそういった戦後の学者の世界に流されること無く商いをされたところが立派な企業になったのではないでしょうか。その商い道が高度成長やバブル期に崩壊したのかもしれませんね。江戸時代には立派な人が沢山おられたのに知らないだけだったのでしょう。教えてもらったのは平賀源内くらいでしょうか。反省して色々学びたいものです。
それともう一つ、昔の学問の拠点は決して中央集権ではなく、今のように大都会に集中していなかったのではと思っています。江戸時代の日本人の素晴らしさを学びたい気持ちにさせてくれました。
今回も、石田先生に関する蘊蓄と酒や蕎麦の話が見事に調和した下見紀行、楽しく読ませて頂きました。植物の名前が直ぐ分かるとはIT技術の進歩に感謝しないといけませんが、それ以上にgunkanatagoさまのネットワークの素晴らしさですね。羨ましい。有難うございました。
幼い頃、自家の山と隣の山の境の道に落ちていた栗を拾って持ち帰った。「あの道には隣の栗の枝はかかっているが、家の枝はかかっていない、その栗は隣のものだから返してきなさい」といいます。自分のものと他人のものを区別させるための厳しい躾だったとか。テキストからのカンニングです^^
石田梅岩家とは私自身は一雫の血も繋がっていませんが親戚筋です。これ内緒です^^
学園大学出身のイケ面ガクトや国広富之、今は余り出ていないようですが?
お酒所、当地にいながら全くお役にたちませんです^^
けれども、最近はそういう「ええかっこしー」のスタイルを捨てて平易に説明してくれる学者も増えてきているように思います。
白状をしますが、小生も富永仲基や石田梅岩など江戸時代の学者に目が行くようになったのはつい最近です。その他の江戸の文芸となると、まだまだ勉強せねばならないところです。
江戸の学問が決して江戸・大坂・京都だけでなかったことは広瀬淡窓の咸宜園など日田の山奥にありながら、もの凄い数の塾生を集めたことでも理解できます。2代目の広瀬旭荘は先日御光来いただいた池田に75日だけ住んで亡くなっています。
梅田に進出した大型店舗が、周辺のカメラ店、電気店をローラーで押しつぶすように破綻させていったのを目の当たりにすると、せめて自分だけはああいうところを利用しないようにしようと思っています。
本当、学園大の生徒は、どこで飲んでるのでしょうね。自動車で通学するものも多いから、あまり飲まないのかも知れませんね。
今年は、以前にお書きになっていた旧城下町の祭にも行きたいと思っております。京都駅からの時間が短縮されたのもうれしいです。