葛城古道は、「古道」という言葉にこだわると「古道という割には…」という感想が否めないのですが、これは、ここ十数年のことで以前は、本当に森厳な感じのする道でした。今は、産廃やコンクリ会社も多く、遠いいにしえを偲べるのは神社の境内と葛城・金剛の山容だけとなっています。ここ数年、頭にひっかかっておった「宮山古墳」と「巨勢の春野」を一挙に解決するべく、誰も人の勧めぬコースを歩きました。例によって地図もガイドブックも無く、行き当たりバッタリなのですが、何とかなるものですね。
先ず、降り立ったのは近鉄御所線の忍海駅、なぜ忍海で降りるのか自分でも判らなかったのですが、頭のどこかに歴史資料館がここにあるということが残っていたのでしょう。実際には新庄駅で降りて、忍海を目指した方がもっと色々のものを見ることが出来たようです。
尺土駅から見た二上山、本日の眺望は今ひとつ。
歴史資料館
歴史資料館は、完全に貸し切り状態。「この辺をウロウロする地図もらえまへんか?」「おまへん!」ということで、資料館の前にある案内地図を必死で覚えます。
資料館のすぐ近くが「角刺神社」、飯豊青皇女の角刺宮跡です。
5世紀末の大和朝廷を考えるときには史料面でも考古学的にも「雄略天皇」の存在は大きい、その雄略天皇に殺された市辺押磐皇子の子である皇女は、弟の顕宗天皇と仁賢天皇が位に就く前にわずかの期間ですが、事実上の大王となったという記載が日本書紀にあります。顕宗・仁賢ともに実在が疑われている大王で、6世紀初めに滅亡してしまういわば古王朝末期の混乱を示す話ですが、書紀の内容は次のようなものです。
「億計皇子(仁賢)と弘計皇子(顕宗)が互いに位を譲り合い、天皇がいない状態が続いたので、飯豐青皇女が忍海角刺宮で臨朝秉政(朝に臨みて政[まつりごと]を秉[と]り)、自ら忍海飯豐青尊と称したことと時の歌人が『倭辺に見が欲しものは忍海のこの高城なる角刺の宮』と歌った。」
このため飯豊天皇という言葉も存在します。御祭神に対して畏れ多いのですが、日本書紀には、その前の出来事として「秋七月。飯豐皇女於角刺宮與夫初交。謂人曰。一知女道。又安可異。終不願交於男。此曰有夫未詳也。」という記事もあり、品行方正で知られる小生などは到底訳す能わざるものでありますから、興味のある方は頑張って下さい。
角刺神社内、鏡池は飯豊皇女の他に中将姫の伝説も残る。
さて、もうここでどう行ったら良いのやら判らぬようになってしまいました。ひとまず葛城山麓を目指そう、大きな森のあるところは神社だということで山の方に向かいます。西辻の集落に入り集落内の古い道をくねくねと歩いていくと自然に笛吹神社に到着です。野性やなあ。
何やら懐かしい。
西辻神社
子供の秘密基地のような神社
野ではケリが遊んでいます。
神社に入ってすぐに度肝を抜かれるのが、この大砲であります。日露戦争の戦利品だそうですが、なかなかに美しいシルエットです。砲弾が立ててある忠魂碑はどこかで見たことがありますが、大砲そのものが置いてあるところは初めてです。それにしてもほれぼれとします。こいつが炊事と洗濯をしてくれるなら結婚してもいいよと申す処。
戊辰の役などで使われた四斤山砲などは7人で操作するそうですが、このカノン砲(M1904152mmカノン砲?)で攻撃するには何人が必要なのでしょうか?さて、大砲を拝んだし、奈良は満員やろし(遷都1300年)、京橋に飲みに行こうというところですが、未だ日が高い。
笛吹神社拝殿
拝殿内部
このお社は葛木坐火雷神社が正式名称ですが、この名称自体は明治になってからのもので一般には在の名を採って笛吹神社で知られています。境内にはイチイガシの群落もあります。ここで天香久山命を祀っているのもおもしろい。
ここからは近畿自然歩道というのが通っていますので、これに沿って進みますが、山麓を降りたり登ったりする道です。途中で大和国中(くんなか)を見渡せば、畝傍山がはっきりと見えます。香久山も見えてるでー。
葛城山へのロープウェー駅に至る道と分かれてしばらく行くと懐かしい櫛羅の名前が出てきました。「よし、ここからは十分に知った道だ!」と思いながら、ここらにあったはずの酒蔵を探しますが、通り過ぎてしまったのか見つけることが出来ません。
広がる蓮華畑
水を分けるために時計が設置されていたところ
右に水を1時間、左に水を30分てな具合に。
九品寺の前に出ました。ここからしばらくの間は任せてちょうだいと申す処。一言主神社へと足取りも軽快です。
今年初めて見たシャガ。
「いちごんさん」、一言主神社に到着です。途中に見える葛城の峰々、あちらの峰からこちらの峰へと役行者がビョーンビョーンと飛んでいくような幻影を見ます。この一言主の神は雄略天皇との説話で知られますが、役行者との関係については大神が必ずムカついておられるであろう説話もありますので、そういった幻影は振り払います。以前に見た「以一言決天下」の屏風、今日は見ることが出来ません。
万葉歌碑
御神木のイチョウ若葉が新鮮です。
いつもですと、このまま南下して高鴨神社、風の森峠へと向かうのですが(といってももう何年も歩いてはいませんが)、本日は一言主神社参道を真っ直ぐ東に向かいます。名柄に向かう途中、「あったぁ!酒蔵ぢゃ!」と喜んだのですが、よく見ると「醤油屋」でした。
少し遠回りとなりますが、名柄神社に参拝の後に、東に下ります。後ろを振り返り振り返り行くと葛城山の全体が見えてきます。役行者が葛城山と金剛山の間をビョーンビョーン。
名柄神社本殿、祭神は下照姫。
宮山古墳は、室の大墓ともいい、全長が238メートルもある前方後円墳、例の三角縁神獣鏡も出土しています。被葬者に比定されているのは孝安天皇、武内宿禰、葛城襲津彦等ですが、実在という点からは葛城襲津彦が有力です。ただこの人物にしても、そのパパは武内宿禰ですから、何やら茫洋たるものがあります。勿論神武天皇以後の9代が葛城王朝として明確に存在したという説もありますし、葛城氏そのものが事実上の大王であったとする考えもありますから、まあそのあたりの大王級の墓ということになろうかと思います。
前方部
宮山古墳遠景、バックは金剛山。
秋津遺跡は昨年何やら大きな建物跡が出土したということです。現地説明会の日は大変だったでしょうが、今は誰もいません。
今暫く、東に行くと日本武尊の白鳥陵、但し此処は白鳥の降り立った2番目のところです。
ここまで来ると、何としてもJRの和歌山線の駅か近鉄の吉野線の駅に到達しなくてはなりません。御所市のコミュニティバスは1日3本、交通量は多いのですが(昔と様変わり)、タクシーなどは走っていません。峠を越える道があるかも知れぬとすけべ心を出して林道に入りましたが、見事に行き止まりで、やむなく国道を歩いて峠を越えます。それでも、近鉄葛駅の近くでは道路元標を見つけましたから、何か収穫はあるものです。それにしても何時から、こういうのを見つけて喜ぶようになったのかな。
大口峠地蔵堂、図らざりし、この峠を徒歩で越えんとは。
あとは「巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつしのばな巨勢の春野を」で知られる巨勢寺跡を見つけるだけです。この近鉄の線路に沿った道も随分と吉野に向かう人たちに利用されたのでしょう。古い街道の趣があります。けれどもスタスタと歩いていくうちに大倉姫神社、さらに吉野口駅に着いてしまいました。
アメリカヤマボウシ
それにしても、巨勢の春野を楽しむには景色がいささか荒涼とし過ぎています。あっちをみてもこっちをみても採石場だらけです。様々な「万葉集」関連の本などは、これに目を瞑り、採石場を外して写真を撮っていますが、実際には巨勢山を見れば否応なく採石場も眼に入る。巨勢の春野は現実のものよりも歌によって偲ぶ方が良いようです。
本日歩いた道は、御所市が大分前に道標や案内板を立てています。葛城山麓が「葛城の道」、宮山古墳周辺が「秋津洲の道」、葛から吉野口が「巨勢の道」です。これらをちょっとずつ摘み食いしたことになります。勿論、途中には訳のわからんところも。
近鉄の急行は、吉野の花見客は一巡、登山帰りの人が多くなっています。動き始めてすぐに、窓の外に「あれかぁ?」、見逃した巨勢寺大塔跡が見えます。窓を開けて飛び降りたろかなと思いますが、そんなことをすれば大騒ぎになるでしょう。またの機会にというやつです。
近鉄の急行、値打ちがありますね。とにかく停まらない。阪急や京阪の特急は反省しなさい、停まりすぎ。橿原神宮前を出れば、あっというまに阿部野橋です。今日は丸一屋だけでは済まないぞ、まずは京橋の「やまげん」のイカ焼きだ。その後は「はがくれ」でうどん、「鳥の巣」で串カツ、それから…とかなり飢えて京橋に出ました。
先ず、降り立ったのは近鉄御所線の忍海駅、なぜ忍海で降りるのか自分でも判らなかったのですが、頭のどこかに歴史資料館がここにあるということが残っていたのでしょう。実際には新庄駅で降りて、忍海を目指した方がもっと色々のものを見ることが出来たようです。
尺土駅から見た二上山、本日の眺望は今ひとつ。
歴史資料館
歴史資料館は、完全に貸し切り状態。「この辺をウロウロする地図もらえまへんか?」「おまへん!」ということで、資料館の前にある案内地図を必死で覚えます。
資料館のすぐ近くが「角刺神社」、飯豊青皇女の角刺宮跡です。
5世紀末の大和朝廷を考えるときには史料面でも考古学的にも「雄略天皇」の存在は大きい、その雄略天皇に殺された市辺押磐皇子の子である皇女は、弟の顕宗天皇と仁賢天皇が位に就く前にわずかの期間ですが、事実上の大王となったという記載が日本書紀にあります。顕宗・仁賢ともに実在が疑われている大王で、6世紀初めに滅亡してしまういわば古王朝末期の混乱を示す話ですが、書紀の内容は次のようなものです。
「億計皇子(仁賢)と弘計皇子(顕宗)が互いに位を譲り合い、天皇がいない状態が続いたので、飯豐青皇女が忍海角刺宮で臨朝秉政(朝に臨みて政[まつりごと]を秉[と]り)、自ら忍海飯豐青尊と称したことと時の歌人が『倭辺に見が欲しものは忍海のこの高城なる角刺の宮』と歌った。」
このため飯豊天皇という言葉も存在します。御祭神に対して畏れ多いのですが、日本書紀には、その前の出来事として「秋七月。飯豐皇女於角刺宮與夫初交。謂人曰。一知女道。又安可異。終不願交於男。此曰有夫未詳也。」という記事もあり、品行方正で知られる小生などは到底訳す能わざるものでありますから、興味のある方は頑張って下さい。
角刺神社内、鏡池は飯豊皇女の他に中将姫の伝説も残る。
さて、もうここでどう行ったら良いのやら判らぬようになってしまいました。ひとまず葛城山麓を目指そう、大きな森のあるところは神社だということで山の方に向かいます。西辻の集落に入り集落内の古い道をくねくねと歩いていくと自然に笛吹神社に到着です。野性やなあ。
何やら懐かしい。
西辻神社
子供の秘密基地のような神社
野ではケリが遊んでいます。
神社に入ってすぐに度肝を抜かれるのが、この大砲であります。日露戦争の戦利品だそうですが、なかなかに美しいシルエットです。砲弾が立ててある忠魂碑はどこかで見たことがありますが、大砲そのものが置いてあるところは初めてです。それにしてもほれぼれとします。こいつが炊事と洗濯をしてくれるなら結婚してもいいよと申す処。
戊辰の役などで使われた四斤山砲などは7人で操作するそうですが、このカノン砲(M1904152mmカノン砲?)で攻撃するには何人が必要なのでしょうか?さて、大砲を拝んだし、奈良は満員やろし(遷都1300年)、京橋に飲みに行こうというところですが、未だ日が高い。
笛吹神社拝殿
拝殿内部
このお社は葛木坐火雷神社が正式名称ですが、この名称自体は明治になってからのもので一般には在の名を採って笛吹神社で知られています。境内にはイチイガシの群落もあります。ここで天香久山命を祀っているのもおもしろい。
ここからは近畿自然歩道というのが通っていますので、これに沿って進みますが、山麓を降りたり登ったりする道です。途中で大和国中(くんなか)を見渡せば、畝傍山がはっきりと見えます。香久山も見えてるでー。
葛城山へのロープウェー駅に至る道と分かれてしばらく行くと懐かしい櫛羅の名前が出てきました。「よし、ここからは十分に知った道だ!」と思いながら、ここらにあったはずの酒蔵を探しますが、通り過ぎてしまったのか見つけることが出来ません。
広がる蓮華畑
水を分けるために時計が設置されていたところ
右に水を1時間、左に水を30分てな具合に。
九品寺の前に出ました。ここからしばらくの間は任せてちょうだいと申す処。一言主神社へと足取りも軽快です。
今年初めて見たシャガ。
「いちごんさん」、一言主神社に到着です。途中に見える葛城の峰々、あちらの峰からこちらの峰へと役行者がビョーンビョーンと飛んでいくような幻影を見ます。この一言主の神は雄略天皇との説話で知られますが、役行者との関係については大神が必ずムカついておられるであろう説話もありますので、そういった幻影は振り払います。以前に見た「以一言決天下」の屏風、今日は見ることが出来ません。
万葉歌碑
御神木のイチョウ若葉が新鮮です。
いつもですと、このまま南下して高鴨神社、風の森峠へと向かうのですが(といってももう何年も歩いてはいませんが)、本日は一言主神社参道を真っ直ぐ東に向かいます。名柄に向かう途中、「あったぁ!酒蔵ぢゃ!」と喜んだのですが、よく見ると「醤油屋」でした。
少し遠回りとなりますが、名柄神社に参拝の後に、東に下ります。後ろを振り返り振り返り行くと葛城山の全体が見えてきます。役行者が葛城山と金剛山の間をビョーンビョーン。
名柄神社本殿、祭神は下照姫。
宮山古墳は、室の大墓ともいい、全長が238メートルもある前方後円墳、例の三角縁神獣鏡も出土しています。被葬者に比定されているのは孝安天皇、武内宿禰、葛城襲津彦等ですが、実在という点からは葛城襲津彦が有力です。ただこの人物にしても、そのパパは武内宿禰ですから、何やら茫洋たるものがあります。勿論神武天皇以後の9代が葛城王朝として明確に存在したという説もありますし、葛城氏そのものが事実上の大王であったとする考えもありますから、まあそのあたりの大王級の墓ということになろうかと思います。
前方部
宮山古墳遠景、バックは金剛山。
秋津遺跡は昨年何やら大きな建物跡が出土したということです。現地説明会の日は大変だったでしょうが、今は誰もいません。
今暫く、東に行くと日本武尊の白鳥陵、但し此処は白鳥の降り立った2番目のところです。
ここまで来ると、何としてもJRの和歌山線の駅か近鉄の吉野線の駅に到達しなくてはなりません。御所市のコミュニティバスは1日3本、交通量は多いのですが(昔と様変わり)、タクシーなどは走っていません。峠を越える道があるかも知れぬとすけべ心を出して林道に入りましたが、見事に行き止まりで、やむなく国道を歩いて峠を越えます。それでも、近鉄葛駅の近くでは道路元標を見つけましたから、何か収穫はあるものです。それにしても何時から、こういうのを見つけて喜ぶようになったのかな。
大口峠地蔵堂、図らざりし、この峠を徒歩で越えんとは。
あとは「巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつしのばな巨勢の春野を」で知られる巨勢寺跡を見つけるだけです。この近鉄の線路に沿った道も随分と吉野に向かう人たちに利用されたのでしょう。古い街道の趣があります。けれどもスタスタと歩いていくうちに大倉姫神社、さらに吉野口駅に着いてしまいました。
アメリカヤマボウシ
それにしても、巨勢の春野を楽しむには景色がいささか荒涼とし過ぎています。あっちをみてもこっちをみても採石場だらけです。様々な「万葉集」関連の本などは、これに目を瞑り、採石場を外して写真を撮っていますが、実際には巨勢山を見れば否応なく採石場も眼に入る。巨勢の春野は現実のものよりも歌によって偲ぶ方が良いようです。
本日歩いた道は、御所市が大分前に道標や案内板を立てています。葛城山麓が「葛城の道」、宮山古墳周辺が「秋津洲の道」、葛から吉野口が「巨勢の道」です。これらをちょっとずつ摘み食いしたことになります。勿論、途中には訳のわからんところも。
近鉄の急行は、吉野の花見客は一巡、登山帰りの人が多くなっています。動き始めてすぐに、窓の外に「あれかぁ?」、見逃した巨勢寺大塔跡が見えます。窓を開けて飛び降りたろかなと思いますが、そんなことをすれば大騒ぎになるでしょう。またの機会にというやつです。
近鉄の急行、値打ちがありますね。とにかく停まらない。阪急や京阪の特急は反省しなさい、停まりすぎ。橿原神宮前を出れば、あっというまに阿部野橋です。今日は丸一屋だけでは済まないぞ、まずは京橋の「やまげん」のイカ焼きだ。その後は「はがくれ」でうどん、「鳥の巣」で串カツ、それから…とかなり飢えて京橋に出ました。
葛城の峰は何回見たことでしょう。雨上がりに山霧があると山がいつもより高く見えますね。それと葛城の里は彼岸花が綺麗ですが、地元のおっちゃんが秋に昨日花見をしたよ、何の花か分かるか?と聞かれ返答出来なかったら、彼岸花やと言われたのを思い出しました。
葛城、巨勢、吉野への道、奈良盆地は徘徊のパラダイスではないでしょうか?京都を徘徊するのはミイハア、奈良を徘徊する人はちょっと格が上、と曰う人がおりますが、私には説得力がありまする。
白鳥陵も懐かしいところです。ある人が古事記の道と題して八咫烏にちなんだ歩きコースを設計したと聞いたのですが、もう一度そのコース情報を催促しようっと(^_^)
役行者の縁を訪ねる集印の歩きをしたこともありますが、こういったお寺は檀家も持たず(もしくは少なく)寺を一周してやっと出てきてもらって印を頂いたという清々しい気分になったことも思い出しました。いろいろと思い出させて頂き有難うございました。
NHKの折り込み都々逸、中道風神洞(字が違うかも知れませんが)さんですね。小生もよく聞きました。そうですね、晴れている葛城の道をラジオを聞きながらのんびりと歩くというのも良いですね。
今回は、立ち寄ることは出来ませんでしたが、御所のコミュニティバスが終点を「かもきみの湯」というのにしていました。何か温泉施設も出来ているようです。次回は新庄からブラブラするか、このところの希望である井上内親王の宇智陵にいくため五条に足を伸ばすかというところです。
「品行方正」の徘徊堂さんでも難儀される古文書が存在するようですが、ご幼少のみぎりから愛飲家の徘徊堂さんは、むしろ「頻口飽精」の格言こそ相応しいとは、自他共に認める処ではないでしょうか。
また、大砲大愛好家と知りましたが、これはハンドルネーム「gunkanatago」発祥の所以でしょうか。仕込めば、炊事洗濯くらいはしてくれるかも。3食不用でしょうし・・・。
それもそうとして、京阪の特急は中書島だけは停車して、後は精地の京橋まで通過で結構です。それと、忍海の意味は分かりましたでしようか。不思議な名称ですが。
昨日は、恩師を偲ぶ会を弓削レストラン(同級生が経営)で持ちました。ゼミハウスの近くですのに、mfujinoさんは見掛けませんでした。仕事に専念して(若しくはサボって)おられたのでしよう。(昨朝、出発前にコメントを入れたのですが失敗したようです)。
これらの北山があちらこちらでえぐり取られて無惨な状況をさらしていたら京都に来る観光客はしらけてしまいますね。奈良は、今は遷都1300年祭ですごい人ですが、観光地としての価値というかそういうものは下がり続けています。旅館やホテルも経営難のところが多いのですが、先ず人が見て、「きれいやなあ」という景観を守っていかなければならないと思います。
明日香でも、かつての和む景観は、よほどに山の中に入っていかなければ楽しめませんし、吉野にいたる道々もご報告の通りです。
勝手な言い分かも知れませんが、京北の山々が何時までも今の美しさを維持してくれたらいいなと思っています。
今回も繰り返しくり返し読ませていただきました。私は大和の地図がまるきり頭に入っていなくて、○○の一つ覚えの大和三山、西国巡礼でお参りした岡寺や壷坂寺、また花の吉野ぐらいしか判らず、葛城、御所方面はまるで未知の世界です。ガイドブックも見ないで、野生?の勘でネ、やっぱり歩かなダメですね!
いや~今回の徘徊、なぜかすご~くロマンを感じます、素敵でした♪
壺阪寺は、目の不自由な老人のための施設なども経営していて、何か宗教本来の目的に生きている寺という感じがしますね。壺心会という壺阪寺の友の会に何年間か入っていたのですが、いまは何となく関係なくなってしまいました。岡寺は、門前の土産物屋が楽しかったことを覚えています。
大和路に関しては、お任せ下さい。信貴山が済みましたら計画いたしましょう。藤原宮から天香具山を経て、大官大寺跡から明日香に入っていくコースなどお勧めです。御所方面も京都の上賀茂・下鴨神社のルーツである高鴨神社などは御神職がニホンサクラソウの種の保護に取り組んでおられ、多くの種類を見ることが出来ますから、きっと気に入っていただけると思います。
ニホンサクラソウは形といい色といい何処となく上品で慎ましやかな花ですね、大和路の風土に似合うでしょう、見たいな^^
信貴山は急ぎませんよ、逃げませんから^^
明後日30日は京北ゼミから芦生の散策に参加します。足が言う事聞いてくれるか心配ですが・・・行ってきます♪