花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

高谷

2012年02月01日 | 徘徊情報・丹波国
 貞任伝説(詳しくはこちらへ・いきなり丸投げ(笑))、これまでボチボチと貞任の遺骸を埋めたというところを巡ってきましたが、宇津地域で最後に残ったのが「高谷」で、ここには両肩と胴体を埋めたという伝承があります。
 伝説はその根底に何らかの事実を含んでいるにせよ、史実ではないので「ここ」とずばり場所を特定することは出来ませんし、またそうする必要もありません。「この辺り」ということで、遠い昔を懐かしめばいいし、こういう伝説を残してくれた人々を思えばよい。それでも行けば何かあるのではというスケベ根性は抜けません。

 この伝説、宇津地域では峠、つまり村への入り口に遺骸埋納地が集中しています。貞任峠、人尾峠はずばりそのものですし。中地谷は明石川が盆地に流れ込むところ、つまり川に沿った道が盆地に入るところにあります。してみると、以前ウロウロした切畑も長野集落への峠に本来は足を埋めたのだという話があったのでは等と思っています。もしくは、切畑山の麓の岡状の高台(足擦りさんのあったところはこのように表現されている)であれば、長野からの道と共に上桂川上流部からの道も抑えることができます。
 これに対して、亀岡盆地に出てしまうと埋納地は神社ということになります。須知については不明ですが、何か神社があるのではというmfujino様の推論(ブログに書いておられるのではなく、お会いした時に聞きました)は相当に説得力があります。峠と神社、どちらが古いとはいいませんが(笑)、亀岡盆地側は祀られている場所がより集落に近くなっていますから、伝承としてはやはり宇津から亀岡盆地に伝わったように思われます。こういうものは後代になるほど話が具体的になっていくというのは、富永先生の加上論。

 今回の高谷も谷を詰めていく以上、当然峠があり、越えれば浅江方面に下りることができます。宇津盆地に入ろうとする入り口の各所に遺骸埋納地があるという事実は、集団であったか個人であったかは分かりませんが、その昔に何某かがこの盆地を結界にするという必要を感じたということでしょうか。

 最初に明石川が盆地に流れ込む少し上にも「高谷」の地名があるようなので見に行きます。登り口だけ確認してすぐに撤退。

                 

 先ずは下宇津の八幡さんにお参り、この神社は貞任の祟りを鎮めるために勧請されたという言い伝えがありますが、神社そのものには埋納伝説はありません。神社の東50メートルほどのところから庄ノ谷に入ります。ここからは延々と林道を歩くことになります。
 谷に入って程なく庄ノ谷の見事な楓が出迎えてくれます。「秋に来る来ると言って来ないからスッカリ丸坊主。」と木が言っているかどうか。

                 

 前に宇津城址から下りてきて、この谷を歩いた時には倒木もいっぱいあり、荒れている感じがしたのですが、今回倒木が多かったところはきれいに伐採されており、道の障害物も概ね取り除かれていました。こういう勤勉な精神に触れるだけでもここを歩く値打ちがあります。

             

 宇津城址への登り口です。おいでーと誘っていますが、ここはグッと我慢して林道を真っ直ぐに進みます。宇津城址へ御案内したい人もおられるのですが、この道は決して安全ではありません。宇津城址からは離れることになりますが、その北尾根にたやすく登れる道を探すことも本日の宿題の一つです。

             

 しばらく谷を詰めると北尾根に登れそうな林道がありました。ここでは振り返って撮っていますから、写真の右手から登っていくことになります。一度確認しておかねばなりません。

             

 さらに進むと今度は大きな伐採地がありました。ここの左手からも北尾根に取り付けそうです。

             

 林道はこの辺りで東に大きくカーブ、その辺りに日本一の栃の森造りを目指して、植林をしているところがあります。クマども、もう少し待っとれよー、そのうちにフルコースが食えるようになるよ。

             

 残っている雪に小さな足跡、キツネでしょうかオコジョでしょうか?庄ノ谷を詰め終わり名も分からぬ峠付近に来ると展望も開けます。見えている集落は浅江でしょう。となると向こうの山は東の黒尾山かも知れません。集落は木々によって写真は撮れませんでした。

             

             

 道は今度は南に大きく回ります。つまり庄ノ谷の東隣の谷に入っていきます。その辺りにも広い伐採地、こういうところに出ると「わーい」と言って駆け上りたくなりますね。

             

 今度は少し大きな足跡、イノシシでしょう。クマかな?その先にため池があります。どこの灌漑用でしょうか?沢池はかつて宇多野の田畑を灌漑し、廻り田池は亀岡市の旭地区を灌漑、ともにワレワレの感覚からいくと随分と遠い地域にまで水を送っていますから、この池も遥かかなたの田畑まで水を送っているのかも知れません。このすぐ下の宇津盆地には上桂川も流れていますから、これは必要ないでしょう。

             

             

 本日は、風もなく波も立ちません。伝説でいう高谷はこの辺りになると思います。貞任の心しずめよ冬の池(羅休)

             

 林道はこの池の先で終了、山道に入ります。京北トレイルのマップ、この山道も遊歩道として記載があるのはさすがです(感嘆)。
 しばらく杉の植林地に沿って進みましたが、ヌヌヌ、ヌ、オー、当たり前ですが宇津城が見えます。喜び勇んで尾根に駈け上りました。

             

 あー、やっぱり正義は勝つんやなあ(誰が正義や)、嘘をつかずに正直に生きているとエエことがあるんやなあ。何と何と、宇津城址、嶽山城址、人尾峠、そして貞任峠(写真無し)まで4点セットで見えます。さらによく見えるところを求めて行くと関電の鉄塔がありました。この鉄塔から高圧線を伝って宇津城址北尾根の鉄塔に行くこともできます(爆)。

             
             マチュピチュぢゃー(笑)

             
             左端から嶽山・人尾峠・宇津城が並ぶ

             
             宇津城の右手に多分西の黒尾山

 ここからすぐに里に出ました。この山道は関電の巡検路にもなっているようです。林道に比べたらソラ歩きにくい。

             

 もう一度、八幡さんに行きます。自然石の碑は前からあったけど、この墓石みたいなのはあったかなあ(疑)。碑は歌や俳句ではなくて、何か詩のようなものが刻まれています。四角柱はびっしりと文字が刻まれていますが、今後の宿題です。

              

              

 八幡さんの天幕、かいらしいですね。最近随分と御前をチョロチョロして目障りでしょうともう一度参拝してお詫びをします。
 さてさて、いよいよ亀岡の桑田神社、また園部の北の須知を訪ねるべき時が来ています。けど、宇津城の西の谷、殿ノ谷に入って日高見峠に行く宿題を思い出してしまいました。



8 コメント

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雪の下に眠るや貞任。 (道草)
2012-02-01 18:43:38
京北のマチュピチュ徘徊録を楽しく読ませて頂きました。上宇津に住んでいた私は、かつては高谷の名を聞いた記憶が無くて、最近になってその名に接する機会が増えたようです。谷への入り口辺りは粟生谷(おうだん)と称します。「谷」は昔は「たん」と読んだと聞いたことがあります。弓槻谷(ゆづきたん)・沓ケ谷(くつがたん)などと、地元では呼んでいます。谷は「たかたに」でしょうか。
それと、宇津の八幡宮は上(かみ)も下(しも)も、八幡宮の普通名詞のみで、固有名称がありません。どうしてなのでしょう。
上の八幡宮は盆踊り、下の八幡宮は厄神祭で、昔は賑わいました。夏と冬の最大の楽しみでしたが・・・。貞任伝説から外れて申し訳ありません。
この徘徊の時は雪はほとんど見られませんが、今頃はかなり積もつているかも。貞任は雪が好きだったかどうか分かりませんが、また楽しい話を聞かせてください。
「貞任の伝説雪に埋もれて」道草。
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神社の名称 (gunkanatago)
2012-02-01 20:21:37
 道草様、コメントをありがとうございます。何の考慮もなく、自分では「たかたに」と読んでいましたが、京北の言い方に従えば「たかだん」であってしかるべきでしょうね。また、誰かが表に出ていたら尋ねてみます(笑)。
 現在、我々が使用している神社の名は便宜的に地名を関しますが、伊勢神宮が本来は「神宮」であるように、本来はどのような神様が祀られているかが分かればそれで良かったのではないでしょうか。八幡さんも、宇佐や石清水などの大手は今は地名を冠したのが正式名称になっていますが、その他は単に「八幡神社」を名乗っているところが大変多いようです。
 最近、師匠から宇津村と神吉村の道路元標を見つけよとの宿題が出ました。あったら、またご報告しますね。
 今日明日の寒波で雪も積もるかも知れませんね。倒木による通行止めが無ければ、雪もまた楽しいのですが。
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貞任あれこれ (mfujino)
2012-02-02 04:18:06
gunkanatagoさま、高谷ですか。これで貞任伝説地はあと2箇所を残すのみですね。桑田神社へ行かれたら対岸の請田神社もお忘れなく。それと鍬山神社も。

貞任兄は藤野とやらが京北へ帰ってからはどうも人がうろうろする機会が少し増えた様でゆっくり寝ておれんわいと思っているやもしれません。以前我がブログで書いたと思いますが、貞任峠の昔の塚で、今度はもっとピチピチギャルを連れてくるからね~なんて言って同行した女性陣に怒られたこともありました。

貞任と言えば相手は八幡太郎義家、貞任の亡霊を慰めるに八幡さんでは逆の様な気がしないでもないのですが(^_*)義家君に押さえ込んで貰おうとしたのでしょうか?下宇津の八幡さんの由緒には貞任の霊を云々は出ていると聞いた様な気がします。

さて高谷ですが、地元の人は「たかだん」とよんでいます。一度確認してみて下さい。gunkanatagoさまが、集落が見えたと書いておられるのは浅江か西、もしくは下明石ではないでしょうか?宇野は515が邪魔になって見えないと思うのですが。北尾根まで行かれたら話は別ですが、、、

高谷の池ですが、我が仮説はもしかして昔この辺りは耕地になっていたのかもしれない、というものです。池と言えば、魚ケ淵の吊り橋の真北の谷にもありますし、日高見峠のすぐ南にもありますね。この高谷の池の周りの地形は如何でしたでしょうか?というのは特に戦後は山の畑や水田がどんどん杉林になったのですが、その木の姿でなく根本の地形を見ると、あ、ここは田圃だったんだというところがあちこちにありますもので。先日伊豆半島を一周してきたのですが、西岸にある石部の棚田の傍を通り抜けましたが、あんな斜面によくぞ畑をという姿をほんの少しだけ見ることが出来ましたので、山の中に田んぼがあっても何の不思議も感じなくなりました。狭間峠近くにもため池がありますが、ここは直ぐ下の三明谷に田んぼが残っています。

高谷から送電線に乗っていくと宇津城へ行けると書いておられますが、保守作業では送電線にぶら下がって作業することもあると聞いたことを思い出しましたけど。我が同級生が送電線の鉄塔に上って作業することもあったが、鉄塔はじっと立っている様に見えても上に上ればいつも揺れているそうです。しょんべんちびるで~って言っていたのを思い出しました。

マチュピチュと言えば、竹田城を再度訪れたいと話し合っています。ついでに黒井城や八上城、そして最近発掘された三ノ宮城跡なども話題に上っています。それと庄ノ谷から宇津城の北の尾根に上る鉄塔の保守路は今は荒れていますね。全国の城巡りを楽しんで居られるグループを案内した時も特ご婦人方は大変だった様です。この道を下るのは恐いと言われるので、八幡神社への坂を下りました。

あ、そうそう今年は頭巾山に上るのを宣言しますので何回か下見に行かねばなりません。青葉山や長老ケ岳にも。いろいろ忙しくなりそうです。予定を立てたらお誘いしますので日が合えばご一緒しましょう。
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頭巾山 (gunkanatago)
2012-02-02 13:43:13
 mfujino様、コメントをありがとうございます。頭巾山、待ってました!(詠嘆)計画の詳細を楽しみにしております。
 やはり、「たかだん」ですね。ご教示ありがとうございます。述べておられるように、貞任の魂を掘り起こすヤカラがいきなり増えていますね(笑)。夜中に貞任が挨拶に来たら宜しくお伝え下さい(爆)。
 高谷の池、なるほど付近に田んぼがあったとのお話、そういえば水尾の東の田んぼ跡の横にもため池が造られていました。今は杉林になってしまっている田んぼを灌漑するために造られたと考えるのが一番ピッタリですね。
 山城は今年もあちこちに参りましょう。黒井城、八上城、八木城、先ずは丹波三大山城から。先日、ささ舟様にご連絡いただいた大本の展示会に行った折、亀山城についても勉強できましたが、専門家の常識は小生の非常識、亀山城に当時最新モデルの天守が建てられていたことなどは初めて知りました。周山城の天守はどのようであったのだろうと想像するのもおもしろいですね。出口王仁三郎が籠もった丁塚山にも城跡があるようです。
 あと、気になっているのは神尾山城と数掛山城です。一度亀岡からバスに乗って出かけようと思っています。能勢の酒店のご主人にも会ってきました。地黄城のイメージが何となく出来上がってきました。丸山城は宿題になりました。
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Unknown (ささ舟)
2012-02-06 16:29:20
着々と宿題が進んでいるようですね。大堰川を下って亀岡盆地に疲れるのは間もなくでしょうか?
貞任は見た目は巨漢だったそうですが、歌をたしなみ奥ゆかしい人物のように何かで読みました。
そういえば「○谷」を「だん」と呼ぶのはK村も同じで「鎌谷」を「かまだん」と言いました。

神尾山城と数掛山城は亀岡宮川の半国山あたりでしょうか?こちらから見る限り、形のいい山ですね。


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もうすぐですよー。 (gunkanatago)
2012-02-06 17:56:08
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。桑田神社、近いうちに到着します(笑)。小生はどちらかというと源氏の方に贔屓の引き倒しなのですが、最近は貞任にも親近感を感じるようになりました(爆)。
 神尾山城と数掛山城はおっしゃる通り半国山の近くです。これはバスに乗って登りに行こうと思っています。帰りはお奨めの駅前の「満寿家」さんへ(笑)。
 やはり「ダン・タン」なのですね。これが丹波でどのくらいの広がりを持っているのか興味が湧いてきました。
 昨日は、お疲れ様でした。足、大丈夫ですか?お土産を買えるようなところも無くてスミマセンでした。
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谷は「たん」 (mfujino)
2012-02-07 23:34:37
gunkanatagoさま、谷を「たん」と言うのは高浜でも聞きました。80才を少し過ぎられた舘太さん、福谷坂の福谷をふくたんと読んでおられた様に思います。割と広い範囲ではないでしょうか。
ここ京北の山村さんの説は高句麗語と関連があるというものです。もしそうだとすれば若狭や丹後から京都方面へのあちこちに広がるかもしれません。これは調べてみる価値ありですね。
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東アジア古語 (gunkanatago)
2012-02-08 14:22:26
 mfujino様、いよいよ若狭にまで広がりましたね。高句麗語とはまた、さらに話が膨らみますね。東アジアの言語は、やはりどこかで一つに結びついているようで、コウクリ=コクリはコは「大きい」という意味の美称、クリは狩猟民族が獲物を置いて置く場で、その場のつながりの中から共同体ができ、原初的な「くに」が発生していくというのが三田村泰助先生のお説でした。
 クリの音は日本語の庫裏や蔵にも通じ、「クニ」などもその転訛ではないか、また遊牧民で氏族を表すクランなども同根、韓国の首都ソウルなどもソ・フルと分解でき、フルはクリの転訛ということです。もはや文字通りの死語になりましたが満州語の研究の話の中で、そういう話をうかがったように覚えています。「ナラ」=奈良なども大変怪しいそうですよ。
 となると東アジア系狩猟民の流れでは「谷」は「タン」で、「タン」が「タニ」に転訛、縄文系の日本では「タニ」は「ヤツ」と言うところでしょうか。ただ「ヤツ」は「谷」の音が訛っただけのような気もしますが。
 あー、今から考えると何で「満州語」を一生懸命やっておかなかったのか(悔)というところですが、英語ですら苦しんでいましたものね。日本語も怪しい(爆)。
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