本日は、乙山師匠の案内で八尾市内の散策です。中河内や南河内は何となく言葉が汚くて住んでいる人もがさつでというイメージを持たれがちですが、そのようなことはありません。江戸期に河内木綿という一大産業があり、多くの新田も造られたこの地は極めて豊かな農村地帯であり、また過酷な税を課さない幕府天領であったところも多く、住民の気質は大変のんびりとして、情が深い。それが全国に喧伝される時には何故にか、言葉が汚く、無学な鉄砲玉ばかり、わずかに河内の人情は盛り込まれているとは言え、他の地域から見たら極めて文化程度の低い土地というイメージになってしまうのは、既に没後35年にもなりますが、今東光の呪縛がまだまだ生きているためでしょう。
JR八尾駅を少し南下すると植田家住宅、大和川の付け替え工事によって生まれた安中新田の会所跡でもあります。現在は八尾市が博物館として管理していますが、残された漆器だけでも企画展が営めるぐらい。江戸期の本百姓の豊かさを知るべきです。昔は「農民は自分で作った米が食えなかった」等ととんちんかんなことを言っていましたね。鎖国化の日本で米の輸出もしないとなれば、支配階級の武士達が毎度の食事で茶わんに100杯ぐらい食べていたと考えていたのかな(笑)。
酒タンポ、2合は入る。
天台宗の大僧正であることを自慢していた今東光は「八尾のヤツラは無学文盲、本なんか読まない。」と豪語していましたが、資治通鑑を読んでいた農民が確かにいたということを知らなかったのでしょうね。
師匠曰く、「八尾はやたらに地蔵さんが多いところ」と。確かにその通りで、ちょっと角を曲がればお地蔵さん、今回の徘徊で休息の場所も貸して下さいました。
渋川神社は587年の所謂崇仏戦争に敗れて滅ぼされた物部守屋邸跡といわれています[追記・師匠より守屋邸跡は渋川廃寺址[渋川天神社]の方が有力であるとの連絡をいただきました。ありがとうございます。]。守屋滅亡後も物部の一族は脈々と続き、全国に広がっていますが、その本拠地がこの八尾なのであります。となると守屋が稲城を築き、木の上に登って迫り来る蘇我連合軍に矢を放ちまくったのもこの辺り?
御神木は楠。
制札場の跡も残り、大きな家も多く、しっとりとした良い町並です。ここにはゴミを捨てるなという現代の制札も。
簷葡舎は大塩の乱のころに仏蓮和尚が開いた私塾、和尚は頼山陽や梁川星巌の弟子であったそうです。この辺りをブラブラしていると立派な民家に何やら仕掛けが、何のためのものか御存じの方はご教示下さい。
25号線まで下って西に行くと物部守屋墳、物部氏の子孫は石切神社における穂積氏の如く神職となっておられる方が多いのでしょうが、ここの玉垣は全国の神社の寄付によって作られたもののようで、「仏教排撃のために頑張ってくれて守屋君ありがとおー。」というところでしょうか。全国の有名どころの神社は全て名前を連ねていましたが、伊勢神宮があるかどうか見るのを忘れた(笑)。そういえば荻生徂徠等も物部の子孫たることを誇り、物徂徠等と名乗っていますね。俗に日本人の姓は源平藤橘などと言いますが、旧豪族たる蘇我・物部の子孫も甚だ殷昌なのでは無いでしょうか。
廃仏、ただこの2文字でその事績を象徴してしまっている物部氏ですが、ここ渋川の地には物部氏による寺院も建立されていた形跡もあり、話はそう単純ではありません。単純といえば、ここの管理をしていたオヤジ、漫画日本歴史程度のことを師匠に延々と講釈していましたが、これがホントの「釈迦に説法」。気分が露骨に顔に出る小生とは異なり流石に師匠は大人です。
蘇我軍の勇士、迹見首赤檮(とみのおびといちい)が矢を放ったところ言われる鏑矢塚。守屋は赤檮によって射殺され、物部軍は壊滅したといわれています。どのような時代、どのような土地であっても、武功・武勲話は楽しいですね。小学校教育にも是非入れていくべきです。
「太子堂」の語源となっている大聖勝軍寺の門前に「守屋首洗い池」、残念ながら水が涸れています。厩戸皇子(聖徳太子)が四天王に戦勝を祈念したのはこの辺り?
こちらの御神木(御仏木?)は椋、この椋は激戦の最中に聖徳太子を守ったという伝承があり、椋の木の後ろにはストーカーのように太子がたたずまれているのですが、写真では見えませんねぇ。
跡部地蔵の御前でしばし休息。ここで同行の方に壬生狂言の炮烙を模した煎餅と柚子で作ったおやつを恵んでいただきました。炮烙煎餅はサクサクとウマイ、柚子のおやつも絶品。ありがとうございます。今回は水尾の里人の人情で当時を生き抜いた先生も参加されていたのですが、琵琶湖一周の武勇伝に驚かれてましたね。先生、今からでも遅くない。原隊に復帰せよ。アレ、違う。琵琶湖一周、やりましょう!
跡部神社は物部氏の祖神を祀る式内社、式内社の密度が高いのもこの地域の特色だそうです。先ほどの渋川神社も勿論です。
やって参りました。真観寺。われらが三好長慶の葬儀が行われ、墓石が確認されている寺です。長慶と後継者の義継の墓石が並べられていましたが、僅かの期間とは言え畿内を制圧した覇者のものとしては異様に小さい。飯盛山で病死した長慶の葬儀が営まれたのは死から3年後、義継が若江城にいた関係で、この寺で営まれたのだと思います。義継は1573年に信長の命によって切腹しています。往時、この寺はもっと広大であったということです。久宝寺の駅に近づけば釈迦寺跡。
真観寺
JR線を北に越え、久宝寺の寺内町にやって来ました。この辺りには久宝寺・八尾、萱振と3つの寺内町がかたまっています。先ずは許麻神社へ。式内社です。
渡来系の氏族が住んでいたのでしょうね。高麗、駒、狛氏、いずれも同族でしょう。いつも言うことですが、渡来人となると何故か韓国や朝鮮人がしゃしゃりでてくる。しかし、渡来人は日本人の先祖であって、とうの昔に韓国や朝鮮とは分かれた人々です。大地は動かざれども、民族は動くのです。しかも文化も言語もその過程で大きく変容する。この視点が抜けると例えば小アジアにいたからヒッタイトはトルコ人の先祖というような議論も成り立ってしまいます。
4世紀から7世紀にかけて、現代の意味で言う日本という国家が成立していたわけでもなく、まして韓国や朝鮮などは微塵ほども無くて、新羅や百済があるのみです。昔、日本の中の朝鮮文化などというオトボケ本がありましたが、厳密な意味での朝鮮文化(ハングルなど)は1392年以降でないと成立しません。だからー、我々が今日の韓国や北鮮に「私たちはあなた達の「国」から様々な文化を学んだ。」等というのはお追従に過ぎないのです。
手水舎は元釣鐘堂。
許麻神社を出るとすぐに寺内町の環濠、今回師匠に教わったことですが、寺内町の環濠というのは非常にささやかなもので、これを以て防御の要とすることなどは考えられぬということです。
久宝寺寺内町は、その出口ごとに地蔵さんがおられます。西口地蔵はあきらかに場所が移されています。
許麻口地蔵
西口地蔵
寺内町ふれあい館
寺内町のふれあい館で詳細な地図をいただきました。河内寺内町の分布図も勉強になりました。この行政が作る地図というのが、本当に役に立ちます。
庭には「安井道頓・道卜出生地」の碑があります。この安井一族と一向宗は江戸期幕府成立後もこの地域の支配権をめぐって争っていたようで、一応、安井一族の支配権が認められた後に一向宗は「ならば‥」と八尾へ進出したとのことです。安井一族が「道頓堀を返せー」とおこした裁判も随分と昔のことになりましたね。近年、道頓は成安家の人だという説が有力なようです。まあ、広い意味で同族ですから問題はないでしょう。道頓は大阪の役の時に城に入って戦死しています。
久宝寺寺内町に「久宝寺」はありません。中心の寺院は顕証寺、やはり広大です。寺内町は、変に商業化もされず、それでいて昔の風情が残っている感じです。
山門
鶴がへばりついている「うだつ」。
マンホールは、綿糸を紡ぐ糸車の意匠。また、このあたり久宝寺城もありました。寺内町の形成と共に廃絶したようですね。
八尾・若江といえば、大坂夏の陣の激戦地でもあります。長宗我部盛親が物見をしたという松の跡、おもろいなー。長宗我部軍と闘った藤堂高虎軍は部隊としての機能を失うほどの大打撃を受けます。徒花ではありましたが、滅び行く直前に一矢報いたと申す処。戦国武将としての長宗我部盛親は、この日一日のために存在したと言えるでしょう。陣後に盛親やその子達が斬に処されたのは、この時の藤堂家の恨みをはらすためでは。
その横には明応の政変時に正覚寺合戦で戦死した人の墓もありました。この付近は、もう近世以前の五輪塔の宝庫です。私学の麟角堂では伊藤仁齋や東涯も講演したとのことです。京都からはるばると来演するのですから、この地には余程に厚い文化的基盤があったということでしょう。
麟角堂遺祉
久宝寺寺内と八尾寺内をつなぐ道もなかなか趣があります。途中には長瀬川の船着き場なども。今の流れからは想像も付きませんが、「浜」などという名も残っていることから往時はもっと広い流れであったと思われます。
八尾御坊の大信寺はコンクリの要塞となっていました。前の本堂はシロアリの害により、大音響と共に倒壊したとありますから、木造には懲りたのでしょうね。境内には河内県庁跡の碑。明治初年の県が全部残っていたら大変でしょうね。47都道府県でも覚えるのに苦労している人もある。関西人は群馬と栃木を間違い、埼玉の存在を忘れる人が多いけれど、関東の人が覚えにくいなあと思っているのはどこなのでしょうね。オット脱線。
常光寺は道標では「八尾地蔵」として案内されています。何と御本尊には小野篁作の伝承も。ここの境内こそが「河内音頭」の盆踊りの御本家、夏場は立錐の余地もないほど人々で溢れるところです。また、夏の陣で戦死した藤堂家家臣達の位牌が今も祀られているとのことです。藤堂高虎はここで首実検をしたのですが、「いゃー、参った参った!」という心境だったことでしょう。
役行者
常光寺
終点の八尾神社は八尾城祉でもあるようです。この近くの和菓子屋、6時閉店ということで「6時までには行く」と電話もしておいたのに、着いたらしっかりと閉店していました。こらっ!夏の暑い日に、この古い家で食べた水ようかんは大変に美味でした。今度はもう少し早い時間に来ようと思います。それと萱振寺内を含む八尾徘徊2、こいつを師匠に頼んでみよう。
分かりやすい道標。
今東光が描いた世界と異なり、八尾は上品で文化薫る街でありました。それでも小生の周りなどは八尾といえば朝吉、そしてヤクザ。朝吉のモデルとなられた方はやはり大変上品で温厚な方であったとのこと。こら、東光、あの世でちゃんと謝れよ。そういえば、コヤツは中尊寺の住職となって河内を去りましたが、中尊寺はその後に突然金もうけ主義になりましたね。といいながら、今東光の作品は嫌いではないのですが。途中で切れているように思いますが、奥州藤原氏を描いた「蒼き蝦夷の血」など、歴史読本だったかに連載している時は一生懸命に読みました。
文化の果てといえば打ち上げをした京橋(八尾の帰りなら通は鶴橋で呑むでしょうが)。大阪書店がとうとう無くなってしまいました。ここの戦記コーナー、重宝していたのに。モールの中に紀伊国屋があるものの今ひとつ面白くない。といいながら武門源氏の本を買ってしまった。
イカ焼き屋やまげんの料理はイカ焼き(これは日本一)以外のも実にうまかったようで、皆々満足の世界。よく考えたら先週は食べに来て振られたので、クレオールでたこ焼きを食べた(爆)。何でも午後5時からの営業になったそうです。まあ京橋は文化を求めるより「呑める街」ということで大団円。
JR八尾駅を少し南下すると植田家住宅、大和川の付け替え工事によって生まれた安中新田の会所跡でもあります。現在は八尾市が博物館として管理していますが、残された漆器だけでも企画展が営めるぐらい。江戸期の本百姓の豊かさを知るべきです。昔は「農民は自分で作った米が食えなかった」等ととんちんかんなことを言っていましたね。鎖国化の日本で米の輸出もしないとなれば、支配階級の武士達が毎度の食事で茶わんに100杯ぐらい食べていたと考えていたのかな(笑)。
酒タンポ、2合は入る。
天台宗の大僧正であることを自慢していた今東光は「八尾のヤツラは無学文盲、本なんか読まない。」と豪語していましたが、資治通鑑を読んでいた農民が確かにいたということを知らなかったのでしょうね。
師匠曰く、「八尾はやたらに地蔵さんが多いところ」と。確かにその通りで、ちょっと角を曲がればお地蔵さん、今回の徘徊で休息の場所も貸して下さいました。
渋川神社は587年の所謂崇仏戦争に敗れて滅ぼされた物部守屋邸跡といわれています[追記・師匠より守屋邸跡は渋川廃寺址[渋川天神社]の方が有力であるとの連絡をいただきました。ありがとうございます。]。守屋滅亡後も物部の一族は脈々と続き、全国に広がっていますが、その本拠地がこの八尾なのであります。となると守屋が稲城を築き、木の上に登って迫り来る蘇我連合軍に矢を放ちまくったのもこの辺り?
御神木は楠。
制札場の跡も残り、大きな家も多く、しっとりとした良い町並です。ここにはゴミを捨てるなという現代の制札も。
簷葡舎は大塩の乱のころに仏蓮和尚が開いた私塾、和尚は頼山陽や梁川星巌の弟子であったそうです。この辺りをブラブラしていると立派な民家に何やら仕掛けが、何のためのものか御存じの方はご教示下さい。
25号線まで下って西に行くと物部守屋墳、物部氏の子孫は石切神社における穂積氏の如く神職となっておられる方が多いのでしょうが、ここの玉垣は全国の神社の寄付によって作られたもののようで、「仏教排撃のために頑張ってくれて守屋君ありがとおー。」というところでしょうか。全国の有名どころの神社は全て名前を連ねていましたが、伊勢神宮があるかどうか見るのを忘れた(笑)。そういえば荻生徂徠等も物部の子孫たることを誇り、物徂徠等と名乗っていますね。俗に日本人の姓は源平藤橘などと言いますが、旧豪族たる蘇我・物部の子孫も甚だ殷昌なのでは無いでしょうか。
廃仏、ただこの2文字でその事績を象徴してしまっている物部氏ですが、ここ渋川の地には物部氏による寺院も建立されていた形跡もあり、話はそう単純ではありません。単純といえば、ここの管理をしていたオヤジ、漫画日本歴史程度のことを師匠に延々と講釈していましたが、これがホントの「釈迦に説法」。気分が露骨に顔に出る小生とは異なり流石に師匠は大人です。
蘇我軍の勇士、迹見首赤檮(とみのおびといちい)が矢を放ったところ言われる鏑矢塚。守屋は赤檮によって射殺され、物部軍は壊滅したといわれています。どのような時代、どのような土地であっても、武功・武勲話は楽しいですね。小学校教育にも是非入れていくべきです。
「太子堂」の語源となっている大聖勝軍寺の門前に「守屋首洗い池」、残念ながら水が涸れています。厩戸皇子(聖徳太子)が四天王に戦勝を祈念したのはこの辺り?
こちらの御神木(御仏木?)は椋、この椋は激戦の最中に聖徳太子を守ったという伝承があり、椋の木の後ろにはストーカーのように太子がたたずまれているのですが、写真では見えませんねぇ。
跡部地蔵の御前でしばし休息。ここで同行の方に壬生狂言の炮烙を模した煎餅と柚子で作ったおやつを恵んでいただきました。炮烙煎餅はサクサクとウマイ、柚子のおやつも絶品。ありがとうございます。今回は水尾の里人の人情で当時を生き抜いた先生も参加されていたのですが、琵琶湖一周の武勇伝に驚かれてましたね。先生、今からでも遅くない。原隊に復帰せよ。アレ、違う。琵琶湖一周、やりましょう!
跡部神社は物部氏の祖神を祀る式内社、式内社の密度が高いのもこの地域の特色だそうです。先ほどの渋川神社も勿論です。
やって参りました。真観寺。われらが三好長慶の葬儀が行われ、墓石が確認されている寺です。長慶と後継者の義継の墓石が並べられていましたが、僅かの期間とは言え畿内を制圧した覇者のものとしては異様に小さい。飯盛山で病死した長慶の葬儀が営まれたのは死から3年後、義継が若江城にいた関係で、この寺で営まれたのだと思います。義継は1573年に信長の命によって切腹しています。往時、この寺はもっと広大であったということです。久宝寺の駅に近づけば釈迦寺跡。
真観寺
JR線を北に越え、久宝寺の寺内町にやって来ました。この辺りには久宝寺・八尾、萱振と3つの寺内町がかたまっています。先ずは許麻神社へ。式内社です。
渡来系の氏族が住んでいたのでしょうね。高麗、駒、狛氏、いずれも同族でしょう。いつも言うことですが、渡来人となると何故か韓国や朝鮮人がしゃしゃりでてくる。しかし、渡来人は日本人の先祖であって、とうの昔に韓国や朝鮮とは分かれた人々です。大地は動かざれども、民族は動くのです。しかも文化も言語もその過程で大きく変容する。この視点が抜けると例えば小アジアにいたからヒッタイトはトルコ人の先祖というような議論も成り立ってしまいます。
4世紀から7世紀にかけて、現代の意味で言う日本という国家が成立していたわけでもなく、まして韓国や朝鮮などは微塵ほども無くて、新羅や百済があるのみです。昔、日本の中の朝鮮文化などというオトボケ本がありましたが、厳密な意味での朝鮮文化(ハングルなど)は1392年以降でないと成立しません。だからー、我々が今日の韓国や北鮮に「私たちはあなた達の「国」から様々な文化を学んだ。」等というのはお追従に過ぎないのです。
手水舎は元釣鐘堂。
許麻神社を出るとすぐに寺内町の環濠、今回師匠に教わったことですが、寺内町の環濠というのは非常にささやかなもので、これを以て防御の要とすることなどは考えられぬということです。
久宝寺寺内町は、その出口ごとに地蔵さんがおられます。西口地蔵はあきらかに場所が移されています。
許麻口地蔵
西口地蔵
寺内町ふれあい館
寺内町のふれあい館で詳細な地図をいただきました。河内寺内町の分布図も勉強になりました。この行政が作る地図というのが、本当に役に立ちます。
庭には「安井道頓・道卜出生地」の碑があります。この安井一族と一向宗は江戸期幕府成立後もこの地域の支配権をめぐって争っていたようで、一応、安井一族の支配権が認められた後に一向宗は「ならば‥」と八尾へ進出したとのことです。安井一族が「道頓堀を返せー」とおこした裁判も随分と昔のことになりましたね。近年、道頓は成安家の人だという説が有力なようです。まあ、広い意味で同族ですから問題はないでしょう。道頓は大阪の役の時に城に入って戦死しています。
久宝寺寺内町に「久宝寺」はありません。中心の寺院は顕証寺、やはり広大です。寺内町は、変に商業化もされず、それでいて昔の風情が残っている感じです。
山門
鶴がへばりついている「うだつ」。
マンホールは、綿糸を紡ぐ糸車の意匠。また、このあたり久宝寺城もありました。寺内町の形成と共に廃絶したようですね。
八尾・若江といえば、大坂夏の陣の激戦地でもあります。長宗我部盛親が物見をしたという松の跡、おもろいなー。長宗我部軍と闘った藤堂高虎軍は部隊としての機能を失うほどの大打撃を受けます。徒花ではありましたが、滅び行く直前に一矢報いたと申す処。戦国武将としての長宗我部盛親は、この日一日のために存在したと言えるでしょう。陣後に盛親やその子達が斬に処されたのは、この時の藤堂家の恨みをはらすためでは。
その横には明応の政変時に正覚寺合戦で戦死した人の墓もありました。この付近は、もう近世以前の五輪塔の宝庫です。私学の麟角堂では伊藤仁齋や東涯も講演したとのことです。京都からはるばると来演するのですから、この地には余程に厚い文化的基盤があったということでしょう。
麟角堂遺祉
久宝寺寺内と八尾寺内をつなぐ道もなかなか趣があります。途中には長瀬川の船着き場なども。今の流れからは想像も付きませんが、「浜」などという名も残っていることから往時はもっと広い流れであったと思われます。
八尾御坊の大信寺はコンクリの要塞となっていました。前の本堂はシロアリの害により、大音響と共に倒壊したとありますから、木造には懲りたのでしょうね。境内には河内県庁跡の碑。明治初年の県が全部残っていたら大変でしょうね。47都道府県でも覚えるのに苦労している人もある。関西人は群馬と栃木を間違い、埼玉の存在を忘れる人が多いけれど、関東の人が覚えにくいなあと思っているのはどこなのでしょうね。オット脱線。
常光寺は道標では「八尾地蔵」として案内されています。何と御本尊には小野篁作の伝承も。ここの境内こそが「河内音頭」の盆踊りの御本家、夏場は立錐の余地もないほど人々で溢れるところです。また、夏の陣で戦死した藤堂家家臣達の位牌が今も祀られているとのことです。藤堂高虎はここで首実検をしたのですが、「いゃー、参った参った!」という心境だったことでしょう。
役行者
常光寺
終点の八尾神社は八尾城祉でもあるようです。この近くの和菓子屋、6時閉店ということで「6時までには行く」と電話もしておいたのに、着いたらしっかりと閉店していました。こらっ!夏の暑い日に、この古い家で食べた水ようかんは大変に美味でした。今度はもう少し早い時間に来ようと思います。それと萱振寺内を含む八尾徘徊2、こいつを師匠に頼んでみよう。
分かりやすい道標。
今東光が描いた世界と異なり、八尾は上品で文化薫る街でありました。それでも小生の周りなどは八尾といえば朝吉、そしてヤクザ。朝吉のモデルとなられた方はやはり大変上品で温厚な方であったとのこと。こら、東光、あの世でちゃんと謝れよ。そういえば、コヤツは中尊寺の住職となって河内を去りましたが、中尊寺はその後に突然金もうけ主義になりましたね。といいながら、今東光の作品は嫌いではないのですが。途中で切れているように思いますが、奥州藤原氏を描いた「蒼き蝦夷の血」など、歴史読本だったかに連載している時は一生懸命に読みました。
文化の果てといえば打ち上げをした京橋(八尾の帰りなら通は鶴橋で呑むでしょうが)。大阪書店がとうとう無くなってしまいました。ここの戦記コーナー、重宝していたのに。モールの中に紀伊国屋があるものの今ひとつ面白くない。といいながら武門源氏の本を買ってしまった。
イカ焼き屋やまげんの料理はイカ焼き(これは日本一)以外のも実にうまかったようで、皆々満足の世界。よく考えたら先週は食べに来て振られたので、クレオールでたこ焼きを食べた(爆)。何でも午後5時からの営業になったそうです。まあ京橋は文化を求めるより「呑める街」ということで大団円。
徘徊録を拝見しますと、風聞より遥かに由緒もあり文化度も上品度も高いとか。私の認識も少し修正されました。
一般的な悪名(?)は、ご指摘されています今某の影響が大とか。その通りで、私もかの「悪名」の映画で、そんな認識をしっかりと植え付けられました。実在の人物は極めて上品とのことですが、何しろ勝新のガラの悪さ(実物も)は天下一品でしたから。
それに、原作は違うかも分かりませんが、川谷拓三の「河内のおっさん」も、中々のイメージでした。
今坊主の人間性など種々流布されていますが、私は作品としては「お吟さま」しか読んでいないので世間の風評しか知らず、近寄りたくないとの意識です。
いずれにしましても、植田家に象徴されるが如く、教養も知性もある農民が数多く居たのでしょう。例の僧侶は、それらを認める(自分より優れている)のが悔しかったのではないですか。
民家の屋根瓦を取り巻いている柵は、だんじり祭の山車除けではないですか。この辺りを通るのかどうかは知りませんが。この祭りは、ガラが悪いのではなくて、威勢が良いのでしょうか。私は、テレビでしか見たことはありませんので。
徘徊録は盛り沢山でよく飲み込みませんけど、この地は聖徳太子にも縁があり、加えて、原日本人の血族に至るまで認識を新たにさせられました。それにしても、昔は河内県だったのですか。関西人の私も知りませんでした。
ただ、最終の和菓子屋が閉店していたのは、予約しているのに失礼と申しますか傲岸不遜ではないですか?女性方のイカリは、物凄かったのではないでしょうか。男性方は、最終目的をキチンと果された様ですが・・・。
「河内なる平野の冬の日は静か」道草。
昔のことですが、小生も初めて八尾に来るまでは-串カツを食べに来た(笑)-映画「悪名」や「河内のオッサン」しかイメージがなかったので、駅に下りた瞬間に身構えたものでした(笑)。「悪名」は映画としては面白いシリーズだったと思いますが、八尾の人には気の毒でした。中河内の中でも一番ガラが悪いように思われていますから。
そう、和菓子屋は失礼でした。今度は同じ名前でも山本の方にある店に行こうと思います。小生が水ようかんを食べたのは10年ぐらい前かなと思いますが、その後店が2つに割れたみたいです。
師匠はしばらく逼塞(花粉除け)ですが、4月の再開時には再び河内から(富田林あたり?)になると思います。大阪城もありです。また、宜しくお願いします。
学生時代短期間ですが布施のアパート暮らしの経験があります。同期の奴と二人で一室を借りたのですが、自炊しようと田舎から折りたたみのテーブルを送って貰い、市場で買ったもので食事の準備をしたのですが、九州男児の彼は、おれはこんな事する為に大学に入ったんじゃねえ~と不機嫌だったなあ。八尾に本社を持つ会社に入ったのですが、喧嘩別れになったなあ、、まあ、あまり良い思い出はありませんね。
寺内町がそんなにあったのですか。そう言えば、平野の界隈は一度歩きました。平城がないのではないでしょうか?今回の徘徊記では歴史上の超有名人が登場しないというところがオタクでないとあまり今回の様な徘徊エリアにならない原因の一つなのかしらと思わないでもないですね。それと南北を走る街道に比べて東西に走る街道が何故か少ない様に感じます。
九州男児、男らしさを取り違えていますね。少なくとも武士・武人は戦場に出た時には自分で調理するすべを知らなければ生きていけませんのにね。といいながら、自分も自信がありませんが(爆)。男らしさは「嘘をつかない」とか、「覚悟がよい」とか別の面で求めるべきだと思います。
八尾にはいくつかの平城がありますが、今回訪れた久宝寺城も八尾城も早いうちに廃絶しているようです。この付近では、やはり若江城が一番知られていると思います。遊佐氏など、この城を拠点に随分と活躍しています。最後は、三好嫡宗家滅亡の場となりました。平野の近所では、畠山政長が自刃した正覚寺城です。なんかそんなんばっかりですね。
2年ほど前に、「券があるから、中村美津子のワンマンショーに行こう」と誘われ、余り好きでないと言いながら、断りきれず付いていきました。小柄な歌手が豪快にまた繊細に歌うさまが、たまらなく楽しくて南座の観客も一斉に乗りのりでした。
また、30年来の仕事の長も河内山本の出でした。そとめ豪快でさっぱりされた方ですが、人情家で涙もろい所があるました。
私はどちらかというとしんみりより陽気なのが好きだから、河内の衆のことは好意的かもわからない。
それにしても今回も知らないことだらけの徘徊でした。東西本願寺の別院もあり、短期間であれ、河内県庁があったことなどびっくり。
水尾の里人人情読ませて頂きました(笑)O先生曰く、「あなたは今日、K君のホームページ見て参加したの?」旧植田家での最初のひと言でした。
烏賊焼きあまりに美味しくて2枚頂きました。トイレにはびっくり!ヒックリ帰りました(笑)
中村美津子、いい歌手ですね。「河内おとこ節」が流れていたら喜んで聞いています。となると自分も今東光と同罪?
2・3月は師匠は逼塞しますが、復活第1弾か第2弾は富田林がいいのでは(益々遠くて申し訳ありませんが)と思っています。天野酒の試飲もあり、ということで(笑)。
例のトイレへの道、長い長いでしょう。次回、京橋にお出での時には、女性お一人では絶対に入らないだろうというところにお連れします(爆)。