須磨明石という連語がしばしば用いられるのですが、須磨は摂津に明石は播磨に属しています。いずれもかつての景勝の地、近年の海水浴場として知られるのですが、現在は、景勝既に失せ、海水浴場の方も砂が波に浸食されているのと、海岸ギリギリまでコンクリートで固められていることもあり、なかなか「白砂青松」とはいきません。
明石の海岸線は、概ね明石駅を境にして東と西に分けることができるように思われます。東側、大蔵海岸や舞子、須磨に続いていく地域は、明石海峡大橋建設という大土木工事の関係もあってすっかりと様相を変えました。JR線にも山陽電車線にも近いということもあり、明石の海水浴場というと、この東側を思い浮かべる人が多いようです。
西の林崎松江海岸や、藤江の浜などは今は辛うじてかつての漁村の風景を一部残しています。砂が沖に浚われていくことを防ぐためでしょう、何本もの突堤が海に突き出しているのは見苦しいのですが、水は想像以上にきれいです。このあたりから東を見れば、人麻呂のいう「明石大門」に今は大きな橋がかかっています。文字通り大阪湾への入り口を示すアーチと言えるようです。遙か対岸の淡路島を眺めながら歩く藤江の浜の景色は、海苔養殖の生け簀を除いては赤人の「沖つ波辺波静けみ漁りすと藤江の浦に舟ぞ騒ける」という歌の時代とあまり変わらないのではと思われます。この辺りの沖合は「鹿ノ瀬」という好漁場であるからです。
山陽電車西新町駅近く、明石警察署の近くに宝蔵寺という寺があります。写真はその寺の本堂です。この寺の境内に「雌鹿の松」があり、明石の語源となった「赤石」の由来とともに鹿ノ瀬のことも記されています。少し西の高砂の松や尾上の松は全国的に有名なのですが、雌鹿の松は現地に行って初めて知ることが出来ました。まさに、徘徊の妙味であります。歌碑には「頻(しき)返る波に問はばや播磨潟雌鹿の松の千世の昔を」という歌が記されていますが、江戸仮名(変体仮名)をあれやこれやと推測することもつれづれの友です(といいながら同行者の中では小生が一番先に「読めん!」と諦める)。鹿が海を渡ってあちこちに遊びに行く途中、人間に見つかって殺されるという話は神戸市内の神社にも伝わっています。下の写真は藤江の浦です。
宝蔵寺を出て、少し行くと徘徊には嬉しい「玉子焼」の店があります。明石でいう「玉子焼」とは、世間でいう「明石焼」のことです。近江路の徘徊などで結局飲食店に一度も巡り逢わず、夜になって空きっ腹にいきなり酒を流し込むというようなことが多くありますが、「ブルータス、お前もか!」と思い始めた矢先に、こういう店に出会うのは本当に有り難い。
泉屋というこの店、メニューは玉子焼と中華蕎麦だけで酒類の提供はありません。まあ、ここは我慢しましょう。けれどもその量たるや、一人前に20個も出るという店はここぐらいでしょう。この店の値打ちはそれだけではない。玉子焼を作る老婆子が書き記したこの地域のスケッチが和綴じの本の体裁で40冊ばかり置いてあります。素朴なものではありますが、この地域の往時を知るよい資料です。地域の新聞には何度も取り上げられているようですが、漫画代わりにポンと置いてあるのもいい感じがします。それでもやはり酒さえあれば…というところですが、酒を飲みながらじっくりと腰を据えてこれを読み始めれば、もはや動くことはできなくなるでしょう。
この近くには、現在の明石城築城以前の明石城たる船上城(ふなげじょう)址もあります。本当にただ「ある」というだけで、人の田畑の畦道を借りねば辿り着くことが出来ません。蜂須賀正勝(小六)や高山右近等が明石城主であったときの城は、この城だということですが、周辺の田畑も宅地化に迫られて風前の灯、この跡地も稲荷社があることで何とか残ったという体です。
これより遙かに西に見える江井ヶ島の突堤を目指して西行すれば、途次「明石原人腰骨出土地」などがありますが、江井ヶ島には明石浪漫ビールを飲ませる店がありますので、僅かに目を向ける以上のことはなく、足は一途に彼方の突堤に向かい、心は既に突堤を越えているのです。
(08年1月の記事に一部加筆して再録)
明石の海岸線は、概ね明石駅を境にして東と西に分けることができるように思われます。東側、大蔵海岸や舞子、須磨に続いていく地域は、明石海峡大橋建設という大土木工事の関係もあってすっかりと様相を変えました。JR線にも山陽電車線にも近いということもあり、明石の海水浴場というと、この東側を思い浮かべる人が多いようです。
西の林崎松江海岸や、藤江の浜などは今は辛うじてかつての漁村の風景を一部残しています。砂が沖に浚われていくことを防ぐためでしょう、何本もの突堤が海に突き出しているのは見苦しいのですが、水は想像以上にきれいです。このあたりから東を見れば、人麻呂のいう「明石大門」に今は大きな橋がかかっています。文字通り大阪湾への入り口を示すアーチと言えるようです。遙か対岸の淡路島を眺めながら歩く藤江の浜の景色は、海苔養殖の生け簀を除いては赤人の「沖つ波辺波静けみ漁りすと藤江の浦に舟ぞ騒ける」という歌の時代とあまり変わらないのではと思われます。この辺りの沖合は「鹿ノ瀬」という好漁場であるからです。
山陽電車西新町駅近く、明石警察署の近くに宝蔵寺という寺があります。写真はその寺の本堂です。この寺の境内に「雌鹿の松」があり、明石の語源となった「赤石」の由来とともに鹿ノ瀬のことも記されています。少し西の高砂の松や尾上の松は全国的に有名なのですが、雌鹿の松は現地に行って初めて知ることが出来ました。まさに、徘徊の妙味であります。歌碑には「頻(しき)返る波に問はばや播磨潟雌鹿の松の千世の昔を」という歌が記されていますが、江戸仮名(変体仮名)をあれやこれやと推測することもつれづれの友です(といいながら同行者の中では小生が一番先に「読めん!」と諦める)。鹿が海を渡ってあちこちに遊びに行く途中、人間に見つかって殺されるという話は神戸市内の神社にも伝わっています。下の写真は藤江の浦です。
宝蔵寺を出て、少し行くと徘徊には嬉しい「玉子焼」の店があります。明石でいう「玉子焼」とは、世間でいう「明石焼」のことです。近江路の徘徊などで結局飲食店に一度も巡り逢わず、夜になって空きっ腹にいきなり酒を流し込むというようなことが多くありますが、「ブルータス、お前もか!」と思い始めた矢先に、こういう店に出会うのは本当に有り難い。
泉屋というこの店、メニューは玉子焼と中華蕎麦だけで酒類の提供はありません。まあ、ここは我慢しましょう。けれどもその量たるや、一人前に20個も出るという店はここぐらいでしょう。この店の値打ちはそれだけではない。玉子焼を作る老婆子が書き記したこの地域のスケッチが和綴じの本の体裁で40冊ばかり置いてあります。素朴なものではありますが、この地域の往時を知るよい資料です。地域の新聞には何度も取り上げられているようですが、漫画代わりにポンと置いてあるのもいい感じがします。それでもやはり酒さえあれば…というところですが、酒を飲みながらじっくりと腰を据えてこれを読み始めれば、もはや動くことはできなくなるでしょう。
この近くには、現在の明石城築城以前の明石城たる船上城(ふなげじょう)址もあります。本当にただ「ある」というだけで、人の田畑の畦道を借りねば辿り着くことが出来ません。蜂須賀正勝(小六)や高山右近等が明石城主であったときの城は、この城だということですが、周辺の田畑も宅地化に迫られて風前の灯、この跡地も稲荷社があることで何とか残ったという体です。
これより遙かに西に見える江井ヶ島の突堤を目指して西行すれば、途次「明石原人腰骨出土地」などがありますが、江井ヶ島には明石浪漫ビールを飲ませる店がありますので、僅かに目を向ける以上のことはなく、足は一途に彼方の突堤に向かい、心は既に突堤を越えているのです。
(08年1月の記事に一部加筆して再録)
自家用車を持たない私は、何度か通過した列車の窓から眺めるだけで過ぎております。大昔(新婚直後)に、竜野~室津へ一泊で遊びに行ったことがありますが、地域的にはもう少し西になるのでしょうか。淋し気な漁港の印象が残っています。
明石焼きは大阪で勤務している時にたまに食べました。通常の蛸焼きより気に入っていました。折角の徘徊記にそぐわず申し訳ありません。
「こぞの冬」 木下杢太郎
十一月の風の宵に
外套の襟を立てて
明石町の海岸を歩いたが
その時の船の唄がまだ忘れられぬ。
同じ冬は来たれども
また歌はひびけども
なぜかその夜が忘れられぬ。