花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

能因塚

2009年02月16日 | 徘徊情報・摂津国
 小倉百人一首に「あらし吹くみ室の山のもみぢばは竜田の川の錦なりけり」の歌があり、また「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」の歌で知られる能因法師の墓と伝えられるところが高槻市の古曽部にあります。西国街道には、下のような能因塚への道標が立っており、ここから北方3町とあります。道標には「元治元年(1864)」の建立とあり、幕末維新のややこしいときに斯様に風雅な人たちもいて、そういう人たちはやはり能因法師を慕っていたのだろうと思います。蛤御門に向かって京へ急いだ長州人たちや、長州征伐に赴いた幕府の人たちはこの碑を見たでしょうか。

          

 能因法師は本姓は橘氏、一時期官途に就きましたが非常に若くして隠遁し、この地に住んで「古曽部入道」とも言われたそうです。多くの逸話に富む人物ですが、白河の関の歌など、実際には白河まで行かずに庵に籠もること数ヶ月、如何にも旅やつれした風を装って発表した歌だという話があり、いや本当は行ったのだが能因自身が「行かなかったことにして話を作った方が面白かろう」と「行かなかった話」を吹聴したのだとか、まあ兎に角けったいなややこしいおっさんであったのでしょう。ライバルの歌人と「長柄橋の鉋屑」と「井手(南山城)の蛙の干物」を見せ合った(どちらも歌枕だが「もの」そのものはつまらぬもの)などという話もあります。古曽部に住んだのも女歌人の伊勢が引退して住んだ寺が近くにあったからだとも言われますが、伊勢は能因の時代から見て100年も前の人ですから、まあこれは「枕草子」研究の第一人者であった田中重太郎博士が、最後まで清少納言にベタボレであったのに通じる話です。
 この古曽部の地も随分と宅地化が進みましたが、能因塚周辺だけはまた別の閑寂郷として残されています。この地の歌として、「わがやどの梢の夏になるときは生駒の山ぞ見えずなりぬる」と「山里の春の夕暮きてみれば入相の鐘に花ぞ散りける」が説明文にも紹介されています。前者の歌に関しては、生駒の山が見えるどころか今現在は南方に関大小学校建設の巨大クレーンが4台も見えていますから、いずれ関大の建物が壁のように立ちふさがるであろうと思われます。後者の歌、訪れたときに散る花はありませんでしたが、偶々入り会いの鐘が「ゴォーン、ゴォーン。」と鳴っていました。
 塚の前には1650年に高槻城主によって立てられた顕彰碑がありますが、随分と朽ちてきています。未だ読めないことは無いのですが、これを読もうとするとしばらくはここに通わねばなりません。高槻市史などの史料編などに載っていないかな?今度調べてみよう等々と思っていると何と林羅山の撰文とあります。「こら、羅山!どこにでも顔を出すな。お前は家康のご機嫌を取っていればそれでいいのだ。」と叱りつけたい気分です。

          

 この近辺には、能因に縁のある遺跡が幾つか見られます。文塚は建て売り住宅の裏手になり、下の不老水は滾々と湧いてはいるのですが、飲んだらあかんとのことです。名前は本当に魅力的で、是非一口といきたいところです。花乃井という井戸は既に涸れてしまっています。

          

 折もおり建て売り住宅の現地説明会なども近くで開かれていますから、この辺りの遺跡もいずれは京都の蛇塚古墳や枚方の渚院跡のような哀れな様子になっていくようです。金はかかりますが、「面」での保存を考えていかねばならぬと思います。
この近くの安満遺跡は京大の農場の移転に伴って一大史跡公園として整備される可能性がありますが、能因塚もよろしくというところ。
 この辺りの西国街道は、国道171号の抜け道となっていて、歩いていて本当に自動車がよく通過します。自動車どうしの離合もなかなか困難なのですが、一方通行にしようとかいうような話はないようです。それでも古曽部集落といい、安満集落といい、梶原集落といい、まだまだ昔の雰囲気をよく残しています。この地にある磐手杜神社には宮座などもまだあって昔のしきたりのままに神事が行われているということです。

          

 山に登れば、安満宮山古墳も近いのですが、そろそろ上牧の駅に向かい。171号を渡ったところにある「焼きそば専門店」で高いビールを飲むことに致しましょう。

(09年2月記)
 
 


2 コメント

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近くて遠き (道草)
2009-02-19 07:34:52
百人一首やその他の能因法師の歌はよく目(耳)にしますが、高槻周辺は電車で通り過ぎるだけで、かなり近いにも拘わらずかなり遠い土地に感じております。ただ、西国街道とか上牧などの懐かしい言葉を見つけて寄って見ました。
学生時代は国鉄摂津富田の駅前(西国街道脇)にある松下電器(現パナソ)へ、アルバイトで不定期ながらかなりの期間を山陰線の八木から通っていました。その時の他校のバイト生で、今でも年賀状のやり取りをしている者が一人おります。それより、山手の方に氷室という土地があって、そこから氷室という名の女子大生もバイトで来ていました。名前の如く色の白いもの静かな美人でしたが、今ではかなりの老婆でしょうねぇ。
阪急上牧(川の方向)には元同僚が住んで居て、時々同期生らと泊まりに行きました。駅前(裏?)に園芸店があって、何度か苗木を買いに行ったこともあります。それより、あの近くへ新居を探しに行ったことがあります。山手の方へ不動産屋に中古住宅を案内してもらいましたが、家内が大反対で止めました。徘徊堂さんの記事にある建売住宅地かどうかは不明です。
記事とは全く無関係のコメントになりました。どうかお読み捨て下さい。
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道草様 (gunkanatago)
2009-02-19 13:27:29
コメントをありがとうございます。八木から富田まで通っておられたのは驚きでした。富田周辺はかつては美しい田園地帯だったのですが、今は完全に市街地になりました。氷室の氷室さん、昔でいう国人ですね。今城塚古墳の辺りだと思いますが、やはり宅地化されて様変わりです。今度、あの辺りをぶらぶらしたときに氷室さんの家を探してみます。氷室から少し山の方へ行ったところでは、今城塚古墳や継体天皇陵の埴輪を作った工場がマンション建設に伴う工事で発見されました。能因塚はJR高槻駅からはすぐです。家が建ち尽くす前に是非お越し下さい。
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