「親不孝おおつごもりもウロウロと」(羅休)、何年か前の使い回しの句ではありますが、新年の準備も大掃除も一切せず(きっぱり)に大晦日も徘徊で〆であります。
それでも年が変わるということには多少の感慨もあるのか、本日は自分が久しく「宿題」として意識していたところを片づけてしまいます。オット!「片づける」等と言ってはお参りした神々に対しても不敬でありますから、ここは「果たさせてもらう」と表現すべきですね。
先ずは尼崎の戸の内を徘徊した時に、行基を背に乗せて川を渡した功により、この地域では鯉を食さぬ旨を記した時にmfujino様よりご教示頂いた類似の風習を伝える亀岡市の並河周辺。駅のすぐ近くは鉄道公園になっていて、いきなりひかり号が現れたのにはたまげました。この公園の前が小学校になっていて、その裏に目指す大井神社があります。
ジーゼル機関車もあるでー。
実は、本日は2回目の探訪で、何日か前にもちょっとこの辺りに寄って大井神社に行こうとしたのですが、例によって地図を持っていなかったので、反対方向にある天皇神社を参拝して満足して帰っていたのでした(結構ヒマ人)。
天皇神社
天皇神社はスサノオと宇多天皇を祀りますが、如何なる謂われぞと調べると、この付近には宇多源氏の末裔である三宅氏が住んでいたとのこと。近江佐々木氏の同族ですね。
従って大晦日の徘徊は大井神社から始まりました。大井神社の御祭神は月読命と市杵島姫命と木股命(御井神〉、伊弉諾尊が妻を訪ねた黄泉の国から逃げ帰り(妻はおっとろしいゾンビになっていた)、「穢れたものを見た」ということで清流で禊ぎをされた時に、左目を洗った時に生まれたのが天照大神、右目を洗った時に生まれたのが月読命、鼻を洗った時に生まれたのが素戔嗚尊という神話が古事記に見えます。
本来太陽神である天照大神は、太陽神を祀る巫女の姿と習合し、自然神から人格神へと変貌しました。素戔嗚尊は言わずと知れたスサノオで中世以来人気ナンバー1の人格神、それに対して夜之食国(よるのおすくに〉を治めるとされた月読命は勿論「月」が神格化された神でありますが、泣きもすれば笑いもし、異性にも惚れるような人格化は殆ど為されていないような気がします。それだけにこの神様を祀っているところは、アマテラスやスサノオを祀る神社の多さに比べると断然少ない。
この地域にはここより少し北に行ったところにその名も月読神社というのがあり、保津川に架かる橋にも月読橋という名が付けられているところを見るとかなり濃厚に月神信仰が広がっていたようです。
月読橋
大井神社(南から)
「鯉」を食わぬ伝承は、その月読命に関わるものではなく、松尾大社の御祭神でもある市杵島姫命(宗像三神の一、安芸の厳島神社の御祭神でもある)と木股命(オオクニヌシの子とされる)とが桂川を遡って亀岡盆地に来られた時に最初は亀に乗っておられたのが、流れが急なので鯉に乗りかえて遡上されたという話に基づいています。その為にこの地域では鯉を食うことは勿論、捕まえることや鯉のぼりまでがタブーとなっているとのこと。このことを直に土地の人(天坊先生風に言うならば土人)に聞こうと思いましたが、大晦日のこの日に暇人に付き合ってくれる人は見あたりませんでした。
大井神社正面
尼崎の方も戸の内の伝承こそ「行基」ですが、猪名川を少し遡り豊中の椋橋神社になると鯉に乗って遡上してきたのは素戔嗚尊となっています。この「鯉に乗って川を遡上する神」は今後の徘徊のテーマになっていくような予感がします。
本殿(天正14年1586、豊臣秀吉が再建)
本殿の裏手には多くの摂社がありますが、それに並んで阿弥陀如来の石刻像が建てられていたのは印象的です。
桜の木を囲う石柱には嘉永(1848~53)の文字が、ペリーが来よったころですね。これが最初から石囲いとして作られていた物かどうかも不明です。
神社の南東は広く開けています。ここは流鏑馬などを行う馬場になっているようです。
参拝の後にちょっと周辺をウロウロとしました。公民館はその名も「会議所」というのですね。
大井会議所
国道9号線を越えたところに夜苗神社。御祭神は猿田彦命ですから、岐の神です。山陰道の道祖神でもあったのではと思われます。神社の名の由来は田植えすべき早苗をうっちゃっておいたら一夜のうちにその苗が竹林となっていたという話に拠ります。まあ怠慢を戒めているのですね。今は神社の廃絶を防ぐ意味もあるのでしょう。お稲荷さんのお社も横に造られています。鳥居には文政11(1828)年11月願主山下八右衛門とありました。
夜苗神社
さて、河岸を変えて(と言っても保津川右岸であることは同じですが)、同じ亀岡市ながら今度は余部(あまるべ)町に。先ずは天満宮にお参りです。ここの牛さん、鉄の鼻輪が通してあるのが珍しい感じです。
余部天満宮
公民館には『丹波誌』の著者である北村龍象(1844~1926)講学の跡を示す石柱が立っています。
目的地は丸岡山城跡、1年ほど前に宇津頼重を記事にした時に新庄城にいた頼重がこの丸岡山城落城の煙を見て、本拠地の宇津城に引き上げた際、細野の武士に襲われて大けがをしたということを記しました。その時に初めて丸岡山城の存在を知り、近いうちに行かねばと思いつつ、1年が経ってしまいました。
戦国末期には篠山の波多野氏の枝城であったのですが、明智光秀による丹波平定戦で落城しました。寺に入れてもらい東を見ると牛松山が正面に見えるとともに、ここが高台になっていることがよく分かります。
寺の裏手には親切な説明書きがありました。珍しく読める写真が撮れたので掲げておきます。
[追記]余部の語源について師匠よりメールを戴きました。如何に引用させて頂きます。ありがとうございました。
ついでに余部は律令制下では一里が50戸までを原則とする中で 9戸まで超過OKだったが10戸以上になると余部里とされた。附録村やな。したがっていちばん古ければ令制でスタートした村ということになるが そればかりとは限らない。後代に同じような趣旨で立村されたものもあろう。以上ちょいとおしらせ。
さて、次は同じく亀岡市の京町へ。源頼政であります。頼政が厚く信仰し、有名なヌエ退治の折にその方法を夢告したお地蔵さんが祀られているのが「矢の根地蔵尊」、古世地蔵堂というそうです。手には錫杖ならぬ矢を握っておられるそうですが、像そのものは外からは見えませんでした。お堂の前には妙見山や京ふしみを示す道標が移されていました。
この付近にはよく知られた頼政塚もあり、さすがに摂津源氏の本拠地たる兵庫県の川西市の多田との近さを感じさせられます。この地蔵堂が面しているのは山陰街道、何となくそういう感じです。
少しこの近辺をウロウロとします。聖隣寺には「織田信長の墓」と、「何ー!」と思って説明を読むと豊臣秀吉の養子となっていた秀勝が建立した供養墓のようです。1589年までは光秀以後の亀山(現亀岡)は秀勝が領地とし、秀勝の死後は小早川秀秋が領したとのこと。秀勝も秀秋も秀吉の養子ですから、如何に秀吉がこの地を重視していたかが分かります。
聖隣寺
寺の隣の毘沙門堂の常夜燈には弘化2年(1845)の文字が読み取れます。
近辺の神社にもお参りをします。先ずは八坂神社。
続いて三宅神社。こちらの方は大和朝廷の屯倉がこの付近にあったことに由来しているようです。ただ天皇神社の三宅氏との関係は如何にと考えてしまいます。
ここの徘徊は年谷川まで、次の地に向かいます。この周辺は亀岡祭の鉾町でありますので、鉾を格納する倉庫もちらほらと見受けられます。
年谷川
さてさて、辰年徘徊の掉尾は貞任伝説、桑田神社であります。先ずは馬堀駅前の桑田神社から。目的とする桑田神社は古くは対岸の請田神社と同名であったようで、式内社としての位置はこの駅前のお宮さんの方が有力であるようです。
駅前の桑田神社
神社に向かう直前に渡る鵜の川ははるばると小塩山から流れてきているとのこと。今ひとつ感じが掴めませんでしたが、帰宅後に地図を見ると確かにそうなっています。
鵜の川
桑田神社も既に迎春の準備を終えていましたが、質問できるような人は誰もいませんでした。
このお社は鯉ならぬ鯰が神の使いのようです。手水舎の水の出口も鯰でした。
拝殿と本殿
御祭神はやはり松尾さんで市杵島姫命と大山咋神、さらに大山祇神ということです。やはり大井神社といい、このお社といい、洛西に蟠踞した秦氏が保津川を遡って亀岡盆地の開発に挑んだことを示しているようです。
神社内を見渡す限り「貞任伝説」の「さ」の字もありません。摂社の九頭竜社(これは荒れ狂う川を象徴したものでしょう)が足の病に御利益があるということで、貞任と結びつけたか、または誤伝であるようです。そういえば、安倍貞任の遺体を埋めた地の一つである宇津の切畑にも足の病を治す「足擦りさん」の伝承がありました(今は廃絶)。
九頭竜社
神社の展望台より
ここまで来たら、どうしても保津川の水が保津峡に入っていくところを確認しなくてはなりません。鵜の川の堤防に沿って合流点まで進むと辰年最後の日の光を受けて桑田神社が輝いて見えます。
合流点から南を見ると保津川が地峡部に吸いこまれていきます。今は保津川下りの舟も行きかう川ですが(本当は下りだけで上りはありませんが)、角倉了意が開削する以前は幾つもの滝が船の進行を阻む峡谷地帯でした。
保津峡に向かう
対岸には請田神社が見えています。ロープでも張ってあればすぐに行けそうですが、遥か上流に向かって橋を渡ってとなると本日はもう明るい間には行けない感じです。
上流を見れば肥沃なる亀岡盆地が保津川の流れの両側に広がっています。
西の山々に辰年最後の日が沈みます(トップの写真)。さてさて、本日の徘徊もここらで打ち止めのようです。鵜の川を再び遡って行けば河川の改修記念碑。
鯉に始まり鯰で終わる徘徊。亀岡は徘徊の徒には素晴らしく魅力的な地であります。
それでも年が変わるということには多少の感慨もあるのか、本日は自分が久しく「宿題」として意識していたところを片づけてしまいます。オット!「片づける」等と言ってはお参りした神々に対しても不敬でありますから、ここは「果たさせてもらう」と表現すべきですね。
先ずは尼崎の戸の内を徘徊した時に、行基を背に乗せて川を渡した功により、この地域では鯉を食さぬ旨を記した時にmfujino様よりご教示頂いた類似の風習を伝える亀岡市の並河周辺。駅のすぐ近くは鉄道公園になっていて、いきなりひかり号が現れたのにはたまげました。この公園の前が小学校になっていて、その裏に目指す大井神社があります。
ジーゼル機関車もあるでー。
実は、本日は2回目の探訪で、何日か前にもちょっとこの辺りに寄って大井神社に行こうとしたのですが、例によって地図を持っていなかったので、反対方向にある天皇神社を参拝して満足して帰っていたのでした(結構ヒマ人)。
天皇神社
天皇神社はスサノオと宇多天皇を祀りますが、如何なる謂われぞと調べると、この付近には宇多源氏の末裔である三宅氏が住んでいたとのこと。近江佐々木氏の同族ですね。
従って大晦日の徘徊は大井神社から始まりました。大井神社の御祭神は月読命と市杵島姫命と木股命(御井神〉、伊弉諾尊が妻を訪ねた黄泉の国から逃げ帰り(妻はおっとろしいゾンビになっていた)、「穢れたものを見た」ということで清流で禊ぎをされた時に、左目を洗った時に生まれたのが天照大神、右目を洗った時に生まれたのが月読命、鼻を洗った時に生まれたのが素戔嗚尊という神話が古事記に見えます。
本来太陽神である天照大神は、太陽神を祀る巫女の姿と習合し、自然神から人格神へと変貌しました。素戔嗚尊は言わずと知れたスサノオで中世以来人気ナンバー1の人格神、それに対して夜之食国(よるのおすくに〉を治めるとされた月読命は勿論「月」が神格化された神でありますが、泣きもすれば笑いもし、異性にも惚れるような人格化は殆ど為されていないような気がします。それだけにこの神様を祀っているところは、アマテラスやスサノオを祀る神社の多さに比べると断然少ない。
この地域にはここより少し北に行ったところにその名も月読神社というのがあり、保津川に架かる橋にも月読橋という名が付けられているところを見るとかなり濃厚に月神信仰が広がっていたようです。
月読橋
大井神社(南から)
「鯉」を食わぬ伝承は、その月読命に関わるものではなく、松尾大社の御祭神でもある市杵島姫命(宗像三神の一、安芸の厳島神社の御祭神でもある)と木股命(オオクニヌシの子とされる)とが桂川を遡って亀岡盆地に来られた時に最初は亀に乗っておられたのが、流れが急なので鯉に乗りかえて遡上されたという話に基づいています。その為にこの地域では鯉を食うことは勿論、捕まえることや鯉のぼりまでがタブーとなっているとのこと。このことを直に土地の人(天坊先生風に言うならば土人)に聞こうと思いましたが、大晦日のこの日に暇人に付き合ってくれる人は見あたりませんでした。
大井神社正面
尼崎の方も戸の内の伝承こそ「行基」ですが、猪名川を少し遡り豊中の椋橋神社になると鯉に乗って遡上してきたのは素戔嗚尊となっています。この「鯉に乗って川を遡上する神」は今後の徘徊のテーマになっていくような予感がします。
本殿(天正14年1586、豊臣秀吉が再建)
本殿の裏手には多くの摂社がありますが、それに並んで阿弥陀如来の石刻像が建てられていたのは印象的です。
桜の木を囲う石柱には嘉永(1848~53)の文字が、ペリーが来よったころですね。これが最初から石囲いとして作られていた物かどうかも不明です。
神社の南東は広く開けています。ここは流鏑馬などを行う馬場になっているようです。
参拝の後にちょっと周辺をウロウロとしました。公民館はその名も「会議所」というのですね。
大井会議所
国道9号線を越えたところに夜苗神社。御祭神は猿田彦命ですから、岐の神です。山陰道の道祖神でもあったのではと思われます。神社の名の由来は田植えすべき早苗をうっちゃっておいたら一夜のうちにその苗が竹林となっていたという話に拠ります。まあ怠慢を戒めているのですね。今は神社の廃絶を防ぐ意味もあるのでしょう。お稲荷さんのお社も横に造られています。鳥居には文政11(1828)年11月願主山下八右衛門とありました。
夜苗神社
さて、河岸を変えて(と言っても保津川右岸であることは同じですが)、同じ亀岡市ながら今度は余部(あまるべ)町に。先ずは天満宮にお参りです。ここの牛さん、鉄の鼻輪が通してあるのが珍しい感じです。
余部天満宮
公民館には『丹波誌』の著者である北村龍象(1844~1926)講学の跡を示す石柱が立っています。
目的地は丸岡山城跡、1年ほど前に宇津頼重を記事にした時に新庄城にいた頼重がこの丸岡山城落城の煙を見て、本拠地の宇津城に引き上げた際、細野の武士に襲われて大けがをしたということを記しました。その時に初めて丸岡山城の存在を知り、近いうちに行かねばと思いつつ、1年が経ってしまいました。
戦国末期には篠山の波多野氏の枝城であったのですが、明智光秀による丹波平定戦で落城しました。寺に入れてもらい東を見ると牛松山が正面に見えるとともに、ここが高台になっていることがよく分かります。
寺の裏手には親切な説明書きがありました。珍しく読める写真が撮れたので掲げておきます。
[追記]余部の語源について師匠よりメールを戴きました。如何に引用させて頂きます。ありがとうございました。
ついでに余部は律令制下では一里が50戸までを原則とする中で 9戸まで超過OKだったが10戸以上になると余部里とされた。附録村やな。したがっていちばん古ければ令制でスタートした村ということになるが そればかりとは限らない。後代に同じような趣旨で立村されたものもあろう。以上ちょいとおしらせ。
さて、次は同じく亀岡市の京町へ。源頼政であります。頼政が厚く信仰し、有名なヌエ退治の折にその方法を夢告したお地蔵さんが祀られているのが「矢の根地蔵尊」、古世地蔵堂というそうです。手には錫杖ならぬ矢を握っておられるそうですが、像そのものは外からは見えませんでした。お堂の前には妙見山や京ふしみを示す道標が移されていました。
この付近にはよく知られた頼政塚もあり、さすがに摂津源氏の本拠地たる兵庫県の川西市の多田との近さを感じさせられます。この地蔵堂が面しているのは山陰街道、何となくそういう感じです。
少しこの近辺をウロウロとします。聖隣寺には「織田信長の墓」と、「何ー!」と思って説明を読むと豊臣秀吉の養子となっていた秀勝が建立した供養墓のようです。1589年までは光秀以後の亀山(現亀岡)は秀勝が領地とし、秀勝の死後は小早川秀秋が領したとのこと。秀勝も秀秋も秀吉の養子ですから、如何に秀吉がこの地を重視していたかが分かります。
聖隣寺
寺の隣の毘沙門堂の常夜燈には弘化2年(1845)の文字が読み取れます。
近辺の神社にもお参りをします。先ずは八坂神社。
続いて三宅神社。こちらの方は大和朝廷の屯倉がこの付近にあったことに由来しているようです。ただ天皇神社の三宅氏との関係は如何にと考えてしまいます。
ここの徘徊は年谷川まで、次の地に向かいます。この周辺は亀岡祭の鉾町でありますので、鉾を格納する倉庫もちらほらと見受けられます。
年谷川
さてさて、辰年徘徊の掉尾は貞任伝説、桑田神社であります。先ずは馬堀駅前の桑田神社から。目的とする桑田神社は古くは対岸の請田神社と同名であったようで、式内社としての位置はこの駅前のお宮さんの方が有力であるようです。
駅前の桑田神社
神社に向かう直前に渡る鵜の川ははるばると小塩山から流れてきているとのこと。今ひとつ感じが掴めませんでしたが、帰宅後に地図を見ると確かにそうなっています。
鵜の川
桑田神社も既に迎春の準備を終えていましたが、質問できるような人は誰もいませんでした。
このお社は鯉ならぬ鯰が神の使いのようです。手水舎の水の出口も鯰でした。
拝殿と本殿
御祭神はやはり松尾さんで市杵島姫命と大山咋神、さらに大山祇神ということです。やはり大井神社といい、このお社といい、洛西に蟠踞した秦氏が保津川を遡って亀岡盆地の開発に挑んだことを示しているようです。
神社内を見渡す限り「貞任伝説」の「さ」の字もありません。摂社の九頭竜社(これは荒れ狂う川を象徴したものでしょう)が足の病に御利益があるということで、貞任と結びつけたか、または誤伝であるようです。そういえば、安倍貞任の遺体を埋めた地の一つである宇津の切畑にも足の病を治す「足擦りさん」の伝承がありました(今は廃絶)。
九頭竜社
神社の展望台より
ここまで来たら、どうしても保津川の水が保津峡に入っていくところを確認しなくてはなりません。鵜の川の堤防に沿って合流点まで進むと辰年最後の日の光を受けて桑田神社が輝いて見えます。
合流点から南を見ると保津川が地峡部に吸いこまれていきます。今は保津川下りの舟も行きかう川ですが(本当は下りだけで上りはありませんが)、角倉了意が開削する以前は幾つもの滝が船の進行を阻む峡谷地帯でした。
保津峡に向かう
対岸には請田神社が見えています。ロープでも張ってあればすぐに行けそうですが、遥か上流に向かって橋を渡ってとなると本日はもう明るい間には行けない感じです。
上流を見れば肥沃なる亀岡盆地が保津川の流れの両側に広がっています。
西の山々に辰年最後の日が沈みます(トップの写真)。さてさて、本日の徘徊もここらで打ち止めのようです。鵜の川を再び遡って行けば河川の改修記念碑。
鯉に始まり鯰で終わる徘徊。亀岡は徘徊の徒には素晴らしく魅力的な地であります。
また、亀岡市の4駅の周辺の開発も著しいものがあります。しかし、八木駅だけは昔のままの駅舎で駅前も寂れる一方です。理由は知りませんが、地形的な立地と行政の手腕かも知れません。それにしましても、あの!並河駅前にひかり号とは・・・。
話は横道へ外れました。大晦日の充実した徘徊録を読ませて戴き、感服しております。我が家は来訪者でひっくり返っておりました・・・。
月読橋は千代川駅の裏側ではなかったのですか?昔、この橋(まだ木橋でした)を渡って家庭教師に行っていた記憶があるのですが。この橋の名称は京都駅の近くにもあると記憶していますが、かなり方々にあるのかも知れません。
いずれにしましても、大井神社や桑田神社は近くて遠き存在でした。この周辺も含め歴史にはまるで門外漢でしたので、お恥ずかしい次第です。
余部は、丹後の日本一高い鉄橋と同名ですが、やはり歴史的に関係があるのでしょうか。
鵜の川とやらの源流が山国の小塩(他にも支流は幾つもありますので)とされているのも、何か歴史的な繋がりが在るのかも知れません。
桑田神社の貞任伝説は、やはり闇の中ですか。弓槻の切畑の「足擦りさん」はいつの頃に廃れたのか、私も聞いた記憶はありませんでした。(それとも忘れたのか・・・)。
亀岡盆地の霧の多発は、大堰川が保津川に変わる入り口が狭く、水温も異なるのが最大の理由との由です。この辺りを縄張りとするSさんならよくご承知と思います。
年末最後の徘徊は、鯉と鯰を肴に「大堰川」で締め括られなかったのでしょうか・・・。
この辺りは昔は南桑田郡だったり、蹴裂伝説、国造りの神、大国主命、出雲大神宮、馬路村など元北桑田郡の住民としては何故か親近感が湧いてきます。
古代の歴史から始まり、頼政、尊氏、光秀といろんな遺蹟があり徘徊には楽しいフィールドの一つですよね。願わくば大堰の川を対岸まで泳いで頂いて、請田神社もリポートして欲しかったっすね(^_・)
おっしゃっておられるように月読橋は並河よりは少し上流の千代川の近くです。これは明快に近所にある月読社から来ていると思われます。このお社は未だ行ったことがないので、近々徘徊しようと思っています。
それにしても、何やかやとおもしろいことはあるもので、今回、並河の鯉の禁忌をmfujino様にご教示頂かなかったら、多分行くことのない土地だったと思いますが、どこも侮れないなあと思います。
この月読橋を渡った左岸には、遠山の金さんの末裔がおられる村もあるそうです。この辺りを本当にウロウロし始めたら池田にたこ焼きを食いに行くヒマがなくなるなあと思っています。
鯉も鯰も小生は食しませんから、まことこの付近の神々とはうまくやっていけると思います。
余部(あまるべ・よべ)は各地にあるようです。詳しくは知りませんが本来は普通名詞だったのではと思います。
未だ、何の書物にも当たっていませんから、いいかげんなことになりますが、やはり貞任伝説は宇津盆地に濃厚で、亀岡盆地で明快に伝説があるのは舩井神社だけなのではないかな等と思っています。本当の深志野にも未だ行けてないのですが、各地の足に御利益のある神社等の伝承と貞任伝説が結びつけられたような気がします。
請田神社は、間近に見えているだけに残念でした。鯉が集まってきて渡してくれないかな等と思いましたが、神々は勿論、行基菩薩にも遥かに及ばぬ身ですから、それは無理というものでした(笑)。
鵜の川、やはりそう思われるでしょう。小生も最初に表示を見た時に「えー?ウソやん。」と思いました。
ええ!「鯉明神」「お鯉さん」にお参りされたのですか。地元大井の方は「お」をつけて呼ばれるそうです。昔京都から嫁いできた友だちが息子の鯉のぼりも上げられないと悔やんでいました。もちろん食しませんし、わりにしっかり伝統が守られているようです。実は私も初詣に行って来ました(笑
あの辺りは東が開けていてのんびり田舎の風情がありますね。余部の丸岡城は私らは古城と云っています。(岡山城)とも云われているそうです。
いや~、ちょっと責任を感じるな~。歴史が微塵も判らない私が前にね、
>安倍貞任は頼時の次男で、厨川(くりやかわ)次郎と称しました。容貌魁偉な巨漢でしたが、歌にも通じていた。衣川の合戦で貞任が敗走した時、源義家が矢を射ようとしたが、黙って背後から討つのは卑怯なので、「衣の盾は綻びにけり」と歌で呼びかけた。すると貞任が「年を経し糸の乱れの苦しさに」と咄嗟に上の句を返したので、義家は歌をたしなむ貞任の床しさに感じ入って、弓を射なかったという話が「古今著聞集」に記されています。
別の伝承もあります。後三年の役平定後、貞任の死体はバラバラにされ、首は貞任峠、胴は刑部の来栖宮(おさべのくるすのみや=現南丹市八木町刑部の久留守神社)、両腕は新庄村(現南丹市八木町)の腕森、右足は山本の沓神(現亀岡市篠町の桑田神社)、左足は須知の深志野に埋められたというのです。>
なんて無責任なコピーを送ったからではないでしょうか。
「さ」の字も書いてないこと私も知っていますし・・・
年末年始で働きすぎまして?おしんさんのようなあかぎれ手で親指の先が切れ痛くてキイが叩けないという情けなさでご挨拶が遅くなりました。今年もよろしくお願いします。
ささ舟様ネタではまだ行かねばならぬところがいくつかあります。車ではよく通るのですが、一回じっくりと精査せねばと思っています。いろいろな情報は大歓迎ですので。また、教えて下さいね。
迎春準備で忙しくされたのですね。昔、友人が小生の手を見て、「働いてる人間の手ではないなぁ。」と言ったことを思い出し、慚愧に堪えぬところです。それでも、たこ焼きなどは自分で焼きますし、よく働いていると思うのですが(笑)。
あけましておめでとうございます。時折ですがとても楽しく拝見させていただいております。
しかし、gunkanatagoさんのお話は私の生活圏と密接に関連しており非常に興味深いんですよ。私は子供のころは大井神社や行者山に遊び、小川月神社の前の高校へ行き、初詣は本家のある舩井神社と京都帝釈天、実家のある出雲神社と麓の愛宕さんへ行く、みたいな感じですし。そしてごく近所の都加母止塚へ行かれていたときは本当にびっくりしました。まあgunkanatagoさんがくまなく回られてるからなのでしょうけども。
亀岡は秦氏の開拓した土地で、秦氏が桑畑を経営したので桑田の地名になったのは有名ですが、月神社も含め秦一族にまつわる故事が色濃く残っているんだそうです。
以前友人から聞いたのですが穴太の小幡神社のそばにひっそりと神明社という鰹木のついた社殿がありまして、実はこれはトヨウケ神を真名井神社から伊勢へ移す際に小幡川の河原の桑の大木のそばに一時的に祀ったのが縁起で、その桑の穴から稲が生えたから穴穂→穴太になったんだそうです。
つまり穴太の地名は秦氏と豊受神のコラボだいうことだそうです。まあその桑を植えたのは秦一族かどうかは不明ですが、亀岡のいわく有りげな一端を見るようで興味深いですね。
今回のコメントを拝見し、感動しました。この辺りのご出身だったのですね。舩井神社の宮司様は偶然に知り合ったようでありながら、実は宮司様の京都時代と今の小生の間にも深い縁がありました。小川月神社、次々会に(正月で記事が溜まりましたので)アップしようと思っていたところにタイムリーにコメントをいただきびっくりしました。
穴太の小幡神社についてもありがとうございます。ここでは、丁塚山にばかり目がいって、豊受大神の事については全く気付きませんでした。また、訪れて拝見したいと思います。思えば、小生が大学で神話学を受講した時、一番最初に取り上げられたのは丹後の風土記逸文の真名井神社の由来でした。コメントを読ませて頂き、懐かしく思い出しました。
この南丹・亀岡の地の伝承や文化の豊かさに気付いたのがつい最近だと言うことは悔やまれます。また、何か興味深いことがありましたらご教示ください。
小学校からの同級生に人見君が居まして小川月神社について聞いてみたのですが残念ながら直接の関係は無いそうです。千代川に数百年続く旧家ですが、北条時頼に月神社管理人(笑)を任された人見さんはどうやら馬路にあるようです。以前は大堰川は小川月神社より東側に流れていたそうなので馬路の人見さんと千代川の人見さんは同じ集落であった可能性は大いにありますが。
小幡神社といえば丸山応挙で有名ですが、祭られている開化天皇の御子の子、小俣王から名づけられたといわれています。亀岡にのみ偏在している姓である「俣野(またの)」姓がこの地域に多いことでも小俣王が何かしら大きな役割を果たしていたことが感じられます。
でも前コメントの友人は小幡は秦氏が由来で名づけられたと主張しています。大秦(太秦?)に対する小幡であると言うのです。すこしこじつけの感がありますが穴穂が穴生にならず穴太になったのも然りというわけです。
小川月神社、かつては右岸にあったのですね。そうならば現在の月読神社も単なる分祀とは言い難いかも知れませんね。それにしてもかつての保津川の氾濫源の広さが分かりますし、神社ということからは熊野大社本宮のかつての有り様につながるように思われます。
俣野姓、珍しいですね。亀岡のみに遍在していると書いて頂いていますが、全く知りませんでした。ありがとうございます。確かに幡=八幡神=秦氏という図式もあるようですが、小幡神社は秦氏の亀岡開発以前の古い信仰を残しているのではなどとも思っています。
本当にいろいろとご教示ありがとうございます。また、宜しくお願いします。