本日の徘徊は、先ずは八坂神社から。1868年の神仏分離令までは祇園感神院と呼ばれたお社です。感神院は天台宗の寺であったとか、さもありなん、河東と呼ばれた鴨川以東の土地は久しく比叡山の縄張りでありました。古代末から中世にかけては一種のアジールであったとする人もいます。
ところで、このお社の参道とも言える四条通、いつからお店の人が店の前に立って呼び込みをするようになったのでしょう。どこか一軒がやり出せば、自分のところも心配でやらねば仕方がないというところでしょうが、京都だけはデーンと構えててもらいたいなあという気持ちもあります。
ほぼ100%、お参りの人は無視をしていきますが、祇園祭の趣旨などを考えると、このお社こそが神社の中心と考えられる「疫神社」、蘇民将来が祭神となっていますが、本来は疫神を祀るお社であったと思われます。「いかに茅の輪をくぐろうとこのお社に参らねば全てのお参りパーとなる」等と俗謡・俚謡を流行らせたい処。
疫神社
円山公園を抜けていきます。有名なしだれ桜の前では薄汚い声で「労働歌」等を歌っている連中。アカ共、人の迷惑だぞ。公園の青もみぢは美しいのに。
坂本龍馬像、最近は食傷気味なのでパス。さらに突き当たりまで進んだところが「吉水」です。そう、比叡山で修行し、智恵第一の法然坊といわれた法然上人が比叡山を下り専修念仏を広めた最初の地です。以下、法然に関することは師匠に教わったことをベースに記します。近時朝廷より「法爾大師」号を賜りたることは3月にニュースになっていました。円山公園は結構な人出でしたが、ここまで来ると誰もいません。
先ずは吉水弁財天
はやくもシャガの群落
弁財天を山に沿って北に赴くと「吉水草庵」安養寺です。後に比叡山を下りた親鸞聖人はこの地の法然上人を訪ね、念仏の徒となりました。遠くは真葛ヶ原といわれた地です。
山を下りてこの吉水の地に庵を結んだことを法然上人が比叡山と訣別して云々と説くのは地理を知らざるの論であります。このすぐ近くに青蓮院門跡があることからも分かるように、ここは当時の認識では比叡山の一部です。法然上人は西塔や横川に比べて多少は便利かなというようなことで、ここに草庵を営まれたわけであるし、その説くところの浄土門は叡山教学の重要な教えの一つです。親鸞聖人にしてもアンチ叡山としての活動をしている法然上人門下になったわけではない。あくまで比叡山という広い領域の中での布教活動であったのです。まあ総合大学比叡山の中に法然の研究室があって、ここの連中がちょっと派手に活動しているといった感じでしょうか。法然自身は自らをずっと比叡山の学生(がくしょう)と位置づけていたことでしょう。
大輪の椿、手が入っていないのがよい。
都をどり功労者の墓もあり
親鸞聖人曰く「たとひ法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」と。本年は法然遠忌800年、ここは一つ「たとひ法然上人にすかされまいらせて、徘徊して悪路に迷い込めども、さらに後悔すべからず候」と参りましょう。このまま法然ロードを行きます。地獄に堕ちるのはちょっとイヤ。
すぐに知恩院の鐘楼に出ます。知恩院は法然の霊廟の地、徳川氏が浄土宗の檀家ということで、将軍の威信にかけて大伽藍を建立しましたから今日の知恩院は広大です。ただ、ここでは法然は聖人の如く偶像化されていて、当人の意志に反し法然自身が礼拝の対象になっていますから、法然その人を偲ぶには不向きやなあーと。
もみぢ葉に何か花が咲いています。知恩院の中は遠忌800年で賑わっています。本堂の横を抜けていくと新玄関。吉利支丹の牧師のような格好をした坊さんが挨拶をしてくれます。
新玄関
西門付近
知恩院から出て、有名な「戦友碑」、小生は勇ましい軍歌を好みますので、この歌はどちらかというと嫌いですが、この碑が残ったのはめでたいことです。
知恩院の北隣は青蓮院、そのまま北に行き粟田口に出ます。詳しくは書きませんが、小生にとってはちょっと苦々しい道でもあります。この辺にも処刑場があったはずなのですが、どこでしょう。三条通を東に行き、岡崎通で左折して瓢亭に無鄰庵。
そう古くはない
瓢亭
流石に南禅寺の縄張りに入ってくると人が多くいます。山門の前を通って永観堂、さらに哲学の道へと進みます。あんなせせこましいところに登って「絶景かな」とは五右衛門もケチ臭い奴だ。せめて大文字の火床に登りなさい。
南禅寺山門
哲学の道の南の果てに若王子神社、桜も散り、本日の哲学の道はなかなかに閑寂、雨のせいもあるでしょう。新撰組土方歳三が当たり役であった俳優さんが経営していた喫茶店はずっと閉まっているみたいです。この方は、以前有鄰館でお見かけしましたが、本当に人当たりの良いソフトな方で、「燃えよ剣」に狂っていた小生は「やっぱり役者は役者なんや、きちんと演技をしてるんや」と悟ったことでありました。
若王子神社
京都学派の精神的主柱、西田幾多郎先生の散歩道が哲学の道、ちょっと思索しながら歩こうか。頭に浮かんでくるのは「たこ焼きぃ、うどーん、串カツ…」、どうもあきまへん。ちなみに西田幾多郎哲学論集をパッと開いて「場所」の一節、「現今の認識論において、対象、内容、作用の三つのものが区別せられ、それらの関係が論ぜられるのであるが、かかる区別の根抵には、唯時間的に移り行く認識作用とこれを超越する対象の対立のみ考えられていると思う」。ははは、さっぱり解りません(苦笑)。
この哲学の道から少し外れただけなのに、誰もいないのが大豊神社。神気清浄たる良いお社です。狛犬ならぬ狛ねずみ、誰が花を置いたのか、なかなかにかいらしい。奥には狛ザルも狛トビもいました。
鹿ヶ谷までやってきました。下の細道を上がっていくと俊寛の山荘跡すなわち平氏打倒の謀議が行われたところ、さらにそこからは大文字の火床に登ることもできます。火床の砂利が全部流されて来ると見えて道は結構エゲツナイです。すぐ近くにノートルダム女学院、ダム、ダム女、ノートル、どの呼び名もシスターが嫌うので敢えて使っていたものです。このダム女の食堂で50~60センチの髪の毛入りのうどんを食べたのは何年前でしょうか。食堂のオバチャンの髪はみんな短かったので、これはきっとうら若き乙女の髪だということで許しましたが、長髪のオッサンの毛だったらゲーですね。
少し進むと鈴虫・松虫伝説の住蓮山安楽寺です。法然の弟子で1206年に処刑された住蓮と安楽の草庵のあったところ、やはり法然ロードの一つです。このとばっちりで法然上人自身も四国に流されました。「法難」という言葉が使われていますが、ちょっと違うのではと思います。住蓮と安楽がこの地に草庵を構えることができたというのは比叡山の黙認を得ていたでしょうし、比叡山が法然の教説を厭って起こしたことでもありません。要は寵姫が自分の知らないうちに尼さんになっていたことに対する後鳥羽上皇の怒りが原因、ただそれだけのことです。まあ、単身赴任から帰ってきたら奥さんが新興宗教にかぶれていて家も土地も一切合切教団に寄付していたら、旦那はどんな気持ちになるかということを考えてみればよい。今やここも紅葉の名所です。
江戸時代になって、これら浄土宗ゆかりの地に建立されたのが法然院、今となっては法然ロードの中心、法然上人を偲ぶにはベストなところとも言えるでしょう(知恩院が怒るかなー)。
法然院では、ちょうど東日本大震災の犠牲者に捧げるコンサートが開かれていました。開演の時間をだいぶ過ぎていたので会場には入りませんでしたが、物寂しいチェロの調べが聞こえてきます。時々シシおどしの澄み切った音が「コーン」と、チェロの調べと相俟って良い雰囲気です。
法然院を去って、さらに北に行きます。後ろを振り返れば下の写真の如し。左の道に入って行き止まりになっていて、下りてきたところです。それでも、見事なツツジの庭を見ることができました。西には吉田山、「紅萌ゆる丘の花」は見えませんが。
吉田山
空気が悪くなってきました。「銀閣が近いからやろ?」、そうです。日本史上最大のアホである足利義政の山荘、その住職は救われない脱税アカ坊主、ここは息を止めてやりすごしましょう。銀閣に向かう犠牲者たちが歩む道を渡ると浄土寺、義政の山荘ができるまでは、この辺りは浄土寺が広がっていました。近世の村の名も浄土寺村、勿論法然に絡む寺です。ただ、この寺は道のすぐ横にありますから、立ち止まるのは止めましょう。
それにしても、叡山のお膝元に長々と横たわる法然ロード、鎌倉仏教というものの浄土宗や浄土真宗が教勢を拡大するのは戦国時代で、鎌倉・室町前期は何といっても比叡山の時代です。比叡山の少なくとも黙認無しには、その麓で法然の弟子たちが根拠地を造っていくことはできません。やはり、比叡山は法然を敵視していなかったし、法然もまた自らが比叡山に敵対する者という気持ちは持っていなかったでしょう。
法然の徒にとっての本当の敵はやはり日蓮を待たなくてはならないでしょう。かつて、「立正安国論」を読んだときに、まあ今風にいえば「東日本大震災も原発事故も全部法然のせいだ!」というような論にビックリしたものです。どこでだかは覚えていませんが、浄土宗の寺と日蓮宗の寺が仲良く近くに並立しているのを見たときに、何か微笑ましくなった記憶があります。信長の元で行われた「安土宗論」もまた、浄土宗対日蓮宗でしたね。
浄土寺から北に突き進むと八神社、もはや人は誰もいません。観光で来る方々、人ごみの中で金閣や銀閣を見て何になる?金閣では義満の驕慢、銀閣では義政のアホが伝染するぐらいでっせ。しかも住職は同じ鼻毛アカ坊主。
さて、哲学の道の疎水は、さらに続いていると見えて、最初は今出川通り沿いに疎水縁の道を歩むことができます。振り返れば、大文字の火床、また近いうちに登ります。今出川通りから離れた疎水は遥か一乗寺村まで流れていきます。西田先生はどの辺りまで散策されたのでしょう。すたすたすたすたすたすたと思索のあまり一乗寺村、「あれぇ、ここはどこや?」というようなこともあったのでは。
延びる疎水
一乗寺周辺、二十数年前には何軒かの飲み場を確保していましたが(学生のころ、この近くの病院の夜警のバイトをしていました。国家試験の勉強に忙しい医学生の横でビールを飲んで、それから見回り、何とおおらかな時代であったのでしょう)、今回、訪ねてみると全てが無くなっていました。ビフカツをアテにビールをという野望は潰え、やむなく、出町柳方面に向かいます。途次、田中村鎮守、田中神社に参拝をし、京にても良きたこ焼き屋にめぐり合わせたまえと祈りました。おかげで新京極でたこ焼きが食えましたが、ビールのコップが紙というのはどうもというところです。
田中神社
ところで、このお社の参道とも言える四条通、いつからお店の人が店の前に立って呼び込みをするようになったのでしょう。どこか一軒がやり出せば、自分のところも心配でやらねば仕方がないというところでしょうが、京都だけはデーンと構えててもらいたいなあという気持ちもあります。
ほぼ100%、お参りの人は無視をしていきますが、祇園祭の趣旨などを考えると、このお社こそが神社の中心と考えられる「疫神社」、蘇民将来が祭神となっていますが、本来は疫神を祀るお社であったと思われます。「いかに茅の輪をくぐろうとこのお社に参らねば全てのお参りパーとなる」等と俗謡・俚謡を流行らせたい処。
疫神社
円山公園を抜けていきます。有名なしだれ桜の前では薄汚い声で「労働歌」等を歌っている連中。アカ共、人の迷惑だぞ。公園の青もみぢは美しいのに。
坂本龍馬像、最近は食傷気味なのでパス。さらに突き当たりまで進んだところが「吉水」です。そう、比叡山で修行し、智恵第一の法然坊といわれた法然上人が比叡山を下り専修念仏を広めた最初の地です。以下、法然に関することは師匠に教わったことをベースに記します。近時朝廷より「法爾大師」号を賜りたることは3月にニュースになっていました。円山公園は結構な人出でしたが、ここまで来ると誰もいません。
先ずは吉水弁財天
はやくもシャガの群落
弁財天を山に沿って北に赴くと「吉水草庵」安養寺です。後に比叡山を下りた親鸞聖人はこの地の法然上人を訪ね、念仏の徒となりました。遠くは真葛ヶ原といわれた地です。
山を下りてこの吉水の地に庵を結んだことを法然上人が比叡山と訣別して云々と説くのは地理を知らざるの論であります。このすぐ近くに青蓮院門跡があることからも分かるように、ここは当時の認識では比叡山の一部です。法然上人は西塔や横川に比べて多少は便利かなというようなことで、ここに草庵を営まれたわけであるし、その説くところの浄土門は叡山教学の重要な教えの一つです。親鸞聖人にしてもアンチ叡山としての活動をしている法然上人門下になったわけではない。あくまで比叡山という広い領域の中での布教活動であったのです。まあ総合大学比叡山の中に法然の研究室があって、ここの連中がちょっと派手に活動しているといった感じでしょうか。法然自身は自らをずっと比叡山の学生(がくしょう)と位置づけていたことでしょう。
大輪の椿、手が入っていないのがよい。
都をどり功労者の墓もあり
親鸞聖人曰く「たとひ法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」と。本年は法然遠忌800年、ここは一つ「たとひ法然上人にすかされまいらせて、徘徊して悪路に迷い込めども、さらに後悔すべからず候」と参りましょう。このまま法然ロードを行きます。地獄に堕ちるのはちょっとイヤ。
すぐに知恩院の鐘楼に出ます。知恩院は法然の霊廟の地、徳川氏が浄土宗の檀家ということで、将軍の威信にかけて大伽藍を建立しましたから今日の知恩院は広大です。ただ、ここでは法然は聖人の如く偶像化されていて、当人の意志に反し法然自身が礼拝の対象になっていますから、法然その人を偲ぶには不向きやなあーと。
もみぢ葉に何か花が咲いています。知恩院の中は遠忌800年で賑わっています。本堂の横を抜けていくと新玄関。吉利支丹の牧師のような格好をした坊さんが挨拶をしてくれます。
新玄関
西門付近
知恩院から出て、有名な「戦友碑」、小生は勇ましい軍歌を好みますので、この歌はどちらかというと嫌いですが、この碑が残ったのはめでたいことです。
知恩院の北隣は青蓮院、そのまま北に行き粟田口に出ます。詳しくは書きませんが、小生にとってはちょっと苦々しい道でもあります。この辺にも処刑場があったはずなのですが、どこでしょう。三条通を東に行き、岡崎通で左折して瓢亭に無鄰庵。
そう古くはない
瓢亭
流石に南禅寺の縄張りに入ってくると人が多くいます。山門の前を通って永観堂、さらに哲学の道へと進みます。あんなせせこましいところに登って「絶景かな」とは五右衛門もケチ臭い奴だ。せめて大文字の火床に登りなさい。
南禅寺山門
哲学の道の南の果てに若王子神社、桜も散り、本日の哲学の道はなかなかに閑寂、雨のせいもあるでしょう。新撰組土方歳三が当たり役であった俳優さんが経営していた喫茶店はずっと閉まっているみたいです。この方は、以前有鄰館でお見かけしましたが、本当に人当たりの良いソフトな方で、「燃えよ剣」に狂っていた小生は「やっぱり役者は役者なんや、きちんと演技をしてるんや」と悟ったことでありました。
若王子神社
京都学派の精神的主柱、西田幾多郎先生の散歩道が哲学の道、ちょっと思索しながら歩こうか。頭に浮かんでくるのは「たこ焼きぃ、うどーん、串カツ…」、どうもあきまへん。ちなみに西田幾多郎哲学論集をパッと開いて「場所」の一節、「現今の認識論において、対象、内容、作用の三つのものが区別せられ、それらの関係が論ぜられるのであるが、かかる区別の根抵には、唯時間的に移り行く認識作用とこれを超越する対象の対立のみ考えられていると思う」。ははは、さっぱり解りません(苦笑)。
この哲学の道から少し外れただけなのに、誰もいないのが大豊神社。神気清浄たる良いお社です。狛犬ならぬ狛ねずみ、誰が花を置いたのか、なかなかにかいらしい。奥には狛ザルも狛トビもいました。
鹿ヶ谷までやってきました。下の細道を上がっていくと俊寛の山荘跡すなわち平氏打倒の謀議が行われたところ、さらにそこからは大文字の火床に登ることもできます。火床の砂利が全部流されて来ると見えて道は結構エゲツナイです。すぐ近くにノートルダム女学院、ダム、ダム女、ノートル、どの呼び名もシスターが嫌うので敢えて使っていたものです。このダム女の食堂で50~60センチの髪の毛入りのうどんを食べたのは何年前でしょうか。食堂のオバチャンの髪はみんな短かったので、これはきっとうら若き乙女の髪だということで許しましたが、長髪のオッサンの毛だったらゲーですね。
少し進むと鈴虫・松虫伝説の住蓮山安楽寺です。法然の弟子で1206年に処刑された住蓮と安楽の草庵のあったところ、やはり法然ロードの一つです。このとばっちりで法然上人自身も四国に流されました。「法難」という言葉が使われていますが、ちょっと違うのではと思います。住蓮と安楽がこの地に草庵を構えることができたというのは比叡山の黙認を得ていたでしょうし、比叡山が法然の教説を厭って起こしたことでもありません。要は寵姫が自分の知らないうちに尼さんになっていたことに対する後鳥羽上皇の怒りが原因、ただそれだけのことです。まあ、単身赴任から帰ってきたら奥さんが新興宗教にかぶれていて家も土地も一切合切教団に寄付していたら、旦那はどんな気持ちになるかということを考えてみればよい。今やここも紅葉の名所です。
江戸時代になって、これら浄土宗ゆかりの地に建立されたのが法然院、今となっては法然ロードの中心、法然上人を偲ぶにはベストなところとも言えるでしょう(知恩院が怒るかなー)。
法然院では、ちょうど東日本大震災の犠牲者に捧げるコンサートが開かれていました。開演の時間をだいぶ過ぎていたので会場には入りませんでしたが、物寂しいチェロの調べが聞こえてきます。時々シシおどしの澄み切った音が「コーン」と、チェロの調べと相俟って良い雰囲気です。
法然院を去って、さらに北に行きます。後ろを振り返れば下の写真の如し。左の道に入って行き止まりになっていて、下りてきたところです。それでも、見事なツツジの庭を見ることができました。西には吉田山、「紅萌ゆる丘の花」は見えませんが。
吉田山
空気が悪くなってきました。「銀閣が近いからやろ?」、そうです。日本史上最大のアホである足利義政の山荘、その住職は救われない脱税アカ坊主、ここは息を止めてやりすごしましょう。銀閣に向かう犠牲者たちが歩む道を渡ると浄土寺、義政の山荘ができるまでは、この辺りは浄土寺が広がっていました。近世の村の名も浄土寺村、勿論法然に絡む寺です。ただ、この寺は道のすぐ横にありますから、立ち止まるのは止めましょう。
それにしても、叡山のお膝元に長々と横たわる法然ロード、鎌倉仏教というものの浄土宗や浄土真宗が教勢を拡大するのは戦国時代で、鎌倉・室町前期は何といっても比叡山の時代です。比叡山の少なくとも黙認無しには、その麓で法然の弟子たちが根拠地を造っていくことはできません。やはり、比叡山は法然を敵視していなかったし、法然もまた自らが比叡山に敵対する者という気持ちは持っていなかったでしょう。
法然の徒にとっての本当の敵はやはり日蓮を待たなくてはならないでしょう。かつて、「立正安国論」を読んだときに、まあ今風にいえば「東日本大震災も原発事故も全部法然のせいだ!」というような論にビックリしたものです。どこでだかは覚えていませんが、浄土宗の寺と日蓮宗の寺が仲良く近くに並立しているのを見たときに、何か微笑ましくなった記憶があります。信長の元で行われた「安土宗論」もまた、浄土宗対日蓮宗でしたね。
浄土寺から北に突き進むと八神社、もはや人は誰もいません。観光で来る方々、人ごみの中で金閣や銀閣を見て何になる?金閣では義満の驕慢、銀閣では義政のアホが伝染するぐらいでっせ。しかも住職は同じ鼻毛アカ坊主。
さて、哲学の道の疎水は、さらに続いていると見えて、最初は今出川通り沿いに疎水縁の道を歩むことができます。振り返れば、大文字の火床、また近いうちに登ります。今出川通りから離れた疎水は遥か一乗寺村まで流れていきます。西田先生はどの辺りまで散策されたのでしょう。すたすたすたすたすたすたと思索のあまり一乗寺村、「あれぇ、ここはどこや?」というようなこともあったのでは。
延びる疎水
一乗寺周辺、二十数年前には何軒かの飲み場を確保していましたが(学生のころ、この近くの病院の夜警のバイトをしていました。国家試験の勉強に忙しい医学生の横でビールを飲んで、それから見回り、何とおおらかな時代であったのでしょう)、今回、訪ねてみると全てが無くなっていました。ビフカツをアテにビールをという野望は潰え、やむなく、出町柳方面に向かいます。途次、田中村鎮守、田中神社に参拝をし、京にても良きたこ焼き屋にめぐり合わせたまえと祈りました。おかげで新京極でたこ焼きが食えましたが、ビールのコップが紙というのはどうもというところです。
田中神社
私は特別に八坂神社へ参詣したことはありませんが、ご指摘の如くやはり「疫神社」はつい横目で一瞥を加えるだけで素通りです。そのタタリが、今も影響しているのかも知れません。青蓮院前通りは、徘徊堂さんには苦い道とか。大金を落としたとか舞妓はんにまかれたとか・・・私には、ナニかと記憶に残る場所ではありますが
哲学の道も今は、花が終わった青葉で人出は少ないことでしょう。やがて,徘徊堂さんの「膳の研究」ご出版を期待しております。それにしても、ノートルダム女子大へも神出鬼没ですけど、数十センチの乙女の黒髪は、今も大切に仕舞っておられるとか。
とにかく盛り沢山の徘徊で、私には法然・親鸞は放念・知らんの類です。本人は「智慧の法然房」と呼ばれるのを嫌って「愚痴の法然房」と称していたとか。親鸞にしても「愚禿釈親鸞」の号がありますし、例の金銀赤悪徳坊主とは雲泥の差がある、と思えます。
まあ、坊主も宗派も様々。私の浅学な解釈では、宗教は詰まる処、或る者にとっては真実であり、別の者にとっては方便となる、などと認識しておりますが・・・。ナンだカンだと申しましても、最後はたこ焼きとビールに真実があるのです。
宗教は、先ず信じるところからですね。我々は、まず証しを求めますから、なかなか宗教に深く帰依するところはありません。そこからいくと、共産主義者や憲法9条なども、完全にもう宗教ですね。ただ連中はそのことを言うとムキになりますから結構おもしろいです。
最後に決めていただきましたように、この5月、たこ焼きと串カツ以外は、外で食べていないような気がします。あっ、天満でスパゲッチを食べました(笑)。
あかんあかん、もうこの話はやまましょう。親鸞さんや法然さんの爪の垢でも呑んで欲しいとだけにしておきます。
ノートルダム、この学校は英語教育に熱心だと聞いていますが、ノートルダム Notre-dame はフランス語。この我々の聖母たる言葉を冠する以上、何故フランス語教育で有名にならないのかしら(^_・)
先ず、純粋な信仰に生きた祖師とか開祖とか言われる人たちがいる。その2代目か3代目にちょっと目端の利く奴が出て、教義を変えていく。ですから、歴史的にはもっとスゴイ宗教者がたくさん出ていると思うのですが、2代目や3代目も純粋に信仰に生きた結果として、教えが伝わらないで消滅ということも多々あっただろうと思われます。
先日、曹洞宗の葬儀を見る機会がありました。その中で真宗の蓮如の白骨のお文を引用していたのにはズッコケました。多くのスゴイ教えは消滅している。残された教えは教団化によって歪められているとなれば、我々個人個人がしっかりと心の目を養っていくのが一番ですね。
>鈴虫・松虫伝説の住蓮山安楽寺です。
歴史はまるで判りませんが、この悲恋の伝説は何処かで聞いた様に思います。 そうですか鹿ケ谷にあるのですか。悲恋伝説にはめっぽう弱いから一度訪れたいです。
私、たいていの食べ物やさんは一人で入れますが、たこ焼き屋さんはまだ一度もひとりで入ったことがありません。もし見つけたら思い切って入ってみようかな?探してみるのも楽しそうですね。
住蓮と安楽を斬った後鳥羽上皇、隠岐に流された悲劇の上皇ということでナヨナヨしたイメージがあるかも知れませんが、本来マッチョな豪傑です。ちょっと相手が悪かったですね。
たこ焼き屋、取って食べはしませんから(笑)、頑張って挑戦してみて下さい。大抵の店は、食べるところが狭くて、焼いている人もすぐ近くなのですが、それでも何か落ち着きますよ。近くアップしますが、小生など最近はたこ焼き屋の前の路上で食べています(爆)。