昨年の11月末でしたか、宇津城と嶽山城跡に山城研究家の解説付きで登らせてもらいました。共に戦国期に東丹波を席巻した宇津氏の持ち城で、宇津氏は常に京都の権力者に抵抗し、その権力者が没落して自分を頼ってくると、今度はそれを応援して新たな権力者に立ち向かうという一種独特の生き方をした戦国大名(といっていいと思う)です。その折に頻りに宇津城祉の北尾根が招いておったのですが、一人ワガママを言うのも…ということで、皆さんと一緒に下山しました。本日は気持ちも新たに北尾根に向かいます。先ずは例によって屹立する姿から。
登り口は、素直に秋に教えてもらったところから、城跡の東の谷(庄ノ谷)に入っていきます。途中にあるこの楓を見たかった。
径1メートルばかり、これだけ巨大なもみぢはちょっと無いのではと思われます。この木の隣の木もなかなか見事な木です。この谷の奥地は、日本最大の栃の木の森になる予定ですから、いずれ多くの人がこのもみぢを愛でることになるでしょう。いや、栃の木の森ができれば人ばかりでなく、クマもリスもムササビも見事な紅葉に感動するようになるでしょう。谷を歩いていると黄色い花も美しく咲いています。
登り口は、京北トレイルのテープが残っていますから、すぐに発見可能。ただし、降雪による倒木と、その始末をしたときに切り落とした無数の枝々で道は埋まっています。
やむを得ぬということで、いつもの直登!これだと八幡さんの裏手から登っても同じです。それでも、ちょっと下を見やると、こういうかいらしい奴がいます。
登っているうちに、ちょっと下に道が見えました。この道は関西電力の巡検路なのですが、関電が造ってくれた階段も埋もれつつあります。ここを京北トレイルのコースに加えるには、かなり手を入れなくてはなりませんね。確率論になりますが、今のままだと何%かの人は必ず転げ落ちる、そのまた何%かの人は大けがをし、そのまた何%かは…、オット恐ろしい。
尾根筋に出ました。一旦南に向かい、宇津城祉にご挨拶です。尾根筋をぶち切った堀切を超えると三の丸です。以下二の丸、本丸と段々に連なっています。ここでは便宜上、そういう呼び名を使っていますが、それが正しいかどうか。11月にもらった縄張り図がどこにいったか判らない。
判りにくいけど堀切
三の丸
二の丸
石垣が残っています。宇津氏の城は土塁で、石垣は明智光秀によって手が入ったものと教わりました。
本丸
本丸の南も少し下がって削平地です。門の跡でしたか?説明を忘れてしまいました。さて、この宇津城は1579年に落城して、宇津頼重は討ち取られたとのことですが、どうもここで激しい攻防戦があったとは思えません。落城というよりも接収に近かったのではと思われます。というのは、宇津頼重という武将、城を枕に…等という甘ったるい奴ではありません。明智の大軍が集結しつつあるという情報を得た段階でスタコラサッサと逃亡したと思われます。尾根筋を通ったか、谷道を逃げたか、弓槻の方から明智がやってきたのなら、人尾峠を越えたか、ただ日吉には敵対していた小林氏がいますから、やはり北に逃れたと思われます。
横着(ある種の敬意を込めて)な武将ですから、ひよっとすると宇津の何処かに潜伏していたかも知れません。小説だったら何食わぬ顔で明智の前をブーラブラして、「お殿様、宇津の景色はなかなか見事でございましょう」等と話しかけるという感じもいいかもしれません。
門の辺り?
再び石垣
本丸を見上げる
今回、この南側の低平地も本丸跡もかなり丁寧に観察しました。心眼でこれが八幡さんに下りる道と違うかなと思われるところも浮かび上がってきましたが、整備して正面から登れるようにするにはディエーと下から見上げる階段が必要です。城跡の草は下宇津学の方々が刈って下さいましたが、またまた昔の姿に戻りつつあります。トレイル開通後は、年に数度は宇津城祉大掃除大会が必要でしょう。
さて、北に戻り、尾根筋を行きます。今回は不思議に鹿が先導してくれます。まあ、むこうにしたら怪しいオッサンが現れたから逃げているだけでしょうが。
11月はあの鉄塔にいざなわれた
後ろを振り返るがまだまだ
でました。思っていた景色。深緑の中で黄緑になっているところが宇津城祉です。ミニチュアながらマチュピチュみたい。マチュピチュに行ったことはありませんが(笑)。本日は黄砂と曇り空のために眺望は今一です。スコンと晴れた日にまた来よう。
旅行けば、ミツバツツジ。こやつらを愛でるのは小生のみ。量子論的な思考だと小生という観察者が現れたからここにツツジが咲いている。
ちょうど、尾根筋の展望が無くなり、植林帯に入ったところで雨が降ってきました。尾根沿いの道は未だ続いていますから、眼前の山を越せば浅江辺りに出て、日吉神社などにお参りして帰れるのかなと思っていましたが、ここは鹿よけのネットに沿って西の殿の谷(ちょっといわくありげな名です)に直滑降です。結局、毎回同じことをしています。
林道に出る
やれやれと思っていたら、何と殿の谷の林道、部分的に崩落していますし、降雪による倒木が道を塞ぎます。降雪によって折れた木々は墓標のようです。ところどころにおいてある重機もむしろ浅江のほうから運び込まれたもののようです。もしかしたら始めから宇津側へは開通していないのかも知れません。
滝もありまっせー
道の真ん中に、クリンソウの若葉。道が開通したら軽トラに踏みにじられてしまうかも知れません。花が咲き、種が落ちるまでは、修復もしばし待たれよと申す処(5月初旬の徘徊でしたから今はもう生長しているでしょう)。
その後、すぐに上浮井に出ました。全部で2時間半ほどの散歩。ヌフフフフ、少しずつ徘徊路が充実してくるぞい。帰宅後に地図を見ると日高見峠まであと少しというところで引き返しています。あれぐらいの雨ならば、峠までは行けたのにと反省しきり。どのような近場に行くときでも地図は持っていくべきだと思いました。宿題を一つこなすと次の宿題、まあそれが楽しいのですが。
登り口は、素直に秋に教えてもらったところから、城跡の東の谷(庄ノ谷)に入っていきます。途中にあるこの楓を見たかった。
径1メートルばかり、これだけ巨大なもみぢはちょっと無いのではと思われます。この木の隣の木もなかなか見事な木です。この谷の奥地は、日本最大の栃の木の森になる予定ですから、いずれ多くの人がこのもみぢを愛でることになるでしょう。いや、栃の木の森ができれば人ばかりでなく、クマもリスもムササビも見事な紅葉に感動するようになるでしょう。谷を歩いていると黄色い花も美しく咲いています。
登り口は、京北トレイルのテープが残っていますから、すぐに発見可能。ただし、降雪による倒木と、その始末をしたときに切り落とした無数の枝々で道は埋まっています。
やむを得ぬということで、いつもの直登!これだと八幡さんの裏手から登っても同じです。それでも、ちょっと下を見やると、こういうかいらしい奴がいます。
登っているうちに、ちょっと下に道が見えました。この道は関西電力の巡検路なのですが、関電が造ってくれた階段も埋もれつつあります。ここを京北トレイルのコースに加えるには、かなり手を入れなくてはなりませんね。確率論になりますが、今のままだと何%かの人は必ず転げ落ちる、そのまた何%かの人は大けがをし、そのまた何%かは…、オット恐ろしい。
尾根筋に出ました。一旦南に向かい、宇津城祉にご挨拶です。尾根筋をぶち切った堀切を超えると三の丸です。以下二の丸、本丸と段々に連なっています。ここでは便宜上、そういう呼び名を使っていますが、それが正しいかどうか。11月にもらった縄張り図がどこにいったか判らない。
判りにくいけど堀切
三の丸
二の丸
石垣が残っています。宇津氏の城は土塁で、石垣は明智光秀によって手が入ったものと教わりました。
本丸
本丸の南も少し下がって削平地です。門の跡でしたか?説明を忘れてしまいました。さて、この宇津城は1579年に落城して、宇津頼重は討ち取られたとのことですが、どうもここで激しい攻防戦があったとは思えません。落城というよりも接収に近かったのではと思われます。というのは、宇津頼重という武将、城を枕に…等という甘ったるい奴ではありません。明智の大軍が集結しつつあるという情報を得た段階でスタコラサッサと逃亡したと思われます。尾根筋を通ったか、谷道を逃げたか、弓槻の方から明智がやってきたのなら、人尾峠を越えたか、ただ日吉には敵対していた小林氏がいますから、やはり北に逃れたと思われます。
横着(ある種の敬意を込めて)な武将ですから、ひよっとすると宇津の何処かに潜伏していたかも知れません。小説だったら何食わぬ顔で明智の前をブーラブラして、「お殿様、宇津の景色はなかなか見事でございましょう」等と話しかけるという感じもいいかもしれません。
門の辺り?
再び石垣
本丸を見上げる
今回、この南側の低平地も本丸跡もかなり丁寧に観察しました。心眼でこれが八幡さんに下りる道と違うかなと思われるところも浮かび上がってきましたが、整備して正面から登れるようにするにはディエーと下から見上げる階段が必要です。城跡の草は下宇津学の方々が刈って下さいましたが、またまた昔の姿に戻りつつあります。トレイル開通後は、年に数度は宇津城祉大掃除大会が必要でしょう。
さて、北に戻り、尾根筋を行きます。今回は不思議に鹿が先導してくれます。まあ、むこうにしたら怪しいオッサンが現れたから逃げているだけでしょうが。
11月はあの鉄塔にいざなわれた
後ろを振り返るがまだまだ
でました。思っていた景色。深緑の中で黄緑になっているところが宇津城祉です。ミニチュアながらマチュピチュみたい。マチュピチュに行ったことはありませんが(笑)。本日は黄砂と曇り空のために眺望は今一です。スコンと晴れた日にまた来よう。
旅行けば、ミツバツツジ。こやつらを愛でるのは小生のみ。量子論的な思考だと小生という観察者が現れたからここにツツジが咲いている。
ちょうど、尾根筋の展望が無くなり、植林帯に入ったところで雨が降ってきました。尾根沿いの道は未だ続いていますから、眼前の山を越せば浅江辺りに出て、日吉神社などにお参りして帰れるのかなと思っていましたが、ここは鹿よけのネットに沿って西の殿の谷(ちょっといわくありげな名です)に直滑降です。結局、毎回同じことをしています。
林道に出る
やれやれと思っていたら、何と殿の谷の林道、部分的に崩落していますし、降雪による倒木が道を塞ぎます。降雪によって折れた木々は墓標のようです。ところどころにおいてある重機もむしろ浅江のほうから運び込まれたもののようです。もしかしたら始めから宇津側へは開通していないのかも知れません。
滝もありまっせー
道の真ん中に、クリンソウの若葉。道が開通したら軽トラに踏みにじられてしまうかも知れません。花が咲き、種が落ちるまでは、修復もしばし待たれよと申す処(5月初旬の徘徊でしたから今はもう生長しているでしょう)。
その後、すぐに上浮井に出ました。全部で2時間半ほどの散歩。ヌフフフフ、少しずつ徘徊路が充実してくるぞい。帰宅後に地図を見ると日高見峠まであと少しというところで引き返しています。あれぐらいの雨ならば、峠までは行けたのにと反省しきり。どのような近場に行くときでも地図は持っていくべきだと思いました。宿題を一つこなすと次の宿題、まあそれが楽しいのですが。
日吉側(宇津の敵対側)の谷筋に高校の同級生が住(棲)んで居ますが、大晦日大雪の倒木で電線が切れて3~4日間停電が続き、オール電化のため凍死寸前になった、と申しておりました。大体、山間で暮らすのに電気に頼るのが間違いです。材木はそれこそ腐る程あるのですから、木炭の生活に還ればいいのです。もう、定年で第一線を退いているのだから・・・と毒づいてやりました。かと申しましても、私がその立場なら木炭生活に甘んじられるか、は疑問ですが。
宇津城址の懐かしい写真で、昨年の見学を思い起こしております。あの後、栃の木を植樹する催しがありましたが、私は不参加でした。栃本の山でしたら参加していましたけど、エコの時世にエゴはいけないと反省しております。
宇津氏は、かなり強(したた)かな人物だったのでしょうか。私の中学の同級生に、宇津姓の女性徒が一名居りました。2年生で転校して、今は高槻に住んでいると聞きます。当時は、宇津城(周山城も)の話題など皆無でしたが、彼女は今日ある事を察知して、無難な方面へ移(宇津氏てすから)ったのかも知れません。
先祖が宇津城主に仕えていた下宇津の住人で、山国在を襲った懺悔(誤魔化し?)から、先祖が姓名を変更した人があるそうです。今(新姓)は中々の名士ですが。その旧姓と同じ苗字の女性が、俳句の仲間です。彼女からその話しを聞きました。彼女の先祖は改名していませんから、かなり図太い家系なのかも・・・
濃い緑薄い緑その中間の緑と、山はいよいよ彩り豊かになりつつあります。加えて黄色の山吹や紫色の三つ葉躑躅も美事です。薇(ゼンマイ)も可愛くて、郷愁を呼ぶ姿が何とも言えません。九輪草はもう紅色の花をつけていることでしょう。
「独り占め三つ葉躑躅に惚れられて」道草。
オール電化、さすがに言わなくなりましたね。おっしゃるように、山中だったら枯れ枝とかはなんぼでも拾えるだろうにエアコンで暖房するということに慣らされていることがコワイですね。小生の場合は、プロパン生活をやめるつもりは全く無く、プロパンの補給が続かない場合は山用のホワイトガソリン、それが切れた場合は木炭、と二重三重に準備しています。それが切れたら枯れ草を燃やします(笑)。今は七輪が欲しいのですが、何か自殺用の道具になってしまっていますから買いにくいですね。
太田氏の家臣に宇津氏がいるのですね。初めて知りました。ありがとうございます。詳しいことは全く解りませんが、駿河に移封された太田資直の母が能勢頼次の娘であることは何か示唆的だなあと思います。頼次は明智光秀に従っていて宇津城攻撃にも参加した可能性もあるでしょうから、その時点で降参した宇津氏の一族を召し抱えたということもあっただろうと思います。宇津氏の末裔を名乗る方々は京北や京都市内にもおられます。
頼次の年譜などを見たわけでもなく、想像しているだけですから本当はものすごくトンチンカンなことを述べているかも知れません。あれこれと調べてみようという機会を与えていただきありがとうございました。
滝の写真まで出てきますが、こういった滝は北山の谷を遡上するとよく見かけますね、特に道無き谷を上ると。谷を上っているとホット一休み出来る景色なのですが、これをどうやり過ごしてというのに何回も出会すと面倒な気持ちにもなってしまいます。これも我が脚が鈍ってしまったからでしょうが。
今回一番気に入ったのは、ミニマチュピチュでございます。
山城でいつも思うのですが、石垣を見ると、まあ昔の人は力持ちだったんだなあ、ということです。戦争が技術の発達を促すというのでしょうか、命に関わることですから、石を運び上げる為の技術にも全知全能が傾けられたのでしょうし、この分野に限りませんが技術を持つ人間は重宝がられたことでしょう。
今は山の上に鉄塔を築くのもヘリコプターという手段がありますが、人間の力も不可欠で、我が同級生が電気工事に従事していて、絶えず揺れる鉄塔に上がって作業しているとションベンちびるで~って言っていたのを思い出しました。保守作業に従事している人って僕からすれば、ようやるなあ~と尊敬する人そのものであります。
オール電化の話が出てますが、gunkanatagoさまは色々なリスク分担をされているご様子に感心しました。これぞ日頃自然の中に入っておられる人だからこその発想と理解しました。以前東京方面からのお客様を案内した時に山の事やらをあこれはあの新聞記事で得た知識の口移しだと直ぐ分かるような借り物の知識で評論というか披露をし始めましたので、一回山や離島へ行ってみて生活してみてから発言したら?って言うのをぐっと堪えたのを思い出します。今日は愛宕さんへ車で行きました。山ガールには会えませんでしたが、今日はウイークデイでしたね。でも山で遭う中年?女性の元気なこと、必ず挨拶をしあう礼儀やゴミを残さないなど気持ちいいものです。勿論例外もありますが(^_・)従って山ガールブーム大歓迎であります(^_^)
話が逸れてきましたので今宵はこの辺で。
山中の石垣、おっしゃる通りで、本当に昔の人はスゴイと思います。というか、見上げるような城を攻めようかと考えること自体も勤勉だなあと感心します。こういう城跡の石垣以外にも、例えば柏原から周山城祉に入っていく谷川沿いには山仕事の方が一つ一つ積まれたと思われる石組みが幾つか残っていて、植林地の土砂が谷川に入らぬようにと思いますが、1メートル造るのにどれだけの日にちがかかったのだろうと感動します。
そういう勤勉さや、山の中で生きていく様々な智恵を我々は失っていますから、京北や美山に住む(或いは住んだ)多くの方の話を聞いて、少しずつ取り戻していきたいです。
宇津城の資料が少しありました。きっとお持ちでしょうけれど、コピーしてきましたから雨が止んだら送らせていただきます。
>旅行けば、ミツバツツジ。こやつらを愛でるのは小生のみ。量子論的な思考だと小生という観察者が現れたからここにツツジが咲いている。
いいですね。参ったな^^
昨日は、京都市内をウロウロしましたが、鴨川の水もすごく増水していました。床の下を流れる水路と本流がくっつきそうでした。
本日は嵐山の少し下手の上野橋を通りましたが、河川敷が殆ど無くなっていました。明日は、上桂川を見ますが、この時期は川もですが土砂崩れで道が通れなくなるのも大変です。昨年は京北に行くのに園部を経由するというのが何回かありました。
ツバキ、ウメ、サクラ、ツツジ、バラ、そして多分フジも楽しまれたと思いますから、次はネムですね?
宇津の水対策は堤防が全て、どれぐらい増えているかなと見に行くのもちょっと恐ろしい気もします。