家人(「かじん」です。幾らアナクロでも「けにん」や郎党はいない。)曰く「あんたは台風の時とか警報が出ているときは必ず出ていくなあ。」と。まあ、田圃や用水路の様子を見に行くわけではないので許してちょと申す処。
師匠より「弁慶の腰かけ石、米屋のご主人にお願いしたでー。」という連絡が入り、土砂降りの中をウロウロと徘徊してきました。「ワシらの徘徊に雨天中止の言葉はない!」、何年か前の正月の土砂降りの中での愛宕登山、さらに何年か前の6月末の雷雨と鉄砲水にビビリながらの樋ノ水谷(このときにはヒルにもやられたわい。)を経験して以後は、出かけに雨が降っていたら「オー、絶好のコンデションやんけ。」という変な癖がついてしまっています。
船岡山のふもとに「弁慶の腰かけ石」はあるのですが、その前に「たこ焼き」です。ささ舟様の「たこ焼き」の記事(本当は花紀行です)を読んでからの2日ほどは、もう「たこ焼き」が食いたくて食いたくて夢に出てくる始末、こやつを先に済まさねばなりません。写真の風の家は「焼きそば」もうまい。たこ焼き+焼きそば、ついでにビール、何かもう徘徊が終わった気分です。
米穀店との約束の時間は午後2時、少し時間があるので鴨川の様子を見に行きました。そのまま御池通をちょっとブラブラ、御所八幡宮に寄ります。「大御所」という言葉(一般には徳川家康もしくは徳川家斉を指す)が物語るように、御所という言葉が武家の棟梁を指すこともありました。『落日の室町幕府』によると16世紀前半の蜷川親俊日記では、天皇は「大裏様(内裏では無く)・禁裏様)」、将軍が「御所様」と表記されています。征夷大将軍となった足利尊氏の屋敷内にあった八幡さんなので御所八幡宮といいます。
鴨川(増水中)
御所八幡宮
待ち合わせ場所は鞍馬口智恵光院の蕎麦店「かね井」です。既に師匠はうまそうに蕎麦をすすっていました。小生は、たこ焼きと焼きそばを食い過ぎたので本日は涙を呑んで遠慮します。ウー、琵琶の長寿が飲みたい。それにしても「かね井」に来るときは絶対雨がふっているなあ(詠嘆)。
かね井
この「かね井」にほど近い米穀店の中庭の中に「弁慶の腰かけ石」があります。米穀店のご主人は、機嫌良く迎え入れて下さり、様々な説明もして下さいました。当初、このような所に何が弁慶だと思っていた小生ですが、すぐ近くの常磐井(常磐御前が住んでいた屋敷跡という)、さらに大徳寺の北側の牛若町(牛若丸誕生地の伝承あり)、さらに源氏の守護神である若宮八幡(但し現在の場所は往時の雲林院の境内)の存在などを考えると、いやいや寧ろこちらのほうが自然だぞ、清水~五条天神を結ぶ線上にある牛若丸弁慶伝説のほうが義経記の創作なのではないか、うがった見方をすれば、今もイヤシイ清水寺の坊主共が牛若丸伝説を捏造して参詣客を呼び込もうとしたのではないか等とも思われます。
米穀店のご主人も言っておられましたが、五条大橋(現在の松原橋)では平氏の屋敷が並ぶ六波羅に近過ぎるとも思われます。弁慶個人が本当にここにおったかということについては何とも言えませんが、この船岡山の東山麓一帯に源氏は深く関係していると思われます。
弁慶の腰かけ石
腰かけ石自体は、船岡山の岩と同じ種類のものだそうで、船岡山の岩盤が平地部で露出しているものだそうです。ご主人には、この辺りの徘徊地図もいただきました。どうもありがとうございました。
すぐ近くの常磐井、石にはお経の文言と寛文12年壬子(1672)という年号が彫られています。平生は水が涸れているそうですが、本日は雨水が溜まっています。
そのまま雲林院へ。たまたまですが、昨夜は「大鏡」を読んでおりましたから、これは惹き付けられたに違いない。と思うのですが、菩提講が行われているようでもないし、190歳と200歳を超えているであろう爺さんたち(世継君と繁樹君)もいません。ならば、我々がそうなろう。あと百数十年は元気に生きなくてはならぬ。この寺、往時はものすごく広大な寺でしたが、今は小さくなってしまっています。というより、一旦きれいに無くなったものを名前を継承して江戸時代に再興したものです(今は大徳寺の子分)。僧正遍昭の歌碑などもありましたが、写真に撮るのを忘れました。
於雲林院
すぐ近くには若宮八幡宮、頼光の屋敷の鎮守が基になっているとなれば、やはりこの辺り一帯は源氏と関わりが深いと思われます。
玄武神社、後ろに建ったマンションが邪魔ですが、実はこのマンションは雲林院跡に建てられています。それを知って、この巨大なマンションを見ると、いにしえの雲林院の広さがしのばれます。
玄武神社
そのまま北大路通を東に向かい、堀川通も越えて少し北行すれば柳公園です。まず最初に公園内の出世地蔵が気になりますが、流石に本日は話を聞く人が誰もいません。この公園での目的はラヂオ塔を見ること。公園の東のドン突きにありました。かなり傷んではいますが、その形状をよく残しています。よい子は昔、この前で体操なんぞをやったのでしょう。
柳公園ラヂオ塔
烏丸北大路を少し下って大谷大学に。なんぞ古いものはあるかなというところです。大正年間に建てられた尋源館以外には何もなさそうですし、説明もありません。真宗大谷派、バテレンの平安女学院や聖母学院に親切さの点で負けてるぞい。それはそのまま学問に対する姿勢を表していたりして。
尋源館
北大路を再び鞍馬口通まで下り、少し東に行くと上善寺、鞍馬口地蔵で有名な寺です。ナルホド、地獄を見てきた小野篁は6体の地蔵像を刻んだのか。
地蔵堂
ここからは寺町通りを延々と下ります。比叡山を借景にした額縁門を持つ天寧寺、残念ながら本日は門の中に比叡山は入りません。この天寧寺には最近ちょっと興味を持っている南丹市美山町大野出身の野々村仁清、その仁清の師匠であった金森宗和の墓があります。ただ、施錠してあるため墓地には入れません。また善吉和尚なる人の墓も、この寺にあります。坊主侮る勿れ、薩摩の示現流流租東郷重位に自顕流の立ち打ちを伝授した人です。
謎の石造物、誰か教えてくらはい。
塔は大正時代のもので、意外に新しい。
そのすぐ南には阿弥陀寺、江戸時代中期に「松尾芭蕉」を売り出したプロデューサー蝶夢が住職だった寺です。「蝶夢なかりせば芭蕉また今日の盛名を得ず」と師匠。この阿弥陀寺(今ここにあるのは秀吉による移転)、本能寺で遺骨を拾い集めたエライ坊さんもいたということで、織田信長や家来達の墓もあります。「本廟」の「本」という字が寺の強い主張を物語っていますね。確かに、現代の本能寺にある信長の墓などはちょっと「えー?」というところです。信長の墓を始めとしてただ今改装中です。
芭蕉句碑 春立つや 新年古き 米五升
今出川通からは河原町通を下り、荒神橋のたもとの再現車石、そこからやや下ると立命館草創地則ち京都法政学校跡に。ここは勤王の志士=不逞浪士たちが集まった吉田屋跡でもあります。立命館、一日も早く禁衛立命の良き伝統に立ち戻ろうね。もうアカたちの間抜けな主張にはウンザリ。北朝鮮賛美者であった末川君、先ず末川会館の破却から始めよう。滝川事件などは言論弾圧事件として語られますが、晩年の末川君の痴呆状態や立命館における気違い学者の跳梁などを考えると、ただのゴミ掃除に過ぎなかったのではとさえ思われます。
三本木通、丸太町の上(かみ)には頼山陽山紫水明処、山陽の「日本外史」は我が愛読書でもありますから、いつかは予約して見せてもらおうと思います。平生は閉まっています。丸太町通りの下(しも)には木戸孝允邸跡、よく残っています。木戸孝允が世を去ったのはこの場所でしょうね。明治天皇がここを訪れられたのは見舞い以外には考えにくいですね。銅陀美校は相変わらず地味だが美しい。
山紫水明処
木戸孝允旧宅(西から)
木戸孝允旧宅(東から)
木屋町二条に善導寺、師匠に教わるまでは全く知りませんでしたが善導寺型灯籠というのは灯籠界(笑)に於いては一つの型となっているそうです。入り口は竜宮城。
善導寺
善導寺の灯籠(善導寺型灯籠原器(笑))
近く復活するホテルフジタ、但し名は変わります。その前の二条大橋を渡って鴨東に、頂妙寺の仁王門は「仁王門通」の語源でもあります。わざわざ川を越えてきたのは木製・仁丹住所表示札を見るためであります。大雨の中、酔狂を通り越して気違いの世界。
頂妙寺仁王門
この木製札、路地の入り口にありますが、良く残っています。現在確認できる木製札は市内に7枚だそうです。「あと3枚は見つけて全部で10枚にしたいな」と師匠の弁。
最終目的地は寺町押小路、またもや鴨川を渡りますが、水の量はさらに増えていました。寺町押小路に何があるか?って。出石蕎麦を食わせる店があります。小生が思うに「するめの天ぷら」はこの店が一番ウマイ。どの店よりもウマイ。タコの唐揚げは2番やなあ。上から下までズクタンボの状態で店に入った者としては、やはり熱燗が何よりの蘇生薬でありました。仁丹の表示札、琺瑯製のものは、この近くではたくさん見られますよ。
師匠より「弁慶の腰かけ石、米屋のご主人にお願いしたでー。」という連絡が入り、土砂降りの中をウロウロと徘徊してきました。「ワシらの徘徊に雨天中止の言葉はない!」、何年か前の正月の土砂降りの中での愛宕登山、さらに何年か前の6月末の雷雨と鉄砲水にビビリながらの樋ノ水谷(このときにはヒルにもやられたわい。)を経験して以後は、出かけに雨が降っていたら「オー、絶好のコンデションやんけ。」という変な癖がついてしまっています。
船岡山のふもとに「弁慶の腰かけ石」はあるのですが、その前に「たこ焼き」です。ささ舟様の「たこ焼き」の記事(本当は花紀行です)を読んでからの2日ほどは、もう「たこ焼き」が食いたくて食いたくて夢に出てくる始末、こやつを先に済まさねばなりません。写真の風の家は「焼きそば」もうまい。たこ焼き+焼きそば、ついでにビール、何かもう徘徊が終わった気分です。
米穀店との約束の時間は午後2時、少し時間があるので鴨川の様子を見に行きました。そのまま御池通をちょっとブラブラ、御所八幡宮に寄ります。「大御所」という言葉(一般には徳川家康もしくは徳川家斉を指す)が物語るように、御所という言葉が武家の棟梁を指すこともありました。『落日の室町幕府』によると16世紀前半の蜷川親俊日記では、天皇は「大裏様(内裏では無く)・禁裏様)」、将軍が「御所様」と表記されています。征夷大将軍となった足利尊氏の屋敷内にあった八幡さんなので御所八幡宮といいます。
鴨川(増水中)
御所八幡宮
待ち合わせ場所は鞍馬口智恵光院の蕎麦店「かね井」です。既に師匠はうまそうに蕎麦をすすっていました。小生は、たこ焼きと焼きそばを食い過ぎたので本日は涙を呑んで遠慮します。ウー、琵琶の長寿が飲みたい。それにしても「かね井」に来るときは絶対雨がふっているなあ(詠嘆)。
かね井
この「かね井」にほど近い米穀店の中庭の中に「弁慶の腰かけ石」があります。米穀店のご主人は、機嫌良く迎え入れて下さり、様々な説明もして下さいました。当初、このような所に何が弁慶だと思っていた小生ですが、すぐ近くの常磐井(常磐御前が住んでいた屋敷跡という)、さらに大徳寺の北側の牛若町(牛若丸誕生地の伝承あり)、さらに源氏の守護神である若宮八幡(但し現在の場所は往時の雲林院の境内)の存在などを考えると、いやいや寧ろこちらのほうが自然だぞ、清水~五条天神を結ぶ線上にある牛若丸弁慶伝説のほうが義経記の創作なのではないか、うがった見方をすれば、今もイヤシイ清水寺の坊主共が牛若丸伝説を捏造して参詣客を呼び込もうとしたのではないか等とも思われます。
米穀店のご主人も言っておられましたが、五条大橋(現在の松原橋)では平氏の屋敷が並ぶ六波羅に近過ぎるとも思われます。弁慶個人が本当にここにおったかということについては何とも言えませんが、この船岡山の東山麓一帯に源氏は深く関係していると思われます。
弁慶の腰かけ石
腰かけ石自体は、船岡山の岩と同じ種類のものだそうで、船岡山の岩盤が平地部で露出しているものだそうです。ご主人には、この辺りの徘徊地図もいただきました。どうもありがとうございました。
すぐ近くの常磐井、石にはお経の文言と寛文12年壬子(1672)という年号が彫られています。平生は水が涸れているそうですが、本日は雨水が溜まっています。
そのまま雲林院へ。たまたまですが、昨夜は「大鏡」を読んでおりましたから、これは惹き付けられたに違いない。と思うのですが、菩提講が行われているようでもないし、190歳と200歳を超えているであろう爺さんたち(世継君と繁樹君)もいません。ならば、我々がそうなろう。あと百数十年は元気に生きなくてはならぬ。この寺、往時はものすごく広大な寺でしたが、今は小さくなってしまっています。というより、一旦きれいに無くなったものを名前を継承して江戸時代に再興したものです(今は大徳寺の子分)。僧正遍昭の歌碑などもありましたが、写真に撮るのを忘れました。
於雲林院
すぐ近くには若宮八幡宮、頼光の屋敷の鎮守が基になっているとなれば、やはりこの辺り一帯は源氏と関わりが深いと思われます。
玄武神社、後ろに建ったマンションが邪魔ですが、実はこのマンションは雲林院跡に建てられています。それを知って、この巨大なマンションを見ると、いにしえの雲林院の広さがしのばれます。
玄武神社
そのまま北大路通を東に向かい、堀川通も越えて少し北行すれば柳公園です。まず最初に公園内の出世地蔵が気になりますが、流石に本日は話を聞く人が誰もいません。この公園での目的はラヂオ塔を見ること。公園の東のドン突きにありました。かなり傷んではいますが、その形状をよく残しています。よい子は昔、この前で体操なんぞをやったのでしょう。
柳公園ラヂオ塔
烏丸北大路を少し下って大谷大学に。なんぞ古いものはあるかなというところです。大正年間に建てられた尋源館以外には何もなさそうですし、説明もありません。真宗大谷派、バテレンの平安女学院や聖母学院に親切さの点で負けてるぞい。それはそのまま学問に対する姿勢を表していたりして。
尋源館
北大路を再び鞍馬口通まで下り、少し東に行くと上善寺、鞍馬口地蔵で有名な寺です。ナルホド、地獄を見てきた小野篁は6体の地蔵像を刻んだのか。
地蔵堂
ここからは寺町通りを延々と下ります。比叡山を借景にした額縁門を持つ天寧寺、残念ながら本日は門の中に比叡山は入りません。この天寧寺には最近ちょっと興味を持っている南丹市美山町大野出身の野々村仁清、その仁清の師匠であった金森宗和の墓があります。ただ、施錠してあるため墓地には入れません。また善吉和尚なる人の墓も、この寺にあります。坊主侮る勿れ、薩摩の示現流流租東郷重位に自顕流の立ち打ちを伝授した人です。
謎の石造物、誰か教えてくらはい。
塔は大正時代のもので、意外に新しい。
そのすぐ南には阿弥陀寺、江戸時代中期に「松尾芭蕉」を売り出したプロデューサー蝶夢が住職だった寺です。「蝶夢なかりせば芭蕉また今日の盛名を得ず」と師匠。この阿弥陀寺(今ここにあるのは秀吉による移転)、本能寺で遺骨を拾い集めたエライ坊さんもいたということで、織田信長や家来達の墓もあります。「本廟」の「本」という字が寺の強い主張を物語っていますね。確かに、現代の本能寺にある信長の墓などはちょっと「えー?」というところです。信長の墓を始めとしてただ今改装中です。
芭蕉句碑 春立つや 新年古き 米五升
今出川通からは河原町通を下り、荒神橋のたもとの再現車石、そこからやや下ると立命館草創地則ち京都法政学校跡に。ここは勤王の志士=不逞浪士たちが集まった吉田屋跡でもあります。立命館、一日も早く禁衛立命の良き伝統に立ち戻ろうね。もうアカたちの間抜けな主張にはウンザリ。北朝鮮賛美者であった末川君、先ず末川会館の破却から始めよう。滝川事件などは言論弾圧事件として語られますが、晩年の末川君の痴呆状態や立命館における気違い学者の跳梁などを考えると、ただのゴミ掃除に過ぎなかったのではとさえ思われます。
三本木通、丸太町の上(かみ)には頼山陽山紫水明処、山陽の「日本外史」は我が愛読書でもありますから、いつかは予約して見せてもらおうと思います。平生は閉まっています。丸太町通りの下(しも)には木戸孝允邸跡、よく残っています。木戸孝允が世を去ったのはこの場所でしょうね。明治天皇がここを訪れられたのは見舞い以外には考えにくいですね。銅陀美校は相変わらず地味だが美しい。
山紫水明処
木戸孝允旧宅(西から)
木戸孝允旧宅(東から)
木屋町二条に善導寺、師匠に教わるまでは全く知りませんでしたが善導寺型灯籠というのは灯籠界(笑)に於いては一つの型となっているそうです。入り口は竜宮城。
善導寺
善導寺の灯籠(善導寺型灯籠原器(笑))
近く復活するホテルフジタ、但し名は変わります。その前の二条大橋を渡って鴨東に、頂妙寺の仁王門は「仁王門通」の語源でもあります。わざわざ川を越えてきたのは木製・仁丹住所表示札を見るためであります。大雨の中、酔狂を通り越して気違いの世界。
頂妙寺仁王門
この木製札、路地の入り口にありますが、良く残っています。現在確認できる木製札は市内に7枚だそうです。「あと3枚は見つけて全部で10枚にしたいな」と師匠の弁。
最終目的地は寺町押小路、またもや鴨川を渡りますが、水の量はさらに増えていました。寺町押小路に何があるか?って。出石蕎麦を食わせる店があります。小生が思うに「するめの天ぷら」はこの店が一番ウマイ。どの店よりもウマイ。タコの唐揚げは2番やなあ。上から下までズクタンボの状態で店に入った者としては、やはり熱燗が何よりの蘇生薬でありました。仁丹の表示札、琺瑯製のものは、この近くではたくさん見られますよ。
御所八幡宮を過ぎると、既に大御所がお待ち兼ねでしたか。「かね井」は、以前に私もお伴した所ですか。そう言えば、つい先日、家内がD工業の同期会で玄武神社へも足を伸ばした、と申しておりました。もしかして徘徊堂ご師弟に遭遇しているかも・・・。
○○の腰掛け石とか足掛け石とか衣掛け松とかよく聞きますが、写真の無い時代にどんな証明が可能なのでしょうか。なんか、「言うたもん勝ち」の感がするのですが。150年後の世界では、徘徊堂様ご飲食のたこ焼きの化石なんて発掘されるかも・・・。
私がラジオ体操をした名和公園には、こんな格好の良い塔はありませんでした。上級生の班長は、長年の石碑の石段の上から号令を掛けていました。
そう言えば(?)、小野篁の彫った地蔵像は智恵光院にもあります。京都六地蔵巡りがありますけど、篁の地蔵像とは無関係なのでしょうか。その一つの大善寺は我が家の近くです。名称が良くないので(面映ゆいので)、余り馴染めない寺ですが・・・。天寧寺の謎の石像は鷄が止まっているのですか?賽銭(多額の)上げれば鶏肉が大好きになる御利益がありそうですが・・・。
またしても、上善寺に続く善導寺と善の付く寺ばかりですか。それにしても灯篭の原型の一つになるくらいですから、名は体を何とやらなのでしょうか。
昔は、仁丹の琺瑯札は至る手所で見掛けましたが、の木製札は記憶にありません。十枚あれば希少価値十分でしょう。
最後の締め括りは、鯣天で天国へは何よりでした。鯣は剣先烏賊が最高で次いで槍烏賊との定説ですが、如何なものでしょうか。いずれにしても、1烏賊2鮹3南京の格言は生きているようです。今回も、楽しい徘徊録を有り難うございました。
「腰かけ石」の類は、もう全国には無数にあると思いますが、やはりその土地の伝承と深く結びついているし、そうでなければ信憑性はゼロになってしまいますね。出口の光善寺の門前だから蓮如さんの腰かけ石があってOK、となると弁慶にしても、この地域に弁慶が座っていてもおかしくない伝承が伝わっている中で生まれてきたものだろうと思います。
昨夜から、山科の徘徊をやりたいと思うようになっています。mfujino様と師匠のご希望が一致しております(キーワードは山科本願寺)。具体化したら、アート喫茶店に連れて行って下さいね。
昨夜は阿倍野の明治屋で一杯やりました(^_^)新しいビルの1Fにありますが、表戸やら店の中はそっくりそのままでした。前の店から移築したのでしょう。以前はカウンターの中に男性が一人いたのですが、昨夜は全員おばちゃまばっかしでした。おやじの顔が見えなかったな。調理場にいた男性はもしかしてその息子かしら。ハシゴして行った上六の立呑屋は安かった~。小さいけど二殻の岩牡蠣がなんと380円\(^_^)/明治屋でビール・ウーロン杯・熱燗、上六では焼酎とワイン、ホテルで寝る前にはウイスキーとチャンポンしてしまったのでさすがに今日は元気がなかったなあ。
あの辺りにヒルを移出されたとのこと、いきなり血まみれになりますから、新しい怪談が生まれるかも知れませんね。昨日は山国富士に登るべく五本松からトコトコ歩き始めましたが、絶好のヒル日和だと考えて止めました。雨は問題なくてもヒルはイヤですね。
明治屋、ということは日曜日営業になったということですね。小生も近いうちに行ってみます。それにしてもチャンポンもチャンポン、ある意味メチャクチャですねぇ。
それと、「山科本願寺」やろうかという話です。また日にちを調整しましょう。
山科本願寺よろしく
文章を読ませて頂くかんには雨の匂いなど感じさせない見事な徘徊でしたね。「ワシらの徘徊に雨天中止の言葉はない!」その意気込みすごいです。
丸太町橋北の三本木にあった旅館、与謝野晶子の常宿だったと言う 「信楽」は今もあるのでしょうか?前々から一度あの通りをふらつきたいと思いつつ日が過ぎています。鴨川畔から山紫水明処は眺めたことはありますが。
昨日は時間待ちで画廊に程近い「本能寺」に初めて立ち寄って来ました。きらびやかな本堂。日蓮宗でしたか?信長展をしていましたがそこは寄らず本堂の奥(東側)の信長公廟に。
本能寺の「能」の字は右側の2つの「ヒ」が「去」のような字に替えられている。これは本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれている。ええそうなんですか?これも初めて知りました。
画廊にささ舟様がいらっしゃるのが、金曜日とは残念!7月3日まで伸ばしてもらえれば拝見できるのに。
そのすぐ近くに「出石蕎麦」の店がありますよ。お酒は召し上がらないかも知れませんが、蕎麦もなかなかです。金曜日、よかったら暖簾をくぐって下さい。