本日の徘徊は「大阪あそ歩」の地図が杖代わり、地下鉄四つ橋線難波駅からスタートです。難波の中心街からは随分と西になります。同じ「難波」という名を使うのは逆に不自然な感じもします。梅田に梅田と東梅田と西梅田があるように、西難波とでも名づけるのが適切です。といきなり文句で始めてはいけない。
四ツ橋筋を少し南下すると鉄眼寺、江戸時代初期のお坊さん、鉄眼の開いた寺です。近世畸人伝に記載されていますが、このお坊さん(尊敬しているときだけ「お」を付ける)、大変偉い人です。
鉄眼上人の父は熱心な門徒でしたが、当人は真宗の坊さんの肉食妻帯を嫌い、新たに渡来した隠元に師事し、禅僧となりました。その後に一切経の版刻を悲願とし、勧進に努めましたが、集め得た浄財を2度までも飢民救済のために全額投げ出したとのことです。如何に国の金を盗むかということしか考えていない政治家共、小沢しかり、辻元しかり、その口にこのお坊さんの墓の土をねじ込んでやりたいですね。アレ?また文句が出た。けれどもそれは、奴らが悪いから。
3度目の勧進で、ようやく完成した木刻一切経、吉野の桜の木を彫ったものとのことですが、積み上げると阿蘇山よりも高くなるそうです。現在も、この版木を使ってお経が刷られ続けていますが、今日我々が使う「明朝体」はこの版木のフォントを基にしているとのことです。
現在の寺の様子は、そこらに多い100%コンクリ製の本堂で、見た目だけだと、そんなに立派なお坊さんと縁のある寺だとは判りません。何か墓の海に浮かぶ鋼鉄船という感じ。
さらに南下すると、難波八坂神社です。東門の処で何名かの紅毛人がある方向を指さして何か言っています。携帯のカメラをある方向に向けているのもいます。東口から入ってみて納得、なかなかの迫力です。
絵馬殿と名づけられたこの建物、上に照明施設の付いた舞台になっていますから、神楽堂の代わりでしょう。最初は「わっ!」と思いますが、なじんでくると「イカモノ」です。虚仮威しというヤツ。
ご本殿
なんちゅうもんを建てるんやと思いながら境内を散歩すると戦艦陸奥主砲砲口蓋碑、さらに篠山神社なる江戸時代の代官を祀ったお宮さんもあります。大坂代官篠山十兵衛が生存中に既にこのお社が建てられていたということですから、所謂「生祀」です。こういうお社は各地に見られますので、江戸幕府天領では結構良い行政が行われていたことになります。「代官=悪」というような概念を植えつけた時代劇の罪は重い。
戦艦陸奥じゃー
篠山神社
安政6年の灯籠(大獄が始まった年です)
いろいろ感心して歩いていると境内に次の一枚、「ハトにえさをやらないで下さい。」。「あー、やっぱり。ここの宮司はアホじゃ。このお社には既に神はいらっしゃらない。」となるのですから全国の神職さんは気をつけましょう。本殿も全部コンクリだから汚れても水洗いできるやんけ。
近くの公園、鴎町公園に折口信夫生誕地の碑、さらに勘助橋跡の碑です。木津川を開削した中村勘助が架けた橋がこの辺りにあったとのことです。往古、この付近は勘助島と言われていました。碑の裏には「橋はなくとも勘助橋は渡りますぞえいつまでも」と都々逸が彫られています。
勘助橋跡碑
「ふーん」と見ていると、どこからか三味線の音がしてきます。しかも誰かが都々逸を呻っている。公園のすぐ横に、公民館があって、そこで老人会のクラブが開かれていました。バックミュージック、ありがとおと申す処。遥か昔の新町にいるような気もしました(芸妓がいるころの新町は全く知らないけど[笑])。
大阪市立の浪速区図書館、本日も日曜日ですが、しっかりと開いています。橋下君、足元からやで、足元から。先ず府立図書館の日曜開館を実現しよう。けれども府会の定数削減をパッとやってしまった維新の会はやはりスゴイ。反対した他会派(自・公・民・アホの共)、選挙民の目から見ると「見苦しい」の一言。自民は保守ではなく保身に成り下がったのかなぁ?
大国主神社までやってきました。徘徊をして神社を探すときの目印は鎮守の杜、このお宮さんには、大きな木が全くありません。夏は暑いやろなーと境内に入るとなかなかに麗しい光景が。
ハト休憩中
ネコ爆睡中
木々も何もないことも忘れて「えーお宮さんやー」と感動しきり、こういうところに神はおられるのでしょう。神がおられるからこそ、神職の方々も多くの命あるものが、この境内でユッタリと過ごすことを認めておられる。
木津(中村)勘助像
安土桃山から江戸初期にかけては角倉了意や河村瑞賢ら豪商が今日風に言えばインフラ整備に活躍しましたが、大坂にては安井道頓や中村勘助というところでしょうか。中村勘助は木津川を開削したので木津勘助とも呼ばれ、そちらの方が知られています。この勘助さんも妻は淀屋の娘といいますから、単に土木技術者というだけでは、語り尽くせない人です。
先ほどの鉄眼上人が浄財を投げ出したときと同じ飢饉の時でしょうか(もうちょっと後かな?)、勘助さんもまた私財を投げ出して飢民救済にあたったばかりか、大坂城の米倉からも米を持ち出して人々に配ったとのことです。死罪となったのか、人々が願ったように島流しになったのか、その最後ははっきりとしないそうですが、約200年後の大塩の乱の直接のきっかけは飢饉に際して備荒用の米の放出を奉行所が渋ったことだったことを思うと、勘助さんの義侠心の浅からぬことが分かります。
東日本大震災に寄せられた義援金、大地震以後三ヶ月になりなんとする今日でも被災者には殆ど届いていないとのことです。曰く「書類を整えねば」と。ここで一役人が発起して段ボールに万札を詰め込んで、避難所で「つこうて下されー」とかいいながらバラまいたら、まさに現代版木津勘助伝となるものを。
大きな大黒さんを祀るお社の横には狛ネズミ、「おやおや、最近は御縁がありますねー」。折口信夫の歌碑もあります。曰く「春はやきこぶしのうれひさきみちてたゞにひと木はすべなきものを」と。
と、ここでも亦三味線の音とそれに合わせた歌声が聞こえてきます。神社の横に何屋さんでしょうか「鶴半」と記した建物があり、そこの3階から聞こえてきているのでした。
ご本殿
さらに南下すると唯専寺、木津勘助の墓らしきものと義田碑と、そして「交際中」と称して下に何名かの名を連ねた碑。墓の扱いを受けていますが何かおもしろいですね。本堂はやはりコンクリ製。
勘ちゃんの墓と言われる
義田碑
交際中(わしらは仲良し?)
義田碑は道路を越えたところにある願泉寺にもありました。どちらが元でどちらがレプリカか。願泉寺の庭園は有名らしいのですが、庭園の中にいて庭園を探しました。この寺には折口博士が分骨されています。アッチ系の人なのでお参りは遠慮します。何でもいいけど(本当はよくない)、華道界に加えて教育にまでオカマがしゃしゃり出ていますね。あの教育評論家とやらは特に気持ち悪いどー。
願泉寺
「大阪あそ歩」の地図はここでおしまい。後はニオイで散歩ですが、見事に新世界の串カツのニオイに引き寄せられていきます。その前に大国町駅前でたこ焼き。「ビール冷えてます」の看板に釣られましたが、店内に食うところは無く、久しぶりにおもてで食いました。まあ、たこ焼きがうまかったし、ニイチャンもエエやつやし、それでええど。それにしても、ソースも何もなしで食う場合は「坊主」というのですね。テッポウやマムシに続くユニークな浪花の命名が生きています。これからは通ぶって、「たこ焼き8つ、4つは坊主で、あとはソース。」などと注文してやろう。
今宮戎神社です。御祭神は天照皇大神、事代主神、素盞嗚命、月読尊、稚日女尊。ありゃりゃ、所謂「えべっさん」はおられません。ここでは事代主神をえびすとしているとのことです。ヌヌヌ、神話では事代主も海に隠れた神なので、そうなるのでしょうか。高天原系と出雲系の神様の融合体、それもよし、それもよし。福娘は本日はゼロ名、それはあかん。
句碑 陋巷を好ませたまひ本戒
今宮戎神社を東に出ると、北の方に神社が見えています。「えべっさんの北か?まさか廣田神社ではあるまいなぁ」等と考えながら近づいていきますと、何と廣田神社です。西宮戎は北方の廣田神社の出店から始まりました。大阪に舞台を移し、えべっさんの北に廣田神社、こちらが先か向こうが先か、なかなかおもしろくなって参りました。先ほどの恵比寿神社の御祭神の稚日女(わかひるめ)命は西宮の廣田神社の主祭神だったように思います。このお社も古く、神使のアカエイ(アカエ)の絵馬が見事です。
明和5年(1768)の灯籠
さて、またまた新世界にやって参りました。本日も盛況です。朝日座の旅役者の一行が玄関でファンサービスをやっていましたが、ものすごく顔にものを塗るのですね。左官職人が使うコテで塗りたくってある感じです。あらぁ、どんなブ男でも美女に化けるわいな。但し、太陽の下ではアカン。
入った店は、道草様をお連れしたい「寅勝」。勿論のこと店は黄色で統一、他の店に比べるとビールはやや高めですが、たまには良いでしょう。今年は小生も(大キライな)星野が消えた阪神を応援します。コスイ星野が去るまで長かったー、暗雲はれる気分。けど弱い(泣)。ちょうど星野のいない阪神と中日の試合をやっていました。最初の生ビールを飲み干した瞬間、星野のいない阪神に2点目が入りました。このままいけば、地下鉄で寝過ごして北千里にいたころには星野がいない阪神が勝っていたことでしょう。疫病神、東北で恥を晒せ。岡田君、戻っておいで、オリックスグループは京都水族館でコケルよ。
四ツ橋筋を少し南下すると鉄眼寺、江戸時代初期のお坊さん、鉄眼の開いた寺です。近世畸人伝に記載されていますが、このお坊さん(尊敬しているときだけ「お」を付ける)、大変偉い人です。
鉄眼上人の父は熱心な門徒でしたが、当人は真宗の坊さんの肉食妻帯を嫌い、新たに渡来した隠元に師事し、禅僧となりました。その後に一切経の版刻を悲願とし、勧進に努めましたが、集め得た浄財を2度までも飢民救済のために全額投げ出したとのことです。如何に国の金を盗むかということしか考えていない政治家共、小沢しかり、辻元しかり、その口にこのお坊さんの墓の土をねじ込んでやりたいですね。アレ?また文句が出た。けれどもそれは、奴らが悪いから。
3度目の勧進で、ようやく完成した木刻一切経、吉野の桜の木を彫ったものとのことですが、積み上げると阿蘇山よりも高くなるそうです。現在も、この版木を使ってお経が刷られ続けていますが、今日我々が使う「明朝体」はこの版木のフォントを基にしているとのことです。
現在の寺の様子は、そこらに多い100%コンクリ製の本堂で、見た目だけだと、そんなに立派なお坊さんと縁のある寺だとは判りません。何か墓の海に浮かぶ鋼鉄船という感じ。
さらに南下すると、難波八坂神社です。東門の処で何名かの紅毛人がある方向を指さして何か言っています。携帯のカメラをある方向に向けているのもいます。東口から入ってみて納得、なかなかの迫力です。
絵馬殿と名づけられたこの建物、上に照明施設の付いた舞台になっていますから、神楽堂の代わりでしょう。最初は「わっ!」と思いますが、なじんでくると「イカモノ」です。虚仮威しというヤツ。
ご本殿
なんちゅうもんを建てるんやと思いながら境内を散歩すると戦艦陸奥主砲砲口蓋碑、さらに篠山神社なる江戸時代の代官を祀ったお宮さんもあります。大坂代官篠山十兵衛が生存中に既にこのお社が建てられていたということですから、所謂「生祀」です。こういうお社は各地に見られますので、江戸幕府天領では結構良い行政が行われていたことになります。「代官=悪」というような概念を植えつけた時代劇の罪は重い。
戦艦陸奥じゃー
篠山神社
安政6年の灯籠(大獄が始まった年です)
いろいろ感心して歩いていると境内に次の一枚、「ハトにえさをやらないで下さい。」。「あー、やっぱり。ここの宮司はアホじゃ。このお社には既に神はいらっしゃらない。」となるのですから全国の神職さんは気をつけましょう。本殿も全部コンクリだから汚れても水洗いできるやんけ。
近くの公園、鴎町公園に折口信夫生誕地の碑、さらに勘助橋跡の碑です。木津川を開削した中村勘助が架けた橋がこの辺りにあったとのことです。往古、この付近は勘助島と言われていました。碑の裏には「橋はなくとも勘助橋は渡りますぞえいつまでも」と都々逸が彫られています。
勘助橋跡碑
「ふーん」と見ていると、どこからか三味線の音がしてきます。しかも誰かが都々逸を呻っている。公園のすぐ横に、公民館があって、そこで老人会のクラブが開かれていました。バックミュージック、ありがとおと申す処。遥か昔の新町にいるような気もしました(芸妓がいるころの新町は全く知らないけど[笑])。
大阪市立の浪速区図書館、本日も日曜日ですが、しっかりと開いています。橋下君、足元からやで、足元から。先ず府立図書館の日曜開館を実現しよう。けれども府会の定数削減をパッとやってしまった維新の会はやはりスゴイ。反対した他会派(自・公・民・アホの共)、選挙民の目から見ると「見苦しい」の一言。自民は保守ではなく保身に成り下がったのかなぁ?
大国主神社までやってきました。徘徊をして神社を探すときの目印は鎮守の杜、このお宮さんには、大きな木が全くありません。夏は暑いやろなーと境内に入るとなかなかに麗しい光景が。
ハト休憩中
ネコ爆睡中
木々も何もないことも忘れて「えーお宮さんやー」と感動しきり、こういうところに神はおられるのでしょう。神がおられるからこそ、神職の方々も多くの命あるものが、この境内でユッタリと過ごすことを認めておられる。
木津(中村)勘助像
安土桃山から江戸初期にかけては角倉了意や河村瑞賢ら豪商が今日風に言えばインフラ整備に活躍しましたが、大坂にては安井道頓や中村勘助というところでしょうか。中村勘助は木津川を開削したので木津勘助とも呼ばれ、そちらの方が知られています。この勘助さんも妻は淀屋の娘といいますから、単に土木技術者というだけでは、語り尽くせない人です。
先ほどの鉄眼上人が浄財を投げ出したときと同じ飢饉の時でしょうか(もうちょっと後かな?)、勘助さんもまた私財を投げ出して飢民救済にあたったばかりか、大坂城の米倉からも米を持ち出して人々に配ったとのことです。死罪となったのか、人々が願ったように島流しになったのか、その最後ははっきりとしないそうですが、約200年後の大塩の乱の直接のきっかけは飢饉に際して備荒用の米の放出を奉行所が渋ったことだったことを思うと、勘助さんの義侠心の浅からぬことが分かります。
東日本大震災に寄せられた義援金、大地震以後三ヶ月になりなんとする今日でも被災者には殆ど届いていないとのことです。曰く「書類を整えねば」と。ここで一役人が発起して段ボールに万札を詰め込んで、避難所で「つこうて下されー」とかいいながらバラまいたら、まさに現代版木津勘助伝となるものを。
大きな大黒さんを祀るお社の横には狛ネズミ、「おやおや、最近は御縁がありますねー」。折口信夫の歌碑もあります。曰く「春はやきこぶしのうれひさきみちてたゞにひと木はすべなきものを」と。
と、ここでも亦三味線の音とそれに合わせた歌声が聞こえてきます。神社の横に何屋さんでしょうか「鶴半」と記した建物があり、そこの3階から聞こえてきているのでした。
ご本殿
さらに南下すると唯専寺、木津勘助の墓らしきものと義田碑と、そして「交際中」と称して下に何名かの名を連ねた碑。墓の扱いを受けていますが何かおもしろいですね。本堂はやはりコンクリ製。
勘ちゃんの墓と言われる
義田碑
交際中(わしらは仲良し?)
義田碑は道路を越えたところにある願泉寺にもありました。どちらが元でどちらがレプリカか。願泉寺の庭園は有名らしいのですが、庭園の中にいて庭園を探しました。この寺には折口博士が分骨されています。アッチ系の人なのでお参りは遠慮します。何でもいいけど(本当はよくない)、華道界に加えて教育にまでオカマがしゃしゃり出ていますね。あの教育評論家とやらは特に気持ち悪いどー。
願泉寺
「大阪あそ歩」の地図はここでおしまい。後はニオイで散歩ですが、見事に新世界の串カツのニオイに引き寄せられていきます。その前に大国町駅前でたこ焼き。「ビール冷えてます」の看板に釣られましたが、店内に食うところは無く、久しぶりにおもてで食いました。まあ、たこ焼きがうまかったし、ニイチャンもエエやつやし、それでええど。それにしても、ソースも何もなしで食う場合は「坊主」というのですね。テッポウやマムシに続くユニークな浪花の命名が生きています。これからは通ぶって、「たこ焼き8つ、4つは坊主で、あとはソース。」などと注文してやろう。
今宮戎神社です。御祭神は天照皇大神、事代主神、素盞嗚命、月読尊、稚日女尊。ありゃりゃ、所謂「えべっさん」はおられません。ここでは事代主神をえびすとしているとのことです。ヌヌヌ、神話では事代主も海に隠れた神なので、そうなるのでしょうか。高天原系と出雲系の神様の融合体、それもよし、それもよし。福娘は本日はゼロ名、それはあかん。
句碑 陋巷を好ませたまひ本戒
今宮戎神社を東に出ると、北の方に神社が見えています。「えべっさんの北か?まさか廣田神社ではあるまいなぁ」等と考えながら近づいていきますと、何と廣田神社です。西宮戎は北方の廣田神社の出店から始まりました。大阪に舞台を移し、えべっさんの北に廣田神社、こちらが先か向こうが先か、なかなかおもしろくなって参りました。先ほどの恵比寿神社の御祭神の稚日女(わかひるめ)命は西宮の廣田神社の主祭神だったように思います。このお社も古く、神使のアカエイ(アカエ)の絵馬が見事です。
明和5年(1768)の灯籠
さて、またまた新世界にやって参りました。本日も盛況です。朝日座の旅役者の一行が玄関でファンサービスをやっていましたが、ものすごく顔にものを塗るのですね。左官職人が使うコテで塗りたくってある感じです。あらぁ、どんなブ男でも美女に化けるわいな。但し、太陽の下ではアカン。
入った店は、道草様をお連れしたい「寅勝」。勿論のこと店は黄色で統一、他の店に比べるとビールはやや高めですが、たまには良いでしょう。今年は小生も(大キライな)星野が消えた阪神を応援します。コスイ星野が去るまで長かったー、暗雲はれる気分。けど弱い(泣)。ちょうど星野のいない阪神と中日の試合をやっていました。最初の生ビールを飲み干した瞬間、星野のいない阪神に2点目が入りました。このままいけば、地下鉄で寝過ごして北千里にいたころには星野がいない阪神が勝っていたことでしょう。疫病神、東北で恥を晒せ。岡田君、戻っておいで、オリックスグループは京都水族館でコケルよ。
それにしても、凄い偉業を成し遂げられたものです。加えて、全財産を2度まで救済のために投げ出された行為は、世の多くの為政者や成金者供に是非とも見倣ってほしいものです。
それにしても、次の難波八坂神社はお化け屋敷かと錯覚しました。凄い感覚の神職が存在するものです。祇園八坂神社の方が、まだずっとマシです。ただ、難八神の境内深くには徘徊堂さんお気に入りの石碑などもある様ですが、しかし、やはり仏性(神性?)は持ち合わせていないのでしよう。
続く鴎町公園は歌碑と言いBGMと言い、中々寛げる場所ではないですか。命名は海が近いからですか。徘徊堂さんは徘徊途上では酒精は口にされない様ですが、こんな所では三味の音で1杯(缶ですか)やりたいトコロでしょう。
日曜日に開けている図書館は、本来の目的を熟知している証明です。役所や郵便局なども、真に住民を配慮するなら土日祝にこそ仕事をすべきです。
樹木の1本も無い神社も珍しいです。生き物に優しい大国主ですか。彼らはよく知っているようです。爆睡猫の姿がそれを証明しています。大国町は通り過ぎたことがありますが関係あるのでしょうか。
中村勘助は木津川を開削した上に難民の救済にも尽力しているとか。角倉了以は、保津川開削以外にも人民に寄与したのですか。私事で強縮ですが、2人の娘らが絵葉書販売やイベント開催で協力して、99,000円を震災義捐に寄付したそうです。些細な金額ですが、何もしないよりはマシでしょうし。基金や支援は誰しも気持ちは持っても、実行するかしないか、それだけだと思います。
願泉寺は存じませんが、折口信夫はアッチ系なのですか。華道界・教育界のみならず、最近は宗教界にもオネエ坊主が出現しております。それがウリなのか、実に気色悪い現象です。
大国から始まって大国で休憩とは、中々イキではないですか。ソース無しのたこ焼きは「お」坊主ではないのでしょうか?今宮戎の賑わいは何度か横目で見ました。娘は見過ごしましていましたが。
それにしても新世界の「寅勝」は、勝った日はビールがタダみたいに安くなるのではないですか。負けた日やナニも無い日で補っているのかも。一度はお伴せねばなりません。徘徊堂さんも、今年は阪神を応援頂けるとの由。疫病神星野の感覚は、実に正常です。
楽天はナニを血迷ったのでしょう。経営者の眼力や判断がマトモでないと、従業員が気の毒なのはどの世界でも同じです。今年の阪神は、徘徊堂さんの如き強い味方を得て心強いばかりです。優勝すれば「寅勝」で祝杯を上げましよう。私が奢ります。
大国町はやはり大国主神社からきた地名だと思います。東の恵比須町は今宮戎から、エベッサンとダイコクサンが仲良く並んでいる感じになります。
お嬢様方を始め、多くの人が本当に善意で為されているご寄付・義援金、日本赤十字や中央募金会は本当にダメですね。未だに被災者には少ししか届いていないとのことです。ボランティアに関しては小生は辻元の子分達(ピースボート)がこれを奇貨として自分たちの組織の拡大をねらっていると考えています。日本ユニセフなども非常に胡散臭く、どこに寄託すればいいのか難しいですね。
難波八坂神社、氏子達は反対しなかったのでしょうか。宮司の道楽息子が後を継いで…という感じがミエミエな気がします。
私が住んでいた阿倍野界隈は空襲に遭ってないので昔からの長屋が割と残っていましたし、銭湯が多く残っていましたが今はどんどんと変化しているようです。さてさてどんな街になっていくのやら。これは橋下君でなくて平松君のお手並み拝見と行きたいのですが、まあ期待しないでおきましょう。
戎っさんなど面白いですね。あの狭い境内に3日間でなんと100万人が商売繁盛を願ってお参りするのですが、まさに押し合いへし合いでございます。戎っさんに参って新世界で土手焼きをほおばって熱燗、中途半端な裃着けず本音で喋り合う浪速の生活が懐かしくもあります。住むんやったら浪速でっせ。
ユニセフなどのことですが、私はあれだけの経費をかけたらそれに募金をした人のお金のどれだけがそれを必要とする人に渡るのだろうかという素朴な疑問を抱いています。田舎では赤十字募金は半強制的システムになってまして、これは募金でなく税金みたいなものです。その運営は人のチェックが入らない長閑な組織で運営されていることでしょう。
今回、今宮のエベッサンが所謂蛭子をご神体としているのではなく、寧ろ高天原系と出雲系が融合した形で祀られているのを知り、ちょっとビックリしました。エベッサン、ときたら蛭子ということを何も疑わずに今まで過ごしてきました。はっきりとは分からないのですが、西宮の廣田神社が基にあり、次に大阪の今宮戎+廣田神社、西宮戎の由来はその次になるのではないかな等とも感じました。
義援金、もう義援金で無くなっている感じですね。義援金なのだから、被災者にすぐに渡してあげねばダメだろうと思います。不公平があれば後でならしたらいいだけで、先ず先立つものを用意してあげるのが筋なのに何をしているのだと思います。
八坂神社の絵馬殿、びっくりしました!大江町の鬼かいな、なんて、神社にもこんなのがあるのですね。四国八十八寺には恥ずかしいものがありました?人は驚きながら他人顔をして触るのですね?もちろん私も触りまくりましたけど?アカエイの絵馬も初めて見ました。絵に描いてみたいほどいいですね。
戦後の配給時に魚といえば、エイでした。大きなエラの部分の軟骨の歯ごたえが嫌で嫌で泣きそうにして食べました。夜を越すとこごりになって冷たく幾分か食べ易すかったです。今ごろは見かけませんが。
大阪はなんなく魅力があります。大昔、難波に都があったと聞きましたが・・・。
大阪は、古い伝承では仁徳天皇の高津宮、ただこれはどこにあったかは不明です。645年の大化の改新時の孝徳天皇難波長柄豊崎宮、そして奈良時代の聖武天皇の難波宮です。最後の宮は大坂城の南に広がっています。
エイというのは食べることが出来るのですね。浪速区のこの辺りは昔はすぐ近くまで海が迫っていましたから、廣田神社の神使もたくさん泳いでいたものと思われます。