本来は、今回のタイトルは「笠峠から愛宕へ」となるべきはずでした。ところが、裏愛宕に迷宮の如く張り巡らされた林道の罠に見事にひっかかり、斜面を下りたり急坂を登っているうちにタイムアウトとなり、愛宕には辿り着けませんでした。
それでも、桟敷ヶ岳を始め城丹国境尾根などをドーと見渡せるポイントなどがあり、それはそれで楽しい山行となりました。
10時40分、滝ノ町のバス停から出発です。以前にmfujino様が下見をされた内容を参考にして、小川に沿った集落の中を峠方面に進みます。多分この道が国道開削以前の旧道でしょう。宇津氏の者どもが小野の関所へと通った道。
途中から旧国道の方に上がる道があり、登り詰めたところからは滝ノ町全体が見渡せます。
笠峠へは15分で到着です。この道をバスが通っていた等とはなかなかに信じられぬことです。この峠に来るのは概ね20年ぶりというところでしょうか。その折には今は町の鳥になりましたが、背黒セキレイが小野郷までの道をどこまでも先導してくれました。
笠峠(小野郷側から)
お地蔵さんは、立像の方は首無し地蔵になっています。このお地蔵さんの裏山を鹿よけのネットに沿って一挙に登っていきます。するとすぐに南東方向に半国高山が姿を見せ始めます。「やあ、半国高山だ。近いうちに行くしな。」とご挨拶。
半国高山
左はP667かな?
さらに登っていくと、桟敷ヶ岳(ここは来月には必ず登る)、天童山を始めとする城丹国境尾根などが変な表現ですが「完璧」な状態で見えています。この景色を見るだけで本日はまことに有意義であったと締めくくれます。
雪が残る桟敷ヶ岳
桟敷ヶ岳(アップ)
城丹国境尾根
国境尾根(アップ)
鷹ノ巣山(654m)には12時に到着。少し時間がかかったのは雑木林の中で遊んでいた(迷っていた)からです(笑い)。三角点の隣の立派な松の木は残念ながら枯れています。頂上からは桟敷ヶ岳が真っ正面に見えています。
桟敷ヶ岳
鷹ノ巣山から尾根沿いに南行し、林道に出てしばらく西に行き、林道が尽きるところまで来ると本日一番のビューポイントです。一眼レフを持っていかなかったことが思いきり残念でした。まだデジイチというものは持っていませんから、こやつにはフィルムが要るので邪魔くさい。それより家を出たときから「何か忘れてる」と気色悪かったのは双眼鏡、坂の上の雲のドラマを見て久しぶりに「男子双眼鏡を首にぶらさげざるべからず」と昔に喚いていたのを思い出したのですが、こいつを忘れたのは痛かった。ここからもはるか遠くに白い伊吹が見えていたからです。
八ヶ峰も見えているのですが、写真では不明。
林道が尽きたので雑木林に入り、尾根に沿って進みます。愛宕山のポッチリが見えてきました。幸せだったのはここまで。
尾根に沿った小径も尽きたので適当に進むうちに随分と下ってきました。そして、急勾配の杉の植林帯を下るハメに。途中でトゲトゲのある枝を両手で思いきり握りしめたので両手は血まみれになりました。今、ちょうど24時間経って両手を見ると傷口が殆ど見あたりません。ミュータントか?(笑)。
谷底の林道に降り立ったので、こやつを進めばいずれ松尾峠に着くだろうと甘い考えを持ってどんどん歩きます。朝日峯らしきものも見えているし楽勝だ。と思っていたのですが、林道はくせ者です。登って登って下りて登ってまた下りて等を繰り返したあげくに「はい、振り出しに戻る」、林道はあかんと途中から尾根に登りそこから反対側に下りると「あれぇ?さっき通ったところやんけ。」と、こんなことを3時過ぎまで繰り返しましたが、後で調べてみると小野郷の山で弄ばれていたのでした。
友人に、自動車で高槻・茨木の山を一晩中ぐるぐると回っていた人がいます。ナビなどがない時代でしたが、それの「歩き」版をやってしまった。
林道の分岐があったときに決して登らず、下る方ばかりを進んでいくと「どこか」には出ます。今回は旧小野郷中・小学校の南に出ました。「フン、振り出しに戻るのだったら車で来れば良かった。」とも思いますが、これは結果論。グラウンドではお年寄りがゲートボールをされていて、のんびりとした時間が流れています。顔見知りの方もおられましたが、今日は挨拶はパス。グラウンドにおられる全員に大声で紹介されたら恥ずかしい。
南に供御飯峠、30分したらバスが来るので今日はお預け。岩戸落葉神社にお参りをします。
日下部五郎右衛門翁の碑の建立は昭和38年、荒れ果てていた神社を立派に復興されたようです。
バスを待つ間、地元の方と話が出来ました。今や小野郷では50代で跡を取っているヒトが全く無いことや大邸宅の日下部家も屋敷は残っているが長岡京に引っ越されていること、老人無料パスはJR西日本バスでも使えることなどを教えていただきました。そらそうでしょうね。小野郷には市バスは走っていませんから。
京都駅前で一杯やって帰宅しましたが、観光シーズンに入ったものと見えて、もの凄い混雑です。未曾有の大災害がおきたのはどこの国だ。濃密な花粉ゾーンの中を歩いたためか、奇跡的に治ったはずの鼻にもちょっときていました。目はやはりボロボロです。けれども、京都駅前で飲んでいるときですら、心はひっそり閑とした北山杉の林や、尾根に沿った明るい雑木林にあります。近く桟敷ヶ岳に登ったら、その次は本日の復讐戦をやろうと考えています。まあ、今まで全く知らなかった(162号線の西側)小野郷を知ることが出来たし、その山の深さはこれからの楽しみだしというところです。
それでも、桟敷ヶ岳を始め城丹国境尾根などをドーと見渡せるポイントなどがあり、それはそれで楽しい山行となりました。
10時40分、滝ノ町のバス停から出発です。以前にmfujino様が下見をされた内容を参考にして、小川に沿った集落の中を峠方面に進みます。多分この道が国道開削以前の旧道でしょう。宇津氏の者どもが小野の関所へと通った道。
途中から旧国道の方に上がる道があり、登り詰めたところからは滝ノ町全体が見渡せます。
笠峠へは15分で到着です。この道をバスが通っていた等とはなかなかに信じられぬことです。この峠に来るのは概ね20年ぶりというところでしょうか。その折には今は町の鳥になりましたが、背黒セキレイが小野郷までの道をどこまでも先導してくれました。
笠峠(小野郷側から)
お地蔵さんは、立像の方は首無し地蔵になっています。このお地蔵さんの裏山を鹿よけのネットに沿って一挙に登っていきます。するとすぐに南東方向に半国高山が姿を見せ始めます。「やあ、半国高山だ。近いうちに行くしな。」とご挨拶。
半国高山
左はP667かな?
さらに登っていくと、桟敷ヶ岳(ここは来月には必ず登る)、天童山を始めとする城丹国境尾根などが変な表現ですが「完璧」な状態で見えています。この景色を見るだけで本日はまことに有意義であったと締めくくれます。
雪が残る桟敷ヶ岳
桟敷ヶ岳(アップ)
城丹国境尾根
国境尾根(アップ)
鷹ノ巣山(654m)には12時に到着。少し時間がかかったのは雑木林の中で遊んでいた(迷っていた)からです(笑い)。三角点の隣の立派な松の木は残念ながら枯れています。頂上からは桟敷ヶ岳が真っ正面に見えています。
桟敷ヶ岳
鷹ノ巣山から尾根沿いに南行し、林道に出てしばらく西に行き、林道が尽きるところまで来ると本日一番のビューポイントです。一眼レフを持っていかなかったことが思いきり残念でした。まだデジイチというものは持っていませんから、こやつにはフィルムが要るので邪魔くさい。それより家を出たときから「何か忘れてる」と気色悪かったのは双眼鏡、坂の上の雲のドラマを見て久しぶりに「男子双眼鏡を首にぶらさげざるべからず」と昔に喚いていたのを思い出したのですが、こいつを忘れたのは痛かった。ここからもはるか遠くに白い伊吹が見えていたからです。
八ヶ峰も見えているのですが、写真では不明。
林道が尽きたので雑木林に入り、尾根に沿って進みます。愛宕山のポッチリが見えてきました。幸せだったのはここまで。
尾根に沿った小径も尽きたので適当に進むうちに随分と下ってきました。そして、急勾配の杉の植林帯を下るハメに。途中でトゲトゲのある枝を両手で思いきり握りしめたので両手は血まみれになりました。今、ちょうど24時間経って両手を見ると傷口が殆ど見あたりません。ミュータントか?(笑)。
谷底の林道に降り立ったので、こやつを進めばいずれ松尾峠に着くだろうと甘い考えを持ってどんどん歩きます。朝日峯らしきものも見えているし楽勝だ。と思っていたのですが、林道はくせ者です。登って登って下りて登ってまた下りて等を繰り返したあげくに「はい、振り出しに戻る」、林道はあかんと途中から尾根に登りそこから反対側に下りると「あれぇ?さっき通ったところやんけ。」と、こんなことを3時過ぎまで繰り返しましたが、後で調べてみると小野郷の山で弄ばれていたのでした。
友人に、自動車で高槻・茨木の山を一晩中ぐるぐると回っていた人がいます。ナビなどがない時代でしたが、それの「歩き」版をやってしまった。
林道の分岐があったときに決して登らず、下る方ばかりを進んでいくと「どこか」には出ます。今回は旧小野郷中・小学校の南に出ました。「フン、振り出しに戻るのだったら車で来れば良かった。」とも思いますが、これは結果論。グラウンドではお年寄りがゲートボールをされていて、のんびりとした時間が流れています。顔見知りの方もおられましたが、今日は挨拶はパス。グラウンドにおられる全員に大声で紹介されたら恥ずかしい。
南に供御飯峠、30分したらバスが来るので今日はお預け。岩戸落葉神社にお参りをします。
日下部五郎右衛門翁の碑の建立は昭和38年、荒れ果てていた神社を立派に復興されたようです。
バスを待つ間、地元の方と話が出来ました。今や小野郷では50代で跡を取っているヒトが全く無いことや大邸宅の日下部家も屋敷は残っているが長岡京に引っ越されていること、老人無料パスはJR西日本バスでも使えることなどを教えていただきました。そらそうでしょうね。小野郷には市バスは走っていませんから。
京都駅前で一杯やって帰宅しましたが、観光シーズンに入ったものと見えて、もの凄い混雑です。未曾有の大災害がおきたのはどこの国だ。濃密な花粉ゾーンの中を歩いたためか、奇跡的に治ったはずの鼻にもちょっときていました。目はやはりボロボロです。けれども、京都駅前で飲んでいるときですら、心はひっそり閑とした北山杉の林や、尾根に沿った明るい雑木林にあります。近く桟敷ヶ岳に登ったら、その次は本日の復讐戦をやろうと考えています。まあ、今まで全く知らなかった(162号線の西側)小野郷を知ることが出来たし、その山の深さはこれからの楽しみだしというところです。
小学校へ上がる少し前に、父の仕事で高雄から一家4人で周山まで歩いた、私にとっては初めての長距離〝旅行〟のコースでした。中川の丸太磨きの小母さんに貰った藁草履を履いて、私は笠峠を喜び勇んで越えたものです。
しかし、元気だったのはその辺り迄で、次の栗尾峠では疲労困憊して、私は泣きながら悲壮な気持ちで歩いたものです。
周山中学校では、時にはバスの遠足がありました。そして、この笠峠の頂上がトイレ休憩になりました。男生徒はもちろん、女性徒も茂みに隠れて用を足したものです。昔の中学生は純朴でした。
トンネルが開通して40年ばかりになる、と聞きます。それ以来この峠とはご無沙汰しています。一度歩かなくてはなりません。それと、耳寄りな記事を見たのですが、周山街道のJRバスは、老人無料パスが有効とのこと。京北町も今や京都市ですし・・・。私はずっとバス賃を払って乗っております。もし、老人パスが使用可能なら、毎日でも乗るのですが・・・。飛び上がるほど嬉しい情報を聞きました。
権蔵坂で小畑先生と上り下り徘徊したことを思い出しました。その時は、芦生方面では北山界隈の谷に下りたらどこかへ出るわい、という認識は少し危険だという教訓は得ました。でも北山ではどの方向へ何メートル程歩いているのでこの谷は、なんてラフな計算でも大したことにはなりませんけどね。
JRバスが無料になれば大きいですね。ただ、小野郷や中川だけが特別なパスになっているかも知れませんので、ご確認下さい。
芦生方面では、やはり「戻る勇気」が何よりも大切でしょうね。北山のトバ口で遊んでいる限りはどんなところでも2・3時間も歩けば必ず里にたどり着けますが、若丹の国境では迷ったら冗談ではなくなります。八ヶ峰に登るときも絶対に登山道を外しませんものね。
去年の6月に京北ゼミから笠峠に行きました。細野の滝の町の花盛りの家並を通り少し急坂を登ると笠峠でした。私たちは小野郷を目指して進みましたが・・・。今、手元にその時の地図がありますのでgunkanatagoさんはどのように行かれたのかと見ています。
そして我が主の山日記(S2・9・1)を見ました。小野上の町→笠峠→滝の町→旧笠峠発→道なし10分で道に出、30分で谷に出、E進、谷をつめ尾根につき南進、次いで西進。3等三角点鷹の巣山564m。52°桟敷ヶ山、212°愛宕、竜、地蔵、朝日峰よく見える。336°長老か?そこから林道→JRあたご道バス停。昼食にピラフ、ビール中ビン。細野下町→芦見谷口橋→大本山円満院立て札付近の二又路を右手に入る→長野→星峠道改修記念碑前→神吉どんどん橋バス停→八木駅
何ていらん事を書いてしまいました。お許し下さいませ。
ご主人がビールを飲まれたのは細野小学校近くのルート162か、今は閉めてしまった喫茶店ですね。この2つの店におられたとすると、ご主人とすれ違っているかも知れません。
すごいのはここからですね。その後で、芦見谷に入って星峠まで行くかと思います。平田篤胤は本居宣長の死後の門人、残されたノートを頼りに小生もご主人の門弟の一人です。この山々の中にご主人の心根がそのままあるような気がします。
ご主人のノートを読ませて頂きましたら、新田次郎が「孤高の人」で描く「加藤文太郎」さんを彷彿とさせるものがあります。彼が日本アルプスならご主人は北山を縦横無尽に歩かれたのだというのが実感出来ました。
昼食にピラフとビール中ビン、この記録は我が熊野古道を歩いていた時、朝8時に御坊を出て夕7時半頃まで、途中ビール大ビンときつねうどんの昼食をとった事を思い出しました。あの時は途中雨に降られましたが、途中から海がぱっと見えるところへでたことでした。
書き出せばキリがありませんが、ご主人のノートは圧縮された凄い記録です。gunkanatagoさまの感動を共有したい気持ちです。
私が少しでも山に興味があれば事態は多少変わっていたかも判りませんが、忙しさにたまけてホントのこと無関心に近い状態でしたから、彼も山の内容はあまり話しませんでした。数十冊の山日記も2個の蕎麦ぼーろ缶に詰められていた5万分の1の地図も全て一緒に持たせました。当時、それが一番の供養かなと思ったからです。
今手元にある山日記は最後の物で、たった1冊だけ思い出にと残した物です。今になれば惜しいことをした思いで一杯です。
mfujinoさんも見て下さったのですね。ありがとうございます。恥ずかしいことですが加藤文太郎の名前知らなかったです。新田次郎の『孤高の人』も未読でした。早速借りて参りましょう。
昼食の場所はレストランR162と書いてます。R162て何のことかと?店名でしたか^^それに鷹の巣山(654)私の書き間違いでした。mfijinoさんお尋ねの件ですが、→は私が勝手に書いたもので、>―とか~、…、=なども書いてなく、ノートには小まめに時間と歩数と地図が記されています。歩いた場所は緑色の線で、補水した所や野草の場所、あとは英語で書いたりしていますので私には読めません。
gunkanatagoさん長くなり失礼いたしました。深謝です。