花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

南宗寺 戦国史散歩3

2012年03月21日 | 徘徊情報・和泉国
 本日の出発点は阪堺電車恵美須町駅、最近はモダンな感じの車両も走っているのですが、駅に停まっていたのは「キャッホー!」と喜びたくなるレトロな電車。こやつが大阪のディープサウスを走っていきます。



 沿線はまだまだ「昭和」の雰囲気を濃厚に残し、ちょっと降りて飛び込みたいような飲み屋もチラチラと見えます。飛田界隈では飲み屋ではないけれども(爆)。本日乗っているテッチャンは3名、車内で驚喜しながら動画を撮っている人もいました。小生にはテッチャンの資格はありません。常連らしきオバチャン連中は「何がそんなに嬉しいの?」という顔をして見ています。



 恵美須町からの電車は我孫子道まで、ここより以南に向かうには天王寺からの電車を待ちます。ここで乗換券というのをもらって初めて気が付きました。以前、住吉さんから帰ってきた時に全線200円とは知りましたが、まさか恵美須町から浜寺公園まで200円とは、「エッ?エー!」という感じ。最も価値ある200円、そんな賞があれば間違いなく金賞です。


我孫子道

 浜寺のイメージ、今は対岸に埋め立て地もできてしまっているのですが、やはり有名な海水浴場でしたから、「解放感」や「南国風」というところでしょう。公園の入り口にある交番もちょっと凝っています。



 南海電車浜寺公園駅も素晴らしい建物です。昔は夏にこの駅で降りたら「海や!海!」と喜ぶ小学生の歓声が響いていたものです。浜寺水練学校こそ今の水泳教室の草分け。



 ここから公園を背に東に向かいます。超高級住宅地の中を抜けてしばらくいくと「大鳥大社」です。御存じ日本武尊の白鳥伝説に関係する神社です。ただ大鳥連の祖神も祀られているところを考えると、本来は大鳥連一族の氏神であったものが大鳥の名から日本武尊の伝説と結びついていったものと考えられます。何と旧官幣大社です。




絵馬堂 トイレを横に造るなー


瓦の文様


拝殿


本殿

 境内には大正年間の植樹による楠が多く見られました。大きく育って石碑を取り込んでしまっています。



 1159年(平治元年・この時は未だ平治ではないけれども)12月4日、当時大宰大弍であった平清盛は熊野詣に出発します。12月9日、清盛の不在を衝いて権中納言藤原信頼と左馬頭源義朝がクーデターを敢行、所謂平治の乱です。以前は寧ろ源義朝が前面に出ていましたが、近年ではやはり乱の首謀者は信頼で、義朝は今までの信頼との交誼から引っ張られてしまったという解釈が為されています。
 義朝が清盛をライバル視して保元の乱後に清盛よりも出世が遅れているのを恨んで云々というのも考えられません。左馬頭という官職は父為義には到底望み得なかった高い官職であり、寧ろ左馬頭任官を誇らしく思っていたと考えられます。
 清盛は急いで帰京、12月17日には京都に戻っています。前置きが長くなりましたが、その帰洛の道筋で清盛と重盛の親子が大鳥大社に参詣、清盛は「かいこぞよ 帰りはてなば 飛びかけり 育み立てよ 大鳥の神」という歌を献じたということです。この歌は平治物語にあるのですが、清盛作で伝わる唯一の歌です。まあ、たまらんなあという気分の時に作った歌。明治になって富岡鐵齋がこれを記し、歌碑となっています。鐵齋、この神社の宮司だったのですね。



 この歌、「かいこ」を「かよいこ」と伝えているものもありますが、難解です。「かいこ」を「蚕」ととらえ、蚕が孵って蛾となったら飛び立つように私の運勢もまた帰洛の後に大きく飛び立てるように育んで下さい大鳥の神よ」てな感じに解釈するのが一般的なようですが、蚕蛾の成虫はほとんど飛ぶことがないようですから大空を飛翔するイメージには程遠い。蚕を「かよいこ」という話も聞きません。冒頭は「御神助の甲斐あって」ととらえる方がいいのかな等とも思いますがここは後はフニャフニャ…としておきましょう。帰洛した清盛は26日には信頼・義朝の兵を破っています。

 大鳥神社からはしばらくの間熊野街道を北上します。石津川近辺は延元3年(1338)に北畠顕家が戦死したところ、南朝最強の奥州軍団が壊滅した古戦場です。強烈な南朝方から北朝に転じた小生を許してねと思いつつキョロキョロと歩きますが、熊野街道沿いにはこの戦いをしのばせるものは何もありません。



 石津川の少し北に石津神社、最古のエベッサンのお社だそうです。小生はもうずっとエベッサン=蛭子と信じ切っていたのですが、出雲系の事代主命を恵比須神とすることも多いようですね。事代主命も国譲りの説話では海に入っているからでしょうが、やはり「水死」のイメージを強く感じます。





 石津神社からしばらくは熊野街道を歩きましたが、「なあんにもありまへんえー」ということで、少し西で熊野街道と並行している紀州街道に河岸を変えました。



 ここら辺りは昔は畑が連なり、灌水用の風車が一つの風物であったそうです。小学校の前に風車が再現されていました。




何となく街道


元は郵便局?

 船待神社は今は菅公が船を待たれたから云々と説明されていますが、更級日記(長い引用で恐縮ですが)に「冬になりてのぼるに、大津といふ浦に舟に乗りたるに、その夜、雨風、岩も動くばかり降りふぶきて、かみさへ鳴りてとどろくに、浪の立ちくる音なひ、風の吹きまどひたるさま、おそろしげなること、命かぎりつと思ひまどはる。丘の上に舟を引き上げて、夜を明かす。雨はやみたれど、風なほ吹きて、舟出ださず。ゆくへもなき丘の上に、五六日と過ぐす。からうじて風いささかやみたるほど、舟の簾まき上げて見わたせば、夕潮ただ満ちに満ち来るさま、とりもあへず、入江の鶴の声惜しまぬもをかしく見ゆ。国の人々集まり来て、その夜この浦を出でさせたまひて、石津に着かせたまへらましかば、やがてこの御舟なごりなくなりなまし、など言ふ、心ぼそう聞こゆ。」とあり、大阪湾沿岸航路に於いて泉大津の次に入るべき有力港が石津港であったということで、単純に「船待ちの港にある社」でいいのでは。


湊町・堺市合併祈念 大正2年 揮毫は近衛文麿



 紀州街道は御陵前付近で大きな道路に吸収されてしまいました。ここから少しで南宗寺です。またまた三好家ゆかりの寺。



 1531年6月、三好元長(長慶の父)は主君細川晴元と対立する細川高国を倒し=大物崩れ、長年の両者の対立に終止符を打ちました。けれども、その後すぐに晴元と元長の関係は険悪なものになっていきます。
 1532年6月、木沢長政を討つために飯盛山城を包囲していた元長は、背後から晴元に依頼された一向一揆に襲われます。重囲を脱して堺の顕本寺(アー、この寺に寄るのを忘れたぁ、すぐ近くなのに(悲))に逃げ帰った元長を一揆軍が追い、この寺を囲みます。その数は、依頼した六郎、細川晴元自身がビビルほどの人数だったようで、この後晴元は一向宗打倒のために法華と結ぶことになります。山科本願寺の落城などはこの事件と一連のものです。結局、元長はここで自決、足利義維による堺幕府もここに終焉を迎えます。
 南宗寺は三好長慶が、その元長の菩提を弔うために建立した寺です。大坂夏の陣後に場所は移って現在地にあるとのこと。これは顕本寺も同じだそうです。


甘露門

 さて、拝観を願うとここでは否応なくボランティアガイドが付くみたいです。「よろしければ…」というのがありません。もぎりのおっさんが、いきなり、「はい、お客さーん。」と叫んで、ほいきたという感じで「それでは、行きましょう。」ときたもんだ。


座雲亭

 勿論、善意で案内して下さるのは有り難いし、それを引き受けているぐらいだから「いい人」ばかりです。けれども小生一人に対して「三千家とはー。」とか、「秀忠、これは江戸幕府の2代将軍でー。」とか説明されると、何かもうええという感じもして、ついつい「はい!知ってまーす。」と返事をして話を遮ることも。一人でゆっくり見させてくでー、仏像盗んだりせえへんし。

 境内には千利休の供養墓、武野紹鴎墓、そしてそして池田を去った後に堺に亡命した牡丹花肖柏の墓もありました。牡丹花肖柏とはゆっくり話したかったなあ。ガイドさんから「池田」の地名が出たのは○でした。ただし、「池田出身の人」というのは×。


石庭 織部灯籠が見えます


紹鴎好みの灯籠

 もっとも世間受けするのがこの「徳川家康の墓」、建立には松下幸之助さんもイッチョウ噛んでいます。家康嫌いの大阪人のシャレですが、秀忠・家光の訪堺を以て実は夏の陣で戦死していた家康の墓参りとするのは無理がある。ここはガイドさんの見識通り、夏の陣で丸焼けになった堺の復興視察でしょう。本能寺の変の折、堺にいて、苦心惨憺して三河に戻った神君を偲ぶ気持ちがあったかも知れない。この墓で「どーだ。恐れ入ったかー。」というようなガイドさんでなくて良かった。



 仏殿には御住職さんの筆になる「チベットに平和を、中国人に仏心が宿りますように」という文字。これには感動しました。ガイドさんが「ワタシらは、これには触れないようにしています。」等と言われたので、「何でです?支那人・韓国人拝観お断りでええですやん。」というと、沈黙されました。ゴメンゴメン、困らせる気は全く無いのです。天井の八方睨みの龍は、まあ、どーでもええです(笑)。





 肝心要の三好氏に関しては、一族の墓というのが隅っこに少しあるだけでした。ショボイ五輪塔と小さいけれども世間でよく見る宝篋印塔の形をしたものが4基ずつ。八尾で長慶の墓を見ている小生は、ショボイ方が本来の墓だろうと思いましたが、どうしても立派なのをそうだと言いたい感じです。何にしても文字が刻まれていません。この寺、塔頭にもおもしろいところがありそうです。秀吉に憎まれ口をたたいたために惨殺された利休の弟子、山上宗二の墓もあります。口は禍の元、自戒自戒。夏の陣の後、寺の復興に活躍したのは沢庵和尚です。

 南宗寺の後は顕本寺のことはスッカリ忘れていたので、久しぶりに仁徳陵方面に向かうつもりでした。けれども雨が本降りになってきたので、徘徊はここで打ち止め。この辺りには傘を買うコンビニというものが全く見あたりません。イヤらしいことに電車に乗って10分もすると雨はやみました。再び阪堺電車に乗り、今度は天王寺に出て、さらに京橋。天王寺、陸橋が工事中で、一部外されていたこともあって、初めて天王寺で迷いました(笑)。それもあって結構時間がかかり、京橋に着いた時には「やまげん」の開店時間である午後5時を回っていました。
 ちょっと食べていて見苦しいですが、本日は先ずそば入りイカ焼き、これがもの凄い量で、スルメの天ぷらとビール何杯かでもうこれ以上入りません。最初は阪堺電車の運賃に感動しましたが、何て安上がりなんだぁと最後も感動です。ここは日本酒は呉春と剣菱(一生飲まない)と大関豪快(何かもみない)、呉春を置いているのは見識です。そのうち、「緑一」も置いてねと頼んでみよう。

  









12 コメント

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懐かしき昭和の電車今もあり。 (道草)
2012-03-21 18:17:13
南海沿線は岸里に1年間居りました。それ以外は、堺東(支店)かせいぜい中百舌鳥(教育合宿)程度ですので、コメントする資格はないみたいです。ただ、電車はこんなのが走ってました。
浜寺公園は、もしかして羽衣の近くですか。私が生まれて初めて行った南海沿線が羽衣です。戦前ですから70年近く昔のことです。生まれて初めての海水浴でした。連れてくれた叔父も同行した2人の従兄達も、既に亡くなっています。
羽衣には会社の保養施設があって、成人してから一度行ったことがあります。周辺の面影はまるで記憶にない程変貌していました。電車はどうでしたか。
人間に比べますと、やはり電車の寿命はやはり凄いものです。昨日は、JRの長距離列車が最期を迎えたニュースが流れていました。更に、飛田も不死身みたいなものでしょうし。それも、gunkanatagoさんの如き熱意のある方の支えがあるからこそ、でしょうけど・・・。

大鳥大社と称する神社があるのですか。官幣大社となると相当に由緒のある所なのでしょう。写真で拝見して物凄く広大な物に見えますが。
「かいこ」の歌は、たしかに蚕は蛾になっても余り飛ばないでしょうが、そんな蛾に喩えたのは自己を謙遜して詠んだのかも(清盛は意外に謙虚だった?)。ただ、生涯に1首しか詠んでないとなれば、この歌も果たして当人の作かどうかも疑問です。私もこんな歌は初めて知りましたので、よく分かりませんが・・・。

本命の南宗寺は、さすがに至れり尽くせりではないですか。それとも、今の時期は訪問者間少くて、ボランティァ氏は時間を持て余しているのかも。三好一族に関しては、gunkanatagoさんの方がガイド(講師?)に遥かに相応しいと思いますが。呉春と緑一のガイドも務まるでしょうし。
大阪の南で呉春に会えて春(道草)
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羽衣など (gunkanatago)
2012-03-21 20:25:21
 道草様、コメントをありがとうございます。堺東の高島屋、高2の時に友人と初めて行ったビアガーデンです(爆)。ところが、間違えてレストランに入ってしまい、中ジョッキを頼んだら横にべったりと給仕に付かれてしまい往生しました。ここまで来たら顔はささないという浅知恵でした。
 羽衣は浜寺の次ですね。小生もこれらの駅の名を聞くと何か「夏!」という感じで、サッカリンのアイスキャンデーなどを思い出します。今は、大きな埋め立て地ができてしまいました。
 自動車が普及した今は京都の人は日本海側に海水浴に行く方が多いみたいですが、さすがに70年前ともなれば京都の人も羽衣や須磨だったのでしょうね。
 清盛の歌は記録されていないというところでしょう。まあ、歌は忠度に任せたでーという感じだったのではと思います。
 飛田、松島、しぶといですね(爆)。阪堺電車も含めて、このしぶとさは大○です。このディープサウスの食い物屋等を探索し始めれば何かライフワークになりそうです。
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一度歩いてみたい町ではあるのですが (mfujino)
2012-03-21 22:18:49
gunkanatagoさま、今回は堺ですね。我が大阪のサラリーマン時代、堺に商品センターを立ち上げたので、最後の1年弱を阿倍野から自転車で通勤しました。いつものルートを外して寺町界隈を通り抜けたりはしたのですが、中に入る事はありませんでした。

堺華やかし頃の名所を歩きたい気持ちはあるのですが、ボランティアガイドのおっちゃんも指摘される様に、現物が残っているのが少なく、何々の跡とかの案内板だけというのが多い様です。その為ガイドさんは碑を見て訪問者にいろいろ空想して貰わないといけないで苦労するし、またその力量も問われるとのことです。

熊野古道は天満から中辺路の滝尻まで区分打ちで歩きましたが、大鳥神社の前を通り過ぎた(^_')ことを思い出します。その頃はただ歩け歩けでございました。道中のいろんな王子は拝んで通りましたけど…。
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阪堺電車・阿倍野 (mfujino)
2012-03-21 22:29:03
一つ書き忘れていました。半壊電車です。深夜というか早朝まで吞んで帰宅してさあ寝ようと布団に入ると始発電車のガタンゴトンという音が耳に入った事がありました。
帝塚山を過ぎて神ノ木あたりを走る電車の姿は絵になりますね。一両丸ごと電車を借り切って車内パーティが出来るサービスはまだやっているのかしら。

阿倍野は下町風情ののこるところで、先日あるテレビでそこを愛するスイス人を紹介する番組で、一杯飲み屋が出てきましたが、我が友人のお隣さんが一緒に酒を飲んでいる場面が登場、懐かしく見たものです。阿倍野界隈から北畠、帝塚山方面も徘徊にはお勧めです。締めは明治屋ならいう事無しなのですが(^_')
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俺が俺がの貧相 (mfujino)
2012-03-22 08:16:22
またまた書き忘れ、というか、これも書いておきたいことがありました。
墓などが立派なのは私はあまり好きではないっすね。というのは、先日我がブログで石造物を見て廻ったことを書きちらっと触れましたが、ある墓の真っ新な平成の宝篋印塔に、藤原中臣鎌足子孫第92世だったかが最初に書いてありその後に戒名が並んでいました。当地の大庄屋だったのですが、これには一同苦笑でありました。墓はひっそりとたたずむもの。
平家落人伝説などでも、今は落ちぶれているが、我が祖先を辿れば平家一門の云々とどうみても格好を付けているとしか思えないのがいっぱいあるのではないか、等にも話がおよびました。
我が同級生に、俺が俺がの**、と陰口を叩かれるのがおります。**はきれいにしてあるねというと、あれは俺が区長の時に、、などと何でも自分の功績にしたがる奴がいまして、あのなあ、自分で言うたらあかん、ほんまに功績があったら人様が、これは*さんがなあ、、って自然に語られるもんや、俺が俺がと言うたらあかん、などと説教してやったことがありました。
その人の功績は人様が語ることであり、歴史が証明するものではないでしょうか。また自分の祖先で権威付けを語る人はその人物は今は何も社会に貢献していないと見るべきだと思います。今自分がどう生きているかが大切であるのではないでしょうか?
従って由緒書きなどは眉にしっかり唾して読まないといけないと思います。
山国荘に残る古文書などにおける偽書についても研究がされたら嬉しいと思います。

家康の墓や三好さんの話などは面白い。しかしgunkanatagoはん、ガイドさんをいじめたらあきまへん。おれはこういう事を期待すると言うてからにしなはれ。期待出来ひんだら頼まんだらええんとちゃいまっか。またはどんどん質問しなはれ。知らんことは知らんというガイドさんなら逆に相手から質問が帰って来ます。ほんならあんたが解説してあげなはれ。そしたらあんたが知らんことでガイドさんが知ったはる事があるかも知れまへん。人をいじめたらあきまへん。これがガイドさん有効活用方でんな。先日明日香村で学生さんが実習で案内してくれはありましたけど、その内容は期待していまへんでしたので、ガイドのノウハウで盗めるもんがあったらパクらして貰います、と言って聞いてましたら、それなりに楽しい時間が過ごせましたえ。こういうこと書くとき大阪弁は便利やと思いまっか?それとも何やね~と?
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大阪のディープサウスの魅力 (gunkanatago)
2012-03-22 16:20:11
 mfujino様、コメントをありがとうございます。早朝まで呑んで、さあ寝ようという時に始発電車がガタンゴトン、うー、ドラマです。絵になりますね。大和川を越えて、自転車で通勤されていたのですね。これもまた絵になります。
 中臣鎌足92世?何の意味があるのかわかりません。藤原氏の門葉はもはや日本中を覆い尽くしていますから、イヤであろうが何であろうが全ての日本人(クロードチアリとか小錦などは除いて)に鎌足のDNAは受けつがれています。まあ「ええかっこしい」というところでしょうね。
 職場の近くにもオレがオレがのおっさんがいます。いろいろな寄付金を払わせておいて、「おれが頼んだったから寄付金出しよったー。」等と豪語していて近所の人には馬鹿にされています(爆)。
 ガイドさん、頼んでもいないのに勝手に付きました(笑)。一人で入っていこうとしたら、「そっちとちゃいます。こっちです。」てな感じです。まあ、それでも「いらない!」とはっきり言うべきだったかも。けれども、こちらが純粋な観光客であったと考えると「ガイドは要りますか?」という言葉は金を取る側が用意すべきものだと思います。
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地図のわからない大阪南部 (ささ舟)
2012-03-23 16:51:23
こんにちは。自称テッちゃんも南海本線沿線はまるで行ったことがありません。(高野線は除く)阪堺線があることも知りませんでした。
半世紀前、加太の海友ヶ島のこうのす山という所に行こうと誘われたことがありましたが、生憎、夏風邪をひいて行けませんでした。その友ヶ島は堺辺りにあると、今の今まで思っていましたが紀州だったのですね(アホです)。
堺といえば与謝野晶子と阪和線から見える仁徳天皇陵しか頭に浮かばないです。この機会に阪堺線に乗ってみるのもいいかも。近くて遠い大阪南部です。
京橋の烏賊焼き美味しかったです。



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是非に (gunkanatago)
2012-03-23 17:43:25
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。テツ子さんとしては、ここは是非とも阪堺線に挑戦してみて下さい。恵美須町はご不便でしょうから、天王寺から乗っていただくといいと思います。天王寺からなら乗換無しで浜寺に行けます。ただ、恵美須町からの景色も捨てがたいものがあります。
 今年はNHKのドラマの関係で岸和田が有名になりました。貝塚もなかなか良い街です。一連の河内シリーズが終わったら和泉シリーズを師匠に頼んでみますので、またお越し下さい。京橋、次回こそクレオールです(爆)。良家のご婦人を段々と得体の知れぬ世界にということでお叱りを受けるかも知れませんが。
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南宗寺、行ってみたいです (浮舟)
2013-02-08 11:09:46
 こんにちは。徘徊堂さん。この紀行文も味がありますね。堺といえば豪商、茶人しか浮かばなかったのですが、たしかに三好氏もありました。南宗寺、いい感じですね、座雲亭は茶室でしょうか。来年帰国したら行ってみようと思いました。阿倍野からは歴史散歩は住吉大社止まりでしたから。
 家康の墓、めちゃくちゃおもしろいですね。パッチものの一級品という感じで。もし死んだとしたら、茶臼山で真田幸村に討ち取られたというところでしょうか。私も九度山の真田庵は4度ほど行きましたから。まちがいなくアンチ徳川、アンチ東京の血がながれているとおもいます。
 関が原で家康は戦死したという隆慶一郎の「影武者徳川家康」を思い出しましたが、家康に死んでほしいと思った人はあんがい多かったかもしれません。
 おしつけボランティアをめぐるmfujinoさんとのやりとりもおもしろいですが、お二人の仲がいいということですね。うらやましいです。


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悪のりの追記です (浮舟)
2013-02-08 14:48:38
 柔剣道は礼にはじまり礼に終わるといいますが、歴史散歩は酒で締める、きわめて正統であると思います。京橋もまた結構うな所ですね。
 由緒ある神社やお寺の写真も良いのですが、あと50年もしたら阪堺電車の駅や沿線、踏み切りの風景の方が希少価値が出そうな気がしますね。我々がなんでもない、当たり前と思っている風景はすぐに失われていくからです。今池駅などマニアックな感じですね。その高架下にホルモン焼きの屋台の店があります。お客の話を聞いていたら「あいつ、また入ったらしいで。このあいだ出てきたのになあ」「ところでおまえは出て4年かなあ?」何の話かな~。刑務所でした。去年の12月の実話です。
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