本日の散歩は近鉄生駒線一分駅からです。全国の寺院の創建、伝えられているその数で四天王とも言える人は聖徳太子、役行者、行基、空海と言うところでしょうが、この生駒山の東麓には役行者と行基についての伝承が濃く残っています。
一分駅周辺は、第2名阪の開通以来、何か歩きにくい道になりましたが、そのうっとおしいところを抜けてしまうとすぐに竹林寺です。ここには行基の墓があります。
以前から行基菩薩に対しては畏敬の念は抱いていましたが、それはつまり聖人と呼ばれる人たちへの普通の尊敬でした。けれども、伊丹の昆陽寺で行基菩薩の詠まれた「山鳥のほろほろと鳴く声きけばちちかとぞ思ふははかとぞ思ふ」という歌を知り、いっぺんにこの人物を人間として好きになりました。この竹林寺には行基菩薩の墓があります。
戦前は内務省が管理していたことを始めて知りました。何とマメな役所なんだ(笑)。墓は墓碑などは無い方墳(円墳に見える)で、クマザサに覆われています。
竹林寺本堂
行基顕彰碑
竹林寺結界石・集めたら意味がない(笑)
何とこの竹林寺には忍性の墓もありました。行基菩薩の墓は知っていたけれども忍性の墓については今まで知りませんでした。やはり、ウロウロすることは大切です。
忍性は鎌倉時代の真言律宗の僧侶、救癩施設である北山十八間戸の建設を始め、被差別民や貧しい人たちの救済に尽くした僧侶です。ここでよく話題にする多田神社(多田院)の別当を勤めたこともあります。
鶯の声透き通り忍性墓・羅休
この忍性は行基菩薩を深く慕っていたとのこと。さもありなん。近年、漸くに「鎌倉新仏教」なる言葉は妥当ではないとの説が有力となり始めていますが、今でも、鎌倉時代の僧侶としては法然、親鸞、一遍、日蓮、栄西、道元のあるを知りて明恵や叡尊、重源や忍性を知らずという状況には変わりがないようで、第一にこれらの僧の名は一発で変換できない(爆)。
現実には、臨済禅はともかくとして、所謂鎌倉新仏教の開祖たちの教えが爆発的に広まるのは戦国時代。鎌倉時代は寧ろ比叡山や興福寺を中心に忍性等が活躍した時代です。事績を追えば京鎌倉の往来も忙しく、「これはもうスーパーマンやなあ」と思われますが、やはり心にしみるのは重度のハンセン氏病患者を背負って奈良阪を登ったり下ったりした忍性の姿です。行基が菩薩なら忍性もまた菩薩。実際、後醍醐天皇から菩薩号を追贈されています。あの生臭い天皇の数少ない善行ですね。
竹林寺からは暗峠を目指す登りが続きます。本来の奈良街道沿いはあまり見るべきものがないので、脇道を上がっていきます。
富雄丘陵・竹林寺付近から
興融寺は見たところ無住。本堂の裏に鎌倉時代の五輪塔、前には十三仏板碑(1549)、六字名号碑(1531)等が集められていました。1549年はキリスト教伝来、1531年は大物崩れがあり細川高国が亡くなった年です。
興融寺本堂
おー、要塞ぢゃーと言う感じの圓福寺、本堂の横の宝篋印塔、左側のものには1293年を示す銘があるそうです。じっくりと見ましたが、摩耗が激しくて確認できませんでした。そうか、これが鎌倉時代後期の形かぁ、しっかりと目に焼きつけよう。ありゃりゃ?この記事の影響かな?石造物を見る散歩になっている。小生は決して「ハカマイラー」ではないのですが。師匠は多分マイラー亜種(笑)。
さてさて、「鬼取」の里に入ってきました。暗峠越えのハイカーが多いと見えて、農家の建物を改装したカフェーも何軒か見られます。
暗峠方面
古木
大福寺
大福寺あたりからの富雄丘陵
昔、奈良市街から法隆寺まで歩いた時に間にある富雄丘陵の存在を全く知らなくて、「山」にぶつかった瞬間、これは生駒山地だと固く信じ込んでしまって、「これを越えたら大阪だー、法隆寺はどこに消えたんだ。」等とマヌケなことを思いながら丘陵を越えたことを思い出します。勿論、越えても大阪ではなかった。
鶴林寺は役行者ゆかりの寺、行者が連れている前鬼と後鬼はこの辺りで捕らえられたという伝説が残っています。だから「鬼取」。登るにつれ風の音が凄まじく、鬼哭啾々という言葉が頭に浮かびます。この鬼取の里の人々はは毎日この風の音を聞きながら暮らしているのでしょうか。鶴林寺前の道標では峠は「闇峠」と記されていました。昔の人の用字法はおおらかですね。
振り返ると、早くも富雄丘陵の高さを超え、丘陵の向こう側に奈良が見えます。山がハゲているところが若草山。写真では見にくいですが、大仏殿も見えています。
この辺りに行場としての滝と鶴林寺の旧地があるということなのですが、進入路が分からないままドンドンと行くと奈良街道に出てしまいました。やはり徘徊には地図というものが必要です(爆)。
それはもう数限りない人が往来した道、けれども今は芭蕉が最後の旅で歩いた道という感慨が最も大きく心の中を占めます。もう暗峠も近い。
さて、この信貴生駒スカイラインの下をくぐれば暗峠です。大阪側からの登りに比べるとはるかに楽ですが、奈良側からの登りもなかなかです。
峠の茶店は本日も盛況。この石畳の道は紛れもない「国道」です。峠の北側に細い道が延びて、滝に続いているとのことが道標に記されています。と、いうことは?以前、この細道から峠に来たこともありますから、滝を見ているかも知れないけど記憶にありません。少し雲行きが怪しくなってきたので、滝の確認は次回にします。
奈良側を振り返る
西の空に黒雲湧きて…という感じになってきました。枚岡までが最短距離、一挙に下ります。やはり徘徊にはカサというものが必要です(爆)。生駒縦断歩道を超えます。下の写真、広い方が「歩道」で左に上がっていく方が「国道」です。今、写真を見たら晴れていますね。何をあんなに焦ったのか。
暗峠を振り返る
大正六年の道標
大阪が見えてきました。高層ビル群、何か墓標のようですね。自転車で登ってくる人と多くすれ違います。小生も昔はやっていましたが、本当に大変です。下りの爽快感あればこそですね。
途中に芭蕉の句碑、九月九日重陽に峠を越えた芭蕉に残されていた命は一月余りでした。支考らが同行していたとはいえ、この峠越えはきつかったでしょうね。同じ句のさらに古い句碑はこの辺りの寺の中にあるということです。
菊の香にくらがり登る節句かな
姥ヶ池は枚岡神社の灯明油泥棒がばれた婆さんが身投げをして、その後夜な夜な亡霊が現れたところ。今は整備されて身投げはできません。けれども夜には来たくはないところ。
一気に枚岡まで下りました。枚岡神社は河内一宮、神風連としてはお参りせざるべからずです。本日も正式参拝をする人で賑わっています。ここにはコマ鹿があるのですが、何か鹿に触れて一心に祈っている人がいたので写真は撮れませんでした。御祭神は春日大社と同じ、というより春日さんはここから勧請されました。もとは鹿島の神、鹿が神獣です。コマ鹿に祈る人の心の中を知りたい気もしますが、まあこれはゲス根性。
梅林は既に満開を過ぎていましたが、それでも未だ未だ花を楽しむことができました。ヌフフフフ、雨は大丈夫だったぞー、正義は勝つ。と思っていたら、この後、鶴橋を経て京橋で呑んでいた時に本降りになりました。やはりカサは必要です。どうせ濡れるならば最初に決めた通り瓢箪山で呑めばよかった。
一分駅周辺は、第2名阪の開通以来、何か歩きにくい道になりましたが、そのうっとおしいところを抜けてしまうとすぐに竹林寺です。ここには行基の墓があります。
以前から行基菩薩に対しては畏敬の念は抱いていましたが、それはつまり聖人と呼ばれる人たちへの普通の尊敬でした。けれども、伊丹の昆陽寺で行基菩薩の詠まれた「山鳥のほろほろと鳴く声きけばちちかとぞ思ふははかとぞ思ふ」という歌を知り、いっぺんにこの人物を人間として好きになりました。この竹林寺には行基菩薩の墓があります。
戦前は内務省が管理していたことを始めて知りました。何とマメな役所なんだ(笑)。墓は墓碑などは無い方墳(円墳に見える)で、クマザサに覆われています。
竹林寺本堂
行基顕彰碑
竹林寺結界石・集めたら意味がない(笑)
何とこの竹林寺には忍性の墓もありました。行基菩薩の墓は知っていたけれども忍性の墓については今まで知りませんでした。やはり、ウロウロすることは大切です。
忍性は鎌倉時代の真言律宗の僧侶、救癩施設である北山十八間戸の建設を始め、被差別民や貧しい人たちの救済に尽くした僧侶です。ここでよく話題にする多田神社(多田院)の別当を勤めたこともあります。
鶯の声透き通り忍性墓・羅休
この忍性は行基菩薩を深く慕っていたとのこと。さもありなん。近年、漸くに「鎌倉新仏教」なる言葉は妥当ではないとの説が有力となり始めていますが、今でも、鎌倉時代の僧侶としては法然、親鸞、一遍、日蓮、栄西、道元のあるを知りて明恵や叡尊、重源や忍性を知らずという状況には変わりがないようで、第一にこれらの僧の名は一発で変換できない(爆)。
現実には、臨済禅はともかくとして、所謂鎌倉新仏教の開祖たちの教えが爆発的に広まるのは戦国時代。鎌倉時代は寧ろ比叡山や興福寺を中心に忍性等が活躍した時代です。事績を追えば京鎌倉の往来も忙しく、「これはもうスーパーマンやなあ」と思われますが、やはり心にしみるのは重度のハンセン氏病患者を背負って奈良阪を登ったり下ったりした忍性の姿です。行基が菩薩なら忍性もまた菩薩。実際、後醍醐天皇から菩薩号を追贈されています。あの生臭い天皇の数少ない善行ですね。
竹林寺からは暗峠を目指す登りが続きます。本来の奈良街道沿いはあまり見るべきものがないので、脇道を上がっていきます。
富雄丘陵・竹林寺付近から
興融寺は見たところ無住。本堂の裏に鎌倉時代の五輪塔、前には十三仏板碑(1549)、六字名号碑(1531)等が集められていました。1549年はキリスト教伝来、1531年は大物崩れがあり細川高国が亡くなった年です。
興融寺本堂
おー、要塞ぢゃーと言う感じの圓福寺、本堂の横の宝篋印塔、左側のものには1293年を示す銘があるそうです。じっくりと見ましたが、摩耗が激しくて確認できませんでした。そうか、これが鎌倉時代後期の形かぁ、しっかりと目に焼きつけよう。ありゃりゃ?この記事の影響かな?石造物を見る散歩になっている。小生は決して「ハカマイラー」ではないのですが。師匠は多分マイラー亜種(笑)。
さてさて、「鬼取」の里に入ってきました。暗峠越えのハイカーが多いと見えて、農家の建物を改装したカフェーも何軒か見られます。
暗峠方面
古木
大福寺
大福寺あたりからの富雄丘陵
昔、奈良市街から法隆寺まで歩いた時に間にある富雄丘陵の存在を全く知らなくて、「山」にぶつかった瞬間、これは生駒山地だと固く信じ込んでしまって、「これを越えたら大阪だー、法隆寺はどこに消えたんだ。」等とマヌケなことを思いながら丘陵を越えたことを思い出します。勿論、越えても大阪ではなかった。
鶴林寺は役行者ゆかりの寺、行者が連れている前鬼と後鬼はこの辺りで捕らえられたという伝説が残っています。だから「鬼取」。登るにつれ風の音が凄まじく、鬼哭啾々という言葉が頭に浮かびます。この鬼取の里の人々はは毎日この風の音を聞きながら暮らしているのでしょうか。鶴林寺前の道標では峠は「闇峠」と記されていました。昔の人の用字法はおおらかですね。
振り返ると、早くも富雄丘陵の高さを超え、丘陵の向こう側に奈良が見えます。山がハゲているところが若草山。写真では見にくいですが、大仏殿も見えています。
この辺りに行場としての滝と鶴林寺の旧地があるということなのですが、進入路が分からないままドンドンと行くと奈良街道に出てしまいました。やはり徘徊には地図というものが必要です(爆)。
それはもう数限りない人が往来した道、けれども今は芭蕉が最後の旅で歩いた道という感慨が最も大きく心の中を占めます。もう暗峠も近い。
さて、この信貴生駒スカイラインの下をくぐれば暗峠です。大阪側からの登りに比べるとはるかに楽ですが、奈良側からの登りもなかなかです。
峠の茶店は本日も盛況。この石畳の道は紛れもない「国道」です。峠の北側に細い道が延びて、滝に続いているとのことが道標に記されています。と、いうことは?以前、この細道から峠に来たこともありますから、滝を見ているかも知れないけど記憶にありません。少し雲行きが怪しくなってきたので、滝の確認は次回にします。
奈良側を振り返る
西の空に黒雲湧きて…という感じになってきました。枚岡までが最短距離、一挙に下ります。やはり徘徊にはカサというものが必要です(爆)。生駒縦断歩道を超えます。下の写真、広い方が「歩道」で左に上がっていく方が「国道」です。今、写真を見たら晴れていますね。何をあんなに焦ったのか。
暗峠を振り返る
大正六年の道標
大阪が見えてきました。高層ビル群、何か墓標のようですね。自転車で登ってくる人と多くすれ違います。小生も昔はやっていましたが、本当に大変です。下りの爽快感あればこそですね。
途中に芭蕉の句碑、九月九日重陽に峠を越えた芭蕉に残されていた命は一月余りでした。支考らが同行していたとはいえ、この峠越えはきつかったでしょうね。同じ句のさらに古い句碑はこの辺りの寺の中にあるということです。
菊の香にくらがり登る節句かな
姥ヶ池は枚岡神社の灯明油泥棒がばれた婆さんが身投げをして、その後夜な夜な亡霊が現れたところ。今は整備されて身投げはできません。けれども夜には来たくはないところ。
一気に枚岡まで下りました。枚岡神社は河内一宮、神風連としてはお参りせざるべからずです。本日も正式参拝をする人で賑わっています。ここにはコマ鹿があるのですが、何か鹿に触れて一心に祈っている人がいたので写真は撮れませんでした。御祭神は春日大社と同じ、というより春日さんはここから勧請されました。もとは鹿島の神、鹿が神獣です。コマ鹿に祈る人の心の中を知りたい気もしますが、まあこれはゲス根性。
梅林は既に満開を過ぎていましたが、それでも未だ未だ花を楽しむことができました。ヌフフフフ、雨は大丈夫だったぞー、正義は勝つ。と思っていたら、この後、鶴橋を経て京橋で呑んでいた時に本降りになりました。やはりカサは必要です。どうせ濡れるならば最初に決めた通り瓢箪山で呑めばよかった。
gunkanatagoさんもご感嘆の行基の「ほろほろと~」の歌はいいですネ。北桑の「泣別れ峠」にも相応しい思いです。
忍性の名を私はほとんど知りませんが、彼は限られた者だけでなく、全ての人間に対して平等に救済の手を差し伸べたとか。偽善者でないこんな人物こそ、真に菩薩と呼べるのでしょう。
続くは興融寺と称するのですか。なかなか立派そうな寺なのに無住ですか。gunkanatagoさんの終の棲家が見つかったのでは。僧侶の資格は簡単に取得出来るそうですし・・・。中地の観音寺もそんな資格の尼僧が住職とか。
次の圓福寺は規模も大きく、石造物も数多く存在していて「ハカマイラー」師の垂涎の寺でしょうか。そのご子弟には「サカマイラー」の称号がお似合いかも。
晩年の芭蕉が暗峠を歩いたのは何かの暗示でしょうか。途中にある枚岡神社は狛鹿ですか。
犬や牛は聞いたことがありますけど、鹿の神獣は珍しいのでしょうか。まぁ、鰯の頭も信心からと言いますし、信奉者にはご利益があるのでしょう。
それにしても、道にも迷わず雨にも降られず行き着く所に到着されたのは、忍性菩薩のご利益かも知れません。
地図なくて傘もなくとも酒があり(道草)
数年前に生駒スカイラインで暗峠に寄りました。石畳の峠も茶店も趣のある所でとても気に入りました。鍵のある珍しい所も・・・。
写真の素朴な風景、とことこ歩きたい衝動に駆られます。紅白の梅林もキレイ!
道中のお寺で竹林寺と鶴林寺の名前にきき覚えがありました。そうそう、四国巡礼寺に同名のお寺がありました。竹林寺の脇坊さんが、高知城下の鋳掛け屋の娘お馬を好きになり、はりまや橋のたもとの 小間物屋でかんざしを買い与えたのがいつのまにか評判になり、『よさこい節』でよさこいよさこいと歌われ有名になってしまった。いたたまれなくなった 二人は駆け落ちしたが捕らえられ、破戒と番所破りの罪で城下の三カ所でさらし 者にされたのち、坊さんは国外へ、お馬は仁淀川以西に追放された。ロマンスかどうかの話を思いだしました。
鶴林寺は阿波勝浦の標高500mの高い所にあるお寺で弘法大師の修行中に雌雄の鶴が黄金の地蔵菩薩を互いに翼をかざして守りながら杉の枝に舞い降りて来た。その仏を胎内に納めて本尊とし堂塔を建立されたとききました。大変な横道ですみません。
明日は晴れるといいのですが・・・。
全部で39の小角さんの寺に行ったのですが、キンキラキンのお寺もありましたが多くがひっそりと寺を守っておられる雰囲気でした。吉野の西、百貝岳近くの鳳閣寺では、「お~、よう来てくれたのう、、」と話しかけて貰ったのですが、黒滝村迄歩いて最終のバスに乗らねばと時間ばかり気にしていたものでゆっくり話が聞けなかったのが残念でした。お寺に誰もおられず集印出来ないじゃんと寺のあちこちを探し回ったこともありましたね。
と、こんな思い出もある生駒、ほかにも懐かしいことを思い出させて貰いました。最近新ルートを発見したんです。なんと十三峠すぐ近くを越える車道です。視界100msも無い霧の中を狭い一車線のくねくね道を走るスリルを味わいました。奈良側に下りてからは道は良くなったのですが、私も富雄丘陵の姿で方向を見間違えてしまいました。何回も行っているのに地図を見ないとこうなるんですね。
鬼取町ですけど、大峰奥駆け道沿いに前鬼ってあるんで、てっきりそちらの方でと思っていたのですがこちらにもそんな伝説があるんですか。これは初めて聞きました。
生駒も葛城山系と同じく、修行の山だったのでしょう。やはり車ででなく、歩いて訪れるところなのでしょうね。奈良側はなだらかで大阪側は急ですので、奈良側から登るのが楽なようですね。
春日さんは白鹿に乗って来られたという伝承があり、春日大社系列の神社は鹿が神獣です。奈良公園の鹿も本来は春日大社のお使いということになります。
芭蕉は暗峠を越える時にはまさか自分が大阪で死ぬとは思っていなかったでしょうね。どこを歩いても芭蕉の句碑がいっぱいありますから、どうしてもこの人物を意識してしまいます。
鶴林寺で最もよく知られているのは「西の法隆寺」と称する加古川の鶴林寺です。寺の様子はスッカリ忘れてしまいましたが、近くにウマイ和菓子屋があったのは覚えています。等と加古川を思い出すともうイヤシの虫が目を覚まし、頭の中で「かつめし」という言葉が飛びまくっています。
暗峠の大阪側は枚岡に着くまで店はありませんが、奈良側はカフェーなど色々とあって楽しいです。といっても農具小屋を改装したような感じです。
十三峠近くの車道分かります(爆)。「ここは車では通りたくないなあ。」と強く思ったところです(笑)。役行者1300年、小生も近鉄で吉野に行きました。
富雄丘陵はついついその存在を無視してしまいます。何か奈良の東山から生駒まではどーんと平野が続いているような錯覚が抜けません。
「黒滝村まで歩いて最終バスに乗る」、mfujino様も結構危うい徘徊をされていますね(爆)。生駒は昔のイメージはとにかく「憑きもの落とし」、最近は行者さんを見ることも少なくなっています。奥駆けの前鬼、昔から憧れているのですが未だ足を運べていません。