本日は師匠案内による京街道の4回目。またまた、備忘のために記しますが、京阪電車の駅で言えば楠葉~枚方市間は割愛しております。従って集合は枚方市駅ということになります。
駅を出たら、先ずは北に向かい枚方宿の東見付に行きます。北から歩いてきた人は天野川を渡り、この宿場に到着する訳です。現在はこの場所には橋は架かっていませんので、歩いてきた人は少し西のかささぎ橋を渡ってここに来ることになります。ここには問屋場の小野家の住宅がきれいに残っています。
東見附を南に出発します。非常に長い宿場町です。枚方のジモティ(しかもかなりの年寄り)は、枚方市駅を「東口」と呼び、枚方公園駅を「西口」と呼ぶのは、一時期京阪の駅にそういうのがあったからでしょうが、もともとは宿場の東口と西口を指したものと思われます。
東見付から
ここから駅の方に戻って、街道歩きが始まります。宗左の辻に向かう途中に枚方橋の跡。ここらを如何なる状態で川が流れていたのかということに興味が湧きますが、それはまた後日のこととして、先に進みます。
宗佐の辻まで来ると完全に繁華街の中を通ることになります。辻の名前はここにあった油商に由来するとのこと、ここには立派な道標が残っています。右に行けば「くらんたにのたき」(師匠より倉治の滝である旨ご指摘頂きました)とありますが、これなど今はどうなっているのでしょうね。
しばらく繁華街を通ると、再び京街道が姿を現します。月に一度「五六市」という催しが行われ、その日はものすごい人出ですが、本日は雨が降っていることもあり静かに宿場の名残を楽しむことが出来ます。
少し横に入ったところに井戸跡、ここいらの地下水は金気を含んでいるそうで、万年寺山の方から地下水路で水を引いてきた井戸が3つあったそうです。今は残るのはこの井戸のみと言うことですが、これなど和製「カナート(カレーズ)」ですね。アラブ人(ペルシャ人)もびっくり。
さらに少し外れて「お茶屋御殿跡」に行くために石段を登ります。ここはもともとは何かのマイクロウェーブが建っていた場所で、ここがまさに御殿跡なのかといわれると「?」とせざるを得ないと思います。意賀美神社の境内の下にこそ、秀吉の御殿が埋まっているように思われます。神社への参拝は本日は失礼させて頂きました。
淀川を眺める
街道に復帰します。ここいらでは最も栄えているのではないかと思われる氷屋さんも今日は閉まっていました。ほどなく塩熊商店。枚方宿には「うだつ」の上がった民家が何軒か残されていますが、その代表選手です。苗字はやはり「小野」さんであるようです。
話は変わりますが、戊辰の役の折、鳥羽・伏見で敗れ敗走する幕軍は淀城への入城を断られ、橋本の砲台付近では対岸の高浜の砲台から砲撃され、ふんだりけったりの状態でこの枚方宿まで壊走してきたのですが、ここで塩熊商店のご先祖が握り飯を用意するなどして、敗軍に供し、幕軍はようやく一息つけたという話が伝わっています。こういうご先祖の徳が今も家を栄えさせているのでしょう。あれ?日本永代蔵みたい。
塩熊商店から少し西にある公園が枚方宿の本陣跡になります。公園の隅に「明治天皇がここで昼飯を食べられた」という碑が建てられています。
かつては淀川をさらえると大量に出土したのが、「くらわんか茶わん」と呼ばれる安物の陶器、舟の上で食事をする人にこれを供したのが「くらわんか舟」で、食事の跡で大量に川の中に捨てられたものが、長い間川底に堆積していたということです。その茶わんも扱う骨董屋の前の踏切を越えると枚方御坊といわれる願成坊(写真はおまへん)、そこから線路沿いに細い道を進んで、臺鏡寺に寄ります。
枚方宿の研究に於いて欠かすことのできないのが「飯盛女」の存在です。旅人の夜のお相手をするものもいたのですが、宿場の夕暮れ時ともなれば、各旅籠から首筋から上を真っ白に塗った女が旅人の袖を引いた訳です。その飯盛女たちの信仰を集めたという地蔵さんが境内にあるのですが、このお地蔵さんは新しすぎるような気もします。
境内には一切経の記念碑などもありました。こうしていつも開けてくれている寺はありがたいですね。
本日のテーマの一つは「段蔵」だそうです。水防のために蔵の部分だけ石を他よりも少し高く積み上げ、その上に蔵を建てたものです。先ず家の方も撮らせてもらいましたが、この家を始め、この日の徘徊では多くの段蔵を見ることが出来ました。
西の枚方御坊淨念寺の前の細い道に入ります。ここいら一帯が枚方の港の跡です。大阪の他の地域と同じく、「浜」と言います。問屋役人の木南家に近いからでしょうか。ここらは問屋浜と言ったと言うことです。
細い道から街道に復帰したところに木南家住宅。先祖は楠氏であったと言います。ここいらでは一番の素封家でありました。
さらに進んで「鍵屋」。旅籠の後は久しく料亭となっていましたが、今は市営の資料館になっています。高山右近がここの天井裏に潜んでいた等という話も残る古い店です。この近辺の年寄りにとっては高山右近というのはそれだけの人です。
鍵屋では「ごんぼ汁」というのを復活して、見物客に出していたのですが、それは今も続いているのでしょうか。
鍵屋
鍵屋からしばらく行くと街道は大きく左に曲がりますが、またまたここを右に曲がり、淀川の堤防兼旧一号線のほうに向かいます。交差点をはさんで、郵便屋の渡しの碑と明治18年洪水碑があります。
郵便屋さん、走りんか。もうかれこれ十二時や。
明治18年の洪水は、この辺りの地名を取って「伊加賀切れ」と言われますが、ものすごい水害であったようで、今日尚この近辺で「洪水でー」という話になると、その洪水とは明治18年の洪水を指すようです。
巨大です
街道は西の見付で枚方宿を離れ、しばらく桜新地を通ります。ここは「新地」というのがこういうところを指すのだとよく分かる場所です。売防法成立によって壊滅したところですが、名残の桜湯まで無くなっていたのはさびしい限りです。この新地は江戸時代には存在しませんから、枚方宿でその方面を一手に引き受けていたのはやはり飯盛女でした。
色町としては今は壊滅
この桜新地を抜けると本来の京街道は淀川の堤防に沿ったルートになりますが、その変化は著しく、ここは光善寺を目指す道に入ることになります。その途中の公園でちょっと休憩。要塞のようなトイレがある公園でした。ここで同行の方々から栗の渋皮煮などをいただきました。絶品でした。ありがとうございます。
出口御坊光善寺は、山科本願寺が建てられる前に蓮如さんがおられたところです。寺のすぐ西には堤防の跡も確認でき、この寺のすぐ裏手が淀川の河川敷になっていたことがよく分かります。
蓮如さん、ここで以前からグラグラしていた歯が抜けたそうで、「歯が抜けちゃった」と御文を残しておられます。この寺、今少し精査する必要がありますが、本日は先に進みます。
盃状穴
出口の集落の外れに蓮如さんの腰掛け石。この前の碑に「親鸞聖人 蓮如上人 御田地」とあるのが意味がわかりません。御立ちの当て字なのかな等とも考えますが、どうもしっくりときません。何で、親鸞聖人まで一緒やねんという感じ。今度光善寺の坊さんにでも聞いてみようと思います。
ここで小生は、しばらく本隊から離れることになりました。師匠から地図まで預かっていたのにしっかり見誤り、着いたところは本隊より遥かに進んだところ。堤防の上でしばらく本隊を待ちました。まあ。雨もやんで景色もいいので退屈はしません。
鞆呂岐神社と本信寺は後日一人で訪ねねばなりません。小生みたいなのが昔の将軍なら、軍を率いて移動して気が付いたら敵軍のただ中ということになるのでしょう。
堤防から大阪が見える
本隊に無事復帰して茨田(まった・まんだとも)堤碑と太間(たいま)天満宮。ここにも人柱の伝承が伝わっていました。日本書紀の仁徳天皇の條に詳しく出ているようです。水害を防ぐために堤を築いたが、ここともう一ヶ所がどうしてもよく切れる。そのため、人柱をという話になり選ばれたうちの一人が茨田連衫子(まったのむらじこもろこ)という人で、今一人は強頸(こわくび)という人。強頸の方はおとなしく人柱になったのですが、衫子はひょうたんを川に投げ入れ、人柱を欲すると言ったものが真の神ならば、このひょうたんを沈めてみよといって神の力を試し、結局ひょうたんが沈まなかったので、人柱とならなくて済んだという話のようです。
しばらく進んで茨田樋之跡。これは淀川から水をこの地域の田畑に引いたものと思われます。
堤防上を歩いて、守口市に入りました。佐太の渡し跡には碑が建っています。
佐太天神宮の前に、何でこんな所に道標がという感じの道標。ここまで来ていたら、天神さんが目の前です。
佐太天神の境内にも何やかやと建っています。ここいらの天神さんにはまさしく神がいらっしゃる感じがしますね。この近隣をはじめとして淀川の川筋には天神さんの信仰が強く根付いている感じです。
明治天皇もこられたでー
蕪村句碑「窓の灯の佐太はまだ寝ぬ時雨かな」
天神さんの裏門を出たところにある来迎寺は石清水八幡宮の本地仏の天筆如来という碑が建っています。天筆如来とは聞き慣れぬ名ですが、結局は阿弥陀三尊のことかと思われます。それよりも何よりも幽霊の足跡が残る寺としても知られていますね。けれども久しぶりに門前に立ったときは、これを思い出しませんでした。
この辺りが江戸時代の譜代大名永井氏の代官所の跡です。高槻を治めた永井氏の親戚で、美濃の加納藩がこの付近も領地としていたとのことです。この付近を領地としてもらったのは大阪で何か役職についたために役料として、この付近に領地をもらったのかなと思い調べましたが永井氏ほどの譜代ならまずこれという大坂城代になったのは高槻の方の永井氏でしかも1649年からその翌年までの1年だけでした。けれども加納藩の方も京都所司代や、大坂加番を勤めていますから、まあそんなところではないかと思われます。
なお詳しく見ると、この地に領地をもらったのは京都所司代を勤めた永井尚庸で、その子の永井直敬がここに陣屋を造ったようです。
淀川流域の左岸の守りは高槻の永井氏、右岸はこの永井氏と言うことで幕府のお覚えも目出度かったようですね。
同じく天神さんのよこにある菅相寺、境内に入れてもらう旨を伝えると御住職がわざわざ説明書きを奥から取って来てみんなに配って下さいました。ありがとうございます。
古い塔を再利用した路盤
永井尚庸顕彰碑
本日はここで終了。バスで守口市に向かい串カツ屋に入りました。駅前で勧誘されたからですが、なかなかうまい店でした。ということは佐太~守口間もカットということになります。次回はいよいよ大団円、守口から高麗橋まで歩きます。
駅を出たら、先ずは北に向かい枚方宿の東見付に行きます。北から歩いてきた人は天野川を渡り、この宿場に到着する訳です。現在はこの場所には橋は架かっていませんので、歩いてきた人は少し西のかささぎ橋を渡ってここに来ることになります。ここには問屋場の小野家の住宅がきれいに残っています。
東見附を南に出発します。非常に長い宿場町です。枚方のジモティ(しかもかなりの年寄り)は、枚方市駅を「東口」と呼び、枚方公園駅を「西口」と呼ぶのは、一時期京阪の駅にそういうのがあったからでしょうが、もともとは宿場の東口と西口を指したものと思われます。
東見付から
ここから駅の方に戻って、街道歩きが始まります。宗左の辻に向かう途中に枚方橋の跡。ここらを如何なる状態で川が流れていたのかということに興味が湧きますが、それはまた後日のこととして、先に進みます。
宗佐の辻まで来ると完全に繁華街の中を通ることになります。辻の名前はここにあった油商に由来するとのこと、ここには立派な道標が残っています。右に行けば「くらんたにのたき」(師匠より倉治の滝である旨ご指摘頂きました)とありますが、これなど今はどうなっているのでしょうね。
しばらく繁華街を通ると、再び京街道が姿を現します。月に一度「五六市」という催しが行われ、その日はものすごい人出ですが、本日は雨が降っていることもあり静かに宿場の名残を楽しむことが出来ます。
少し横に入ったところに井戸跡、ここいらの地下水は金気を含んでいるそうで、万年寺山の方から地下水路で水を引いてきた井戸が3つあったそうです。今は残るのはこの井戸のみと言うことですが、これなど和製「カナート(カレーズ)」ですね。アラブ人(ペルシャ人)もびっくり。
さらに少し外れて「お茶屋御殿跡」に行くために石段を登ります。ここはもともとは何かのマイクロウェーブが建っていた場所で、ここがまさに御殿跡なのかといわれると「?」とせざるを得ないと思います。意賀美神社の境内の下にこそ、秀吉の御殿が埋まっているように思われます。神社への参拝は本日は失礼させて頂きました。
淀川を眺める
街道に復帰します。ここいらでは最も栄えているのではないかと思われる氷屋さんも今日は閉まっていました。ほどなく塩熊商店。枚方宿には「うだつ」の上がった民家が何軒か残されていますが、その代表選手です。苗字はやはり「小野」さんであるようです。
話は変わりますが、戊辰の役の折、鳥羽・伏見で敗れ敗走する幕軍は淀城への入城を断られ、橋本の砲台付近では対岸の高浜の砲台から砲撃され、ふんだりけったりの状態でこの枚方宿まで壊走してきたのですが、ここで塩熊商店のご先祖が握り飯を用意するなどして、敗軍に供し、幕軍はようやく一息つけたという話が伝わっています。こういうご先祖の徳が今も家を栄えさせているのでしょう。あれ?日本永代蔵みたい。
塩熊商店から少し西にある公園が枚方宿の本陣跡になります。公園の隅に「明治天皇がここで昼飯を食べられた」という碑が建てられています。
かつては淀川をさらえると大量に出土したのが、「くらわんか茶わん」と呼ばれる安物の陶器、舟の上で食事をする人にこれを供したのが「くらわんか舟」で、食事の跡で大量に川の中に捨てられたものが、長い間川底に堆積していたということです。その茶わんも扱う骨董屋の前の踏切を越えると枚方御坊といわれる願成坊(写真はおまへん)、そこから線路沿いに細い道を進んで、臺鏡寺に寄ります。
枚方宿の研究に於いて欠かすことのできないのが「飯盛女」の存在です。旅人の夜のお相手をするものもいたのですが、宿場の夕暮れ時ともなれば、各旅籠から首筋から上を真っ白に塗った女が旅人の袖を引いた訳です。その飯盛女たちの信仰を集めたという地蔵さんが境内にあるのですが、このお地蔵さんは新しすぎるような気もします。
境内には一切経の記念碑などもありました。こうしていつも開けてくれている寺はありがたいですね。
本日のテーマの一つは「段蔵」だそうです。水防のために蔵の部分だけ石を他よりも少し高く積み上げ、その上に蔵を建てたものです。先ず家の方も撮らせてもらいましたが、この家を始め、この日の徘徊では多くの段蔵を見ることが出来ました。
西の枚方御坊淨念寺の前の細い道に入ります。ここいら一帯が枚方の港の跡です。大阪の他の地域と同じく、「浜」と言います。問屋役人の木南家に近いからでしょうか。ここらは問屋浜と言ったと言うことです。
細い道から街道に復帰したところに木南家住宅。先祖は楠氏であったと言います。ここいらでは一番の素封家でありました。
さらに進んで「鍵屋」。旅籠の後は久しく料亭となっていましたが、今は市営の資料館になっています。高山右近がここの天井裏に潜んでいた等という話も残る古い店です。この近辺の年寄りにとっては高山右近というのはそれだけの人です。
鍵屋では「ごんぼ汁」というのを復活して、見物客に出していたのですが、それは今も続いているのでしょうか。
鍵屋
鍵屋からしばらく行くと街道は大きく左に曲がりますが、またまたここを右に曲がり、淀川の堤防兼旧一号線のほうに向かいます。交差点をはさんで、郵便屋の渡しの碑と明治18年洪水碑があります。
郵便屋さん、走りんか。もうかれこれ十二時や。
明治18年の洪水は、この辺りの地名を取って「伊加賀切れ」と言われますが、ものすごい水害であったようで、今日尚この近辺で「洪水でー」という話になると、その洪水とは明治18年の洪水を指すようです。
巨大です
街道は西の見付で枚方宿を離れ、しばらく桜新地を通ります。ここは「新地」というのがこういうところを指すのだとよく分かる場所です。売防法成立によって壊滅したところですが、名残の桜湯まで無くなっていたのはさびしい限りです。この新地は江戸時代には存在しませんから、枚方宿でその方面を一手に引き受けていたのはやはり飯盛女でした。
色町としては今は壊滅
この桜新地を抜けると本来の京街道は淀川の堤防に沿ったルートになりますが、その変化は著しく、ここは光善寺を目指す道に入ることになります。その途中の公園でちょっと休憩。要塞のようなトイレがある公園でした。ここで同行の方々から栗の渋皮煮などをいただきました。絶品でした。ありがとうございます。
出口御坊光善寺は、山科本願寺が建てられる前に蓮如さんがおられたところです。寺のすぐ西には堤防の跡も確認でき、この寺のすぐ裏手が淀川の河川敷になっていたことがよく分かります。
蓮如さん、ここで以前からグラグラしていた歯が抜けたそうで、「歯が抜けちゃった」と御文を残しておられます。この寺、今少し精査する必要がありますが、本日は先に進みます。
盃状穴
出口の集落の外れに蓮如さんの腰掛け石。この前の碑に「親鸞聖人 蓮如上人 御田地」とあるのが意味がわかりません。御立ちの当て字なのかな等とも考えますが、どうもしっくりときません。何で、親鸞聖人まで一緒やねんという感じ。今度光善寺の坊さんにでも聞いてみようと思います。
ここで小生は、しばらく本隊から離れることになりました。師匠から地図まで預かっていたのにしっかり見誤り、着いたところは本隊より遥かに進んだところ。堤防の上でしばらく本隊を待ちました。まあ。雨もやんで景色もいいので退屈はしません。
鞆呂岐神社と本信寺は後日一人で訪ねねばなりません。小生みたいなのが昔の将軍なら、軍を率いて移動して気が付いたら敵軍のただ中ということになるのでしょう。
堤防から大阪が見える
本隊に無事復帰して茨田(まった・まんだとも)堤碑と太間(たいま)天満宮。ここにも人柱の伝承が伝わっていました。日本書紀の仁徳天皇の條に詳しく出ているようです。水害を防ぐために堤を築いたが、ここともう一ヶ所がどうしてもよく切れる。そのため、人柱をという話になり選ばれたうちの一人が茨田連衫子(まったのむらじこもろこ)という人で、今一人は強頸(こわくび)という人。強頸の方はおとなしく人柱になったのですが、衫子はひょうたんを川に投げ入れ、人柱を欲すると言ったものが真の神ならば、このひょうたんを沈めてみよといって神の力を試し、結局ひょうたんが沈まなかったので、人柱とならなくて済んだという話のようです。
しばらく進んで茨田樋之跡。これは淀川から水をこの地域の田畑に引いたものと思われます。
堤防上を歩いて、守口市に入りました。佐太の渡し跡には碑が建っています。
佐太天神宮の前に、何でこんな所に道標がという感じの道標。ここまで来ていたら、天神さんが目の前です。
佐太天神の境内にも何やかやと建っています。ここいらの天神さんにはまさしく神がいらっしゃる感じがしますね。この近隣をはじめとして淀川の川筋には天神さんの信仰が強く根付いている感じです。
明治天皇もこられたでー
蕪村句碑「窓の灯の佐太はまだ寝ぬ時雨かな」
天神さんの裏門を出たところにある来迎寺は石清水八幡宮の本地仏の天筆如来という碑が建っています。天筆如来とは聞き慣れぬ名ですが、結局は阿弥陀三尊のことかと思われます。それよりも何よりも幽霊の足跡が残る寺としても知られていますね。けれども久しぶりに門前に立ったときは、これを思い出しませんでした。
この辺りが江戸時代の譜代大名永井氏の代官所の跡です。高槻を治めた永井氏の親戚で、美濃の加納藩がこの付近も領地としていたとのことです。この付近を領地としてもらったのは大阪で何か役職についたために役料として、この付近に領地をもらったのかなと思い調べましたが永井氏ほどの譜代ならまずこれという大坂城代になったのは高槻の方の永井氏でしかも1649年からその翌年までの1年だけでした。けれども加納藩の方も京都所司代や、大坂加番を勤めていますから、まあそんなところではないかと思われます。
なお詳しく見ると、この地に領地をもらったのは京都所司代を勤めた永井尚庸で、その子の永井直敬がここに陣屋を造ったようです。
淀川流域の左岸の守りは高槻の永井氏、右岸はこの永井氏と言うことで幕府のお覚えも目出度かったようですね。
同じく天神さんのよこにある菅相寺、境内に入れてもらう旨を伝えると御住職がわざわざ説明書きを奥から取って来てみんなに配って下さいました。ありがとうございます。
古い塔を再利用した路盤
永井尚庸顕彰碑
本日はここで終了。バスで守口市に向かい串カツ屋に入りました。駅前で勧誘されたからですが、なかなかうまい店でした。ということは佐太~守口間もカットということになります。次回はいよいよ大団円、守口から高麗橋まで歩きます。
・蓮如さんは、吉崎御坊~出口御坊~山科本願寺と移動されたのですね。この光善寺という寺名から、出口御坊へ来られる前に滞在された美山の光瑞寺を思い出してしまいました。両方とも光が入ってる。
・木南家の先祖は楠氏、確かに楠は木と南ですね。
・段蔵、沢山ありましたね。古堤街道の時にこれを教えて貰ったのを思い出します。
・茨田樋之跡や茨田堤碑を見るにつけ、また人柱の話を聞くにつけ、古代から水との戦いで今日の大阪平野があるのが分かります。丹波では大国主命の国造り伝説ですが。今の淀川の姿を見ていては分からないので、昔の淀川の流れなどをネットで検索し直して地図を見て楽しんでおりました。
余談ですが、災害のニュースをテレビで見ていると地形の解説が出てきますが、自分の住む地の昔の地形を知るというのは大切だわいと実感します。ポロロッカならぬ南海地震の津波がこの淀川を逆流する姿を想像したりしました。
・枚方市も歴史街道を標榜してそれなりに努力されているのは分かるのですが、ここまで新しい家が建ち並ぶとその雰囲気の再現は不可能でしょう。全国各地の田舎で保存すべきが残っているところの健闘を祈るのみです。
・書いておられる様に、確かに天神さんが多いですね。
・菅相寺で見た古い塔を再利用した路盤、先々代(でしたね?)が手水鉢に、という和尚さんの説明は面白かったなあ。それにしてもこの若和尚には清々しい気持ちにさせて貰いました。
・出口にどう入っていくか、という師匠の解説を洒落ネタにしたりして遊んだりしていましたが、昔の街道はこうだったのではと家の玄関の並びから考察されていたのはさすが師匠というところですね。
光善寺は、本当に人影が無くさびしいですね。まあ、他の地域でも~御坊と名の付くところは今はさびしいですね。開けているだけでもありがたいというところでしょうか。
枚方宿から光善寺までは教えていただいた古地図では、明治の京街道はやはり淀川の堤防に沿っていますね。その後、堤防も随分と変わりましたから、今は「この辺な」で済まさざるを得ませんね。
段蔵、随分とありましたね。古堤で教えてもらうまで、全く知りませんでした。河内の人間はのんびりしていて、こういうことは全く気が回らないと思っていましたが、さすがに昔の人は偉いです。
あの再生手水鉢、かなり古い宝篋印塔では?と思っています。和尚さんの親切はありがたかったですね。ウロウロすることでいろんな人と結縁することができるのもうれしいことです。
お世話になりました。 どら焼きも美味しかったし、栗の渋皮煮はとろけそうにおいしかったし、初めて大阪で食べた有名な串カツ、小さいけれどもなかなかでした。 2日目、十三が本店と言う「やまもと」と言うお店で「ネギ焼」を食べることが出来ました。 今回は食に満足な徘徊でした。
枚方市のボランティアガイドの方から当日伺った、「守口市は湿地帯だったのですよ。」と言う言葉からは想像できない、守口市を見ました。 土地は生き物なのかもしれません。
淀川堤の上を歩いてますと、過去と未来が見え、更に天空まで見える、光が射す雲の切れ目はきれいでした。
若いご住職、清々しかったですね。 脂ぎった住職にならないことを祈ります。
大阪散歩、いかがでしたか。京都とはまた異なる風情がありますでしょう。土地の人も含めて、「大阪」となりますとボロクソに言う人も多いのですが、それなりに見るべき所は多いように思います。
「やまもと」のねぎ焼きは小生は知りませんでした。1枚千円を超えると言う(ささ舟様のところで拝見しました)のは関西人の感覚からすると許せない感じです。まあ、そういう意味からいくと京都のスィーツとやらも「えげつない」感じがしますが。その点から言っても嵐山のねぎ焼き屋さんは良心的ですよ。一度足をお運び下さい。
来月は師匠が知られざる紅葉の名所?を御案内するとはりきっています(箕面とかではないですよー)。
守口、そう言えば「レンコン」も名物でした。本当に湿地帯にピッタリです。
テーマの段蔵、たくさん見せて頂きました。中でも○○医院の年季のはいった建物、段蔵。一体何科の医院だろうなと考えてしまいました。
お茶屋御殿跡から見た淀川の風景は、規模の違いはあるものの、一瞬、奥州中尊寺から見た、滔々と流れる北上川を思い出しました。
その後雨も上がり愉しく徘徊をされ、皆さんの健脚に感心するばかりです。残るはゴールの串カツですね(笑)
ありがとうございました。
枚方市駅はなかなか立派ですね。弟の住んでいるいる長尾のほうにしか行ったことがないので、記事のすべてが目新しいです。とくに鍵屋のたたずまいがいいですね。旅籠とか飯盛り女とか、半七捕り物帖、鬼平犯科帖などにでてきますが、建物を見ると実感が湧きます。
蓮如の足跡もあるとか・・うーむ、山科から南下して、石山本願寺にリーチをかけた場所というところでしょうか。
雨模様で大変でしたね。とくに遠方からお越しの方は。悪いこともあればいいこともありますから・・
前のコメントの続きです。私の好きなブロガーが丸一屋京橋店をとりあげ、さすが京橋、外れなしのお味と評価しています。さらにブログ用の写真を撮っていいかと店主に聞けば、「いいよ、いくらでも、でもわしの顔は困る、お尋ね者やから、ははは」おもしろい人やなとさらにポイントをあげました。
○○医院は「内科」です。お父さんの後を受けて今は女医さんです。三十石舟が行き来していたころの枚方は風光明媚で知られたそうです。今は対岸に大きなマンションなども建っていますが、北の方を眺めると遠く比叡山なども見え、ちょっといい景色かなと思います。
迷ったりスカタンはいつものことで、今回も早くに堤防に登ってしまったためのチョンボでした。人を巻き込まないで良かったというところです。
長尾も今は学研都市線の充実によって大阪から直で行けるから便利ですね。本数が少ないころは京阪の枚方市駅で降りてバスで長尾に行く方が早かったようです。いずれまた、この界隈もウロウロする日があるだろうと思います。あの辺りに行ったらどうしても交野山ということになってしまいますが。
丸一屋の話、ありがとうございます。そんなオモロイおっさんもいるのですね。今度行ったときに特定してみます。小生が分かるのはやはりおばちゃんの方で、釣りを返すときにギューと手を握りしめて「また来てや、また来てや」と言われたら行かない訳にはいきませんという感じで(笑)。