夜に寝る前は、美山の大野に行くか滋賀に行くかさんざん考えて「夕方は一杯やりたいし明日は滋賀!」と決めていたのですが、朝起きられない(泣)。結局家を出たのはお昼前、ということで兵庫県の川西市にある絹延橋うどん研究所のビール祭に行くことに決めました。
その前に、前回の京街道の徘徊で、地図までもらっていて辿り着けないというあまりの愚かしさに笑うばかりですが、小生一人だけが見ていないところがあったので、ちょいちょいと見に行きます。
先ずは枚方市出口の光善寺、ここには皆さんと一緒に来たのですが、蓮如さんの腰掛け石の所の石柱に「親鸞聖人・蓮如上人御田地」の「御田地」とは何だということについて、話が聞けないかなと思ったので寄っていきます。
つれづれに下を見ると枚方市のマンホールは帆掛け船と菊。帆掛け船は淀川を行きかったものを図案化したものでしょうし、菊は一昔前まで行われていた菊人形に由来しています。
光善寺境内、見事に人がいませんでした。24日の木曜日には報恩講を執り行ったようで、その時はそれなりに賑わったのでしょうが、今日は誰もいません。「御田地」のことは宿題となりました。歯が抜けちゃったの碑の隣にある笠と杖の碑は蓮如さんの何回目かの御遠忌の記念でした(写真はありません)。
本堂
鐘楼(本堂共々江戸時代詳細は忘却)
寺の裏手には堤防の跡が残っており、今は寺と淀川の間はかなりの距離がありますが、本来は川がもっと東に寄っていたことが分かります。このところの何回かの徘徊で、川も流路その他が変わりまくっているということがよう分かりました。
寺を出たところで立ち話をしているおっさんに話を聞こうかなと思いましたが、おっさんどうしが会話にあまりに熱心で付け入る隙がありませんでした。ご近所さんでペチャクチャしゃべっているのはおばはんという既成の概念が根底からくつがえりますな。ここいらでも段蔵を多く見ることが出来ます。
蹉陀神社は御旅のみが道筋にあり、携帯の地図で探したのですが、どこにお社があるのかは分かりませんでした。帰宅後にさらに詳しく調べると何と京阪電車の線路よりも東側でした。天神さんです。「蹉陀」という地名、住所表示には無いようですが、非常に広い範囲を指していることが分かりました。
蹉陀神社お旅所
木屋(こや)の集落に入ります。小生がカットしてしまったのはここです。先ずは本信寺。日露の役の折の廃兵が…というのを聞いていたのですが、よう見つけませんでした。ひょっとしたら師匠の大好きな(爆)墓地に入らねばならなかったのかも知れません。(追記、やはり墓場の入り口の橋の欄干だと師匠より連絡をいただきました。)
善明寺は、境内を持たぬ寺でした。道場様式の寺と言うことで分類していいのかな等と思います。
鞆呂岐神社は提灯の裏に「六社」の文字が記されていましたから、ここいらの神社を一つにまとめたお社ということになると思います。
赤穂浪士から4代目あたりの人のゆかりの鳥居もありましたから、そのころから社地であったことは確かなのでしょう。吉良の味方である小生は、「赤穂浪士」とか「忠臣蔵」とかの言葉を見たり聞いたりすると自動的に「ケッ!」というスイッチが入ります。
神社の横手が少し高くなっています。登ってみると茨田蛇池跡の碑があります。つまり高くなっているところは堤防であった訳です。この外に広がる田畑には百万の蛇の精霊が…等と考えるとちとコワイ。
手水舎は手をかざすと自動的に水が出てくる装置で「鄙には稀な」とはこのことを言う。
神社を出たところにも段蔵がありました。一の鳥居は天保年間のもの。
ということで、ここから京阪の香里園駅まで歩き、電車に乗りました。香里園の駅前もすっかり様変わりですね。一昔前にはあった「怪しーい」雰囲気のところがきれいに無くなっています。
絹延橋うどん研究所というのですから、能勢電の絹延橋駅で降りれば良い訳です。しかし、習性というのは怖いもので、池田駅で降りてしまいました。最初はたこ焼きを食べて~等と考えていたからですが、知人から「はよ来い」とメールが入りましたから、真っ直ぐにうどん研を目指しました。絹延橋駅で降りたら良かったということに気が付いたのは絹延橋(川に架かる)の手前でした。それにしても池田に来てたこ焼きを外したというのは記憶にありません。店の方に向かって手を合わせてお詫びします。
池田井堰改修記念碑
唐船ヶ淵
アヤハトリ・クレハトリの時代はいざ知らず、上島鬼貫が確かにこの辺りに来て「棹の哥は松の風のみ鍬つゞみ」という句を詠んだことと、昭和の初めごろにこの辺りで入水した俳人がいるということが唐船ヶ淵について確かに言えることです。俳人と言うからには鬼貫の句についても知っていたのではないでしょうか。
堰堤には鷺の黒いヤツと白いヤツがいて魚をねらっていましたが、鴨川の鷺と違って人見知りをするようでカメラを向けるとサーと飛び立ってしまいます。
さて、こやつを渡るとうどん研です。いつもこれを渡って飲みに来るのは小生の一味ぐらいでしょう。飲んだ後も渡るからなかなか危険。うどん研なのに、小生は未だ一度もうどんを食うたことがありません。
店はものすごく賑わっていました。ヴァイツェン(どこのか分かりませんがHPによると篠山のらしい)が飲めたということが予期せぬ幸せでありました。聞けば今回が第1回とのこと、第2回にはするめの天麩羅を用意してもらいたいです。結果としてたこ焼きでビールを飲まなかったので、飲み過ぎにならなくて良かったです(と自分をごまかす)。
その前に、前回の京街道の徘徊で、地図までもらっていて辿り着けないというあまりの愚かしさに笑うばかりですが、小生一人だけが見ていないところがあったので、ちょいちょいと見に行きます。
先ずは枚方市出口の光善寺、ここには皆さんと一緒に来たのですが、蓮如さんの腰掛け石の所の石柱に「親鸞聖人・蓮如上人御田地」の「御田地」とは何だということについて、話が聞けないかなと思ったので寄っていきます。
つれづれに下を見ると枚方市のマンホールは帆掛け船と菊。帆掛け船は淀川を行きかったものを図案化したものでしょうし、菊は一昔前まで行われていた菊人形に由来しています。
光善寺境内、見事に人がいませんでした。24日の木曜日には報恩講を執り行ったようで、その時はそれなりに賑わったのでしょうが、今日は誰もいません。「御田地」のことは宿題となりました。歯が抜けちゃったの碑の隣にある笠と杖の碑は蓮如さんの何回目かの御遠忌の記念でした(写真はありません)。
本堂
鐘楼(本堂共々江戸時代詳細は忘却)
寺の裏手には堤防の跡が残っており、今は寺と淀川の間はかなりの距離がありますが、本来は川がもっと東に寄っていたことが分かります。このところの何回かの徘徊で、川も流路その他が変わりまくっているということがよう分かりました。
寺を出たところで立ち話をしているおっさんに話を聞こうかなと思いましたが、おっさんどうしが会話にあまりに熱心で付け入る隙がありませんでした。ご近所さんでペチャクチャしゃべっているのはおばはんという既成の概念が根底からくつがえりますな。ここいらでも段蔵を多く見ることが出来ます。
蹉陀神社は御旅のみが道筋にあり、携帯の地図で探したのですが、どこにお社があるのかは分かりませんでした。帰宅後にさらに詳しく調べると何と京阪電車の線路よりも東側でした。天神さんです。「蹉陀」という地名、住所表示には無いようですが、非常に広い範囲を指していることが分かりました。
蹉陀神社お旅所
木屋(こや)の集落に入ります。小生がカットしてしまったのはここです。先ずは本信寺。日露の役の折の廃兵が…というのを聞いていたのですが、よう見つけませんでした。ひょっとしたら師匠の大好きな(爆)墓地に入らねばならなかったのかも知れません。(追記、やはり墓場の入り口の橋の欄干だと師匠より連絡をいただきました。)
善明寺は、境内を持たぬ寺でした。道場様式の寺と言うことで分類していいのかな等と思います。
鞆呂岐神社は提灯の裏に「六社」の文字が記されていましたから、ここいらの神社を一つにまとめたお社ということになると思います。
赤穂浪士から4代目あたりの人のゆかりの鳥居もありましたから、そのころから社地であったことは確かなのでしょう。吉良の味方である小生は、「赤穂浪士」とか「忠臣蔵」とかの言葉を見たり聞いたりすると自動的に「ケッ!」というスイッチが入ります。
神社の横手が少し高くなっています。登ってみると茨田蛇池跡の碑があります。つまり高くなっているところは堤防であった訳です。この外に広がる田畑には百万の蛇の精霊が…等と考えるとちとコワイ。
手水舎は手をかざすと自動的に水が出てくる装置で「鄙には稀な」とはこのことを言う。
神社を出たところにも段蔵がありました。一の鳥居は天保年間のもの。
ということで、ここから京阪の香里園駅まで歩き、電車に乗りました。香里園の駅前もすっかり様変わりですね。一昔前にはあった「怪しーい」雰囲気のところがきれいに無くなっています。
絹延橋うどん研究所というのですから、能勢電の絹延橋駅で降りれば良い訳です。しかし、習性というのは怖いもので、池田駅で降りてしまいました。最初はたこ焼きを食べて~等と考えていたからですが、知人から「はよ来い」とメールが入りましたから、真っ直ぐにうどん研を目指しました。絹延橋駅で降りたら良かったということに気が付いたのは絹延橋(川に架かる)の手前でした。それにしても池田に来てたこ焼きを外したというのは記憶にありません。店の方に向かって手を合わせてお詫びします。
池田井堰改修記念碑
唐船ヶ淵
アヤハトリ・クレハトリの時代はいざ知らず、上島鬼貫が確かにこの辺りに来て「棹の哥は松の風のみ鍬つゞみ」という句を詠んだことと、昭和の初めごろにこの辺りで入水した俳人がいるということが唐船ヶ淵について確かに言えることです。俳人と言うからには鬼貫の句についても知っていたのではないでしょうか。
堰堤には鷺の黒いヤツと白いヤツがいて魚をねらっていましたが、鴨川の鷺と違って人見知りをするようでカメラを向けるとサーと飛び立ってしまいます。
さて、こやつを渡るとうどん研です。いつもこれを渡って飲みに来るのは小生の一味ぐらいでしょう。飲んだ後も渡るからなかなか危険。うどん研なのに、小生は未だ一度もうどんを食うたことがありません。
店はものすごく賑わっていました。ヴァイツェン(どこのか分かりませんがHPによると篠山のらしい)が飲めたということが予期せぬ幸せでありました。聞けば今回が第1回とのこと、第2回にはするめの天麩羅を用意してもらいたいです。結果としてたこ焼きでビールを飲まなかったので、飲み過ぎにならなくて良かったです(と自分をごまかす)。
枚方は遠いので、私は、有名ではない明石公園の菊人形でした。菊人形は、なぜ無くなったんでしょうね。情緒のある遊びでしたが・・
娯楽の多様化。テレビでごろ寝、出て行くのがしんどい。いろいろありますが、ファミレスだけ、焼肉だけの家族の遠出はむなしいですね。食って終わりか!菊人形を見て、寄席を見て、その帰りに行くのがいいですね。家族で感動の共有をしてから、というやつですね。
池田のたこ焼き屋さんも個人の店なら、一代、二代で終わるかも知れません。菊人形の運命を思います。そうおもえば、なおさら大事にしたいですね。私も帰国の際、ぜひ行ってみたいです。
こんなことをいうのは、先日たずねたら、私の大学時代の行きつけだった店の半分以上が、なくなっていたから。店の興亡はすさまじいです。
まあ私自身もそのうち無くなりますから、よけいな心配かもしれません・・(笑)
枚方の場合、15段返しが入っていた食堂の失火で燃えて以来、確かにショボクはなっていましたが、それでも日本有数の規模で菊人形が開催されていました。ただ、菊師の高齢化や後継者難である程度の規模で開催し続けるということは困難になったようです。今でも、イベントでは1体2体程度では出品されています。いろんなものが見直されている今だったら菊師希望の若者も出てくるかも知れませんね。
池田のたこ焼き屋さんは今年で確か55年目です。代数では2代目、3代目の確保はできているように思いますから、しばらくは大丈夫です。
池田では、昔からの行きつけの店で残っているのはたこ焼きと、うどんの吾妻だけになりました。喫茶店は北陽、アゼリア、栄町の本格珈琲店(名は失念)、リラ(夜はスナック)全て全滅です。それに合わせるように3つあった映画館も全滅しています。
所々に淀川の昔の流れなどに触れられていますが、あの今昔地図を活用されているのか、昔の地形と比較しながら今の姿を見ると何か見えていないものが見えて面白いですね。
それに対する人の知恵が段蔵に現れていると思っているのですが、興味を持ったのは、この辺りの蔵は板で覆われていましたね。蔵と言えば土蔵なのに何で板?と鎌倉街道さんも指摘されていましたので下から板の裏を覗くとちゃんと土蔵でそれが板でカバーされていたと思うのですが。
茨田蛇の池跡ですが確かにここが堤跡部分でしょうね。神社はやはり一番安全な所に鎮座ましますのですが、まあこの辺りに建つ住宅群は偉い低地に住んだはるんやなぁと思います。
うどん研究所でまだうどんを食べたはりませんのか?私しゃこっそりうどんを頂きに行きましたがなかなかの味でした。うどんを食せず、おい、たこ焼きをメニューに加えろと言いかねないという心配を持たないでもない。あ、池田に限ってはそれはないか(^_・)
そうですね。言われてみて初めて気が付きましたが、蔵が木の板で覆われていますね。しっくいを塗るのが高くつくためか、それともしっくいを塗った上で木の板で囲うという贅沢をしているのか、どちらなのでしょうね。
今昔地図、おもしろいです。ありがとうございます。明治の地図だと光善寺から淀川に出たところにおおきなワンドがあることが確認できますね。