えらいまたたいそうな題を立てましたが、実際は何人か学者というか文化人の寓居祉を廻っただけのことであります。本日の出発点は大阪倶楽部前、さて東西南北いずれに向かうや。まあここは頻度から考えて、あまり足を運んでいない西に向かいます。
歩き始めてすぐに今橋筋は阪神高速にぶつかって途切れます。高速沿いに南に下りますと、高麗橋筋から江戸堀へと斜めの道が走っています。地図だと阪神高速の下になるので見つけにくいのですが、ここが西横堀川にかかっていた「筋違橋(すじかいばし)」の跡ということです。
そのまま江戸堀を西に進みます。厳密に言うと西南西ぐらいでしょうか。まあ、あんまり細かいことは気にしません。しばらく行くと朝日新聞発祥地の碑。
発刊当時はまともな新聞だったのでしょうね。今はアホの中国やボケの韓国の利益を代弁することに忙しいようです。「アカヒ」等と云われていますね。小生など、ある時点から触るのも汚らわしい新聞と思うようになりました。けれどもひどいなあという点では最近の毎日新聞の方がアカンような気もします。
大阪は原則として南北が「筋」、東西が「通」といいますが、例外も多いようで今し方歩いていた今橋などは今橋筋の方がいいようですし、江戸堀はどちらなのでしょうね。まあ、それともかくとして西船場小の一角に「先賢景仰碑」、大阪では学者の家として知られる藤澤家の章二郎氏の撰文で昭和10年のもの。
頼山陽など多くの学者がこの浪花の地に学問の花を咲かせ、そのことを顕彰するための碑です。この時点では「ふーん、そうかいな。」程度の感想だったのでが、後ほど「なるほどなあ!」と感じ入ることになります。頼山陽の父の春水、今では山陽の陰に隠れて顕彰する人もいませんが、この人物もなかなかの人であったようです。ところで、石を刻んだ石工の名前まで記されているというのは結構珍しいのではないでしょうか。
早速に京町堀公園の一角に「中天游邸跡」、今は弟子の方がよく知られていますが、適塾の緒方洪庵の師匠です。本職の医業の方は妻に任せて、自身は物理学などの究理の道に没頭した人ですが、師に当たる絲漢堂橋本宗吉がシーボルト事件に連座しそうになり、しかも病気になると言う状態の中で徹底的に師の面倒を見たことでも知られています。橋本宗吉は大坂切支丹一件でも大塩平八郎に徹底的に取り調べられたようで、高野長英や渡辺崋山などと同じく、大坂の蘭学者も結構やられています。
大塩も後に乱をおこして自殺するのですが、どうも原則魔中の原則魔であったようですから、その取り調べは峻烈であったことが想像できます。
この碑は多分動いています。それまで門前に碑があった家が取りこわすか何かで、この公園に移設したものと思われます。
公園の北側が花乃井中学校、気になる名です。「にょにょにょ?花街かな?」等と勝手な妄想をふくらませます。あみだ池筋に出るまでの中学校南側には何もありませんでした。あみだ池筋を北上します。と、そこには青いポスト。速達専門のポストだそうです。初めて見ました。
あみだ池筋から江戸堀通に入り中学校の北東角に来たところに井戸のいげたと碑がありました。南東角から時計回りに巡りましたから中学校の周囲を4分の3回った訳であります。
説明によると石州亀井家の蔵屋敷内にあった此花乃井が語源のようです。水質が極めて良好であったため、明治天皇が北御堂に来られたときにここの水を提供し、明治天皇から此花乃井の名を賜ったということ。「此花」という言葉は、現在大坂の区名にもなっていますが、古歌の「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」から得たものとされています。季節的にはピッタリやなあ。
あみだ池筋にはきれいな花も咲いていました。最近この花はよく見ますね。
江戸堀通は間もなくマンションにぶつかって終わります。その地点には「雑喉場跡之碑」、ここは以前にも来ましたね。
大阪府庁があった江之子島、跡地でマンション建設が進んでいます。ここまで来たらと川口を目指します。途中には橋の記念碑が二つ。
訪れたのは日本聖公会川口教会です。以前にも来ましたね。今は修理のために青いシートがかけられているところもありました。
入り口におられた方が中を案内して下さいました。酒を飲んでなくてよかった!お話によると阪神淡路大震災で大きな被害を受けたときに建物ごと1メートルほどジャッキアップしたそうで、一旦解体してしまうと現在の建築基準法では同じ物は立てられぬそうです。その工事には新に立てるよりも遥かに多くのお金が要ったということ。
また、聖公会の本山はやはりロンドンのカンタベリー寺院であるが、ローマカトリックに比べると本山との関係というのはそれほど強くなくて、日本では日本独自の活動をしていることなども教えて下さいました。そう言えばカンタベリー大主教て誰か知りませんね。先年交替があったようですが。
また、日本国内では立教大やプール女学院等々結構基督教会としては盛んな方であるということです。英国国教会の成立にはエリザベス1世のオヤジであるヘンリー8世のワガママが大きな役割を果たしているのですが、「それはそれ、これはこれ。」のようですね。聖職者は「牧師」さんというようです。
10時30分からのミサにも来てもいいよーと言ってもらいましたが、早起きができるかなー?
教会の前の倉庫もきれいに補修されています。この辺りには未だ見るべきものもあるのですが、ひとまず川口を去ります。
このまま南下すれば懐かしい松島遊郭であります。どおしようかなー?「喝!」、本日は理性の命じるままに橋を渡って中央図書館の方に。図書館は本日もたくさんの人が利用しています。その一角には木村蒹葭堂(1736-1802)邸跡の碑、蔵書家でもあった蒹葭堂の屋敷跡の利用としては図書館とはベストですね。この人物はいつかはきちんと勉強したいと思っている人物ですが、あまりに偉大すぎて、こちらがちょっとビビッています。名付けて言うなら「エンサイクローペディア蒹葭堂」。また、様々なジャンルの学者を引き合わせ、まあいわば学際研究の場を提供した人。その交際のリストを見たら無学の地呼ばわりをされた河内にもたくさんの学者がいたことが分かります。この時期の大坂は商業の盛行を背景にして所謂旦那芸を超えた素晴らしい学者が輩出しました。まさしく学問の町であります。けど、同時期の学塾の数から言えば京都には遠く及ばぬようですが。
ここからは新なにわ筋となにわ筋の間を北上します。今日こそ堀江芸者と出会えるか?出会ったのは「勧進相撲興行地の碑」でした。元禄年間にこの地で相撲興行が始まったのが大坂の相撲興行の起こりだそうです。
しばらく進むと藤井藍田玉生堂跡の碑が公園にありました。長州藩との仲を疑われて新選組に捕縛され、そのまま獄死した人物です。もちろんこれは何となく死ぬという訳ではなくてかなり熾烈な拷問が行われたためです。捕縛の中心であった谷三十郎は後に祇園の石段下で変死していますね。藍田先生の霊も少しは救われた?ということで、大坂の学者をいじめたヤツは大塩(こやつ自身も大変な学者ですが)といい、谷といい、ろくな死に方をしていない。と思って溜飲を下げる。
いつの間にやら立売堀に来ています。ここまできたら(こればっかり)とサムハラ神社。記紀の神話で一番最初に現れる天御中主神など三神を主祭神としますが、サムハラに当てられた文字(当用漢字にはありません)の呪力性というか、そういうものを大切にしています。
阿波座の公園のねきに「大阪商業講習所跡の碑」。これが後に大阪市立大学に発展するそうです。学者・学問関係はこれで打ち止めかな?
公園には柏の若葉、こやつが大きくなったら餅を包むのですね。今年はよもぎ餅は食いまくっているけれど柏餅はまだやどー。
明治小学校跡の碑を見て、南から大阪倶楽部前に戻ってきました。西より出でて南より帰ると申す処。この間4時間、讃岐うどんの店に2回入っていますが、ビールはお預けしています。というより今日は寒い。2件目の店は入った瞬間にさっきも讃岐うどんを食ったということを思い出したのですが、お姉ちゃんの「いらっしゃい!」という言葉を聞いたらもう出ることが出来ませんね。2件とも生ピールはあるのですが、熱燗がありませんでした。
最後の最後に愛日小学校(えー名前やなあ、嫌韓とか棄中とかいう学校は無いやろか?)の跡地。これも立派な学問関係ですね。この付近から京阪で京橋に。もう、今日はうどん屋は入ったらあかんどーということで久しぶりの丸一屋です。5時ぐらいまでなら即効座ることができますね。備後の酒三好正宗、熱燗に出会いたかったでー。ホント、遊郭より熱燗、芸者より熱燗、学問より熱燗(笑)。
歩き始めてすぐに今橋筋は阪神高速にぶつかって途切れます。高速沿いに南に下りますと、高麗橋筋から江戸堀へと斜めの道が走っています。地図だと阪神高速の下になるので見つけにくいのですが、ここが西横堀川にかかっていた「筋違橋(すじかいばし)」の跡ということです。
そのまま江戸堀を西に進みます。厳密に言うと西南西ぐらいでしょうか。まあ、あんまり細かいことは気にしません。しばらく行くと朝日新聞発祥地の碑。
発刊当時はまともな新聞だったのでしょうね。今はアホの中国やボケの韓国の利益を代弁することに忙しいようです。「アカヒ」等と云われていますね。小生など、ある時点から触るのも汚らわしい新聞と思うようになりました。けれどもひどいなあという点では最近の毎日新聞の方がアカンような気もします。
大阪は原則として南北が「筋」、東西が「通」といいますが、例外も多いようで今し方歩いていた今橋などは今橋筋の方がいいようですし、江戸堀はどちらなのでしょうね。まあ、それともかくとして西船場小の一角に「先賢景仰碑」、大阪では学者の家として知られる藤澤家の章二郎氏の撰文で昭和10年のもの。
頼山陽など多くの学者がこの浪花の地に学問の花を咲かせ、そのことを顕彰するための碑です。この時点では「ふーん、そうかいな。」程度の感想だったのでが、後ほど「なるほどなあ!」と感じ入ることになります。頼山陽の父の春水、今では山陽の陰に隠れて顕彰する人もいませんが、この人物もなかなかの人であったようです。ところで、石を刻んだ石工の名前まで記されているというのは結構珍しいのではないでしょうか。
早速に京町堀公園の一角に「中天游邸跡」、今は弟子の方がよく知られていますが、適塾の緒方洪庵の師匠です。本職の医業の方は妻に任せて、自身は物理学などの究理の道に没頭した人ですが、師に当たる絲漢堂橋本宗吉がシーボルト事件に連座しそうになり、しかも病気になると言う状態の中で徹底的に師の面倒を見たことでも知られています。橋本宗吉は大坂切支丹一件でも大塩平八郎に徹底的に取り調べられたようで、高野長英や渡辺崋山などと同じく、大坂の蘭学者も結構やられています。
大塩も後に乱をおこして自殺するのですが、どうも原則魔中の原則魔であったようですから、その取り調べは峻烈であったことが想像できます。
この碑は多分動いています。それまで門前に碑があった家が取りこわすか何かで、この公園に移設したものと思われます。
公園の北側が花乃井中学校、気になる名です。「にょにょにょ?花街かな?」等と勝手な妄想をふくらませます。あみだ池筋に出るまでの中学校南側には何もありませんでした。あみだ池筋を北上します。と、そこには青いポスト。速達専門のポストだそうです。初めて見ました。
あみだ池筋から江戸堀通に入り中学校の北東角に来たところに井戸のいげたと碑がありました。南東角から時計回りに巡りましたから中学校の周囲を4分の3回った訳であります。
説明によると石州亀井家の蔵屋敷内にあった此花乃井が語源のようです。水質が極めて良好であったため、明治天皇が北御堂に来られたときにここの水を提供し、明治天皇から此花乃井の名を賜ったということ。「此花」という言葉は、現在大坂の区名にもなっていますが、古歌の「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」から得たものとされています。季節的にはピッタリやなあ。
あみだ池筋にはきれいな花も咲いていました。最近この花はよく見ますね。
江戸堀通は間もなくマンションにぶつかって終わります。その地点には「雑喉場跡之碑」、ここは以前にも来ましたね。
大阪府庁があった江之子島、跡地でマンション建設が進んでいます。ここまで来たらと川口を目指します。途中には橋の記念碑が二つ。
訪れたのは日本聖公会川口教会です。以前にも来ましたね。今は修理のために青いシートがかけられているところもありました。
入り口におられた方が中を案内して下さいました。酒を飲んでなくてよかった!お話によると阪神淡路大震災で大きな被害を受けたときに建物ごと1メートルほどジャッキアップしたそうで、一旦解体してしまうと現在の建築基準法では同じ物は立てられぬそうです。その工事には新に立てるよりも遥かに多くのお金が要ったということ。
また、聖公会の本山はやはりロンドンのカンタベリー寺院であるが、ローマカトリックに比べると本山との関係というのはそれほど強くなくて、日本では日本独自の活動をしていることなども教えて下さいました。そう言えばカンタベリー大主教て誰か知りませんね。先年交替があったようですが。
また、日本国内では立教大やプール女学院等々結構基督教会としては盛んな方であるということです。英国国教会の成立にはエリザベス1世のオヤジであるヘンリー8世のワガママが大きな役割を果たしているのですが、「それはそれ、これはこれ。」のようですね。聖職者は「牧師」さんというようです。
10時30分からのミサにも来てもいいよーと言ってもらいましたが、早起きができるかなー?
教会の前の倉庫もきれいに補修されています。この辺りには未だ見るべきものもあるのですが、ひとまず川口を去ります。
このまま南下すれば懐かしい松島遊郭であります。どおしようかなー?「喝!」、本日は理性の命じるままに橋を渡って中央図書館の方に。図書館は本日もたくさんの人が利用しています。その一角には木村蒹葭堂(1736-1802)邸跡の碑、蔵書家でもあった蒹葭堂の屋敷跡の利用としては図書館とはベストですね。この人物はいつかはきちんと勉強したいと思っている人物ですが、あまりに偉大すぎて、こちらがちょっとビビッています。名付けて言うなら「エンサイクローペディア蒹葭堂」。また、様々なジャンルの学者を引き合わせ、まあいわば学際研究の場を提供した人。その交際のリストを見たら無学の地呼ばわりをされた河内にもたくさんの学者がいたことが分かります。この時期の大坂は商業の盛行を背景にして所謂旦那芸を超えた素晴らしい学者が輩出しました。まさしく学問の町であります。けど、同時期の学塾の数から言えば京都には遠く及ばぬようですが。
ここからは新なにわ筋となにわ筋の間を北上します。今日こそ堀江芸者と出会えるか?出会ったのは「勧進相撲興行地の碑」でした。元禄年間にこの地で相撲興行が始まったのが大坂の相撲興行の起こりだそうです。
しばらく進むと藤井藍田玉生堂跡の碑が公園にありました。長州藩との仲を疑われて新選組に捕縛され、そのまま獄死した人物です。もちろんこれは何となく死ぬという訳ではなくてかなり熾烈な拷問が行われたためです。捕縛の中心であった谷三十郎は後に祇園の石段下で変死していますね。藍田先生の霊も少しは救われた?ということで、大坂の学者をいじめたヤツは大塩(こやつ自身も大変な学者ですが)といい、谷といい、ろくな死に方をしていない。と思って溜飲を下げる。
いつの間にやら立売堀に来ています。ここまできたら(こればっかり)とサムハラ神社。記紀の神話で一番最初に現れる天御中主神など三神を主祭神としますが、サムハラに当てられた文字(当用漢字にはありません)の呪力性というか、そういうものを大切にしています。
阿波座の公園のねきに「大阪商業講習所跡の碑」。これが後に大阪市立大学に発展するそうです。学者・学問関係はこれで打ち止めかな?
公園には柏の若葉、こやつが大きくなったら餅を包むのですね。今年はよもぎ餅は食いまくっているけれど柏餅はまだやどー。
明治小学校跡の碑を見て、南から大阪倶楽部前に戻ってきました。西より出でて南より帰ると申す処。この間4時間、讃岐うどんの店に2回入っていますが、ビールはお預けしています。というより今日は寒い。2件目の店は入った瞬間にさっきも讃岐うどんを食ったということを思い出したのですが、お姉ちゃんの「いらっしゃい!」という言葉を聞いたらもう出ることが出来ませんね。2件とも生ピールはあるのですが、熱燗がありませんでした。
最後の最後に愛日小学校(えー名前やなあ、嫌韓とか棄中とかいう学校は無いやろか?)の跡地。これも立派な学問関係ですね。この付近から京阪で京橋に。もう、今日はうどん屋は入ったらあかんどーということで久しぶりの丸一屋です。5時ぐらいまでなら即効座ることができますね。備後の酒三好正宗、熱燗に出会いたかったでー。ホント、遊郭より熱燗、芸者より熱燗、学問より熱燗(笑)。
その町でご生誕されたguさんは、さすが文武両道と申しますか文飲両道、と感服です。
我が家もいつの頃からか朝日新聞は止めて、京都新聞にしています。まあ、無難な地方新聞ですから。尤も、私は「文芸欄」が目的なのですが・・・。
大阪も東西南北が明瞭な地域があるのですか。京都は「上がる下がる」「西入る東入る」で大抵は通じますので、迷子になり様がありませんけど、大阪は油断するととんでもない方向へ行ってしまいそうです(私だけかも)。
それにしましても「花乃井」なんて、中々粋な名前ではないですか。やはり〝花関係〟でしょうか。重乃井なんて名前が奈良にはありますが、まるで野暮ったい感じです。
速達専用の青いポストは時々見掛けます。今は、速達など利用することは滅多にありませんけど。それと、あみだ池筋にあるとかのピンクの花は「花水木」です。正確には「アメリカ花水木」でしょうか。
大阪にも基督教系の大学が幾つかあるとか。余談ながら私の従兄弟が国際基督教大学を卒業して、大阪の大学で哲学の教授をしております。クリスチャンがどうかは知りません。カタイ男なので余り往来は無くて、会うのは法事の時位ですので。
いずれにしましても、今日は殊勝な徘徊でご自身も学究の徒に戻られた(真の姿かもしれませんが)のではないですか。最後に熱燗で締めくくられたのは〝さすが〟です。
でも明治維新前の日本の学問中心地は地方のあちこちにもあって、今の様に東京や大都市中心にという状況ではなかったのですよね。学問という観点からは地方に群雄割拠ではなかったのでしょうか。山田方谷などは岡山ですし、その頃の学者さんは実際の行政にも貢献した様に思うのですが。勿論江戸時代の浪華は経済の中心地であったわけで、大阪はその財力をバックに学者を輩出したのでしょうか?また昔は都市に限らず全国津々浦々寺子屋などで教育が行われていて、これが日本の文明の源泉になったと考えているのですが。
それにしても大阪は、**の跡、**の碑、など現物でなく碑などの多いことですね。適塾などは保存されていますけど。
「花乃井」、そうですよね。絶対に料亭か遊郭を思い浮かべます。今までもエッ?と言う感じで旧赤線などを見つけてきましたから、この時も「こいつは?」と思って辺りをグルグルし「此花の井」から来ているのだとしって何故かガックリとしました(爆)。
いとこさん、国際基督教大学とはすごいですね。ここの入試問題を見たことがありますが、普通の知識では解けません。哲学の教授というのもうなずけます。
花はハナミズキですか。ありがとうございます。この時は納得するのですが、来年見たらまたまた知らない花などと言うかも知れません。
それでも大坂もしっかりと学問の種が植えつけられていて、従来の「大坂は商売人の町だから読み書きそろばんのような実学は尊ぶが学問には無関心だった。」というような議論は間違いであることはハッキリとしていると思います。富永仲基の「出定後語」など未だに読み終えられていないものも多くあります。
そういえば、「江戸次第の大坂に武士はいなかった。」等と言う話ももっともらしく言われていましたね。大阪城の存在を夏の陣以後は無かったように思ってしまうからでしょうね。
適塾などは奇跡的に残ったと言えるでしょうね。何と言っても国際法違反の空襲に何度もやられましたから。