細川政元が養子の一人である澄之派の香西元長等によって殺害されたのが1507年です。その時にもう一人の養子である澄元の館も襲われて、澄元は近江に逃れます。この澄元を擁していた人物が三好之長です。之長は三好長慶の曾祖父に当たる人物ですが、これ以後三好氏は栄華と没落を何度も繰り返すことになります。長慶・義興父子の死因にも怪しいものがあり、決して良死とは言えないと思いますが(長慶の没年は42歳)、それは今はおくとしても、この一族は長慶から見て曾祖父・祖父・父は全て切腹、一人長慶をおいて、義興については家宰松永久秀による毒殺説があり、長慶はこれがためにすっかり呆けてしまいます。その養子である義継は織田信長によって切腹させられていますから、5代のうち4代までが切腹をして死んでいるということになります。
一族が同時に滅びるときには、祖父・父・子あたりが同時に自裁するということもあり得るのですが、三好氏の場合は、別にそれで滅んでパーと言う訳ではありません。一人が死に、その子はしばらく雌伏する。やがて実力を蓄え、中央に出る。一時期は栄えるが結局自殺。その子はしばらく雌伏する…。というようなことを繰り返しているのです。一族がみんな仲良くパッと散るなどというのは当時の武将にとっては唾棄すべき考え方で、とにかくしぶとく生き延びて捲土重来を謀るというのが当時のスタンダード、こう考えると信貴山城落城の折に松永久秀が自殺する間に城を脱出したものの捕らえられて狭間くぐりなどの汚名を着せられた松永久通等も本当は何とか織田氏に一矢を報いんとしたものでしょう。壇ノ浦に象徴されるように平氏はある意味一族の仲が良くて滅びるときも一緒に滅びましょうてな感じですが(といっても清盛の弟の頼盛など鎌倉に降って助けられた者も多い)、源氏はもう大昔から分裂型で父や兄が死んでも何で一緒に死なんとあかんねんという雰囲気があります。それどころか自ら父を殺し、兄弟を殺し、子を殺すところもあります。三好氏は信濃源氏の小笠原の一族ですから資格十分です。
さて、三好之長ですが、「みよしゆきなが」等と言うとそれなりの武将なのですが、まあ武将というよりヤクザの親分と言った方がピッタリの人物であったようで、京中の評判は随分と悪かったようです。初めて阿波細川氏の家臣として上洛したときには、早速に市中の無頼の徒のリーダーとなって徳政一揆をおこし、幕府の追捕を受けています。それは、若気の至りということであったかも知れませんが、細川政元暗殺後の混乱では、一方の主役として活躍しました。
1507年に政元を暗殺した細川澄之と香西元長は、細川高国等との戦いに敗れ、政元暗殺後の1ヶ月後には自害することになります。三好之長が仕える澄元が管領に迎えられます。しかし、その翌年かつて政元によって将軍の座を逐われた足利義稙が大内氏の兵に守られて西国から攻め上ってきますと、細川高国はあっさりと澄元を裏切り、足利義稙側に寝返ったため、将軍義澄、管領澄元いずれも京から落ち行くことになります。
1511年、澄元と之長は京都回復の軍をおこしますが、これは失敗に終わります。この時に京都を逐われた之長の息子の長秀(長慶の祖父)は、伊勢で国司家の北畠氏により、切腹させられます。1517年、大内氏の国元で尼子氏の活動が盛んとなったため、足利義稙の後ろ盾であった大内義興が山口に帰ってしまうと、澄元と之長は再び京都回復を図ります。以後互いに勝敗があり、途中で病を発した澄元に代わり、1ヶ月ほどですが之長が京都の支配者になったこともあったのですが、最終的には1520年の等持寺(中京区等持寺町付近)の戦いに敗れ、細川高国の手によって知恩寺(上京区元百万遍町付近)で処刑されます。また先に死んだ長秀以外の二人の息子も同時に処刑されます。従って以後は細川高国こそが三好一族の仇敵ということになるのであります。
之長は、晩年はぼてぼてに肥満して、最後も軽快に逃れることができなかったそうです。安禄山のようなものですが、大内義隆を弑逆し、厳島の戦いで毛利元就に敗れた陶晴賢なども同様の肥大漢であったそうです。そういえば肥前の龍造寺隆信もそうですね。いずれも最終的には首が体を離れています。
日本中世史が専門の方はともかく、聞き慣れぬ名がうじゃらうじゃらとややこしく、諸兄もお疲れになったかも知れません。しかし之長の国元の阿波では、その孫の元長(長秀の子)が捲土重来を期して復讐の刃を研いでいるのであります。頼山陽の詩、『川中島』に言う「遺恨十年一剣を磨く」という言葉は、実は三好一族にこそ相応しい言葉なのです。
写真は三好之長が大敗を喫した等持寺周辺です。
(08年1月の記事に加筆して再録)
一族が同時に滅びるときには、祖父・父・子あたりが同時に自裁するということもあり得るのですが、三好氏の場合は、別にそれで滅んでパーと言う訳ではありません。一人が死に、その子はしばらく雌伏する。やがて実力を蓄え、中央に出る。一時期は栄えるが結局自殺。その子はしばらく雌伏する…。というようなことを繰り返しているのです。一族がみんな仲良くパッと散るなどというのは当時の武将にとっては唾棄すべき考え方で、とにかくしぶとく生き延びて捲土重来を謀るというのが当時のスタンダード、こう考えると信貴山城落城の折に松永久秀が自殺する間に城を脱出したものの捕らえられて狭間くぐりなどの汚名を着せられた松永久通等も本当は何とか織田氏に一矢を報いんとしたものでしょう。壇ノ浦に象徴されるように平氏はある意味一族の仲が良くて滅びるときも一緒に滅びましょうてな感じですが(といっても清盛の弟の頼盛など鎌倉に降って助けられた者も多い)、源氏はもう大昔から分裂型で父や兄が死んでも何で一緒に死なんとあかんねんという雰囲気があります。それどころか自ら父を殺し、兄弟を殺し、子を殺すところもあります。三好氏は信濃源氏の小笠原の一族ですから資格十分です。
さて、三好之長ですが、「みよしゆきなが」等と言うとそれなりの武将なのですが、まあ武将というよりヤクザの親分と言った方がピッタリの人物であったようで、京中の評判は随分と悪かったようです。初めて阿波細川氏の家臣として上洛したときには、早速に市中の無頼の徒のリーダーとなって徳政一揆をおこし、幕府の追捕を受けています。それは、若気の至りということであったかも知れませんが、細川政元暗殺後の混乱では、一方の主役として活躍しました。
1507年に政元を暗殺した細川澄之と香西元長は、細川高国等との戦いに敗れ、政元暗殺後の1ヶ月後には自害することになります。三好之長が仕える澄元が管領に迎えられます。しかし、その翌年かつて政元によって将軍の座を逐われた足利義稙が大内氏の兵に守られて西国から攻め上ってきますと、細川高国はあっさりと澄元を裏切り、足利義稙側に寝返ったため、将軍義澄、管領澄元いずれも京から落ち行くことになります。
1511年、澄元と之長は京都回復の軍をおこしますが、これは失敗に終わります。この時に京都を逐われた之長の息子の長秀(長慶の祖父)は、伊勢で国司家の北畠氏により、切腹させられます。1517年、大内氏の国元で尼子氏の活動が盛んとなったため、足利義稙の後ろ盾であった大内義興が山口に帰ってしまうと、澄元と之長は再び京都回復を図ります。以後互いに勝敗があり、途中で病を発した澄元に代わり、1ヶ月ほどですが之長が京都の支配者になったこともあったのですが、最終的には1520年の等持寺(中京区等持寺町付近)の戦いに敗れ、細川高国の手によって知恩寺(上京区元百万遍町付近)で処刑されます。また先に死んだ長秀以外の二人の息子も同時に処刑されます。従って以後は細川高国こそが三好一族の仇敵ということになるのであります。
之長は、晩年はぼてぼてに肥満して、最後も軽快に逃れることができなかったそうです。安禄山のようなものですが、大内義隆を弑逆し、厳島の戦いで毛利元就に敗れた陶晴賢なども同様の肥大漢であったそうです。そういえば肥前の龍造寺隆信もそうですね。いずれも最終的には首が体を離れています。
日本中世史が専門の方はともかく、聞き慣れぬ名がうじゃらうじゃらとややこしく、諸兄もお疲れになったかも知れません。しかし之長の国元の阿波では、その孫の元長(長秀の子)が捲土重来を期して復讐の刃を研いでいるのであります。頼山陽の詩、『川中島』に言う「遺恨十年一剣を磨く」という言葉は、実は三好一族にこそ相応しい言葉なのです。
写真は三好之長が大敗を喫した等持寺周辺です。
(08年1月の記事に加筆して再録)
三好氏の末裔の現状は知りませんが、それより、末裔と言えば、宇津城の城主宇津氏の子孫が京都の錦市場で商売をしているとか。今回の京北での「西の鯖街道」の制定に併せて「鯖蕎麦」を売り出す計画があると聞きました。この辺りはmfujinoさんの専門分野ですが。
引っ掻き回して申し訳ないです。
葉隠にしても何にしても散り際云々は畳の上でのご奉公になって以後のものだと思います。あまりあっさり自殺されては、ものの役に立ちません。武士はしぶとければしぶといほどよかったのだと思います。けれども、織田信忠なんかは、あっさりと自殺してしまいましたね。
当主死ななば一族郎党皆などというのは後世の文学作品による影響も大きいのではなかろうかと、ついつい固定観念に囚われてしまっているのではなどと、前のお話に関連して思ったりしました。
以前宇津氏に関する講演会を聞きに行きましたが、その時細川、三好などの名前が出て来たことを思い出しました。その時の我がブログを読み返しましたら、宇津氏は落ちのびた近隣の大名などをかくまったそうで、足利義尹・細川高国、香西元成・三好政勝・柳本、細川春元、永禄6年の牢人衆など、とリストアップしています。この三好政勝さんはどんなひとだったのでしょう。
宇津氏の子孫が話題になってますが、これに関しては;
光秀に攻められた宇津頼重は;
1.光秀が7月19日に討ち取って首を信長に差し出した(信長公記)
2.若狭方面へ逃げたので必ず捕まえるよう厳命された.
(信長の丹羽長秀に対する朱印状)
3.一旦逃れた後宇津へ密かに帰り当地で他界(鬱桜寺の史料)
という三つの説があるそうです。この講演をされた高橋重成さんは 2であろうと言っておられました。光秀も宇津氏も同じ土岐氏という同郷感があったのでしょうか。従って戦わずに宇津氏は逃亡した可能性が高いのかもしれません。
京北ガイドの現地研修で講師を務めていただいた池上さんは出町柳にある光福寺の開祖が宇津氏の末裔であるとの寺の資料を見せて下さいました。どうも上の3に関連するようです。
宇津氏の話を聞いていると、その経営能力はなかなかのものだった様です。ただ今の美山を拠点にした川勝氏は信長と良い関係をもち長らえたに反し宇津氏は光秀と敵対したため滅亡に至ったのではとの指摘があります。まあ今で言えば会社のトップの時代を読む力に一致するのではないでしょうか。日本のトップはどっちを向いているのでしょうか。まあ会社も国も、その集団の繁栄はその組織のトップ次第でしょう。それと参謀ですね。
このブログを読んでいると歴史の楽しさが増えます。
三好政勝は三好政長の子です。三好政長は長慶の父である元長のいとこにあたりますが、元長を裏切って死に至らしめた人物で、後に長慶との戦いに敗れて敗死しています。茶人としても有名だったようです。信長愛用の名刀「左文字」は三好政長→武田信虎→今川義元→織田信長と渡ったそうです。政勝は後に織田信長に仕えていますので、ある時点で宇津氏とは袂を分かったようです。
香西氏や柳本氏など、信長以前に畿内を席巻した武将達の多くがあの宇津の谷で刀を研いでいたと思うと本当に楽しいです。