花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

三好氏の戦い4

2009年05月28日 | 茶話
 等持寺の合戦に敗れた三好之長が元百万遍で自殺させられた(処刑された)のは1520年5月のことでした。之長が擁していた細川澄元は阿波に逃れますが、その翌月に病死してしまいます。こういうタイミングの死は一応毒殺などを疑いたいところですが、三好一族が澄元を毒殺して得るものは仇敵である細川高国の喜びに過ぎませんから、これはまあ病身を押して各地に転戦した疲れが一度に出たのと、之長を失った落胆の気持ちが死を早めたのだろうと思われます。
 阿波の国では之長の孫である元長(1501年生まれということでありますから既に元服しています)が細川澄元の子である晴元(1514年生まれなので満6歳)、さらに足利義澄の子である義維(よしつな・1509年生まれで満11歳)を保護下に置き、畿内進出を窺いました。この1520年から1526年までが仇である細川高国の全盛期と言えるのですが、翌1521年には、自分が擁していた足利義稙を逐い義澄のもう一人の子である義晴を将軍に立てます。このとき義晴は10歳ですから、まさしく高国の専制体制が確立したと言えるでしょう。
 高国に逐われた義稙は1523年に何と阿波で亡くなっていますから、この時期の阿波は、かつての敵も味方もこき混ぜて「とにかく高国に恨みを持つ人はいらっしゃい。」状態であったようですね。けれどもここまでの混乱をよく乗り越えて、将軍を逐うほどの勢力になった高国はなかなか隙を見せなかったようです。しかしながら無常観ではありませんが、ある状態が永遠に続くということはあり得ないことですから、時を味方にして(若くないと無理なようですが、北条早雲の例もありますから年を取っていてもあきらめずに)気長に待てば必ず状況は変化するのです。
 1525年、高国の嫡子である稙国が急死しました。この年は高国にとっては42歳の厄年に当たり、まさに家督を譲ろうとしていたときの息子の死に高国はものすごく落胆したとのことです。後に登場する三好長慶も子の義興の死によって呆けてしまい、まもなく亡くなっていますから考えようによっては、息子を殺して駿河を取った武田信玄や妻と長男を殺した徳川家康(信長の命令ということになっているがまことにや?)などに比べて愛情は深い人物であったのかも知れません。この稙国の死が高国の政権崩壊のきっかけとなったと思われます。
 そのあたりから高国は冷静な判断ができなくなったのでしょう。1526年、重臣の細川尹賢(この男はかつて父を高国に殺されている)と香西元盛の勢力争いがおこると、高国は上意討ちとして香西元盛を殺してしまいます。ところがこの元盛は丹波・摂津の有力な国人の一人で、兄は波多野稙通(後に明智光秀に謀殺される波多野秀治の祖父)、弟は柳本賢治です。この両名が中心となり反高国の兵を挙げます。この知らせは阿波へも直ちに届いたようで、いよいよ時節到来と三好元長は細川晴元(それでも満12歳)を擁して海を渡りました。波多野氏は丹波で高国に抗し、元長等は泉州堺に上陸、一族の武将を京に派遣します。その軍は丹波勢と山崎で会同し、桂川に於ける戦いで高国方を破ります。敗れた高国は将軍義晴とともに近江に逃れ、再び京都を目指すことになります。
 足利義維、細川晴元を戴き堺に本拠を据えた元長は以後幕府の機能を受け継ぎ、今谷明先生が唱えられた「堺幕府」の実権を握る者となりました。しかし、ここで油断したのでしょう。1528年、自らが押し頂く晴元(満14歳)を柳本賢治らに籠絡されてしまったようで、初めて細川晴元と三好氏の間にすきま風が吹くことになります。14歳といえば、現在の中学2年生、反抗期ですね。親代わりで時には小うるさいこともいう元長に対して賢治らは耳障りのいいことしか言わない。晴元の気持ちが元長から離れていきます。元長は、ひとまず阿波に帰還することになりました。
 桂川の敗戦は、惚けたようになっていた細川高国を甦らせました。堺幕府がくだらぬ内輪もめをしている隙に、高国は西国諸国を精力的に廻り、京都回復の烽火を揚げるのであります。

 写真は三好氏と関係が深い高槻の芥川一里塚




2 コメント

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小勇割拠 (mfujino)
2009-05-30 22:36:40
徘徊堂さま、 今回のお話はなかなかついて行けないほど難しうございました。ここで思うのですが、近畿地方には様々な大名が割拠してましたね。そしてそれは勢力を拡大して天下を取ったものはなかったですよね。それに反して天下をとったのは地方の大名です。ある時代、どこで、いつ、という要素はそれぞれの大名に大きな影響を与えたことでしょう。信長の尾張という地、その時の有力大名の年令、などといった背景を考えて話を進めていく小説はそう多くなく、誰とどうしたといった記述に走るものが多いのではないでしょうか。(そんなに多くを読んでいる訳ではありませんので偉そうに言えませんが、、)司馬遼太郎さんの作品はそういった点では我がお気に入りであります。竜門冬二さんのもそう言った分析が入っていて読みやすいのですが。小勇割拠の近畿ではお隣のことで超多忙だったので大変だったことでしょう。一番大切な時期に受検受検で追い回されている学生とダブって見えるような気がしないでもない( ^_')
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畿内の国人の悲劇 (gunkanatago)
2009-06-01 13:26:01
 mfujino様、コメントをありがとうございます。小生も、歴史小説をそれほど読んでいる訳ではないので、解らないことも多いのですが、畿内の武将については、入り組みすぎてなかなか書ききれないのではと思います。本文に出てくる波多野稙通は秀忠と同一人物ではといわれているのですが、1542年に三好政長と共に宇津城を攻めている記事があり、かと思うと政長の正勝は後に宇津氏に匿われ、またいつかの時点で宇津氏を裏切る、「昨日の敵は今日の友は明日の敵」みたいなことだらけで職業としての小説家がこれを取り上げたら割に合わないのではと思います。さらに波多野氏を単に丹波の国人だと思っていたら蜷川親俊日記などでは節句ごとの挨拶に幕府に伺候しており、幕府奉公衆の一面も見せていて、本当にグニャグニャで何者なのか解りづらいです。
 宇津氏のことを小説で取り上げていたのは津本陽氏でしたか竜門冬二氏でしたかが松永久秀を主人公にした小説だけだったように思います。畿内の争乱については松永氏と筒井氏の争いを舞台に菊池寛なども扱っていたように思います。
 その点、織田信長などは桶狭間・姉川・石山合戦・長篠などといくつもの事件を時間に沿って記していけばいいだけですから小説家にとっては採算割れしない素材なのではと思います。
 いずれにしても、おっしゃつておられますように結局は大同団結が出来ずに信長にバーンと叩きつぶされていくのですから可哀想です。最近は信長(光秀)に徹底的に抵抗した宇津氏や赤井氏、波多野氏側に同情しきりです。
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