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本日の出発は近鉄吉野線の岡寺駅から、駅の西側に出るのは本当に30年数年ぶりです。その時には、この近くの農家の民宿に泊まったのですが、新興住宅地ができたために雰囲気はすっかり変わっています。かつて万葉学者の犬養孝先生が甘樫の丘の上から眺めて飛鳥の美しい景色が今にも侵食されようとしていると嘆かれた住宅地です(昨夜、米山俊直さんの書かれたものを読んでいたら同じ話が載っていました。犬養先生のこの嘆きは有名だったみたいです。米山さんは300年もしたら新興住宅地も元の森に戻るだろうと超楽観的)。そんな中で変わらないのがトップの牟佐坐(むさにいます)神社。大昔、未だ早起きができた頃、民宿の朝食前にこの神社を散歩しました。
御祭神は高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)と孝元天皇、ただその昔には菅原道真を祀る天神さんだった時期もあるそうです。孝元天皇が祀られているのはの神社付近が孝元天皇軽境原宮(かるのさかいはらのみや)の伝承地となっているためです。
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拝殿
神社に登る階段の横に万葉歌碑、柿本人麻呂の妻への挽歌、揮毫は有名な書家だそうです。
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この後、早速に住宅地で迷いました。歌碑の横の道を入っていくと、ずうっと坂を登ってぐるーと回って、坂を下って元の道に出てきます。本日は地図は持っているのですが、リュックから出さないと見えない。それでも坂を登ったところで、向こう側に欽明天皇陵でないかいと言われている見瀬丸山古墳がどーんと見えましたから、まあよしとしましょう。
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振り出しに戻って、神社の北側の道を西進します。道路を越える陸橋を渡ってしばらく行くと運動公園があり、そこに沼山古墳があります。古墳に至る道の途中に久松潜一博士揮毫の万葉歌碑、有名な三山歌「香久山は畝傍を愛しと…」というやつです。
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沼山古墳は6C後半の円墳、東漢氏またはそれに近い人が被葬者ではないかと言われています。渡来系氏族で有名な秦氏には、さほど政府高官が出ていませんが、東漢氏は多くの高官を出しています。坂上田村麻呂などは大納言にまで達していますね。これは未ださしたる証拠も示せ無いことなのですが、全国の秦氏の伝承はこの東漢氏の事績の上にそっくりと乗っかっているものも多いのではないでしょうか。
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さて、目指すは益田の岩船です。さすがに登り口もはっきりと示されています。
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登り口
山道をチョイチョイと歩くと突然巨石が現れます。あれー?こんなに大きかったかなあ。30数年経って成長したのかなあ。前に来た時は高松塚や石舞台などの「観光」がメイン。益田の岩船はおまけ扱いで、「見れども見ず」の状態だったのでしょう。
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明日香の資料館で牽午子塚の石室内部の写真を見せてもらって以後、「ああ、あれは古墳の石室になり損ねたやつだ」とほぼ断定的に思っていたのですが、それにしても巨大です。弾みをつけて駈け上ることはできそうですが、「大切な文化財」との看板もあり、ここは自重します。前に来た時には絶対に駈け上っているから、その辺だけが人間として成長したということかな。
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松本清張氏のゾロアスター教の拝火壇説は魅力的ですが、やはり証拠不足です。当時の長安には滅亡したササン朝の貴族がたくさん亡命していたことは事実ですし、ペルシア人が日本に来たということもあったでしょうが、これだけの拝火壇を造るだけ造って放置した理由が分かりません。個人的にチョイチョイと造れる代物ではありません。
その名の由来となったのは益田池という溜池の名称碑の台石だと考えられてきたからだそうですが、これを台石として碑を建てたらすごいでしょうね。その台石説だと池の開削は光仁年間ということですから、平安時代の初期まで時代が下ることになります。まあ朝廷の聖地である真弓丘陵の端っこという位置から考えるとやはり石室かな?墓には石屋さんが付き物。
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本日はそのまま山の中に入ります。竹林地帯や杉の林を抜けて里が近くなると橿原市から明日香村に出たことになります。
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ここから前回明日香で教示したもらった牽午子塚(けんごしづか)に行こうと思ったために山越えをしたわけです。学芸員の方に「それでは行きます。」と言った以上、行かないままではどうも気持ちが悪い。
苦労もせずに明日香側の棚田地帯に出ましたが、さあわからない。今歩いているこの細道が昔は明日香と御所をつなぐメインルートだったと見えて、道端のお地蔵さんの光背は道標になっていて、「左御所」の字が読み取れます。右は読めませんでした。この地蔵さんからしばらく行くと、飛鳥駅の方に向かう坂道まで来てしまいました。
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「うー、分からん。また戻らなあかんやんけ。」と思っていた時に向こうから地図を眺めながらオッチャンが来ます。こういう場合、小生はオッサンと表記するのが常ですが、やはり恩人ですので感謝を込めてオッチャンと表記します。
このオッチャンも牽午子塚をめざしているとのこと、「しばらくひっつき虫になっていいですか?」というとオッチャンは快諾してくれました。
オッチャンは先ず鑵子塚(かんすづか)を見に行くとのこと、ここは喜んで付いていきます。この古墳については矢印の案内板が何ヶ所か設置されていました。のに
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私有地に付き、進入禁止とのこと。こら!それやったら案内にその旨を記しておきなさい。遠くから撮る鑵子塚、きれいな円墳です。
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そこから、先ほど自分が無視してきた脇道に入って牽午子塚、ナビゲーターは優秀です。ここも学芸員がしきりに薦めていた割に未だ整備途中です。ここには先客が2名おられました。
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前回の大和の記事に書きましたように、この古墳が斉明天皇陵である可能性は非常に高い。古墳の前にある説明板はそのあたりについては極めて慎重でした。宮内庁の書陵部のメンツをつぶさぬようにしているのでしょうか。
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太田皇女の墓が見つかった辺り?
オッチャンはこれから今し方小生が通ってきた山に入って岩船に行くとのことです。どうもありがとうございました。
農業組合の敷地を借りて昼飯(ははは、何て用意周到なんだ)、組合のオッチャンもオバチャンもニコニコとして挨拶をしてくれます。
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農業組合から
さて、ここから先は人に会うことなどまず期待できないということで、山道から車道に出て西に進みます。しばらく行くと高取町に出ます。対象とする時代も古代から中世に。
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景色はのどかなのですが、交通量は結構です。だれも歩いていないので、自動車に乗っている側がビックリしています。減速せずにカーブを曲がったら人がいたという感じで何台かの車をふらつかせてしまった。
車道を避けて溜池の土手に駈け上ると珍しい花が迎えてくれました。ちょっとピンボケが残念。
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与楽大池の向こうに貝吹山
そう、本日のもう一つの目的は橿原市最高峰の貝吹山(210メートル・爆)に登ることです。この辺りの国人領主であった越智氏の詰めの城跡でもあります。
お地蔵さんのところに道案内、後ろには乾城(カンジョ)古墳が見えています。
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貝吹山に登る前にこの古墳を見学します。石室の高さが奈良県では一番だということですが、崩落もあってちょっと悲惨な状態になっています。
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貝吹山へはもう一つ案内板がありました。結構親切です。登る途次にはかいらしい花も、道草様のブログによるとこういうのも「野菊」と言っていいようです。
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越智氏は筒井氏と並ぶ大和の有力国人です。南北朝時代には筒井氏が北朝側だったのに対して南朝側で活躍しました。この山の麓の「越智」が苗字の地、そこには居館があり、緊急時にはこの貝吹山城に籠もりました。その越智氏のもう一つの根拠地は有名な高取城です。
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未だ小生は勉強不足で越智氏については詳しく記すことができませんが、最終的に本能寺の変後に筒井氏によって滅ぼされるまで、南朝に荷担した他の武士と同じく、その歴史は「哀史」と言ってもよさそうです。比較的名の知れた武将としては越智家栄や家広がいます。
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大日本史料で貝吹山を検索すると次の3つがヒットしました。
○ 天文15年(1546)10月10日「筒井順昭、越智某を大和貝吹山城に攻む、是日、順昭、某と和し、歸陣す。」
○ 天文18年(1549)9月4日「越智某、筒井順昭の屬城大和貝吹城を攻む、順昭の黨、赴援して、之を破る。」
○ 永禄9年(1566)1月15日「越智伊予守、大和貝吹城を取る」
これを見ても、筒井氏と越智氏で取ったり取られたりした城であることが分かります。
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この城跡にボーと立っていると、何か丹波の宇津城にいるような錯覚に襲われました。登る時の大変さから考えるとこの貝吹城の方がはるかに楽ちんです。本丸の辺りは綺麗に清掃が為されていますが、堀切などを確認しようとチョット脇にはいると、雑草類の繁茂が激しく、頭のテッペンから下まで蜘蛛の巣だらけになります。
この城は、豊臣氏の一国一城令によって廃城となったようで、その後には牛頭天王社が建てられたようです。石灯籠の笠の部分も残っていました。これが廃されたのが明治期の廃仏毀釈時だとすると、それだけでも150年近くが経っています。
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この貝吹山は越智氏発祥の地にあるのですが、筒井氏がここまで攻め寄せているとなるとトータルではやはり分が悪かった?
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貝吹山
山から下山して、その苗字の集落を目指します。ずばり「越智」です。途中には園芸種でしょうか。なかなかに綺麗な花が咲いています。
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越智氏の氏神さんであった天津岩戸別(あまついわとわけ)神社、「別」は人或いは人に類する人格を表しますから、本来は天照大神が隠れた天の岩戸が人格化されたものかもしれませんが、それではどうも合理的でないということで、今は天照大神を引っ張り出した天手力男命が祭神となっています。そういえば、高天原ではないかと言われている金剛山腹の高天集落もこの辺りからなら見えるはず。今日は煙っていて山の形しか分かりません。
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ここいらに越智氏の館跡があるはずというのはガセネタかいな。そこら中のオッサンやオバハンに稲刈りの手を止めてもらって尋ねまくりましたが、「生まれてからずっとここにいるけど、そんなん聞いたことがない。」というのが殆ど。中に一人、「神社がそうや。」と言っていたオッサンもいましたが、神社の表記では「神社の東」に居館があったとあります。やむなく神社の東にある公民館を「この辺だろう」と写真に収めます。帰宅後に調べたところ公民館の東方の三方を丘に囲まれた平地が居館跡であるということ。道に沿って廃車が並べられていたため、ここにとは到底思えぬところでした。またまた宿題。土地の人はそんなんを何も意識せず生活されているということも分かりますね。
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写真は取り忘れましたが、この神社の奥津城は石の台の上に板碑で囲んだようなものが作ってあり、なかなか珍しいものでした。
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諦めきれず神社の横の広場を撮る
ここからは曾我川に沿って北上します。川は南から流れていますから、下流に向かって歩く訳です。本来蘇我氏はこの曾我川周辺にいたとのことです。推古天皇の時に蘇我馬子が葛城の県(あがた)の割譲を求め出て女帝にピシャリと断られていますが、確かにここからは葛城は指呼の間です。記紀に載っている様々な話は非常に狭い範囲で起こっています。
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途中に階段付の常夜燈、非常におもしろい。大正13年の道標は、その大正13年というのだけが読めました。
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たまたま辿り着いたのが新沢千塚古墳群、広大です。古代から中世に行き、またまた古代に逆戻り。この古墳群に属する古墳は約600基、先ほどの貝吹山にもたくさんあるそうです。この古墳公園だけで350基はあるといいいます。
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「これはいい!おもろそー。」と中に入りましたが、様子が変です。公園という割には何となく荒れていて、草茫々だし、全体が公園建設前に戻りつつあるような感じがします。人も全くいません。畑から帰ってくる自転車のおっさん一人を見ただけ。
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行き届いた説明板も文字がかすれて読めないものもあります。それでも籔を抜けたところに畝傍山が見えた時は何となくうれしい気持ちがしました。
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畝傍山
資料館の前に出て謎が解けました。この古墳公園は破綻していたのでした。資料館も勿論閉鎖されています。外から眺めると「資料室」などの文字が変に虚しい。できた時は鳴り物入りであったものが今は寂漠たる光景に成り果て管理する者も常駐しない。
ここで、草っ原を抜けた時にヌスビトハギの実がいっぱいズボンに付きました。あれぇ?緑のズボンなんか履いていたかなというぐらい。こやつがまたはらったぐらいでは取れません。おまけに靴にもイッパイついている。くっそーといいながら一つ一つ取るうちに世間は暗くなりつつあります。牽午子塚では自分がひっつき虫をやっていましたが、まさしく因果は巡るの世界。
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廃墟となった資料館
古墳群を後にして、前から気になっていた忌部(いんべ)山に向かいます。名前からして忌部氏に関わりがありそうな感じです。古代に於いて祭祀権を中臣氏とともに行使した氏族ですが、中臣氏から藤原氏が分流した関係でどうしても忌部氏は分が悪い。もともとわしらは中臣氏と対等なのだということを示すために斎部広成が編纂したのが古語拾遺です。
小生が小学生の坊ちゃんだった頃、音楽の先生に同姓の先生がおられました。ついたあだ名は「インベーダー」。これは後に一世を風靡したゲームから来たものではなく、「謎の円盤UFO」というイギリスのテレビ番組で仕入れた言葉を先生に献呈したものです。そのまま「インベ」と言った方が字数も少なくて速いのに、わざわざ「インベーダーが来たぞー。」等と邪魔くさい物言いをしていたことであります。地球侵略の手始めに小生は音楽の時間はよく廊下に出されました。この先生、ウドンコというあだ名の女の先生と結婚されましたが、今はどうしておられるやら。
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忌部山
もはや暗くなりつつあり、山に登ることは諦めました。山腹に八王子神社があります。説明板も何もありませんでしたが、折角ですから階段を上って参拝します。と言うか神社のあるところが殆ど頂上。この山では高地性集落の遺構も見つかっているとのことですが、この薄暮の現状下では確認のしようもありません。
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拝殿に絵馬が架かっていました。もはや肉眼では確認できません。ストロボを焚いたら何となく写りましたが詳しくは分かりませんね。それでもけったいなものが写らんでよかった!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/17/ea4f1d028fc2b87e689f2a76afd6638d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/26/e9e00fd4bd719d7620e11034c7f78942.jpg)
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西から見た忌部山
この地点ならば、近鉄の坊城駅が近い。やはり地図を持っているということは大切です。もし持っていなかったら多分橿原神宮の方に行っていたと思います。道標は全く読めません。
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途中に八幡さん、境内の中に散髪屋さんがあります。
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駅の近くに「だんご庄」という店。これが大当たり。だんごの種類はきなこをまぶしたもの1種類だけなのですが、これがまたすばらしくウマイ。飢えた状況で食ったものではなく、帰宅後に飯を食った後で食っていますから、まあ本当にウマイ。
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帰りの近鉄電車に二上山帰りのオッサン連中が乗ってきました。藤井寺で降りて「おでん」を食う話をしています。最初は「おでん言うな。関東炊きと言え!」などと思っていましたが、「厚揚げ」とか「ちくわ」とか妙に具体的な会話が聞こえるともうあきません。天王寺でもおでん屋を探し、京橋でも探しました。努力の甲斐あって満足屋に奇跡的に座れました。ここでは写真を撮るのは顰蹙です。食い終わった後で「やまげん」の島らっきょうが妙に恋しくなりました。どうにかならんもんかいなあ。
御祭神は高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)と孝元天皇、ただその昔には菅原道真を祀る天神さんだった時期もあるそうです。孝元天皇が祀られているのはの神社付近が孝元天皇軽境原宮(かるのさかいはらのみや)の伝承地となっているためです。
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拝殿
神社に登る階段の横に万葉歌碑、柿本人麻呂の妻への挽歌、揮毫は有名な書家だそうです。
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この後、早速に住宅地で迷いました。歌碑の横の道を入っていくと、ずうっと坂を登ってぐるーと回って、坂を下って元の道に出てきます。本日は地図は持っているのですが、リュックから出さないと見えない。それでも坂を登ったところで、向こう側に欽明天皇陵でないかいと言われている見瀬丸山古墳がどーんと見えましたから、まあよしとしましょう。
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振り出しに戻って、神社の北側の道を西進します。道路を越える陸橋を渡ってしばらく行くと運動公園があり、そこに沼山古墳があります。古墳に至る道の途中に久松潜一博士揮毫の万葉歌碑、有名な三山歌「香久山は畝傍を愛しと…」というやつです。
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沼山古墳は6C後半の円墳、東漢氏またはそれに近い人が被葬者ではないかと言われています。渡来系氏族で有名な秦氏には、さほど政府高官が出ていませんが、東漢氏は多くの高官を出しています。坂上田村麻呂などは大納言にまで達していますね。これは未ださしたる証拠も示せ無いことなのですが、全国の秦氏の伝承はこの東漢氏の事績の上にそっくりと乗っかっているものも多いのではないでしょうか。
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さて、目指すは益田の岩船です。さすがに登り口もはっきりと示されています。
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登り口
山道をチョイチョイと歩くと突然巨石が現れます。あれー?こんなに大きかったかなあ。30数年経って成長したのかなあ。前に来た時は高松塚や石舞台などの「観光」がメイン。益田の岩船はおまけ扱いで、「見れども見ず」の状態だったのでしょう。
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明日香の資料館で牽午子塚の石室内部の写真を見せてもらって以後、「ああ、あれは古墳の石室になり損ねたやつだ」とほぼ断定的に思っていたのですが、それにしても巨大です。弾みをつけて駈け上ることはできそうですが、「大切な文化財」との看板もあり、ここは自重します。前に来た時には絶対に駈け上っているから、その辺だけが人間として成長したということかな。
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松本清張氏のゾロアスター教の拝火壇説は魅力的ですが、やはり証拠不足です。当時の長安には滅亡したササン朝の貴族がたくさん亡命していたことは事実ですし、ペルシア人が日本に来たということもあったでしょうが、これだけの拝火壇を造るだけ造って放置した理由が分かりません。個人的にチョイチョイと造れる代物ではありません。
その名の由来となったのは益田池という溜池の名称碑の台石だと考えられてきたからだそうですが、これを台石として碑を建てたらすごいでしょうね。その台石説だと池の開削は光仁年間ということですから、平安時代の初期まで時代が下ることになります。まあ朝廷の聖地である真弓丘陵の端っこという位置から考えるとやはり石室かな?墓には石屋さんが付き物。
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本日はそのまま山の中に入ります。竹林地帯や杉の林を抜けて里が近くなると橿原市から明日香村に出たことになります。
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ここから前回明日香で教示したもらった牽午子塚(けんごしづか)に行こうと思ったために山越えをしたわけです。学芸員の方に「それでは行きます。」と言った以上、行かないままではどうも気持ちが悪い。
苦労もせずに明日香側の棚田地帯に出ましたが、さあわからない。今歩いているこの細道が昔は明日香と御所をつなぐメインルートだったと見えて、道端のお地蔵さんの光背は道標になっていて、「左御所」の字が読み取れます。右は読めませんでした。この地蔵さんからしばらく行くと、飛鳥駅の方に向かう坂道まで来てしまいました。
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「うー、分からん。また戻らなあかんやんけ。」と思っていた時に向こうから地図を眺めながらオッチャンが来ます。こういう場合、小生はオッサンと表記するのが常ですが、やはり恩人ですので感謝を込めてオッチャンと表記します。
このオッチャンも牽午子塚をめざしているとのこと、「しばらくひっつき虫になっていいですか?」というとオッチャンは快諾してくれました。
オッチャンは先ず鑵子塚(かんすづか)を見に行くとのこと、ここは喜んで付いていきます。この古墳については矢印の案内板が何ヶ所か設置されていました。のに
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私有地に付き、進入禁止とのこと。こら!それやったら案内にその旨を記しておきなさい。遠くから撮る鑵子塚、きれいな円墳です。
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そこから、先ほど自分が無視してきた脇道に入って牽午子塚、ナビゲーターは優秀です。ここも学芸員がしきりに薦めていた割に未だ整備途中です。ここには先客が2名おられました。
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前回の大和の記事に書きましたように、この古墳が斉明天皇陵である可能性は非常に高い。古墳の前にある説明板はそのあたりについては極めて慎重でした。宮内庁の書陵部のメンツをつぶさぬようにしているのでしょうか。
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太田皇女の墓が見つかった辺り?
オッチャンはこれから今し方小生が通ってきた山に入って岩船に行くとのことです。どうもありがとうございました。
農業組合の敷地を借りて昼飯(ははは、何て用意周到なんだ)、組合のオッチャンもオバチャンもニコニコとして挨拶をしてくれます。
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農業組合から
さて、ここから先は人に会うことなどまず期待できないということで、山道から車道に出て西に進みます。しばらく行くと高取町に出ます。対象とする時代も古代から中世に。
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景色はのどかなのですが、交通量は結構です。だれも歩いていないので、自動車に乗っている側がビックリしています。減速せずにカーブを曲がったら人がいたという感じで何台かの車をふらつかせてしまった。
車道を避けて溜池の土手に駈け上ると珍しい花が迎えてくれました。ちょっとピンボケが残念。
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与楽大池の向こうに貝吹山
そう、本日のもう一つの目的は橿原市最高峰の貝吹山(210メートル・爆)に登ることです。この辺りの国人領主であった越智氏の詰めの城跡でもあります。
お地蔵さんのところに道案内、後ろには乾城(カンジョ)古墳が見えています。
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貝吹山に登る前にこの古墳を見学します。石室の高さが奈良県では一番だということですが、崩落もあってちょっと悲惨な状態になっています。
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貝吹山へはもう一つ案内板がありました。結構親切です。登る途次にはかいらしい花も、道草様のブログによるとこういうのも「野菊」と言っていいようです。
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越智氏は筒井氏と並ぶ大和の有力国人です。南北朝時代には筒井氏が北朝側だったのに対して南朝側で活躍しました。この山の麓の「越智」が苗字の地、そこには居館があり、緊急時にはこの貝吹山城に籠もりました。その越智氏のもう一つの根拠地は有名な高取城です。
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未だ小生は勉強不足で越智氏については詳しく記すことができませんが、最終的に本能寺の変後に筒井氏によって滅ぼされるまで、南朝に荷担した他の武士と同じく、その歴史は「哀史」と言ってもよさそうです。比較的名の知れた武将としては越智家栄や家広がいます。
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大日本史料で貝吹山を検索すると次の3つがヒットしました。
○ 天文15年(1546)10月10日「筒井順昭、越智某を大和貝吹山城に攻む、是日、順昭、某と和し、歸陣す。」
○ 天文18年(1549)9月4日「越智某、筒井順昭の屬城大和貝吹城を攻む、順昭の黨、赴援して、之を破る。」
○ 永禄9年(1566)1月15日「越智伊予守、大和貝吹城を取る」
これを見ても、筒井氏と越智氏で取ったり取られたりした城であることが分かります。
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この城跡にボーと立っていると、何か丹波の宇津城にいるような錯覚に襲われました。登る時の大変さから考えるとこの貝吹城の方がはるかに楽ちんです。本丸の辺りは綺麗に清掃が為されていますが、堀切などを確認しようとチョット脇にはいると、雑草類の繁茂が激しく、頭のテッペンから下まで蜘蛛の巣だらけになります。
この城は、豊臣氏の一国一城令によって廃城となったようで、その後には牛頭天王社が建てられたようです。石灯籠の笠の部分も残っていました。これが廃されたのが明治期の廃仏毀釈時だとすると、それだけでも150年近くが経っています。
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この貝吹山は越智氏発祥の地にあるのですが、筒井氏がここまで攻め寄せているとなるとトータルではやはり分が悪かった?
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貝吹山
山から下山して、その苗字の集落を目指します。ずばり「越智」です。途中には園芸種でしょうか。なかなかに綺麗な花が咲いています。
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越智氏の氏神さんであった天津岩戸別(あまついわとわけ)神社、「別」は人或いは人に類する人格を表しますから、本来は天照大神が隠れた天の岩戸が人格化されたものかもしれませんが、それではどうも合理的でないということで、今は天照大神を引っ張り出した天手力男命が祭神となっています。そういえば、高天原ではないかと言われている金剛山腹の高天集落もこの辺りからなら見えるはず。今日は煙っていて山の形しか分かりません。
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ここいらに越智氏の館跡があるはずというのはガセネタかいな。そこら中のオッサンやオバハンに稲刈りの手を止めてもらって尋ねまくりましたが、「生まれてからずっとここにいるけど、そんなん聞いたことがない。」というのが殆ど。中に一人、「神社がそうや。」と言っていたオッサンもいましたが、神社の表記では「神社の東」に居館があったとあります。やむなく神社の東にある公民館を「この辺だろう」と写真に収めます。帰宅後に調べたところ公民館の東方の三方を丘に囲まれた平地が居館跡であるということ。道に沿って廃車が並べられていたため、ここにとは到底思えぬところでした。またまた宿題。土地の人はそんなんを何も意識せず生活されているということも分かりますね。
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写真は取り忘れましたが、この神社の奥津城は石の台の上に板碑で囲んだようなものが作ってあり、なかなか珍しいものでした。
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諦めきれず神社の横の広場を撮る
ここからは曾我川に沿って北上します。川は南から流れていますから、下流に向かって歩く訳です。本来蘇我氏はこの曾我川周辺にいたとのことです。推古天皇の時に蘇我馬子が葛城の県(あがた)の割譲を求め出て女帝にピシャリと断られていますが、確かにここからは葛城は指呼の間です。記紀に載っている様々な話は非常に狭い範囲で起こっています。
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途中に階段付の常夜燈、非常におもしろい。大正13年の道標は、その大正13年というのだけが読めました。
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たまたま辿り着いたのが新沢千塚古墳群、広大です。古代から中世に行き、またまた古代に逆戻り。この古墳群に属する古墳は約600基、先ほどの貝吹山にもたくさんあるそうです。この古墳公園だけで350基はあるといいいます。
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「これはいい!おもろそー。」と中に入りましたが、様子が変です。公園という割には何となく荒れていて、草茫々だし、全体が公園建設前に戻りつつあるような感じがします。人も全くいません。畑から帰ってくる自転車のおっさん一人を見ただけ。
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行き届いた説明板も文字がかすれて読めないものもあります。それでも籔を抜けたところに畝傍山が見えた時は何となくうれしい気持ちがしました。
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畝傍山
資料館の前に出て謎が解けました。この古墳公園は破綻していたのでした。資料館も勿論閉鎖されています。外から眺めると「資料室」などの文字が変に虚しい。できた時は鳴り物入りであったものが今は寂漠たる光景に成り果て管理する者も常駐しない。
ここで、草っ原を抜けた時にヌスビトハギの実がいっぱいズボンに付きました。あれぇ?緑のズボンなんか履いていたかなというぐらい。こやつがまたはらったぐらいでは取れません。おまけに靴にもイッパイついている。くっそーといいながら一つ一つ取るうちに世間は暗くなりつつあります。牽午子塚では自分がひっつき虫をやっていましたが、まさしく因果は巡るの世界。
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廃墟となった資料館
古墳群を後にして、前から気になっていた忌部(いんべ)山に向かいます。名前からして忌部氏に関わりがありそうな感じです。古代に於いて祭祀権を中臣氏とともに行使した氏族ですが、中臣氏から藤原氏が分流した関係でどうしても忌部氏は分が悪い。もともとわしらは中臣氏と対等なのだということを示すために斎部広成が編纂したのが古語拾遺です。
小生が小学生の坊ちゃんだった頃、音楽の先生に同姓の先生がおられました。ついたあだ名は「インベーダー」。これは後に一世を風靡したゲームから来たものではなく、「謎の円盤UFO」というイギリスのテレビ番組で仕入れた言葉を先生に献呈したものです。そのまま「インベ」と言った方が字数も少なくて速いのに、わざわざ「インベーダーが来たぞー。」等と邪魔くさい物言いをしていたことであります。地球侵略の手始めに小生は音楽の時間はよく廊下に出されました。この先生、ウドンコというあだ名の女の先生と結婚されましたが、今はどうしておられるやら。
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忌部山
もはや暗くなりつつあり、山に登ることは諦めました。山腹に八王子神社があります。説明板も何もありませんでしたが、折角ですから階段を上って参拝します。と言うか神社のあるところが殆ど頂上。この山では高地性集落の遺構も見つかっているとのことですが、この薄暮の現状下では確認のしようもありません。
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拝殿に絵馬が架かっていました。もはや肉眼では確認できません。ストロボを焚いたら何となく写りましたが詳しくは分かりませんね。それでもけったいなものが写らんでよかった!
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西から見た忌部山
この地点ならば、近鉄の坊城駅が近い。やはり地図を持っているということは大切です。もし持っていなかったら多分橿原神宮の方に行っていたと思います。道標は全く読めません。
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途中に八幡さん、境内の中に散髪屋さんがあります。
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駅の近くに「だんご庄」という店。これが大当たり。だんごの種類はきなこをまぶしたもの1種類だけなのですが、これがまたすばらしくウマイ。飢えた状況で食ったものではなく、帰宅後に飯を食った後で食っていますから、まあ本当にウマイ。
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帰りの近鉄電車に二上山帰りのオッサン連中が乗ってきました。藤井寺で降りて「おでん」を食う話をしています。最初は「おでん言うな。関東炊きと言え!」などと思っていましたが、「厚揚げ」とか「ちくわ」とか妙に具体的な会話が聞こえるともうあきません。天王寺でもおでん屋を探し、京橋でも探しました。努力の甲斐あって満足屋に奇跡的に座れました。ここでは写真を撮るのは顰蹙です。食い終わった後で「やまげん」の島らっきょうが妙に恋しくなりました。どうにかならんもんかいなあ。
明日香、これから行かれるならやはり平日がいいと思います。飛鳥駅の東側はすごい人になるだろうと思います。奈良も正倉院展が始まり土日・祝日はごったがえします。けれども逆に人が少ないから一人で山とかには行かれたらダメですよ。
おでん種で外せないのは「厚揚げ」です。「ひろうす」もいいですね。無いところが多いですが、宝袋の中にギンナンが入っていたら何かもうけたような気がします。
百日草、名前はよく聞くのに何であるか知りませんでした。ありがとうございます。
飛鳥には石室がここかしこにあるのですね。牽午子塚は何時かテレビの映像で見たような、見学者の長蛇列があっような?どうもいけません、余り関心がなかったものですから(笑)全く覚えていません。石段のある常夜燈初めて見ました。多色の花は百日草です。田舎では大抵の家で咲かせていました。色とりどりで長く咲くから仏花に最適でした。
gunkanatagoさんの徘徊記はいつも地図を見ながら拝読させていただきます。毎回実に楽しそうに徘徊されている様子がひしひしと伝わってきて「よーし私も行ってみよう」と元気を貰っています。歩かれたあとの食の楽しみも凄く興味があります。おでん種は何がお好きですか?
確か中尾山や牽午子塚など八角形の古墳の本格的発掘は清張氏死後のことだと思いますが、生きていたらこれらの石室をどう見ただろうなあ等と思っています。先日来猫のゲージを部屋に入れるために本の整理を行っていますが、松本清張の本も80冊ばかりあり、一旦処分と決めましたが、やはり捨てられませんでした(短編集など何冊かは処分しました)。代わりに野中広務や浜田幸一の本を捨てました(爆)。
だんご庄のだんご、本当にウマイですね。ただきなこをまぶしただけのものにこういう広がりがあったのかと感動しています。だんごがベタベタになったらかけて下さいときなこが別に付いているのもうれしい気遣いです。
松本清張はゾロアスター教の拝火壇ではと言っていますが、NHKの番組で実際にイランまで足を運び、岩船と同じ様な石造物を見せていましたが、影像で見せられるとその説に吸い込まれてしまいますね。飛鳥時代って外国のこと関係ないと思われがちだと思いますが、仏教に対する態度で政争になりますし、羽曳野の古墳群は日本を訪れる外国の使節に日本はこんなに力があるんだぞ~という示威だったと読んだ様な記憶もあります。骨董屋と盗掘、ペルシャ人を登場させたり、清張さんの「火の路」は小説としてはさすがだと思いました。
今回も割と歩かれましたね。さすがでございます。そのご褒美が「だんご庄」というところでしょうか。素朴なきな粉味で、大和の釦屋(大和は釦メーカーが多い)さんがこれをお土産に持って来てくれたときは女性社員は大喜びでした。
牽午子塚のシート、多分復元していこうという為のものだと思いますが、近年は文化財関係も予算は厳しいようです。復元整備が完成するのは遥か先のことではないかと思われます。
野菊の知識をありがとうございました。道草様のブログに「野菊を見ない」と書いたらいきなり見ることができました。
ひっつき虫、そうですね。全部取るのに小一時間かかりました。あのまま電車に乗ったら絶対に変人扱いされたと思います。というか、あそこで死体で発見されたら絶対に通報されます。
「鈴蘭ちゃん」とはまた可愛いあだ名ですね。中学校時代に小生の頭をいつも金属バットで殴っていた英語の先生が見かけはそんな感じでした。やることはえげつなかったので、そういう可愛いあだ名は付きませんでしたが。
ウドンコ先生は久しく嫁かず後家として過ごしていたのですが、気がついたらインベーダーの嫁になっていました。インベーダーは相当に変わった先生で、音楽の時間に歌を歌わずにいたら「ふん、お前、歌えー」と叫び、それでも歌わずにいたら手で戸口を指します。それがまあ出て行けの合図で小生はこの合図が楽しみでした。ウドンコの名は姓名から来ていますよ。
亀石とか酒船石なんて物も聞いた気がしますが、いずれも正体は謎なのでしょうか。いずれにしましても、駆け上らなくて正解ではないですか。きっと、途中から逆とんぼりに・・・。まあ、シラフだったら大丈夫ですか。
牽午子塚へは無事に行き着かれて何よりですけど、シートが被せてあるのは整備途中だからですか。ちょっと戴けませんねぇ。下の赤い花は一見ハイビスカスみたいですが、留紅草(るこうそう)もこんな感じです。牽牛子塚の名からすれば、朝顔の一種かも・・・?
標高210メートの貝吹山が橿原市の最高峰とか。宇津村が確かその程度の海抜の筈です。城跡もよく似ていますし、冬にはたまに雪も積もるのではないですか。
薄紫の可憐な花は野菊です。しかも一輪だけ咲いているとは、姫君の化身かも知れません・・・。
下の方の集落、越智ですか。そこに咲いている赤い派手な花は、園芸種ではないでしょうか。最近は難しい外来名が多くてよく分かりません。ここは〝歩く図鑑氏〟に任せるしかありません。
その後〝ひっつき虫〟に引っ付かれられたそうですが、これにやられると諦めるしかありません。ズボンは捨てるか、そのままくっ付けたままで冬になって枯れるのを待つか、のどちらかです。gunkanatagoさんが全部取られたのなら、その根気良さはギネス級ではないですか。
そのgunkan坊やが名付け親(?)の忌部先生の仇名の「インベーダー」は、中々秀逸です。しかし、女先生の「ウドンコ」はお気の毒です。化粧がメッチャ濃かったとか?私達の中学校の女先生(卒業直後の新任)は「鈴蘭ちゃん」でした。尤も、年配の先生に「火吹婆」と言う仇名の先生が居られましたが。後者の命名は私ではありません。念の為。
最後の締め括りは彩色鮮やかな絵馬ですか。美姫が写っていますが。そして、本当の最後は、やはり落ち着く所へ落ち着かれたご様子、何よりでした。いつもの如く充実した盛り沢山の内容に、上面を掠めただけで申し訳ございません