岩波文庫『江戸怪談集』所収『宿直草(とのいぐさ)』に「摂津本山は魔所たるべきこと」という話があります。それによると二人の山猟師がこの地でもの凄い大坊主が昼寝しているのを目撃し、逃げて帰ってきたとのことです。「魔所」という禍々しい言葉を使っている割には話はそれだけのことで、多少拍子抜けの感もあります。この本山の地、現在は「ポンポン山」の登山道といった方が判りよいようです。
小生も若きころより大坊主を求めて、随分とこの界隈を徘徊しましたが、未だ拝謁の栄には浴しておりません。そんなことをして本当に出たらどうするのだというところですが、その場合には蘇秦・張儀の如く三寸の舌を使い大坊主に下山を勧め、高槻辺りに「出開帳」という目論見、言葉が通じなければどうするのだ等と考える知恵はありません。
写真の本山寺は寺伝では7世紀末の開創、日本三大毘沙門の一つだそうです。鞍馬寺と信貴山の朝護孫寺が三大毘沙門に入ることは異論がないのですが、あと一つには多くの寺が名乗りを上げています。けれども先ほど述べました江戸時代の書物にはっきりと記してあることは本山寺にとってかなり有力な証拠となります。最近になって、うちの寺こそ三大毘沙門の一つだなどと言い出し、韓国の竹島占拠、支那の尖閣諸島領有の主張を彷彿とさせる偽りを弁ずる寺は直ちに破却すべきでしょう。
開基は役行者で、行者が葛城山にて修行中に、この辺りに瑞雲を見、直ちにこの地に赴いてお堂を建てたということで、逆にこの地から葛城山を遙拝するところもあります。かつての瑞雲の地がやがては魔所と呼ばれるに到った経緯は不明ですが、今後の宿題の一つではあります。
さて、麓の原集落から本山寺は如何にも遠い、そこで原集落のすぐ近くに建てられたのが同じく毘沙門天を祀る神峰山寺(かぶせんじ)でありましょう。こちらの方は光仁天皇勅願と伝えていますから、本山寺より約100年後ということになります。山中の祭祀場が人間の都合で山を下りてくることはままあるようで、例えば亀岡の小幡神社なども本来は丁塚山山中にあったとのことです。両寺の関係は、そういうところから出発したと思われますが、時代が下ると今度は神峰山寺の奥の院が本山寺という認識も生まれてきたようです。
両寺ともにその入り口には勧請縄という独特の結界を張っていますが、これなど魔所の住民たる魑魅魍魎の侵入を防ぐ意味があるのかも知れません。ポンポン山はこの本山寺本堂の裏手からさらに登っていきます。近年、山頂付近が切り開かれ本当に眺望がよくなりました。北に迫る愛宕の峰、西に見る丹波の山々、東には京都タワーが爪楊枝の如く見えています。名の由来は、山頂に近づくに連れて足踏みをするにポンポンと音がするところから来ているそうですが、もはや誰も信じていなくて、あきらめ悪く足踏みをしているのは小生ぐらいのものです。
今までは高槻側から登った場合、京都側に降りて市街地を延々と歩く羽目になり後悔するのが既に常態でありましたが、何と麓の原集落は所謂どぶろく特区に指定されたようで、村で穫れた餅米を原料に「どぶろく」を作っています。これは、何としても飲まねばなりませんから凄まじい勢いで来た道を戻ることになります。「どぶろく、どぶろく。」と唱えながら下る途次、右手の林に黒いものが走りました。木漏れ日が微妙な影を造っています。「さては、出たか大坊主。」とやや身構えましたが、よーく見ると「鹿」でありました。鹿大虐殺をしている長野や他府県と違い、この辺りでは鹿は大切に保護されています。
おかゆのような「どぶろく」を飲み、この原集落をさらに徘徊すれば、本当にのんびりとした良いところです。但し、くれぐれも村の真ん中を走る道路にふらついて出てはいけません。亀岡に抜けるこの道路、多くの車が猛スピードで疾走しています。小生などもここで人をひきかけたこともあり、ひかれかけたこともありますから、慎重に。
(08年3月の記事に加筆して再録)
小生も若きころより大坊主を求めて、随分とこの界隈を徘徊しましたが、未だ拝謁の栄には浴しておりません。そんなことをして本当に出たらどうするのだというところですが、その場合には蘇秦・張儀の如く三寸の舌を使い大坊主に下山を勧め、高槻辺りに「出開帳」という目論見、言葉が通じなければどうするのだ等と考える知恵はありません。
写真の本山寺は寺伝では7世紀末の開創、日本三大毘沙門の一つだそうです。鞍馬寺と信貴山の朝護孫寺が三大毘沙門に入ることは異論がないのですが、あと一つには多くの寺が名乗りを上げています。けれども先ほど述べました江戸時代の書物にはっきりと記してあることは本山寺にとってかなり有力な証拠となります。最近になって、うちの寺こそ三大毘沙門の一つだなどと言い出し、韓国の竹島占拠、支那の尖閣諸島領有の主張を彷彿とさせる偽りを弁ずる寺は直ちに破却すべきでしょう。
開基は役行者で、行者が葛城山にて修行中に、この辺りに瑞雲を見、直ちにこの地に赴いてお堂を建てたということで、逆にこの地から葛城山を遙拝するところもあります。かつての瑞雲の地がやがては魔所と呼ばれるに到った経緯は不明ですが、今後の宿題の一つではあります。
さて、麓の原集落から本山寺は如何にも遠い、そこで原集落のすぐ近くに建てられたのが同じく毘沙門天を祀る神峰山寺(かぶせんじ)でありましょう。こちらの方は光仁天皇勅願と伝えていますから、本山寺より約100年後ということになります。山中の祭祀場が人間の都合で山を下りてくることはままあるようで、例えば亀岡の小幡神社なども本来は丁塚山山中にあったとのことです。両寺の関係は、そういうところから出発したと思われますが、時代が下ると今度は神峰山寺の奥の院が本山寺という認識も生まれてきたようです。
両寺ともにその入り口には勧請縄という独特の結界を張っていますが、これなど魔所の住民たる魑魅魍魎の侵入を防ぐ意味があるのかも知れません。ポンポン山はこの本山寺本堂の裏手からさらに登っていきます。近年、山頂付近が切り開かれ本当に眺望がよくなりました。北に迫る愛宕の峰、西に見る丹波の山々、東には京都タワーが爪楊枝の如く見えています。名の由来は、山頂に近づくに連れて足踏みをするにポンポンと音がするところから来ているそうですが、もはや誰も信じていなくて、あきらめ悪く足踏みをしているのは小生ぐらいのものです。
今までは高槻側から登った場合、京都側に降りて市街地を延々と歩く羽目になり後悔するのが既に常態でありましたが、何と麓の原集落は所謂どぶろく特区に指定されたようで、村で穫れた餅米を原料に「どぶろく」を作っています。これは、何としても飲まねばなりませんから凄まじい勢いで来た道を戻ることになります。「どぶろく、どぶろく。」と唱えながら下る途次、右手の林に黒いものが走りました。木漏れ日が微妙な影を造っています。「さては、出たか大坊主。」とやや身構えましたが、よーく見ると「鹿」でありました。鹿大虐殺をしている長野や他府県と違い、この辺りでは鹿は大切に保護されています。
おかゆのような「どぶろく」を飲み、この原集落をさらに徘徊すれば、本当にのんびりとした良いところです。但し、くれぐれも村の真ん中を走る道路にふらついて出てはいけません。亀岡に抜けるこの道路、多くの車が猛スピードで疾走しています。小生などもここで人をひきかけたこともあり、ひかれかけたこともありますから、慎重に。
(08年3月の記事に加筆して再録)
それより、徘徊堂さんに嬉しい発見は「どぶろくの里」があることですネ。昔のどぶろくは密造酒でした。三条京極に「白」と称するどぶろくを飲ませてくれる飲み屋があり、学生時代に友人と行ったことがあります。値段は安かったのですが、たいして旨いものではありませんでした。やはり密造していたからでしょうか。高槻のどぶろくの味は如何でしたか。
昔のお寺はみんな山中にあってそこで修業されたのですね。それに比して都に居ます今のお寺様方々、髪の毛黒々、京都の観光税騒動の時コンサルタントと一緒にカメラの前に立つあの坊主達、という言葉も吐きたくなります。最近最も腹の立ったのは箕面の勝尾寺、拝観料を払って動物園の入口のようなゲートを通らされたことです。
愚痴を話して済みませんでした。また山を歩き、修業の場たる山寺を訪ねてみたい気持ちにさせて頂きました。有難うございます。徘徊堂さまの行動力に敬意を表したく思います。