枚方市の楠葉、京阪電車の駅は今や特急停車駅で、モールタウンという名で知られる新興住宅地です。といっても琵琶湖ローズタウンや多田グリーンハイツ、何よりも千里ニュータウンなどと同様に、比較的に早い段階で開発された地域は既にして住民の高齢化が進みつつあります。「くずは」の語源については、古事記の崇神天皇の段に楠葉住民の自尊心をズタズタにするような話が記されているのですが、流石に楠葉モールにある説明板でも「楠葉の御牧」は紹介していても古事記の話は載せていません。
梁塵秘抄には「土器作り」の里として出ており、それを物語るが如く、何遺跡でしたか正式な名称は忘れましたが、ここらの遺跡からバケツ数千杯分の土器片が出土し、「この分類・整理だけが私の後半の人生です。」と発掘担当者が嘆いていましたが、彼は今も土器片と苦闘しているのでしょうか。
今は、一望住宅の波と言うところですが、北東方面に住宅の海に浮かぶ島のように緑が連なるところがあり、この連なりは八幡の山に延びています。西側には淀川を挟んで鵜殿の葭原が広がっています。今、全ての住宅を緑に塗り替えてみれば、平安時代の「交野原」が目に浮かんできます。
京阪電車の樟葉駅から、住宅の中に浮かぶ緑の島を目指すと交野天神社に至ります。この神社の入り口からして、深い森に入るの感があります。最初の鳥居からしばらく行くと弘化年間(1844-47)の鳥居があります。
御祭神は桓武天皇の父「光仁天皇」です。桓武天皇が交野原に郊祀壇を築いて天を祀った場所にこの神社が建立されたそうですが、祀ったのは「天」であり、光仁天皇は合祀されたものと思われますが、この近辺の説明書きには壇を築いて光仁天皇を祀ったとあります。これは、現在の姿から787年の祭天を解釈しているもので誤りかと思われます。日本でも儒学はそれなりに行われましたが、それでも「天」という抽象的な概念は遂に根付くことなく、森羅万象が人格神の形をとって祀られましたから、ここでもいつの間にか「天」はどこかに行ってしまい、「光仁天皇」が御祭神として確立したものと思われます。
この神社の森は道は本当に清々しく掃き清められています。
この神社の存在がなければ、当然ここらも住宅となってしまっている訳で、百万の生霊もまた存在しないことを思うと神社が果たしてきた役割の大きさが実感されます。田畑をつぶしてアスファルトの駐車場にする。如何に多くの生き物をそのまま生き埋めにしてしまうことか、そろそろ考えるべき時代になったと思われるのですが、そのような思いにさせる森が広がります。この森の北端、木々を通して住宅が見えるのがうっとおしいのですが、貴船神社があります。この社の辺りが「継体天皇楠葉宮跡」と言われています。
6世紀の前半に越(こし)の国から来て大王となった人物ですが、長く大和に入れなかった伝承があり、御陵も高槻にある今城塚古墳だとされていますが、継体天皇から欽明天皇に至る間にも何らかの混乱があったとされており、最後も太子、皇子とともに殺された可能性もあり、なかなかに心を安んずることのなかった方ですが、この宮跡は今は本当に静かです。そう言えば、筑紫君磐井の乱もこの天皇の時におこっていますが、負けたから「乱」なのであって、勝っていれば磐井が大和に入って大王となっていたやも知れません。
交野天神社から参道を下り、京阪電車の線路に並行した道を北上します。しばらくは住宅街が続きますが、その住宅街がきれ、大阪市の浄水場を越えた辺りに橋本砲台の跡があります。淀川の対岸には高浜の砲台、幕末、橋本の砲台とならんで淀川を怪しい船が遡行して京都に侵入するのを防ぐために幕府によって造られたものでしたが、鳥羽伏見の戦いの後に高浜の砲台を守っていた藤堂藩が薩長側に寝返ってこちら側に砲撃してきたため、淀川を挟んで両砲台が打ち合ったそうです。近年では、藤堂藩祖高虎こそが幕府政治の設計者であったという説もあるぐらいですから、まさかまさかということで橋本の砲台を守っていた人たちは本当に驚いたでしょう。けれども直ぐに応戦、弾を撃ち尽くした後で砲を破壊して撤退したとのことです。
ここから橋本の遊郭跡までは野道が続きます。京阪電車の写真を撮るよいスポットらしく、畦道ではテッチャンがカメラを構えています。久修園院が昔と変わらぬ姿で野道に面しています。
けれども、寺の東側には多くの住宅が建ち、気の毒なのは寺の直ぐ北隣に薄汚い雑居ビルのようなものが建てられていることです。西側は若山や天王山が淀川の向こうに見えています。この寺を少し行くと橋本の遊郭跡になりますが、訪れる度に遊郭の名残が減っていっています。京阪電車橋本駅の前には、橋本の渡し場への道標が残されています。
さて、橋本駅のすぐ近くにはもの凄く気になるスタンドがあるのですが、やっているものやら廃業したのやら、開いているのを見たことがありません。他に飲み屋は…と探してみても一軒もありません。遊郭があったころには考えられぬことでしょうが、往時は草深い田舎だった楠葉に戻って飲まなければなりません。
(09年3月記)
梁塵秘抄には「土器作り」の里として出ており、それを物語るが如く、何遺跡でしたか正式な名称は忘れましたが、ここらの遺跡からバケツ数千杯分の土器片が出土し、「この分類・整理だけが私の後半の人生です。」と発掘担当者が嘆いていましたが、彼は今も土器片と苦闘しているのでしょうか。
今は、一望住宅の波と言うところですが、北東方面に住宅の海に浮かぶ島のように緑が連なるところがあり、この連なりは八幡の山に延びています。西側には淀川を挟んで鵜殿の葭原が広がっています。今、全ての住宅を緑に塗り替えてみれば、平安時代の「交野原」が目に浮かんできます。
京阪電車の樟葉駅から、住宅の中に浮かぶ緑の島を目指すと交野天神社に至ります。この神社の入り口からして、深い森に入るの感があります。最初の鳥居からしばらく行くと弘化年間(1844-47)の鳥居があります。
御祭神は桓武天皇の父「光仁天皇」です。桓武天皇が交野原に郊祀壇を築いて天を祀った場所にこの神社が建立されたそうですが、祀ったのは「天」であり、光仁天皇は合祀されたものと思われますが、この近辺の説明書きには壇を築いて光仁天皇を祀ったとあります。これは、現在の姿から787年の祭天を解釈しているもので誤りかと思われます。日本でも儒学はそれなりに行われましたが、それでも「天」という抽象的な概念は遂に根付くことなく、森羅万象が人格神の形をとって祀られましたから、ここでもいつの間にか「天」はどこかに行ってしまい、「光仁天皇」が御祭神として確立したものと思われます。
この神社の森は道は本当に清々しく掃き清められています。
この神社の存在がなければ、当然ここらも住宅となってしまっている訳で、百万の生霊もまた存在しないことを思うと神社が果たしてきた役割の大きさが実感されます。田畑をつぶしてアスファルトの駐車場にする。如何に多くの生き物をそのまま生き埋めにしてしまうことか、そろそろ考えるべき時代になったと思われるのですが、そのような思いにさせる森が広がります。この森の北端、木々を通して住宅が見えるのがうっとおしいのですが、貴船神社があります。この社の辺りが「継体天皇楠葉宮跡」と言われています。
6世紀の前半に越(こし)の国から来て大王となった人物ですが、長く大和に入れなかった伝承があり、御陵も高槻にある今城塚古墳だとされていますが、継体天皇から欽明天皇に至る間にも何らかの混乱があったとされており、最後も太子、皇子とともに殺された可能性もあり、なかなかに心を安んずることのなかった方ですが、この宮跡は今は本当に静かです。そう言えば、筑紫君磐井の乱もこの天皇の時におこっていますが、負けたから「乱」なのであって、勝っていれば磐井が大和に入って大王となっていたやも知れません。
交野天神社から参道を下り、京阪電車の線路に並行した道を北上します。しばらくは住宅街が続きますが、その住宅街がきれ、大阪市の浄水場を越えた辺りに橋本砲台の跡があります。淀川の対岸には高浜の砲台、幕末、橋本の砲台とならんで淀川を怪しい船が遡行して京都に侵入するのを防ぐために幕府によって造られたものでしたが、鳥羽伏見の戦いの後に高浜の砲台を守っていた藤堂藩が薩長側に寝返ってこちら側に砲撃してきたため、淀川を挟んで両砲台が打ち合ったそうです。近年では、藤堂藩祖高虎こそが幕府政治の設計者であったという説もあるぐらいですから、まさかまさかということで橋本の砲台を守っていた人たちは本当に驚いたでしょう。けれども直ぐに応戦、弾を撃ち尽くした後で砲を破壊して撤退したとのことです。
ここから橋本の遊郭跡までは野道が続きます。京阪電車の写真を撮るよいスポットらしく、畦道ではテッチャンがカメラを構えています。久修園院が昔と変わらぬ姿で野道に面しています。
けれども、寺の東側には多くの住宅が建ち、気の毒なのは寺の直ぐ北隣に薄汚い雑居ビルのようなものが建てられていることです。西側は若山や天王山が淀川の向こうに見えています。この寺を少し行くと橋本の遊郭跡になりますが、訪れる度に遊郭の名残が減っていっています。京阪電車橋本駅の前には、橋本の渡し場への道標が残されています。
さて、橋本駅のすぐ近くにはもの凄く気になるスタンドがあるのですが、やっているものやら廃業したのやら、開いているのを見たことがありません。他に飲み屋は…と探してみても一軒もありません。遊郭があったころには考えられぬことでしょうが、往時は草深い田舎だった楠葉に戻って飲まなければなりません。
(09年3月記)
貴船神社と称するものは各地にあるのですか。橋本はかなり昔(売防法施行以降)に一度だけ降りた記憶があります。昼間でしたから飲み屋はどうでしたか。中書島でなら何度か飲んだことはありますが・・・。
今後は開発の波が止まるのかどうかは分かりませんが、それでも静かな神社など残すべき地域は多々あるようです。岩清水八幡宮へは、子供を連れて行ったことがあります。それにしても、京阪沿線は、これまでの私には近くて遠きエリアでした。