木沢長政等の謀略により三好元長が堺で自刃したのは1532年のことでした。阿波にあるころから自分を庇護し、同族のライバル細川高国を倒し、自らに管領の地位を与えてくれた恩人を細川晴元は、これ幸いと見殺しにしたのでした。しかしながら、元長を倒した一向一揆が、その後も各地に蜂起するのを見た晴元は、畿内が加賀のようになることを怖れたのでしょうか(加賀一向一揆に滅ぼされた富樫政親も当初は一揆と協力関係にあった)、今度は法華宗を煽動して一向一揆を攻撃させるのです。これが天文法華一揆の始まりとなりました。
現代のイラクに於いて、イスラム教シーア派とスンニ派がまさしく自爆テロ合戦を展開していますが、往時の京都もそれに似た感じで、対立する宗派を皆殺しにすることこそが仏の御心にかなうこととされたのでしょうか。法華が優勢なときは一向一揆の、一向一揆が優勢なときは法華の衆の死骸が京都を埋め尽くしました。
元長の自決が6月、法華一揆による山科本願寺焼き討ちが8月という慌ただしさですが、翌1533年には晴元も法華一揆煽動を具申した茨木長隆も、石山によった一向一揆の反撃を受けて一旦は淡路まで逃れることになります。法華宗との共同作戦で淡路から摂津の池田に戻った細川晴元は、自分が殺した元長の息子、三好長慶に援助を依頼しています。本当に、どの面を提げてというところですが、この時の晴元は19歳、「晴元が~した。」という形で述べられることの多くは自身の意思ではなかったのかも知れません。三好長慶はその要請を入れて一向宗と晴元の中を斡旋します。といってもこの時の長慶はわずかに11歳ですから、長慶を生かすために家臣がその道を選んだということでしょう。
堺の顕本寺に先君元長を囲んで自裁させた一向一揆との間にパイプを作る。もはや知りようもありませんが、長慶をもり立てる家臣たちの活躍があったことは確かでしょう。敵の敵は味方の時代ですから、長慶の敵であった晴元が法華と組むや立ちどころに一向一揆と和解したのかも知れませんが、この時点では父を殺された長慶を宥める家臣たちの姿が想像されます。
しかしながら、本当にややこしいことなのですが、この年の内にも長慶の軍が一向宗と戦っており、また細川晴元も一向宗と戦っており、さらに長慶と晴元も戦っています。敵の敵も敵という状態が続くのです。ここら辺りの時代の雰囲気は小生如き浅学の身にはなかなか捉えられるものではありません。が、それだけに「おや、こんなことが…。」という発見の面白さもあるのです。
1934年10月、晴元と長慶は本格的に手打ちをしたようで、以後しばらくの間は両者の争乱はありません。この時は晴元が20歳、長慶が12歳です。晴元はともかく、長慶というのは長慶を擁する三好家臣団と考えるべきでしょう。翌1535年11月に晴元は一向宗とも和解します。この後しばらくの間は晴元と一向宗即ち本願寺との間は静謐です。となると、ここがこの人物のある意味で凄いところなのですが、今度は自分を何度も救ってくれた法華宗に攻撃をしかけるのです。1536年の天文法華の乱で比叡山と六角氏に攻められた法華宗の勢力は壊滅しますが、背景には晴元の意志も感じられます。
以後、晴元は将軍足利義晴の元で細川氏代々の官職である右京大夫に任官、1541年まで管領として幕府の政治をリードします。この時期のことは、政所執事伊勢氏の家臣蜷川親俊の日記が残っていて、水藤真氏の「落日の室町幕府」という本に詳しいのですが、鷹狩りや節句等々随分と優雅です。しかしながら、19歳になった三好長慶が本格的に父の復讐戦に乗り出すのであります。
写真は1539~1553の間、長慶の根城であった越水城祉
現代のイラクに於いて、イスラム教シーア派とスンニ派がまさしく自爆テロ合戦を展開していますが、往時の京都もそれに似た感じで、対立する宗派を皆殺しにすることこそが仏の御心にかなうこととされたのでしょうか。法華が優勢なときは一向一揆の、一向一揆が優勢なときは法華の衆の死骸が京都を埋め尽くしました。
元長の自決が6月、法華一揆による山科本願寺焼き討ちが8月という慌ただしさですが、翌1533年には晴元も法華一揆煽動を具申した茨木長隆も、石山によった一向一揆の反撃を受けて一旦は淡路まで逃れることになります。法華宗との共同作戦で淡路から摂津の池田に戻った細川晴元は、自分が殺した元長の息子、三好長慶に援助を依頼しています。本当に、どの面を提げてというところですが、この時の晴元は19歳、「晴元が~した。」という形で述べられることの多くは自身の意思ではなかったのかも知れません。三好長慶はその要請を入れて一向宗と晴元の中を斡旋します。といってもこの時の長慶はわずかに11歳ですから、長慶を生かすために家臣がその道を選んだということでしょう。
堺の顕本寺に先君元長を囲んで自裁させた一向一揆との間にパイプを作る。もはや知りようもありませんが、長慶をもり立てる家臣たちの活躍があったことは確かでしょう。敵の敵は味方の時代ですから、長慶の敵であった晴元が法華と組むや立ちどころに一向一揆と和解したのかも知れませんが、この時点では父を殺された長慶を宥める家臣たちの姿が想像されます。
しかしながら、本当にややこしいことなのですが、この年の内にも長慶の軍が一向宗と戦っており、また細川晴元も一向宗と戦っており、さらに長慶と晴元も戦っています。敵の敵も敵という状態が続くのです。ここら辺りの時代の雰囲気は小生如き浅学の身にはなかなか捉えられるものではありません。が、それだけに「おや、こんなことが…。」という発見の面白さもあるのです。
1934年10月、晴元と長慶は本格的に手打ちをしたようで、以後しばらくの間は両者の争乱はありません。この時は晴元が20歳、長慶が12歳です。晴元はともかく、長慶というのは長慶を擁する三好家臣団と考えるべきでしょう。翌1535年11月に晴元は一向宗とも和解します。この後しばらくの間は晴元と一向宗即ち本願寺との間は静謐です。となると、ここがこの人物のある意味で凄いところなのですが、今度は自分を何度も救ってくれた法華宗に攻撃をしかけるのです。1536年の天文法華の乱で比叡山と六角氏に攻められた法華宗の勢力は壊滅しますが、背景には晴元の意志も感じられます。
以後、晴元は将軍足利義晴の元で細川氏代々の官職である右京大夫に任官、1541年まで管領として幕府の政治をリードします。この時期のことは、政所執事伊勢氏の家臣蜷川親俊の日記が残っていて、水藤真氏の「落日の室町幕府」という本に詳しいのですが、鷹狩りや節句等々随分と優雅です。しかしながら、19歳になった三好長慶が本格的に父の復讐戦に乗り出すのであります。
写真は1539~1553の間、長慶の根城であった越水城祉
畿内の武将の動きを見ていると、今の政治家の思考回路に類似しているのではないかいなと思えてなりません。優秀な?武将がお隣にいるわけでそれとの戦いに大忙しで、そういう人間はついつい目先に追われてしまう思考回路になってしまうのではないでしょうか。あまり辺境にいるとそれはそれで勢力は大きくできない。都の雑事に追われることもなく情報も入る中心地の周辺の武将の方がスケールの大きい発想が出来たのではないでしょうか。
三好さんなどの動きは霞ヶ関で勢力争いをしている官僚や政治家の姿にダブってくるのですが、そんな簡単な理解ではいけんのでしょうね。
私は海外に窓をもっていたか、もっているか、がキーワードになるのではないかと思っています。これを書き出したらきりがないのでまたにしますが、戦国時代より遙か昔の聖徳太子の頃でも国際情勢を考えながら政治をしていたと思うのですが。
とりとめのないコメントになってしまいました。
本当に畿内の武将は、周りに優秀な武将がひしめき合い過ぎていたと思います。中国史で王朝の最後がいつも辺境部から押し寄せる鮮卑や契丹や女真人にゴソーとやられてしまったのと通じるものがあるように思われます。ご指摘のように霞ヶ関等の勢力争い、昔に通じるものがあると思います。もちゃもちゃとした争いを続けているとスケールも小さくなるのでしょう。周辺部にありながら大内氏(対明貿易をしきっていました)や朝倉氏が大きくなれなかったのは畿内のもちゃもちゃを見習いすぎたように思われます。