花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

三好氏の戦い5

2009年06月04日 | 茶話
 1530年、細川高国は備前の浦上村宗の援助を得て、山陽道から京へ攻め上る構えを見せます。この前年に三好元長が阿波へ帰ったことがこの行動のきっかけになったものと考えられます。高国の軍は、播磨で柳本賢治を敗死させ摂津に入り一挙に細川晴元の根拠地堺を衝こうとします。ここに及んで、元長の援軍に頼らざるを得なくなった晴元は、阿波に急を知らせたのでしょう。どの面を提げて、というところでしょうが、この時晴元は漸く満16歳、わがままな奴ではあるが仕方がないという親心或いは弟を思うかのような心があったのでしょう。元長は再び堺に戻ってきます。これが最後の渡海となり、再び阿波に帰ることはありませんでした。
 かくして西より攻め寄せ、池田・伊丹の両城を陥落させ、堺へと進撃した高国の軍勢と堺から出撃した元長の軍勢が天王寺で激突します。世に「大物(だいもつ)崩れ」という言葉が残ったように、この戦いは高国方の惨敗に終わります。高国軍の主力を為していた浦上氏の軍勢の中の赤松氏の裏切りが勝敗を分けました。赤松氏は本来は浦上氏の主人なのですが、この時期は浦上の勢いが強く、やむなくその軍勢に従っていたものでしょうが、ここぞ好機と矛を転じたのでしょう。
 高国方の有力武将は殆どが戦死し、高国自身も尼崎の大物まで逃げた後に捕縛され、詰め腹を切らされました。元長は祖父と父の仇を討つことができたのです。この時の高国もえらい肥満体であったとの話をどこかで聞いたような気がするのですが、思い違いかも知れません。三好之長、陶晴賢、龍造寺隆信などなど戦場から離脱できなかった原因として「肥満」が最も説明し易いためにそういう伝承が生まれたのかも知れません。
 堺に復帰した元長の前に新たに現れた敵は木沢長政でした。「長政」という名前ですと浅井長政と浅野長政が知られていますが、この人物もなかなか食らえぬ男で、今少し長生きするか、或いは織田信長あたりに絡んできていたら「戦国の三長政」等といわれるようになったかも知れません。その長政は元々は畠山氏の家臣の家柄でしたが、この時代の実力者の御多分に洩れず下剋上を指向する武将でした。この木沢長政が主家の畠山氏と戦いを始めると元長は畠山氏を援助します。形勢が不利になった長政は細川晴元を抱き込みますが、晴元の元長に対する確執は天王寺の大捷を経ても変わらなかったようで、元長を滅ぼす好機であると晴元は長政の側に立つことを決めるのです。この時点でなお晴元はわずかに満17歳ですから、各史書にあるように晴元自身の決断であるとすると極めて早熟な印象もあるのですが、いつまでも堺で燻っているのではなく、京都に打って出て正式の管領になって天下に号令なされよ等と言われたのではないでしょうか。晴元・長政はさらに三好氏の一族で元長の祖父の之長の弟の息子である政長を味方に引き込みます。
 元長の破滅は突然にやってきたようです。木沢長政の立て籠もる飯盛城を攻めていた元長は、突然晴元と三好政長の軍に攻められて敗退します。堺に戻った元長を追撃した晴元軍は、一向一揆に足利義維の御座所である堺の顕本寺にいる元長を攻撃させます。元長は嫡子長慶(この時はまだ千熊丸)と義維を阿波に落とし、自らはこの寺で自害します。この時に自らの腸を取り出して天井に投げつけたというような話も伝わっています。細川高国を破り父祖の無念を晴らした翌年、1532年のことでした。ここに於いて三好氏は木沢長政、三好政長そして細川晴元の3名に対する怨みを胸にしばし阿波に蟠踞し、機会を待つことになるのです。

               
               飯盛山城碑

 元長が城を攻め落とすこと叶わず、無念の敗退をした飯盛城がやがて元長の子の長慶最盛期の居城になるとは誰も思わなかったことでしょう。細川晴元は、元長没落のために利用した一向一揆とはすぐに対立するようになり(このあたり性格破綻者の面目躍如たるところですが)、自分も一揆に逐われて淡路に逃れることになります。この晴元、畿内を回復するために到底信じられぬ行動に出るのです。が、今回はここでお開きです。

 トップの写真は細川政元に縁の深い愛宕山表参道の地蔵。

 (08年1月の記事に加筆して再録)


2 コメント

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お邪魔虫です。 (道草)
2009-06-06 09:26:33
斯くの如く深部を抉った歴記になりますと、系統的に学んでいない者にはまるで混乱の極みです。今更の如く己の不明を恥じております。折角の力作であるにも拘わりませず、読み流すばかりで聊のコメントも及ばずに、只管、申し訳ない思いや切です。
また、その内に私如き門外漢でも理解し得る内容の記事が載るものと、待機致して居ります。

処で、邪道ついでにお邪魔致しますが、名和長年の公園が私の生家(一条旧大宮下る)にありました。大きな石碑があって、私共は「名和さん」と呼んで遊び場所にしておりました。今思えば由緒正しい場所なのか、とも愚考しております。閑話休題でした。こんな遊び人も居る、とご容赦の程を。
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ややこしくて (gunkanatago)
2009-06-06 12:51:40
 道草様、コメントをありがとうございます。ここらあたりの出来事は自分でもきちんと咀嚼しきれていないので、もの凄くややこしい話になっていると思いますが、読み流しでも見ていただけるだけでありがたく思っております。
 道草様の仰っている公園の辺りで名和長年が戦死したようですね。上京区は町屋の風景を少し剥がすともう大変でいろいろなものがワーと飛び出てきます。名和長年の子孫の方は代々近衛家に仕えてこられたのか、今の陽明文庫で研究なさっている方はつとに有名です。
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