「秋になれば山登りをしまくるので、ここにも度々来ますよ。」等と周山のビアハウスで調子の良いことを言っていたのが8月の14日、その後は一向に山登りの機会がないままに、周山に向かう国道162号線は「狂気の紅葉シーズン」となりました。京都駅のバス停も延々長蛇の列が予想され、しかも曇り空とくれば、本日も山登りは諦めて池田にしけ込むしかない。
さて、いつもの如く池田にやって来ました。駅前の広場は人だらけ、「なんぢゃ?」と思って見るとラーメンフェスタとか何かをやっています。小生はラーメンは食いませんので、縁無きところですが、みんながラーメンをツルツルとやっているのを見ると「うどん」が食いたくなりました。「今日は絶対にうどんを食うぞー!」と固く決意して、いつものたこ焼き店へ。何にしてもたこ焼きを食ってからでないと始まりません。店は結構流行っていましたが、隣のテーブルでは恰幅の良いおっちゃんが2名、酒を飲んでお互いを「マスター」と呼び合っています。この相撲取りが去った後でおばちゃんに聞くと、二人ともラーメン店の店主だということ。「おお、ここでもラーメンぢゃ、流石にラーメンの町池田。」、永年ラーメンをゆがいていると皆が皆あのような毛が薄い関取衆になっていくのでしょうか、顔は油でコーティングされてツヤツヤと光っています。対してうどん屋のおっさんといえば、どちらかというと白髪頭のガスガスのやせこけたオヤジが多いのは何故でしょう。鰹のダシだけでは栄養失調になるのでしょうか?
たこ焼き店を出て、うどんを食うために「吾妻」に向かいました。途次「呉服座」の前を通りましたが、なかなか盛況です。最も未だこけら落としから1週間ですから、これからが勝負ですが、ますまず目出度いところであります。ところが肝心の吾妻の方は目出度過ぎて席が空いていません。「ウー、ささめうどん。」と未練を残しつつも、「そうだ、呉服座の通りに赤玉といううどん屋もあったぞい。」と思って再び呉服座の方に引き返すと、「赤玉」は「ルージュ」という喫茶店に変わっていました。
「フーン」ということで、ここらをしばし徘徊することにしましたが、いつも登る五月山も人だらけの予感がしますので、ちょいと能勢街道を北上することにしました。
この辺りで大阪府池田市と兵庫県川西市の境となっているのが猪名川であります。猪名川の左岸が池田、右岸が川西市です。川に沿って池田側を北上する道が能勢街道、川西側を北上する道が篠山街道です。うどんの吾妻や呉服座は「呉服橋」のたもとにあり、さらに北に「中橋」、「絹延橋」が架かっています。呉服橋から中橋までの能勢街道は、以前は古い家が多く残っていたのですが、本日も元砂糖商の旧家が更地になっているのを見ました。下の如き趣のある家は既に2軒を残すのみであります。
中橋から川原に下りれば「唐船ヶ淵」、伝説の織姫であるクレハトリとアヤハトリの上陸地です。最近、伊丹の上島鬼貫がこの地を訪れて句を詠んでいるのを知りました。句に曰く「棹の哥は松の風のみ鍬つゞみ」と。鬼貫自身も昔日の風景と全く異なる様を詠んだものですが、今や鬼貫のころとも景色はすっかりと変わっているようです。唐船ヶ淵についてはまた、ごく最近、昭和初期にここで入水した俳人がいたことも知りましたが、今は飛び込んでも背が立ってしまいます。けれども以前は酔っぱらって夜にここに川風にあたりにくる等ということもやっていたのに、これからは思い出すやんけ。死ぬならば自宅で首をつってねと申す処。
絹延橋は典雅な名前の割にボロちい橋だとかねがね思っていたところ、今年の6月に新しい橋になりました。今暫くは新旧2つの橋を見ることが出来ます。
旧橋(東から)
新橋(西から)
先ほどボロちい橋と言いましたが、1931年、満州事変のあった年に架けられて以来79年間、人々が往来した橋です。ここは「御苦労様」と言うべきです。
池田側から絹延橋を渡り、篠山街道に出ます。実は実は、猪名川は市境とばかり思っておったのですが、この絹延橋を渡ってすぐの所は池田市なのであります。全世界の大多数の人類にとっては「どーでもええこと」なのでしょうが、我々極々一部の人間にとっては驚天動地の驚きなのであります。「知ってた?猪名川右岸に池田市があるんやでー。」、「エー、ホンマかいな。それはえらいこっちゃ。」、まあ別に「えらいこと」ではありませんが、今回調べたところ、住居は5軒ほどしかありません。この5軒のために池田市の清掃車が橋を渡って来るのは分かりますが、水道などはどうなっているのでしょうか。橋から篠山街道までが20メートルぐらい、それまでに用水路が流れていて、その用水路が市境になっています。
橋のたもとにあった絹延湯は消え失せていました。中橋のたもとの「さいき湯」はとうの昔になくなり、池田側の2つの銭湯も廃業しています。池田に残る五月湯と呉服湯には何としても頑張ってもらいたいところです。と言いながら全然利用しませんが。
篠山街道。この両側は川西市。
市境となっているのはこの用水路
街路灯の管理も池田市
しばらく川に沿って北上すると、突然表示が川西市に変わります。どうやら下の草原が猪名川右岸における池田市の北限であるようです。論文が書けそう。
と、どうでもいいことをつらつらと書き連ねました。さて、篠山街道を北上して出在家の集落へ。川側にあった家はすべて消え去って堤防になっています。出在家の氏神さんは三輪神社です。
他の地域では、とっくに消え去った「青年団」というものが出在家では一時期復活していました。三輪神社の祭礼では青年団も随分と活躍しました。
道祖神、これは境内に移転したるものならん。
日露戦争出征記念碑。
川西市の北小学校の北の道を西に向かうと萩原です。今は萩原台というニュータウンが広大ですが、ここらが昔ながらの集落でしょう。萩原の氏神さんは八皇子神社、境内には何の説明もありません。
八皇子神社
多田街道に出ました。伊丹市から多田神社までを結ぶ15㎞ほどのミニ街道です。ここから北が仏坂というのでしょうか。阿古谷坂とも記されていましたが、ここから猪名川町の阿古谷までは随分とあるし、阿古谷まで行けば多田神社は通り過ぎてしまいます。
この道を少し南に行って右に曲がり火打の集落に入ろうと思うのですが、右手に見える山道が気になります。山道の入り口にある寺で草取りをされているご婦人に抜けられるかどうかを訪ねたところ御住職まで出てこられて懇切丁寧に道を教えて下さいました。恐縮の極みであります。
今は、この丘と火打との間にバイパスとして広い道が出来ています。集落のど真ん中にこんな道を通すなというところです。それでもこの道を走って横切るとちょうど勝福寺の裏手、八坂神社に至る道に出ました。
6世紀前半の前方後円墳であることが最近判明した勝福寺古墳、以前は石室に自由に出入りできたのですが、今は周りを厳しく囲っています。最近読んだ本では前方後円墳はやはり「見せる」ということに主眼が置かれたということです。猪名川の氾濫原からこの古墳はどのように見えたのでしょうか。継体朝とその後の欽明即位前の混乱時に、この首長はどのように行動したのでしょうか。石室に入って聞いてみたい気がします。それにしても、ブルーシート、いいかげんに取れよ。もう10年ぐらいこのままやで。
火打は江戸時代の頭である浅草弾左右衛門が幕府に提出した書類の中で遠祖の地と記しているところです。その中で「池田の火打」という言葉を何度か目にしたように思いますが、川西町制施行以前はこの辺りも池田と認識されていたのでしょうか。絹延橋西方に池田市が残ることがヒントになるような気もしますが未だ未だ茫漠たるものです。わが清和源氏の武力も随分と火打の革細工に依存したであろうことも考えられます。火打の歴史がどの辺りまで遡れるのかは未だ勉強不足ですが、平安時代に成立する武士団というのは、現在の如く商品経済が行われていない時代であってすれば、さまざまな生産を行う集団も広範に取り込んだものを考えねばなりません。ふりちんでは戦えませんね。
近世から最近までの皮革業は火打に莫大な冨をもたらしたようです。氏神さんの八坂神社も他の集落のものに比べて規模が違います。往古、「秋の夕陽に照るヤマモミジ」の一節をこの神社に於いて認識した記憶があるのですが、今回来てみると紅葉はそれほどありません。今現在は全面的に立て替えているようで、社務所から何からサラッピンになっていました。
鳥居にかかる紅葉葉、誰もいない境内で見るこの一本は狂気の京で見る千本の紅葉に勝る。勝福寺も立派な寺です。ここの坊さんは御住職も若い坊さんも素晴らしい方だと思います。
さて、うどんぢゃ。吾妻はもう閉めよるやろし、本日はそのまま川西能勢口に行き、梅田に出てすすることにしました。駅前第1ビルB2にある「四国のさぬきうどん」、ここはちょいとした迷路ですが、味は確かです。トッピングのショウガのすり方と天かすの揚げ具合に少々難ありというところでしょうか。
たこ焼き+ビール、うどん+ビールときましたので、串カツ+ビールで仕上げというところ、料亭なんぞというものに憧れている若い諸君!はっきり言うけど懐石料理なんか如何に高級店でも基本的にそんなにウマイものではないよ。たこ焼き・うどん・串カツ、これが徘徊後の正しい飲食やでー。ということで、本日は「おおえす」で仕上げであります。
さて、いつもの如く池田にやって来ました。駅前の広場は人だらけ、「なんぢゃ?」と思って見るとラーメンフェスタとか何かをやっています。小生はラーメンは食いませんので、縁無きところですが、みんながラーメンをツルツルとやっているのを見ると「うどん」が食いたくなりました。「今日は絶対にうどんを食うぞー!」と固く決意して、いつものたこ焼き店へ。何にしてもたこ焼きを食ってからでないと始まりません。店は結構流行っていましたが、隣のテーブルでは恰幅の良いおっちゃんが2名、酒を飲んでお互いを「マスター」と呼び合っています。この相撲取りが去った後でおばちゃんに聞くと、二人ともラーメン店の店主だということ。「おお、ここでもラーメンぢゃ、流石にラーメンの町池田。」、永年ラーメンをゆがいていると皆が皆あのような毛が薄い関取衆になっていくのでしょうか、顔は油でコーティングされてツヤツヤと光っています。対してうどん屋のおっさんといえば、どちらかというと白髪頭のガスガスのやせこけたオヤジが多いのは何故でしょう。鰹のダシだけでは栄養失調になるのでしょうか?
たこ焼き店を出て、うどんを食うために「吾妻」に向かいました。途次「呉服座」の前を通りましたが、なかなか盛況です。最も未だこけら落としから1週間ですから、これからが勝負ですが、ますまず目出度いところであります。ところが肝心の吾妻の方は目出度過ぎて席が空いていません。「ウー、ささめうどん。」と未練を残しつつも、「そうだ、呉服座の通りに赤玉といううどん屋もあったぞい。」と思って再び呉服座の方に引き返すと、「赤玉」は「ルージュ」という喫茶店に変わっていました。
「フーン」ということで、ここらをしばし徘徊することにしましたが、いつも登る五月山も人だらけの予感がしますので、ちょいと能勢街道を北上することにしました。
この辺りで大阪府池田市と兵庫県川西市の境となっているのが猪名川であります。猪名川の左岸が池田、右岸が川西市です。川に沿って池田側を北上する道が能勢街道、川西側を北上する道が篠山街道です。うどんの吾妻や呉服座は「呉服橋」のたもとにあり、さらに北に「中橋」、「絹延橋」が架かっています。呉服橋から中橋までの能勢街道は、以前は古い家が多く残っていたのですが、本日も元砂糖商の旧家が更地になっているのを見ました。下の如き趣のある家は既に2軒を残すのみであります。
中橋から川原に下りれば「唐船ヶ淵」、伝説の織姫であるクレハトリとアヤハトリの上陸地です。最近、伊丹の上島鬼貫がこの地を訪れて句を詠んでいるのを知りました。句に曰く「棹の哥は松の風のみ鍬つゞみ」と。鬼貫自身も昔日の風景と全く異なる様を詠んだものですが、今や鬼貫のころとも景色はすっかりと変わっているようです。唐船ヶ淵についてはまた、ごく最近、昭和初期にここで入水した俳人がいたことも知りましたが、今は飛び込んでも背が立ってしまいます。けれども以前は酔っぱらって夜にここに川風にあたりにくる等ということもやっていたのに、これからは思い出すやんけ。死ぬならば自宅で首をつってねと申す処。
絹延橋は典雅な名前の割にボロちい橋だとかねがね思っていたところ、今年の6月に新しい橋になりました。今暫くは新旧2つの橋を見ることが出来ます。
旧橋(東から)
新橋(西から)
先ほどボロちい橋と言いましたが、1931年、満州事変のあった年に架けられて以来79年間、人々が往来した橋です。ここは「御苦労様」と言うべきです。
池田側から絹延橋を渡り、篠山街道に出ます。実は実は、猪名川は市境とばかり思っておったのですが、この絹延橋を渡ってすぐの所は池田市なのであります。全世界の大多数の人類にとっては「どーでもええこと」なのでしょうが、我々極々一部の人間にとっては驚天動地の驚きなのであります。「知ってた?猪名川右岸に池田市があるんやでー。」、「エー、ホンマかいな。それはえらいこっちゃ。」、まあ別に「えらいこと」ではありませんが、今回調べたところ、住居は5軒ほどしかありません。この5軒のために池田市の清掃車が橋を渡って来るのは分かりますが、水道などはどうなっているのでしょうか。橋から篠山街道までが20メートルぐらい、それまでに用水路が流れていて、その用水路が市境になっています。
橋のたもとにあった絹延湯は消え失せていました。中橋のたもとの「さいき湯」はとうの昔になくなり、池田側の2つの銭湯も廃業しています。池田に残る五月湯と呉服湯には何としても頑張ってもらいたいところです。と言いながら全然利用しませんが。
篠山街道。この両側は川西市。
市境となっているのはこの用水路
街路灯の管理も池田市
しばらく川に沿って北上すると、突然表示が川西市に変わります。どうやら下の草原が猪名川右岸における池田市の北限であるようです。論文が書けそう。
と、どうでもいいことをつらつらと書き連ねました。さて、篠山街道を北上して出在家の集落へ。川側にあった家はすべて消え去って堤防になっています。出在家の氏神さんは三輪神社です。
他の地域では、とっくに消え去った「青年団」というものが出在家では一時期復活していました。三輪神社の祭礼では青年団も随分と活躍しました。
道祖神、これは境内に移転したるものならん。
日露戦争出征記念碑。
川西市の北小学校の北の道を西に向かうと萩原です。今は萩原台というニュータウンが広大ですが、ここらが昔ながらの集落でしょう。萩原の氏神さんは八皇子神社、境内には何の説明もありません。
八皇子神社
多田街道に出ました。伊丹市から多田神社までを結ぶ15㎞ほどのミニ街道です。ここから北が仏坂というのでしょうか。阿古谷坂とも記されていましたが、ここから猪名川町の阿古谷までは随分とあるし、阿古谷まで行けば多田神社は通り過ぎてしまいます。
この道を少し南に行って右に曲がり火打の集落に入ろうと思うのですが、右手に見える山道が気になります。山道の入り口にある寺で草取りをされているご婦人に抜けられるかどうかを訪ねたところ御住職まで出てこられて懇切丁寧に道を教えて下さいました。恐縮の極みであります。
今は、この丘と火打との間にバイパスとして広い道が出来ています。集落のど真ん中にこんな道を通すなというところです。それでもこの道を走って横切るとちょうど勝福寺の裏手、八坂神社に至る道に出ました。
6世紀前半の前方後円墳であることが最近判明した勝福寺古墳、以前は石室に自由に出入りできたのですが、今は周りを厳しく囲っています。最近読んだ本では前方後円墳はやはり「見せる」ということに主眼が置かれたということです。猪名川の氾濫原からこの古墳はどのように見えたのでしょうか。継体朝とその後の欽明即位前の混乱時に、この首長はどのように行動したのでしょうか。石室に入って聞いてみたい気がします。それにしても、ブルーシート、いいかげんに取れよ。もう10年ぐらいこのままやで。
火打は江戸時代の頭である浅草弾左右衛門が幕府に提出した書類の中で遠祖の地と記しているところです。その中で「池田の火打」という言葉を何度か目にしたように思いますが、川西町制施行以前はこの辺りも池田と認識されていたのでしょうか。絹延橋西方に池田市が残ることがヒントになるような気もしますが未だ未だ茫漠たるものです。わが清和源氏の武力も随分と火打の革細工に依存したであろうことも考えられます。火打の歴史がどの辺りまで遡れるのかは未だ勉強不足ですが、平安時代に成立する武士団というのは、現在の如く商品経済が行われていない時代であってすれば、さまざまな生産を行う集団も広範に取り込んだものを考えねばなりません。ふりちんでは戦えませんね。
近世から最近までの皮革業は火打に莫大な冨をもたらしたようです。氏神さんの八坂神社も他の集落のものに比べて規模が違います。往古、「秋の夕陽に照るヤマモミジ」の一節をこの神社に於いて認識した記憶があるのですが、今回来てみると紅葉はそれほどありません。今現在は全面的に立て替えているようで、社務所から何からサラッピンになっていました。
鳥居にかかる紅葉葉、誰もいない境内で見るこの一本は狂気の京で見る千本の紅葉に勝る。勝福寺も立派な寺です。ここの坊さんは御住職も若い坊さんも素晴らしい方だと思います。
さて、うどんぢゃ。吾妻はもう閉めよるやろし、本日はそのまま川西能勢口に行き、梅田に出てすすることにしました。駅前第1ビルB2にある「四国のさぬきうどん」、ここはちょいとした迷路ですが、味は確かです。トッピングのショウガのすり方と天かすの揚げ具合に少々難ありというところでしょうか。
たこ焼き+ビール、うどん+ビールときましたので、串カツ+ビールで仕上げというところ、料亭なんぞというものに憧れている若い諸君!はっきり言うけど懐石料理なんか如何に高級店でも基本的にそんなにウマイものではないよ。たこ焼き・うどん・串カツ、これが徘徊後の正しい飲食やでー。ということで、本日は「おおえす」で仕上げであります。
ご指摘の通り、伊丹市は街道歩きに力を入れていると思います。多分、本日18日には「行基ウォーク」というのをやっていて、師匠(ブログにしょっちゅう出てきます)が参加しているはずです。川西市も申し訳程度の案内板はあるのですが、川西能勢口近辺などはグチャグチャになっていますね。
同好の士からコメントをいただき、うれしいです。機会がありましたら、いっしょにウロウロしましょう。
さっそく地図で確認すると、確かに境界線が、猪名川から、陸地に少しだけ、入っていました。びっくりです。
それから、多田街道というのがあったことは伊丹市を散策していて知り、小西酒造本社前から多田街道を歩いたことがあります。
でも、伊丹市内は案内板など整備されていて、迷わず歩けましたが、川西市に入ると、何もありません。適当に歩いていましたが、それが実は篠山街道を歩いていたことを貴方のブログで知りました。
火打ちから萩原台を越えるのが、多田街道なんですね。今度、歩いてみます。
いい情報、ありがとうございました。
大阪の地下は、太閤下水などもあり、本当に何が眠っているか分からないですね。三光神社の真田の抜け穴なども入ってみたい気がします。
四国のさぬきうどん、やはり知る人ぞ知るですね。どうみても迷路でシャッター通りと化しつつある地下街なのですが、やはりウマイものはよく知られていますね。
呉服座はご盛況とか、新しもん好きの私は入ってみたいなと、心が動きます!
まるで地図が読めていないのですが、池田市と川西市は県境でもあるのと違いました?猪名川の西に大阪府池田市の住宅が数軒あることは、ちょっと不思議な気がします。川の流れが住宅よりあとに出来たことなどありえないでしょうし・・・。「俺は池田やないといやなんや」と言う我侭な名士でも居られたのかねぇ。
洞窟ではないですが、先日のテレビで、大阪城地下に全長60mの巨大防空壕が見つかった。旧陸軍が使っていたのか?
鍾乳洞もだだのほら穴も穴と付くところは大の苦手です。
駅1ビルB2にある「四国のさぬきうどん」は取引先の社長に3度ばかり連れてって頂きました。
小うるさい店で、最後に向こうからあやまりが入ったというのは痛快です。以前にmfujino様が言っておられましたが、こちらが本を読んでいたら不愉快そうにするオヤジのいる店も困りものですね。
鯖街道など山の中を走る街道は植林の為昔の道がどんどん消滅しています。そして僅かに峠付近にしかその姿をとどめていないケースが多いですね。でも池田や川西など都市部では旧道が残っているのは街中ではないでしょうか?ちょっと面白い現象だと思いました。
うるさい店主、まあこれは対した料理人ではないでしょう。本当の職人さんは謙虚なものだと思っています。この親爺煩せい、と思いながらも美味けりゃ通ってしまいますけど。
一度対した料理でもないのに高飛車に客に注意する店で腸が煮くりかえるのを押さえて、お、ここまで言うかという顔をして黙~て味見をする顔をして食ってやりました。最後に向こうから誤りが入りました。
偉そうな講釈を曰う店に進歩はないのではと思っています。
千林大宮にも蔵十といううどん屋があります。ここは食い方を丁寧に指導してくれますが、グチャグチャとは言いません。これまでに3回行って、オヤジの盲腸炎と結婚式の出席で2回アウト、1回だけ食うことが出来ました。
この2日間は気持ちの良い秋晴れですね。次とその次の土日が京都の紅葉狩りのピークになりそうですね。
大阪駅前第3ビル(B2)の「はがくれ」のうどんは、事務所が近かったのでよく食べに行きました。味は抜なのですが(特に、生じょうゆ・ぶっかけ・おろし)並ばないとダメなのが饂飩玉に傷です。
それに、親父が小煩くて、初客には必ず指導をしたがります。巣立は1往復半しか絞ったら文句を言われますし、食べる順序を間違えると叱り付けられます。
それでも愛想は好くて、顔馴染みになると「まいど!」と挨拶をしてくれます(当たり前かも)。
大阪の食べ物屋で、こんな親父はよく見掛けます。道頓堀に海老丼専門の店があって、注文は1品のみで、食べた後のお茶をお代わりしたら叱られます。
いずれにしても、「はがくれ」は一度食べてみる価値はあります。是非、お出掛け下さい。「巣立1往復半」を実践して、親父を驚かせてやって下さい。
四国のさぬきうどん、通っておられたとは嬉しいです。あそこは探して行っても見つけにくいですね。同じビル内の「はがくれ」はどうでしょうか、こちらはかなり有名なようですね。小生はこの「はがくれ」のオヤジに縁を切られたという噂のある京橋の「はがくれ」しか知らないのですが、ここもなかなかウマイです。
呉服座は中々の繁盛で何よりです。周辺のうどんやが満員なのも、互恵効果で仕方ないのでしょう。呉服部綾服部の伝説もさりながら、絹延などと美称を持つ橋の向うに、池田市が存在するのが大問題なのですか。それにしても、酩酊徘徊状態で川へ転落されなかったのは流石がです。
そう云えば魚ケ渕(周山)の吊橋の向こう側が、柏原(宇津)の飛び地だ、とFさんから聞いたことがあります。これだけ離れていれば何かと支障がある、とも思えなくもありませんが。
川西市など、私にはまるで未知の土地です。八皇子神社の名称も何か謂われがありそうですが、放置されているのも理由があるのでしょうか。それと、浅草弾左右衛門の名前は、昔に読んだ白土三平の「カムイ外伝」で知りました。火打ちの集落はそんなに裕福な土地なのですか。
話は代わって、駅前第1ビルB2にある「四国のさぬきうどん」へは、私も何度か行きました。生姜の摺り方と天滓の揚げ具合は、余り気にせず食べていました。事前にアルコールで麻痺していたからかも知れません。明日狂気の周山街道を通って佐々里へ同級生の車で行く予定ですが、無事に通り抜けられるかどうか心配です。