平安京の朱雀大路は今の千本通で、九条通を越えると、今は旧千本と言われている細い道が鳥羽街道である。羅城門から真っ直ぐに南下してきた道が、わずかに東に折れて、またすぐに南に向かうところに鳥羽地蔵浄禅寺がある。
門前には、永井直清(当時長岡藩主)が施主となり、羅山による撰文の袈裟御前顕彰碑(1647)があり、ガラスケースに入れて大切に保たれている。
この二人による各所の顕彰碑の建立は、直清が高槻藩主となった後も続けられ、能因法師墳や伊勢寺等で見ることができる。しかしながら、ここまでしっかりとした保存処置が為されているところはない。
今日風に言えば悪質なストーカー事件とも言える文覚による袈裟御前殺害事件で、ロマンの口の字もないものを「恋塚」などと言ったのは、やはりこういう話が珍しいものだったからで、毎日のように同様の事件が起きている現代では、話にも何にもならぬであろう。
恋塚は、ここから少し南に行ったところにある寺にもあり、『雍州府志』では浄禅寺のは「鯉塚」で、間違って碑を建てたものだと書いている。筆者道祐老は全く根拠を示していない。思うに示せる根拠はなかったのだろう。
そもそもこの話自体が、盛衰記が作り出した与太咄で、実際にあったことではないと思われる。一代の傑僧文覚が引っぱり出されたのは、彼の豪快さから、これくらいのことはするだろうと考えられた為だ。
従って、碑も文学碑として扱うのが良いだろう。
鯉については、桂川の遥か上流亀岡市大井から、遥か下流神崎川流域の尼崎市戸の内、豊中市椋橋まで「神を乗せる鯉」の伝承がある。この広がりは秦氏の広がりと関連するのではと思っている。
南に向かうと道は名神でぼろぼろにされているが、鳥羽の戦い開戦地を経て、鳥羽離宮跡、さらに遠く淀まで続いていく。地蔵尊は門前を過ぎる人々を優しく見守って来られた。
かざはなの 道を見つめて 地蔵尊