大河と名の付くものも含めてテレビの時代劇などで、「これまでのドラマの枠を超えて云々。」と事前に喧伝されるもので、枠を超えたものは殆どありません。勿論、ドラマは歴史そのものではないので、テレビ如きものを対象ににしてあれこれということは、無意味なことかも知れません。ただ、テレビを見ている多くの人が、その内容を「事実」であると受け止めているからには、現代劇と同様に、「このドラマはフィクションです。」と入れる必要はあります。
赤穂事件を扱ったものはその代表のようなもので、何をどう言おうが、どんな高名な作家が書いたものが原作であろうが、「仮名手本忠臣蔵」の枠を超えているものは一つもないと言ってよいでしょう。この事件の全ての原因は、内匠頭の短慮にあり、吉良側にしてみれば道を歩いていて狂犬に噛まれたみたいなもので、それをうちの犬がお前を噛んだのは、お前がそのときにそこにいたことが原因だのような訳のわからぬ言いがかりを付けて、可哀想な老人を47人ものおっさんがなぶり殺しにしたのが事実に近いのではと思います。吉良にしてみれば、考えても見なかった押し込み(討ち入りとはいわない)で、おそらく何の防備も施していなかったと思われます。襲われる理由がない。
大石内蔵助にしても、単なる享楽家に過ぎず、吉良を討つことの不正義は十分に承知していながら、強硬派(大多数は内匠頭の顔すらまともに見たことがない軽輩で、思い込みと意地で行動している)の気違いのような要求に抗することができなかっただけで、それほど優れた人物であったのかどうかは疑問です。また、吉良家は取りつぶされたのに、大石の息子(主税以外)等は大藩に仕官しているのもおもしろくない。従って、今までの忠臣蔵の概念を変える等と宣伝をするならば、内匠頭は思いきりブ男がこれを演じ、むしろ吉良を二枚目が演じ、ここからはフィクションですが、理不尽に殺された吉良の仇を吉良の息子左兵衛吉周の関係者が倒していくというような話があってもいいはずです(ミュンヘン五輪でイスラエルのコーチや選手を殺した「黒い9月」のメンバーが、モサドにより暗殺されていったように)。
ドラマ化された織田信長や豊臣秀吉に関しても似たようなもので、本能寺が近づくと信長はいきなり狂人となり、朝鮮出兵のころになると秀吉はいきなり耄碌します。もはやこのパターンには飽き飽きするところです。明智光秀は善人で過労死寸前のサラリーマンのように描かれますが、そんなぬるい奴が坂本と亀山の二城の主になれた訳がありません。波多野氏や、赤井氏、宇津氏など恐ろしい連中を斥けて丹波一国を征した人物です。本能寺の変の後、しばらくの間は「これで、おれは天下人だー。」と叫んでいたに違いありません。
秀吉の朝鮮出兵にしても老耄の所為とすることで何となく理由付けをしているのでしょうが、それは豊太閤海外雄飛の夢を矮小化することであり、希代の英雄を小人化してしまうことです。NHKなど山内一豊を扱ったドラマでは、秀吉に小便まで漏らさせていましたが、本当にいやらしい演出で、制作者の心の醜さがはっきりと出ていました。
豊太閤の明国征服計画を誇大妄想と説明するのは、日本人の縮み思考の表れの一つで、当時の日本は世界最強の国の一つであり、スペインといえども植民地にはできなかった。その国の兵力と経済的背景から考えて、弱体化した明の征服は十分に可能でした。「そんなことができた筈がない。」と言う人は、その後すぐに起こった出来事、つまり全人口100万人足らずの女真人(満州民族)が、清を建国し、全中国を征服、全ての男子に弁髪を強制し得たことを合理的に説明してもらいたいものです。また、江戸幕府がポルトガル船の来航を禁止し、所謂鎖国が完成したのは1639年ですが、その翌年にのこのこと長崎にやってきたポルトガル船については、乗組員61名を斬首にしていますが、ポルトガルは泣き寝入りです。世界最強の国を攻めることなどできなかったのです。
その後に放送された「風林火山」が色々と批判もあるでしょうが、おもしろく感じられたのは、やはりそういうパターンから脱していたのも一因かと思われます。諏訪御料人の病死は1555年、これでも桶狭間の5年前です。今まで殆ど取り上げられてこなかった「川越の夜戦」が扱われたのもよかったと思います。(その場所に山本勘助を立たせたのにはゲーと思いましたが。)ついでですが篤姫の如きは結局「おままごと」でした。今は「愛」の武将とな。
勿論、信長や秀吉研究についてもまだまだ未解明のものは多くあり、これからも色々な書物が書かれ、中には素晴らしいものも出てくるでしょう。桶狭間の合戦は奇襲戦に非ず、長篠の合戦に鉄砲の三段撃ちは無しという近年の説は、かなりの説得力を持っています。しかし、物語としてはもう飽きた、十分に退屈だというのが正直なところです。信長の狂気、秀吉の痴呆はうんざりだ。小説も読み飽きたわい。多くの作家が、織田作言うところの「志賀直哉」になってしまっていて戦国文学の可能性を自ら捨ててしまっているのでは。
それで、目を転じて応仁の乱以後の様々な情勢に目をやれば、無限とも言える魅力的な事実、挿話、物語、逸話に充ち満ちているのです。籠城戦も小谷城や小田原城ばかりがクローズアップされますが、例えば南丹市八木城(多分多くの人がご存じない例として)一つを採って見ても、内藤如安や松永長頼、赤井悪右衛門と言った興味深い人物が多く登場し、面白い逸話に覆われているのです。
その後の歴史にリンクしている必要は、余程の発展史観の持ち主でない限り感じないはずです。物語として面白ければそれで十分、史実であれば尚好し。また、『戦国三好一族』で今谷明先生も述べられているように、信長や秀吉以外にも戦国時代収束の可能性は十分にあったはずです。ただ、その場合は江戸幕府のような統一政権は誕生せず、産業革命後のイギリスにしてやられることになったかも知れませんが。
さて、そこで今谷先生の著作を杖として、先ず三好氏の戦いを見ていこうと思うのですが、どうも前口上が長くなったようです。
写真は勝龍寺城址、山崎の合戦の時に光秀が本拠とした城です。
(07年8月の記事に加筆、表題を換えて再録)
赤穂事件を扱ったものはその代表のようなもので、何をどう言おうが、どんな高名な作家が書いたものが原作であろうが、「仮名手本忠臣蔵」の枠を超えているものは一つもないと言ってよいでしょう。この事件の全ての原因は、内匠頭の短慮にあり、吉良側にしてみれば道を歩いていて狂犬に噛まれたみたいなもので、それをうちの犬がお前を噛んだのは、お前がそのときにそこにいたことが原因だのような訳のわからぬ言いがかりを付けて、可哀想な老人を47人ものおっさんがなぶり殺しにしたのが事実に近いのではと思います。吉良にしてみれば、考えても見なかった押し込み(討ち入りとはいわない)で、おそらく何の防備も施していなかったと思われます。襲われる理由がない。
大石内蔵助にしても、単なる享楽家に過ぎず、吉良を討つことの不正義は十分に承知していながら、強硬派(大多数は内匠頭の顔すらまともに見たことがない軽輩で、思い込みと意地で行動している)の気違いのような要求に抗することができなかっただけで、それほど優れた人物であったのかどうかは疑問です。また、吉良家は取りつぶされたのに、大石の息子(主税以外)等は大藩に仕官しているのもおもしろくない。従って、今までの忠臣蔵の概念を変える等と宣伝をするならば、内匠頭は思いきりブ男がこれを演じ、むしろ吉良を二枚目が演じ、ここからはフィクションですが、理不尽に殺された吉良の仇を吉良の息子左兵衛吉周の関係者が倒していくというような話があってもいいはずです(ミュンヘン五輪でイスラエルのコーチや選手を殺した「黒い9月」のメンバーが、モサドにより暗殺されていったように)。
ドラマ化された織田信長や豊臣秀吉に関しても似たようなもので、本能寺が近づくと信長はいきなり狂人となり、朝鮮出兵のころになると秀吉はいきなり耄碌します。もはやこのパターンには飽き飽きするところです。明智光秀は善人で過労死寸前のサラリーマンのように描かれますが、そんなぬるい奴が坂本と亀山の二城の主になれた訳がありません。波多野氏や、赤井氏、宇津氏など恐ろしい連中を斥けて丹波一国を征した人物です。本能寺の変の後、しばらくの間は「これで、おれは天下人だー。」と叫んでいたに違いありません。
秀吉の朝鮮出兵にしても老耄の所為とすることで何となく理由付けをしているのでしょうが、それは豊太閤海外雄飛の夢を矮小化することであり、希代の英雄を小人化してしまうことです。NHKなど山内一豊を扱ったドラマでは、秀吉に小便まで漏らさせていましたが、本当にいやらしい演出で、制作者の心の醜さがはっきりと出ていました。
豊太閤の明国征服計画を誇大妄想と説明するのは、日本人の縮み思考の表れの一つで、当時の日本は世界最強の国の一つであり、スペインといえども植民地にはできなかった。その国の兵力と経済的背景から考えて、弱体化した明の征服は十分に可能でした。「そんなことができた筈がない。」と言う人は、その後すぐに起こった出来事、つまり全人口100万人足らずの女真人(満州民族)が、清を建国し、全中国を征服、全ての男子に弁髪を強制し得たことを合理的に説明してもらいたいものです。また、江戸幕府がポルトガル船の来航を禁止し、所謂鎖国が完成したのは1639年ですが、その翌年にのこのこと長崎にやってきたポルトガル船については、乗組員61名を斬首にしていますが、ポルトガルは泣き寝入りです。世界最強の国を攻めることなどできなかったのです。
その後に放送された「風林火山」が色々と批判もあるでしょうが、おもしろく感じられたのは、やはりそういうパターンから脱していたのも一因かと思われます。諏訪御料人の病死は1555年、これでも桶狭間の5年前です。今まで殆ど取り上げられてこなかった「川越の夜戦」が扱われたのもよかったと思います。(その場所に山本勘助を立たせたのにはゲーと思いましたが。)ついでですが篤姫の如きは結局「おままごと」でした。今は「愛」の武将とな。
勿論、信長や秀吉研究についてもまだまだ未解明のものは多くあり、これからも色々な書物が書かれ、中には素晴らしいものも出てくるでしょう。桶狭間の合戦は奇襲戦に非ず、長篠の合戦に鉄砲の三段撃ちは無しという近年の説は、かなりの説得力を持っています。しかし、物語としてはもう飽きた、十分に退屈だというのが正直なところです。信長の狂気、秀吉の痴呆はうんざりだ。小説も読み飽きたわい。多くの作家が、織田作言うところの「志賀直哉」になってしまっていて戦国文学の可能性を自ら捨ててしまっているのでは。
それで、目を転じて応仁の乱以後の様々な情勢に目をやれば、無限とも言える魅力的な事実、挿話、物語、逸話に充ち満ちているのです。籠城戦も小谷城や小田原城ばかりがクローズアップされますが、例えば南丹市八木城(多分多くの人がご存じない例として)一つを採って見ても、内藤如安や松永長頼、赤井悪右衛門と言った興味深い人物が多く登場し、面白い逸話に覆われているのです。
その後の歴史にリンクしている必要は、余程の発展史観の持ち主でない限り感じないはずです。物語として面白ければそれで十分、史実であれば尚好し。また、『戦国三好一族』で今谷明先生も述べられているように、信長や秀吉以外にも戦国時代収束の可能性は十分にあったはずです。ただ、その場合は江戸幕府のような統一政権は誕生せず、産業革命後のイギリスにしてやられることになったかも知れませんが。
さて、そこで今谷先生の著作を杖として、先ず三好氏の戦いを見ていこうと思うのですが、どうも前口上が長くなったようです。
写真は勝龍寺城址、山崎の合戦の時に光秀が本拠とした城です。
(07年8月の記事に加筆、表題を換えて再録)
忠臣蔵を初め有名な時代物のストーリーは古くから定着しているので、今ではそれが史実と受け取られて(世間では)いるので、敢えて断わらないのでしょうか。むしろ、断われば世の中がひっくり返るか、騒がしくなるからでは・・・とは大袈裟かも。
「歴史家は見て来た様な嘘を言い」との諺(?)がありますが、要するに昔のコトは誰にも(例え専門家にも)分からない、と言うことなのでしょう。我々素人には、100年経てば霧の中です。坂本龍馬や近藤勇らでさえ諸説紛々の個所が多々ある状態です。まして、信長・秀吉らになると、いつそう混沌とした部分が多いのではないですか。
忠臣蔵にしても、私らは子供の頃に映画で観て、それが史(真)実だと思い込んでいました。実際、仮名手本忠臣蔵でも2代目竹田出雲でしたか、と何人かの合作です。結局は物語として面白い方向へ増殖して、それが世間では定着して受け入れられるから、何度も再演されている内に、真実と思われてしまうのでしょう。研究者からすれば忌々しい問題でしょうけど。結局、その時代の都合の良い方向へ歪められたり、迎合される内容に塗り替えられたりしながら、残るものはそのまま(或いは、少しずつ修正を加えられながら)残って行くのでしょう。
結局、もし史(真)実と言うものが確定出来れば、義務教育期間中の学校で教えるしか、史実を広め定着させる手段や機会が無いのでしょう。1千年2千年に跨る日本の歴史の中で、それが果たして可能なのか。仮に、赤穂事件の真相が究明され相反する事実や見解が確定されたとして、それを定着させることは、現在では(今後も)至難の技のように思えます。
結局、真実とは何ぞやで、教科書に掲載する場合でも不確実な場合は、それを前提とした教育をすべきなのかも知れません。それと、時代物のドラマでは、徘徊堂さんが指摘されていますように、必ず「フィクション」であることを明記すべきでしょう。
志賀直哉は軍国調から転向した卑劣漢だと私も思います。弟子の小林多喜二とも喧嘩しているようですが。八木城の歴史には、恥ずかしながら私は殆んど無知です。また、教えてください。
わかりやすい説明というものは、それを信じておけば楽ですから変えようとする努力が怠りがちになるようです。ご指摘いただいたように少なくとも教育の場では「ここはこうなっているが本当は解らない」と教えることが大切で、子供の頭の中に解りやすい説明が定着してしまえば、これから事実を究明していこうという意欲も湧きません。ささやかなことでも自分でほじくり出す楽しみを味わわせることもできなくなります。
八木城は、小生の知る限り2回落城しているのですが、これは城が悪いのではなくて、人数の問題かと思われます。本丸まで行くのはなかなか大変で、この城を攻めようという人も勤勉、守って戦う人も勤勉といつも思います。
歴史小説はあくまで作者の歴史解釈を文学という形で表現したものですし、それは作者の思いが入っているはずです。従って歴史ドラマを史実だと理解するのではなく、一つの歴史解釈であるという前提で鑑賞すべきだと思います。テレビや新聞で放映発表されるとそれを真実だと思ってしまう風土自体が問題だと思います。これは学校教育で教えるべきだと思いますし教えられているのではないでしょうか、どうなのでしょうね。私は学歴を重視すべきではないが学問は必要だという井深さんでしたかの主張は正しいと思います。学問をする人は絶えず疑いの思考回路で持って物事に対峙しているわけですから
私がヨーロッパの方達が立派だと思うのは自分の意見を持っていることだと思っています。かれらはあくまで自分の哲学のフィルターを通して判断しているが多いのではないかと感じています。
具体的な事例でマスコミ報道の不完全さを知るには、自分がその現場にいた事がどのように報道されたかを経験することでしょう。例えば私がある記者会見で通訳をしたことがあるのですが(冷や汗たらたらかきながら、、)その翌日その報道がどの様に為されたか数紙比較しましたが、殆どはプレスリリースだけで報道していました。唯一会見内容を自分なりに租借して報道していました。
要するに、史実や事実はそれを発表する人のフィルターを通っている、という事を知ること、だと思います。
後になってしまいましたが、秀吉の朝鮮出兵に関して、徘徊堂さまは当時の国際情勢に触れてご意見を述べられていますね。本当に秀吉がそこまで考えていたかは分かりませんが、解釈する要素として欠かせない視点だと感心しました。
小生の友人がかつて嘆いていたのは、毎週月曜日の朝、社長が前夜の大河ドラマの粗筋を延々と述べて、そのあと例えば「○○は御家を守るためにこのような苦労をした。皆さんも○○のようにいつも会社を守る工夫をするように。」とかいう具合に話を締めくくるそうで、友人は本当に辟易としていました。
マスコミに関しては小生はmfujino様のような経験は全くないのですが(通訳されるとは凄いです!)、結構様々な事故現場や犯罪現場を目撃する中で、新聞に載ったりするのは本当に極々一部に過ぎないということを実感しています。