花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

曾根崎川(蜆川)跡・八百八橋計画

2013年12月25日 | 徘徊情報・浪花
 本日は野暮用で梅田。まあ用事などはすぐに済みますから、先にウロウロします。池田でたこ焼きも食いたいし、そう時間は取れぬということで、ちょうど適当と思われるのが曾根崎川跡かなというところです。
 今まで、見ていた西区の川や長堀川などが、戦後の埋め立てであるのに対し、この川は明治の末年から大正にかけて埋められた川ですから、その跡探しもなかなか難しいのではと思われます。曾根崎川は大江橋の少し上流で堂島川から分かれ、堂島大橋の少し下流で再び堂島川に流れ込んでいました。この川の流れがあればこそ堂島は文字通りの「島」であった訳です。

 トップの写真は大江橋の少し上流部にある船入橋の碑、川から各藩の蔵屋敷に水路を引いているので、その水路を渡る橋の総称が船入橋で固有名詞ではありません。ここの船入橋は現在裁判所となっているところにあった鍋島藩の蔵屋敷のものだったということです。それでも近松の『心中天の網島』の道行きで「あれ見や難波小橋から船入橋の浜伝い」とあるのは、ここの橋を指すようです。この碑の横にはかつての曾根崎川の流れがはっきりと分かる地図も付けてくれていましたので写真を載せておきます。真ん中の二本の太い川、上は土佐堀川、下が堂島川。その堂島川から分かれて、再び堂島川に戻っているのが曾根崎川です。土佐堀川からほぼ垂直に流れ出ているのが西横堀川で、その川から右に流れ出ているのが江戸堀川です。



 裁判所の敷地の一角に「鍋島藩蔵屋敷跡」の碑。『葉隠』で知られる藩ですね。このすぐ近くには支藩である古城藩の蔵屋敷跡の碑も建っています。



 ここから御堂筋に向かい、一本東の道を北に入ればそれが川の跡になります。ここらに難波小橋があったのではと思われますが、既に川への道は建物で塞がれています。



 一本筋を変えて北に向かえば大江ビルヂィング、1921年竣工のレトロビルです。



 まあここは川跡に戻り、御堂筋に出て向こう側を見ます。ビルとビルの間の隙間が川跡ということになります。右側のビルの1階に「蜆橋」の文字が刻まれています。



 御堂筋を越えて西に向かうと北新地の中を通っていきます。川跡と言っていますが、川そのものは瓦礫で埋め立てられ、その跡には建物が建っていますから厳密に言うと道は河畔の道と言うことになります。



 その川筋からは少し離れているのではと思われるところに「蜆川の碑」、心中天の網島の舞台の一つである「河庄」はこの辺りだったということです。




この辺りに河庄



 ですから、本当の川跡を辿りたければ、二つの通りの間に立つしかない訳で、戦車かなんかに乗っていたらそのまま建物を破壊して川跡を進むことも出来るでしょうが、歩いてだとやはり北岸か南岸の道を歩くしかありません。


この真ん中辺りがまさに川跡

 お馴染みの薬師堂を見てさらに西に進みます。四ツ橋筋にぶつかったところには桜橋跡の碑。


堂島薬師堂



 四ツ橋筋を越えてさらに西に進みます。川の南側と思われる道が向こうに続いています。



 1877年(明治10年)は西南戦争のあった年ですが、この年に曾根崎川から大阪駅まで運河が開削されました。鉄道と船運を結ぶためです。この年は大阪~神戸間に鉄道が開通した年でもありますが、この運河を「梅田入堀」と言ったそうで、後に堂島川まで延長され、その部分を「堂島堀割」と言ったそうです。今「今昔マップ」で確認すると、現在の大阪駅の西に随分と大きな船だまりがあったことが分かります。その梅田入堀に架かっていたのが出入橋(91)、本日やっと一つ目の数字が打てました。この入堀の上も阪神高速になっています。



 ここのところで、川の南側と思われる道はNTTや検察庁の敷地となってしまっているようで、北岸をさらに進むことになります。検察庁の一角に「堂島庁舎跡碑」。



 なにわ筋のところで曾根崎川に架かっていたのが淨正橋(92)、本日唯一曾根崎川跡で確認できた橋の跡であります。



 この近くに逆櫓の松跡。神戸で敗退し、讃岐の屋島に陣を構えた(というか、漂着したというか)平家を撃つために源義経が出陣したところと言います。兄頼朝の目付であった梶原景時がバックも出来る舟にせよ=逆櫓を付けよと言ったときに義経が強く抗弁した場所でもあります。
 国民的ヒーローの悲劇の原因を作ったと言うことで梶原景時は日本史上最も評判が悪い人物の一人でありますが、これはこれでなかなかの鎌倉武士であったようです。後に鎌倉を没落するときに(1200)、駿河国に至り、最も恐れていた吉香氏と遭遇して一族ともに討ち取られてしまいますが、その吉香氏のことなど全く知らなかった小生は、知られざる武士というか、そういうものがまだまだ多くいるなあと慨嘆した覚えがあります。逆櫓の論争は1185年のことですね。



 さて堂島大橋までやってきました。曾根崎川はこの橋の少し下流で再び堂島川と合流していました。今、その跡は何も残っていません。



 この堂島大橋、師匠にうかがったところによると戦災の遺跡でもあるそうです。欄干の石がやたらに黒いのがそうかなあとも思いましたが、詳しいことは分かりませんでした。





 ここで反転して、梅田方面に戻ります。用事を思い出しました。堂島川沿いに戻っていくと、川に大きな「ひよこ」。



 ひよこの浮いていた近くに「福澤諭吉生誕地」の碑。豊前中津藩の蔵屋敷があったところです。



 ここで、どうせ梅田方面に行くなら、堂島掘割、梅田入堀も確認しておこうと思いました。田簑橋から北に向かった堂島3丁目の交差点付近が梅田橋の架かっていたところと思われますが、何の名残もありません。


この辺りに梅田橋

 再び出入橋を右に見て、北に進めば新出入橋(93)の橋名碑が2つ残っていました。





 運河は一部が公園になっているようですが、これ以外にその跡は何も確認できませんでした。悪名高い毎日新聞の敷地の一角に1970年の万博の際、地中に埋められたタイムカプセルに入れられていた松の種を発芽させたという松の木が植えられていました。木は自ら生える場所を選べないので、斯様な極悪新聞の敷地内に植えられているのはなかなか不憫です。小生は30年ぐらいこの新聞を読んでいたのですが、あまりに内容がヒドイので5年ほど前に購読を止めました。



 さて、梅田での野暮用を済ました後は、池田でたこ焼き。やはり少し間が開くと急速に焼き方が下手になるようです。大晦日の5時まで開けて、新年は2日から開いているとのこと。暮れから正月はたこ焼き三昧やなあ。とんぼ返りで梅田に戻り「おおえす」で串カツ、ただたこ焼きをゆったりと焼いた身には席が随分と狭いのが気になるようになってきました。それでも「丸一屋」オンリーの惰性的飲酒からは脱却したぞい。







6 コメント

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押し迫りました。 (gunkanatago)
2013-12-29 16:06:41
 浮舟様、再度のお出まし、ありがとうございます。いよいよ押し迫りました。ベトナムでは未だ旧正月の方が盛んなように思うのですが、どうでしょう。根拠はベトナム戦争の時の「テト攻勢」です。
 曾根崎署の近くは逆にあまり変わっていないように思います。ごっついドブネズミが足許を走った食堂は無くなったようですが。ただ、新しい旭屋書店がぼちぼち姿を見せ始めています。
 おっしゃるように、お好み焼きやたこ焼きの場合は、酒とのバランスが難しいですね。池田のたこ焼きは、ビールの大瓶を半分ぐらい飲んだところで焼き上がるので効率はいいです(笑)。これが生中ならば、食べ始めるときにもう一杯となりますね。
 何か最近テレビなどの論調も変わってきたような気もします。今までがあまりにおかしかったから、これは右傾化ではなくて、正常化ですよね。安倍総理の靖国参拝に関しては、普段反米の論調で知られるところが「アメリカも怒っている」とか言っていたのがお笑いでした。懸案であった普天間にも動きがあり、たいしたものなのではないでしょうか。
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年の瀬ですね・・ (浮舟)
2013-12-28 22:42:40
 曽根崎川、聞いたことないなあと思ったら、川跡でした。もはや神経戦、イメージ紀行ですね。このあたりは曽根崎警察の東の繁華街しか知りません。それも昔、再開発とかで風景も変わったでしょう。
 福沢諭吉生誕の地の石碑に、いささかの感動があります。高校に合格して、合格証書とともに新入生全員に贈られたのが「福翁自伝」です。入学式までに読んでおけという伝統行事です。実際、おもしろかったですね。口語で平易に書くと、時がたっても古びないということも学びました。
 お好み焼きの自分焼きというのは経験ありですが、たこ焼きはないです。おもしろそうですね。
お好み焼きも、最近とんと行っていないです。できあがるまで時間がかかりすぎ。待つ間におでんかなにかとビールでお腹いっぱいになり、はしごができません。酒飲みの醍醐味は。はしごですね。一店、2品か3品で飲んで次へ、ロマンを求めて次へ、一店に執着せず、次へ・・諸行無常です・
 捏造、火付けのAおよびM新聞への総反撃が始まりました。K談話の主、K氏も逃げ隠れができなくなりまし。来年の展開が楽しみです。

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何やかやと (gunkanatago)
2013-12-26 13:38:31
 mfujino様、コメントをありがとうございます。また、いろいろな情報もありがとうございます。今からじっくりと拝見します。
 南海大地震の津波は、何か遠い未来の話ではなく、現実味を帯びてきたように思います。安治川の防潮堤その他、どのくらい役立つのでしょうね。梅田の地下街などにいるときには「揺れがおさまったらダッシュで地上へ」という心構えが大切ですね。いきなりの津波というのはありませんから、とにかく地震が来たらのんびりとはしないということを心に焼きつけておかねばなりませんね。
 新淀川の広いところで蜆が取れるというのは分かるのですが、曾根崎川などの堀川でも取れたのでしょうか。何となくタニシと泥鰌のほうが似つかわしい感じもします。
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つごもりですね (gunkanatago)
2013-12-26 13:30:53
 鎌倉街道様、コメントをありがとうございます。また、本年も何度も上洛・来阪していただき、ありがとうございました。また、来年もよろしくお願いします。
 アヒルは純粋に浮かべもので、どうも中に人が乗るような所は無かったように思います。おっしゃっておられる通り、なかなか「かわいい」ものでありました。
 歩く会納会の話、大変でしたね。歳をとられたら大変なことが起きる頻度は高まるでしょうが、危険と隣り合わせはみんな同じだと思います。お互いにきをつけていきましょう。
 池田、また近いうちに機会を作りたいと思います。よろしくお願いします。
 
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浪速では昔はシジミが獲れたんかしら (mfujino)
2013-12-26 03:45:18
gunkanatagoさん、お、北の新地界隈ではありませんか^o^ 近松っぁんの名文に感じ入り梅田の橋跡を探したところですね。梅田は、埋め田、から北と言われますけど、まああんな砂地にでっかいビルが建ち並ぶ姿は昔の人には想像出来たでしょうかね。上だけでなく、地下街もありますが、南海地震で津波が来たらどうなるんでしょうか。
http://flood.firetree.net/?ll=33.8339,129.7265&z=12&m=7 なんか面白いですね。
一番安全と思われる上町台地より高いビルが沢山建ってますね。ハルカスで上町台地が見直されるといいのですが...

さてさて、今回のテーマ、蜆川、を頭に描いてネットをぶらぶらしてたら、こんなん見つけました;
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■ 七橋が架かっていた蜆川
元禄年間( 1688~1704)に編集された「地方役手鑑」によると、蜆川には7つの橋の寸法が明記されていた。それによると、いずれも十五間(約30m)前後の橋長で、幅員が二間(約4m)であったとある。天明の頃(1830年頃)までには3橋が増え、蜆川の橋は10橋となった。
■ 蜆川の名の由来
古くから曽根崎川を蜆川と俗称されていた。この川の名は堂島蜆というしじみがとれたからとか、かつては 15~17間(約30m)あった川幅が、明和3年(1766)からの浚渫工事で、8間(約15m)に縮められてついた「ちぢみ川」がなまって生まれたとも言われている。また、摂津名所図会には川幅が日時のたつにつれて縮んだので「ちぢみ川」がなまって生まれたともある。
http://www.kita-shinchi.org/new/wagakita.html
こういった話題に付き合ってくれる美人と酒が呑める(?)北新地はさすがでございます。
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も一つ、面白いブログを発見しました。 http://atamatote.blog119.fc2.com/
史料もありがたいし、高低差の観察などを見ていると師匠の顔が浮かんできます(^_・)まあ世の中同じ類の方が居られるもんですなぁ。

gunkanatagoさんに触発されてネットをあちこちぶらぶらとbrowsingしてしまいました。ビルの谷間に昔の川や橋の姿を求めて想像するのもなかなか乙な物でございます。



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かわいい! (鎌倉街道)
2013-12-25 19:43:21
大き過ぎるひよこですが、何とも可愛らしい姿ですね。 人が中に入って移動できるのでしようか。 乗って見るのよりも眺めていたいですね。

川の流れの解る地図を載せてくださっているので、「大阪は水の都なんだ」と言うことがよく解りました。 御堂筋の地図もあり、「ここもウロウロしてみたところ」とか懐かしくなりました。 すべてのことが恐ろしい勢いで過去になって行く年齢になり、後ろを振り返っていられなくなってますので、現在の時間で過去が出てくるとうれしくなります。

話は外れますが、5日ほど前、歩く会の納会をしておりましたら、私より2歳上の方が、食事中に倒れ気を失ってしまいました。 いつもとてもお元気な方なので、びっくりしました。 消防署が近くですのですぐに来てくれて、病院に運ばれて回復したようでしたが、皆同じような年齢の集まりでしたから、他人事でないことが起こり、一瞬緊張が走りました。 あらゆることで過去になることが駆け足で押し寄せてきます。

池田のたこ焼き、もう一度食べたいものです。
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